幸運な家族

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助けて

来ないで

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 階段を上る音とともに声は聞こえなくなっていった。由里子が食器を洗いながらドアを見遣る。

「何か視えたのかも」
「ああ、石を出したってやつ? そんなに気にしなくても、明日の午前中には来てもらえるんだから平気だよ」
「だといいけど」

 正志が軽く笑いながら出ていく。急にリビングから人の音が無くなった。テレビの電源を入れ、バラエティ番組を流した。

 あと半日、夫もいる。由里子は大きく伸びをして、紅茶をお供にテレビを楽しんだ。

 二十時近くなったところで、乱暴な足音が近づいてきた。すぐにドアが開けられ、上半身裸の正志が顔を白くさせて入ってきた。

「何、そんな恰好で。風邪引くわよ」
「…………出た」
「……もしかして」

 由里子が言うまでもなく、正志が力無く頷いた。由里子の横にどかりと座り、もそもそ下着をトレーナーを着る。

「どこに?」廊下に続くドアを見つめながら問う。

「玄関に立ってた」答えた声は頼りなく掠れていた。

 頭を抱えて項垂れる正志の肩を優しく叩く。

「ついに正志君も視たのね。私は女性の方はまだだけど」
「正章から聞いていたけど、現実に視ると全然違ったよ。あれは駄目だ、夢に見る」

 リモコンを手に取り、正志が音量を二つ上げた。

「今にも声が聞こえてきそうだった。片山さんが言っていた通り、何か怒っているように見えたよ」

「見てくる」
「おいッ」

 由里子がおもむろに立ち上がり、ドアを開け、顔半分だけを出して玄関を覗いた。誰もいない。それなのに、いると言われたからか、空気が淀んでいるように感じた。

「いない」

 振り向いてドアを閉める。正志が両腕をめいっぱい開いて背もたれに体を預けた。

「そうか、よかった」
「ごめんね、私が石を出しちゃったから」

「騙されたんだから仕方がない。こんな田舎にも詐欺師っているんだな。しかも、石のことを知っているなんて、もしかして価値があるのかな」
「価値があったって、怖い目に遭うなら持っていられないでしょ」

 しかも、棚から出した時点でここまでの影響が出ている。宮下家にとっては疫病神の何者でもなかった。

「片山さんは何時に来るって?」

「朝一だって。でも、車で何十分もかかるし、早朝に来るわけないだろうから、多分十時くらいになるんじゃないかしら」

「そうだよなぁ」
「あっお風呂」

 時計を見て、由里子がリビングのドアから二階へ大声を出した。

「美結、お風呂入っちゃおう」
「分かった~」

 遠くから小さな返事が返ってくる。やがて美結がばたばた下りてきた。

「ママも一緒?」
「うん、遅くなっちゃったから一緒に入ろう」
「いいよ」

 大急ぎで着替えとバスタオルを用意して風呂に入る。美結が由里子の縛られた髪の毛を見て言った。

「髪の毛は?」
「ちょっと急いでいるから今日は洗わないでおくの」
「そうなんだ」

 髪の毛と体を洗った美結が先に上がり、由里子も手早く体を洗い、湯舟に浸かるのもいつもの半分の時間で出た。風呂場の鏡には決して目を向けず、風呂場の掃除は明日に回すことにした。

「はぁ、やっぱり髪の毛洗えばよかった。夏じゃないからマシだけど」

 洗面所の鏡すらまともに見られず、雑にパジャマを着て廊下を走り抜けた。

 何かが視界の端に映った気がしたが、確かめる勇気は無い。リビングにいた正志がテレビを消す。

「もう寝るよ」
「早いのね」
「玄関辺りだけ駄目なだけなら、さっさと寝室行った方がいいかと思って」
「私も早めに寝る」

 正志が早足で廊下に出る。開けられたドアが完全に閉まらなかったのをがちゃんと閉め直した。

 炊飯器の予約をし、急いで歯磨きとトイレを済ませる。いちいち廊下を通るのが厄介だったが、なるべく俯き何も見ないように歩いた。

 やっとの思いで寝られるというところまできた。まだ二十二時だが、下りてこないので子どもたちはもう寝ているはずだ。

「正志君」

 寝室に入る。ドアを開けたら女が立っていた。

「──ぎゃッッ」

 弾かれたように後ずさりすると、リビングの壁に背中が当たった。心臓が跳ね過ぎて胸が痛い。

「はッ……はあっ……ああ」

 息を上手く吸えない。すでに女は消えていた。

 由里子は目の前で起きた出来事が信じられなかった。開けたのは寝室のドアで、つまり、女は寝室の中にいたということだ。

──どうしよう、反応しちゃった。

 知らない間に廊下だけでは済まなくなっている。由里子は寝室の天井や壁を見つめ、異常がないか確認して回った。

 たった数秒、床に置いただけなのに、こんなことになるなんて。呪いの強さを思い知らされた。

 正志に助けを求めようとしたが、すでに眠りについている。由里子もベッドに飛び込み、掛布団を口元まで深く被った。

──早く寝なきゃ。寝てしまえば朝になる。

 必死に目を瞑るが眠気はやってこない。

 時計の秒針の音だけが響く。由里子はそっと目を開けてみた。暗闇に慣れた目が薄っすらと部屋の様子を映し込む。ドアに施された磨りガラスに人の影が映った。
 女がゆらり、ゆらり、左右に揺れる。左手がぬう、と磨りガラス越しに現れた。

「ふぅ……は……」

 大きくなりそうな呼吸を我慢して、ゆっくり深呼吸を何回も繰り返す。

──無理です。私には何もできません。家族には近づかないでください!

 由里子は心の中でひたすら祈り続けた。
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