嫌われたと思って離れたのに

ラム猫

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 婚約者のカイル。幼なじみで、同じ魔法学院に通う、ちょっと不器用だけれど、優しい人。

 それでも今は、そう思うたびに少しだけ胸が苦しくなる。だって最近の彼は、その事実を忘れているみたいだから。

「本日の訓練、以上!」

 騎士団長の号令と同時に、今まで響いていた金属音が一斉に鳴りやむ。私——セシリアは訓練場の外から、彼の姿を探した。

 綺麗な銀色の髪、長身で背筋の伸びた立ち姿。彼の姿はいつもすぐに見つかる。それなのに……。

「……カイル」

 私の傍を通った彼の名を呼んでも、彼は振り向いてくれない。仲間の騎士達と笑い合いながら、私の前を素通りしていく。
 まるで、私なんか目に入っていないと言うかのように。

 私達が婚約してから三年。婚約したての時は、手を繋ぐことも、名前を呼び合うことも、当たり前だった。
 それなのに今は。

「今日は忙しいから、先に帰って」

 一緒に帰りたいと思って迎えに来ても、いつも同じ言葉が返ってくる。同じ声色で、表情を変えることもなく。

「……わかった」

 私もいつも同じ言葉を返すが、本当はわかってなんていなかった。
 どうして目を合わせてくれないの? どうして私にだけ、そんなに距離を取るの?

 ——私達は、婚約者だよね? 私はあなたにとって、何なの?

 通り過ぎた彼に、騎士仲間の誰かが話しかける声が聞こえた。

「副団長殿。婚約者さん、待ってましたよ?」

 一瞬だけ。本当に一瞬だけ、カイルの肩が、びくりと揺れたように見えた。

「……用はない」

 冷たい声。その言葉が、私の胸に深く突き刺さる。
 私は笑おうとして、失敗した。

「……そっか」

 カイルは私のことが嫌いなんだ。私は彼にとって邪魔な存在にすぎないのかもしれない。



 ◇ ◇



 今日は、ちゃんと話そうと思っていた。冷たい声で拒絶されても、視線を逸らされても、一応は婚約者なのだから逃げるのはだめだと思ったのだ。

 騎士団の詰所では、剣油と汗と、微かに甘い薬草の香りがする。その奥の休憩室から声が聞こえた。低くて、聞きなれた——彼の声。

「……気にしなくていいと言っただろう」

 その声は、私に向けられるよりもずっと優しい。

「でも、副団長が怪我をしているのを見逃すことなんてできませんよ」

 明るくて少し甘えた響き。彼女は最近カイルの補佐についているという女性騎士だろうか。

 扉の隙間から見てしまった。彼女が、彼の手首を掴んでいる。その手首からは、最近は私に見せようとしてくれなかった素肌が覗いていて。

「傷、また増えていますよ」
「……放っておけ」
「放っておけません。私は——」

 そこで、彼女は言葉を切った。その後に続く言葉は何なのだろう。あなたは、彼の何?

 女性騎士が、カイルの胸元に手を伸ばす。距離が近い。近すぎる。

「……婚約者さんには言わないんですか?」

 私の話だ。心臓が嫌な音を立てる。ここで、彼の本音を聞けるかもしれない。

「言う必要はない」

 即答だった。迷いも、躊躇いもない。その言葉を聞いた瞬間、世界から音が消えたような気がした。

 ——ああ、そうか。私は、いらないんだ。

 このまま彼と話をしようとは思えない。踵を返して、そのまま帰ろうとする。

「誰か、いるのか?」

 背中に、彼の声が届いた。振り向かなかった。振り向けなかった。
 もし今、彼の前に立ったら。彼の目を見たら。きっと、泣いてしまうから。惨めな私を見られてしまうから。




 それから、私は騎士団に近づかなくなった。偶然を装って会うことも、訓練の終わりを待つこともやめた。婚約者として当たり前のことだと思っていたことを、一つずつ手放していく。

 私が彼から離れていくことで、彼が少しだけでも追いかけてくれるのではないかと期待していた。でもそんなのはただの期待で、彼は全く追ってこない。

 これが答えなんだとはっきりと理解した。

 私は魔法学院の課題を口実に、王都の図書館塔に籠るようになった。

「最近、お元気がなさそうですね」

 司書の老魔導士が、穏やかに言う。

「そう見えますか?」
「ええ。昔は、騎士副団長の話を沢山してくださいましたよね」

 その言葉に、本をめくっていた指先が止まる。

「……もう、彼と私は関係ないですから」

 彼の話をしなくなったのではない。できなくなったのだ。婚約者だと名乗る資格は、もう私にはない気がして。




 数日後。学院の回廊で、彼とすれ違った。ほんの数歩の距離。視線が合いかけて……逸らされる。

 私は、頭を下げた。貴族として、知人として挨拶をするために。

「……失礼します」

 私の声は、驚くほど落ち着いている。彼の足が止まった。

「……最近は、どうしている?」

 低く、冷たい声で問いかけられる。彼が話しかけてくれたことに喜びを感じる自分が疎ましい。

「問題ありません」

 私は簡潔に答えた。会話を終わらせたかったが、彼と話をしなくてはならないことがある。

「婚約の件ですが」

 そう切り出した瞬間、彼の表情が強張った。

「近いうちに、正式に——整理した方がいいかと」

 婚約を解消したいと、言うことはできなかった。それでも彼には意味が伝わっただろう。

「……そうか」

 彼からの返事はそれだけ。引き止める言葉もない。やはり私は、彼にとっていらない存在だったのだ。

 私は笑った。ちゃんと、最後まで。

「今まで、ありがとうございました。失礼します」

 背を向けた瞬間、胸の奥の何かが壊れた気がした。振り返らない。振り返ったら、戻れなくなる気がするから。

 私の背中を、彼がどんな顔で見ていたのか。私には分からない。




 ◇ ◇




 セシリアが留学するらしい。
 その報告を受けたのは、王城の回廊だった。騎士仲間の何気ない一言。

「婚約者さん、魔法学院の首席だそうですね。国外留学とは……とても優秀な方なのですね」

 世界が遠のいたのではないかと思った。

 ——行くな。

 喉まで出かかった言葉を飲み込む。言えるはずがない。俺が、彼女を遠ざけてきた張本人なのだから。

 彼女の魔力は特別だ。人の感情で暴走してしまう魔力を持つ。もし暴走すれば、味方も敵も区別なく壊しかねない。

 あの日、魔力研究を専門とする教授から、俺は命じられてしまった。奴らは王族から支援を受けているため、俺では逆らうことのできない命令だった。

「婚約者から距離を取れ」「強い感情は、彼女の魔力を増幅させる」「最悪の場合、処分対象になる」

 彼女を守るために思いついた方法は——俺が、嫌われることだった。

 冷たい言葉で彼女を突き放し、昔は彼女に頼んでいた治療も他の者に任せ、彼女と目が合った瞬間に逸らす。彼女が傷つかないようにしたいのに、結果として自分が彼女を傷つけていたことは分かっていた。

 彼女は俺が距離を取ったと思っただろう。嫌われたと、感じただろう。

 ……違う。
 俺は、世界中の誰よりも、彼女に近づきたい。

 留学先というのは、魔力研究の最先端である隣国のことだろう。彼女にとって、そこで自らの力を制御する方法を得ることが最も良い選択。

(……これが正解、なんだ)

 そう思おうとして、失敗する。あの時、彼女が言った言葉を思い出す。

「今まで、ありがとうございました」

 あれは、別れの言葉だった。俺は彼女を遠ざけようとはしたが、彼女との婚約を破棄しようとは思っていなかった。彼女との繋がりの証明なのだから。彼女を他の男に取られるということがないのだから。

 ——まだ、間に合うのか?

 俺はまだ、彼女とやり直す機会を得ることができるのだろうか。彼女の力に対処することができるようになって、彼女に謝って……許してもらえるだろうか。




 ◇ ◇




 留学の手続きは順調すぎるほど順調だった。

「送迎の手配は済んでいます。夜の方が目立ちませんよ」

 そう言った男は、隣国の使者だと名乗った。徽章も、書類も、すべて本物に見えた。疑う理由など、一つもない。

 私は王都の外れにある、古い転移魔法陣があるという倉庫街に連れて行かれた。

「ここで少し待ってください」

 勧められて、一歩、奥へ。
 その瞬間、空気が変わった。

(……魔力、遮断結界?)

 気づいた時にはもう遅い。転移陣だと思っていた、床に刻まれた魔法陣が、淡く光る。

「大人しくしていれば、痛い思いはしない」

 男の声が、別人のように低くなる。

「魔力の実験体としてお前は最高だ」

 背筋が、凍った。

 魔力の実験体? 確かに私は、感情で魔力が暴走してしまう体質だ。それのせいでずっと苦労してきたが……それが原因で、私はここに誘い込まれたのだろうか。

「騒ぐなよ。何をしようとも無駄だ」

 男の背後から、影が二つ、三つ。逃げ道はないように見える。
 魔法を使おうとしたら、息が詰まった。魔力を遮断されているのに加え、恐怖で感情が揺れているから、力が制御できない。

(だめ……誰か、助けて……)

 そのとき。
 結界が、音を立てて砕けた。

「——彼女を放せ」

 聞き覚えのある声。

「……カイル?」

 私が名前を呼ぶより早く、彼は私の前に立った。私を庇うように。当たり前のことのように。

「無事か」

 短い問い。震えている私の手を見て、彼の表情が歪む。

「何者だ!」

 男が叫び、カイルは男らを睨みながら剣に手をかけた。一発触発の空気。恐怖が湧き上がり、彼が来てくれたことの喜びも混ざって感情がぐちゃぐちゃになる。

 だめ。このままだと、魔力が——。

「……っ、ああ……!」

 私の足元から光が溢れ出した。心臓も痛いほどに脈打ち、呼吸が浅く短くなる。
 カイルはちらりと私を見てから、動いた。速すぎて見えないくらいの速さ。

 剣閃、衝撃音、人のうめき声……。男達が全員地面に伏せるまでにかかった時間は、ほんの数秒だった。

「……これで、怖いものはなくなった」

 血の付いた剣を投げ捨て、彼は地面に膝をついて私と目を合わせる。まっすぐと、私の目が見つめられる。

「大丈夫だ。俺がいる」

 溢れそうな思いが、止まらない。

「どうして……!」

 声が、震える。

「どうして……どうして今なの……!」

 魔力が暴風みたいに渦を巻く。感情がそのまま形になって、すべてを壊したくなる。

「私を、嫌いになったくせに……っ!」

 心からの叫びが口から出た、次の瞬間。

 強く、強く抱きしめられた。

「——嫌いになってなどいない!!」

 聞いたこともないくらい必死な彼の声が耳をつく。

「一度も……一瞬もだ!」

 触れた胸元から、彼の心臓の音が聞こえる。私と同じ速さで、狂ったみたいに鳴っている。

「離して……!」
「離さない」

 彼の腕に力がこもる。逃げ場がないくらい、近い。

「俺はお前を守るために、お前から距離を取っていた」
「そんなの……そんなの、嘘……!」
「嘘ではない!」

 怒鳴る勢いで言い、彼は私の顎を掴んだ。視線がぶつかる。

「だが……失うくらいなら」

 彼の言葉が、途中で途切れる。

 そして——唇が、重なった。

 一瞬だけ。触れた場所から熱が流れ込んでくる。彼の感情が乗った魔力が、私の中にまっすぐと……。

(……あ)

 魔力が解けていく。暴れていた力が鎮まり、周囲を壊そうとしていた力が収まる。
 ここにいていいと言われた気がした。

 唇が離れても、彼は私と額を合わせたまま囁く。

「行かないでくれ。俺が嫌なら、婚約を破棄してもいい。だが、頼む……俺のそばにいてくれ」

 視界が滲む。

「……ずるい」

 声がかすれる。

「そんなこと言われて……離れられるわけないでしょ……」

 私を抱きしめている彼の腕が、少しだけ震えた。

「……すまなかった」
「ううん」

 私は、彼の胸元を掴んで、顔を埋める。

「助けに来てくれて、ありがとう」

 返事の代わりに、彼は私を強く抱きしめた。





 その夜。私達は治療院の一室にいた。事件の後処理は騎士団が引き受けてくれ、私には安静にしろと医者から言われている。

 部屋には灯りはほとんどなく、ランプの灯で映された私達の影が壁で揺れる。
 沈黙が重い。先に口を開いたのは、カイルだった。

「……すべて話そう」

 彼は上着を脱ぎ、椅子にかけた。帯剣していた剣も外す。武装を解く仕草が、すべてをさらけ出すと言っているかのようだ。

「お前の魔力が危険視されている。感情、特に……女が男に抱く感情が暴走の引き金になることが多いらしい」

 胸が、きゅっと縮む。

「だから、距離を取ったの?」
「……ああ」

 彼は視線をそらさない。まっすぐと私の目が見つめられる。

「嫌われたらいいと、思った」

 その言葉が重く落ちた。

「俺がお前に嫌われたら、お前が暴走することもないと。近くにいなければ、処分の理由も消えると思ったのだ」

 彼の拳が、膝の上で震えている。

「……正しいことをしたとは思っていない。だが、他に方法が思いつかなかった」

 私は大きく息を吸って心を落ち着けた。小さな声で彼に問いかける。

「あの、あなたの怪我を治療していた女性騎士は?」
「お前に頼めないから、代役を頼んだ。……あの時見ていたのは、お前だったのか」

 申し訳なさそうに眉を下げている彼を見ていると……胸の奥で、何かが解けていく。ずっと刺さっていた棘が抜けていく。

「……馬鹿だね」

 思わず、そう言ってしまった。

「私達二人とも、馬鹿だったのよ」

 彼は、少しだけ苦笑する。

「否定できない」

 沈黙が部屋を満たす。今度は、私から話す番。

「……私ね」

 気恥ずかしくて彼の顔を見ていることができなかった。ランプの光を見つめながら口を開く。

「嫌われたって、思ってた。婚約者じゃなくなった方が、苦しまずに済むんじゃないかって」

 声が震える。

「だから、あなたから距離を取ろうと思ったの。あなたから何かを言われるよりも、自分から離れた方が……傷が浅いと思って」

 彼がはっと息を呑む音が聞こえた。

「……すまない。俺は何度もお前を傷つけた」

 否定はしない。傷ついたのは事実だったから。私は彼の目をまっすぐと見つめる。

「でもね。今日、助けに来てくれた。それだけで、私は今までのことがどうでもよくなるくらい、嬉しかったの」

 彼も私の目をまっすぐと見つめ、そっと私との距離を縮めた。

「俺は、お前を失うくらいなら、誰に何を言われようとお前を選ぶ」

 彼の声が少しかすれている。目と声色が今までに見たことがないくらい真剣すぎて、少し怖いくらいだ。

「頼む。……俺に、償う機会を与えてくれないか」

 こんなに自信がない彼を見るのは初めてだ。私は息を吐いて笑う。

「……じゃあ、条件」
「条件? ああ、何でも言ってくれ」
「次にこういうことがあっても」

 今度は私から彼に近づく。彼の肩がびくりと揺れた。

「ちゃんと、私を信じて。私に話して。一緒に悩んでほしいの」

 彼は少しだけ目を見開いてから、ふっと目を細めて頷いた。

「ああ」

 そっと、彼は私を抱きしめる。とても温かいが、恥ずかしい。彼から離れようと思ったが、背に強く手を回されて動けなかった。

「……今夜はゆっくりと休め」

 耳元で甘く囁かれ、頬が熱くなるのを感じた。

「うん。ありがとう」

 目を閉じる。私が眠るまで、彼は私の傍にいてくれた。




 ◇ ◇




 深夜の王城、第二王子の私室。豪奢な調度品に囲まれており、本来は身だしなみを整えて正式な訪問をしなくてはいけない場所であるが、許可されているため俺はソファに気楽に座り、背もたれに背を預けていた。

「——だからな」

 言葉が止まらない。

「俺があの爺達にセシリアと距離を取れって言われたせいで、結果的にあいつが攫われたんだぞ」

 向かいの席に腰かけているのは、この国の第二王子、レオンハルト殿下。学院の時からの親友なので、このように人がいない場であれば本音で話し合うのだ。

「魔力が危険だからって何だ」

 思わず声が荒くなる。

「騎士ならば守れと言うくせに、近づくなと言われて。挙句の果てに、あいつらはセシリアを実験体にしようとしていたんだ。セシリアを襲わせたのも、あいつらだったと報告を受けた」

 感情が抑えきれず、机に拳を落としてしまう。

「俺が直ぐに気が付かなかったら……」

 その先は言うことができない。殿下は紅茶のカップを優雅な仕草で置き、困ったように笑った。

「落ち着け、カイル」
「落ち着けるか」

 この荒ぶりを、抑えることなどできない。

「婚約者が襲われそうになって、しかも暴走寸前になって。俺が止めることができたが、根本的な原因は俺にあって。……これで落ち着いていられる騎士がいたら、尊敬する」

 殿下は肩をすくめた。

「確かに、君の言う通りだ。魔力研究専門の教授らを放置していた私達にも失態がある。……だけどね」

 彼の目が俺を見据える。普段あまり見ないような真剣な表情だ。

「君も、相当の無茶をしたんじゃないかい? 暴走している魔力を浴びるのはかなり苦痛だと聞いているが」
「何の苦痛でもない。暴走を止めるついでに、彼女を抱きしめてキスをすることもできた」

 衝動もままに口を開いたが、少し気まずくなった。

「それは……報告する必要が?」
「勢いだ」

 殿下は一瞬黙ってから、堪えきれないというかのように爆笑し始めた。

「あはは。君、そんなに分かりやすかったかな」
「何がだ」
「全部、顔に出ている」

 殿下は立ち上がり、窓辺に寄る。端麗な容姿の彼が窓辺に立つだけで絵になる。世の令嬢というのは、こういった美しい男に惹かれるのだろうか。……セシリアも、そうなのだろうか。

「カイル」

 背中越しに、彼の穏やかな声が聞こえる。

「君は騎士である前に、一人の男で、愛らしい婚約者を持つんだ」

 月明かりが彼の横顔を照らす。

「今回の件、正式な調査を入れさせる。彼女を狙った元締を捕らえ、彼女の魔力についても安全に治療ができるように進めよう。君がすべて、一人で背負おうとするな」

 胸の奥でくすぶっていた様々な思いが、少しだけ軽くなった気がした。

「……任せてしまい申し訳ない」
「謝るのは、私に対してではないだろう?」

 からかうような声色だ。彼は振り返って、優しく笑う。

「それに、君は彼女を守ったし、彼女を愛している。それは誰にも否定できないことだ。……友人として言うけど」

 彼はわざとらしく咳払いをした。

「もし彼女を泣かせたら、彼女の代わりに私が君を殴るよ」
「……王子自ら?」
「親友として、ね」

 変わらない殿下に、俺は思わず息を吐いた。

「……その時は、甘んじて受ける」

 殿下はまた苦笑する。やはりこの人は、本当に優しい人だ。

「さあ、もう帰りなさい。明日からは一人の婚約者として、彼女の傍にいてあげるといい」

 俺は立ち上がり、深く頭を下げた。

「……ありがとうございます、レオン殿下」

 殿下は軽く手を振る。その表情はいつまでも優しかった。




 ◇ ◇




 朝の光が窓から柔らかく差し込む。

 ベッドで並んで眠る私とカイル。彼は綺麗な髪を朝日で照らされながら、まだ眠そうに目を細めている。その腕には、私の体がすっぽりと収まっていて、意識すればするほど恥ずかしいのだ。

「……おはよう」

 囁かれた声に、私は微笑んだ。

「おはよう、カイル。昨日の約束、覚えてくれてる?」

 私の言葉に彼は少しだけむくれて、でも笑ってくれた。無表情だったことが多い彼だけど、最近はこうやって笑ってくれるようになった。背中に回された腕に力が込められ、心臓が高鳴る。

「当然だ。今日は一日中、お前のそばにいる」

 彼は私の指を絡め取り、ぎゅっと握る。その温もりがじわりと体全体に広がり、胸が熱くなる。

 ご飯を二人で作る日もあれば、騎士団の訓練場で彼の訓練を見ている日もある。カイルはいつまでも私を守ってくれる騎士であり、同時に隣にいてくれる恋人でもある。

「……そろそろ起きよっか」

 そっと開いている方の手で彼の腕に触れると、彼は腕を解くどころか強く体を引き寄せられた。

「いや、まだ放さない。このままずっと、抱きしめていたい」

 彼の顔が近づいてくる。私は目を閉じて、彼の口づけを受け入れた。柔らかな感触があり、幸福感に包まれる。

「俺から離れないでくれ」
「うん」

 言葉は少なくても、私達の間に満ちる穏やかな空気が言葉よりも確かだった。





 夕暮れになると、二人で庭を歩く。手を繋ぎ、笑い、時折小さな口論もする。でも今はもう、お互いに離れようとは決して思わない。

 夜になれば暖炉の前で一緒に過ごし、カイルが珍しく甘えて私の膝に頭を乗せ、互いの存在を確かめる。

 ただ穏やかに、甘く、二人だけの時間が流れていく。

「セシリア」
「なあに、カイル」
「……愛している」

 突然の言葉に思わず目を丸める。彼はふいとそっぽを向いたが、その頬は赤らんでいた。

「ふふ……。私も大好きだよ」

 私は彼に抱き着いた。彼が戸惑う雰囲気が伝わってくるけど、すぐに背中に手が回される。

 楽しく笑い合って、一緒に過ごして、互いに愛を育む。

 甘い日々が、これからも続いていくのだ。






 ~後日談~


 私室にて。窓から差し込むオレンジ色の光が、カイルの髪を温かく照らしている。

「……あのさ」

 私が小さく囁くと、彼は振り向き、眉をちょっと上げた。

「何だ?」

 顔が近い。息が触れそうな距離だ。

「えっと……その。……キス、してほしい」

 そう言った瞬間、彼の唇が柔らかく重なった。深く、熱く、甘い。胸の奥がぎゅっとなる。

「……欲張りだな」

 耳元で低く囁かれて、私は思わず笑った。笑いながらも彼の首筋に顔を埋める。欲張りなのは彼の方だと言いたいけれど、彼が拗ねてしまいそうなのでやめておいた。

 私はそのまま彼の膝の頭を乗せて、手を絡める。

「今夜は、ずっとここにいてくれるの?」
「もちろんだ。離すつもりもない」

 彼の膝を枕にしてうとうととする私を、彼はそっと抱きしめる。頬にかかる髪を指でそっと撫でてくれる彼の指先の感触だけで、心が満たされる。

「……ねえ、カイル」
「どうした」
「もっと、こうしてて……」

 彼は優しく笑って、唇を額に押し当てた。二人でくっついた体温が、私達を溶かしていく。



 夜が更けても私達は離れない。二人が重なって一つになり、二人のすべてが伝わる。声、吐息、心臓の音——すべてが、愛を形作る。

 寝る前に、ベッドの中でもう一度キスをした。

「おやすみ、カイル」
「ああ。おやすみ、セシリア」

 お互いに手を絡めたまま眠る。柔らかいぬくもりに包まれて、甘く、とろけそうな時間が、永遠に続くようにも思えた。
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