ダイヴのある風景

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ダイヴのある風景  第一章

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   第一章

   ①

 山がうなった。
 固太りの、緑の木を生やした黒い身体をぶるりと揺すったに違いない。
 地響きに似た重低音に、僕はじっと見入ってしまう。近づけば、身体の芯まで揺すられるような音は、ちょっとばかり怖い。怖いけれど、なぜか引きつけられてしまう。
 それは、僕だけじゃない。他の三人だって、阿呆みたいに口を開けて、滝壺を見つめている。落ちてきた水の束が滝壺の中に吸い込まれていくのを見ていると、「どうだ、お前も一緒にこいよ。気持ちいいぞ」なんて誘いが聞こえてきそうな気がする。肥満体の山が薄ら笑いを浮かべながら、見ているものの感覚を狂わせるのだ。
 でも、魂を抜き取られる前に、僕たちの誰かが声を出す。今日は信良だった。
「さあ、はやいとこやっちまおうぜ」信良が滝壺から視線を引きはがした。腕まくりをしながら舟を荷車から下ろし始める。「祥一、こっちを頼む」
 僕はうなずき、舟に手をかける。他の二人、冴子と花江も舟の両側に陣取り、力を込める。十五歳の力なんてたかが知れているけれど、それでも四倍すると頼もしい力になる。小さな舟に打ち勝つことくらいはできる。
 舟が荷車から滑り始めた。急に力が抜ける。てってって、と数歩前に進んだ足を踏ん張って止めたときにはもう、舟は、相撲取りが水の中に飛び込んだような音を立てて、川の中で波を広げていた。
 僕と信良が先に舟に乗り込んだ。僕が櫓を使って舟を安定させている間に、信良は冴子と花江の手をとって舟の中へと導く。全員が乗り込んだところで、それぞれの位置についた。
 たいていは、僕と冴子が櫓を漕ぐ役割を担当する。信良と花江が回収係だ。とは言っても、花江はいつまでたってもうまく回収できないので、ほとんど信良ひとりで回収しているようなものだけれど。信良は、もう少し役に立ってくれよ、と花江に文句を言うけれど、もちろんそれが本気じゃないことくらい、僕にもわかる。
 滝壺から少し下ると、川幅が急に広くなる。流れも緩やかになる。ここが、僕たちの仕事のスタート地点だ。
 しばらくは、僕たちは言葉もないままに川面を流れていく。僕と冴子は舟の左右で櫓を操り、信良と花江は首をめぐらせながら目を凝らしている。
 やがて水の音と鳥のさえずりに飽きた信良が、最初に沈黙を破る。これはいつものこと。ついでに言うと、こういうとき、彼の口から最初に飛び出すのが花江に対する愚痴なのも、いつものことだ。
「いい加減、うまくなってくんないかなあ」信良が鎌の刃をいじりながら言う。「お前とペアを組む者の身になってみろよ。フォローしてるだけで疲れちまうぜ」
「ごめんねー、信ちゃん」花江は、相変わらずのニッコニコ顔だ。「花江、へたくそだからあ。信ちゃんに助けてもらえるからあ。ありがとー。ごめんねー」
「だめだこりゃ」信良は僕に助けを求めるような目を向ける。「おい、祥一。なんとか言ってくれよ。おっと、前方に岩あり。もっと右に」
「いやなのか? 花江とのペア」答えの見えている問いを信良に投げかけながら、僕は櫓を漕ぐ腕に力を込めた。逆に冴子は力を緩めたらしい。舟が右に向きを変える。「いやなら、代わってもいいけど」
「べつにいやじゃないけどさあ。ああ、そのまま真っ直ぐでオッケーだ。でも、なんだかさあ」そこで信良の声が消えた。しばしの沈黙。そして、舟縁を叩く音。「いたいた。今日の一発目のお客様だ。ずっと左に寄せてくれ、ずっと。そう、もっと左」
 信良と花江のコンビとは違い、僕と冴子の息はぴったり合っている。一年間、アルバイトのたびに一緒に舟を操ってきただけのことはあると思う。でも、舟のコントロールが思いのままなのは、単に慣れだけじゃなく、互いの呼吸の色が読めるからだと思う。信頼感、って言えばいいのだろうか。そんな言葉、恥ずかしくて口には出さないけれど。
 絶妙のコンビネーションを発揮し、僕たちは信良の指摘する地点に、最短距離で舟を寄せた。
 信良が鎖鎌を頭上に構えた。狙いを標的に定める。この鎖鎌、普通のものと違う点がふたつある。ひとつは、柄の長さを二メートルに延長し、鎖の代わりにロープを取り付けてある。もうひとつは、刃先に返しがついてある点だ。つまり、釣り針のように、一度食い込んだら簡単には抜けないような仕様になっている。
「よっ」信良が鎌を振り下ろした。仰向けに浮かんでいる死体の胃の辺りに刺さる。
「ほい、ゲット」信良が柄をたぐり寄せる。薬屋の弥助じいちゃんの死体が、鎌の突き刺さった部分を中心に、くの字に折れて川面を滑ってくる。肉はまだ柔らかいようだ。死にたてホヤホヤだ。
 弥助じいちゃんの死体が、舟にトンと当たった。信良は鎌のロープを舟の中心に立っている柱に縛り付けた。これで弥助じいちゃんは舟とともに川下りをすることになる。「一丁上がり、と」
 さすがに死体を舟に上げることはできない。定員オーバーだし、第一、子供の力でそんな芸当は不可能だ。舟のバランスの問題があるので、全員で引き上げることもできない。だから、こうして舟の外側に固定して川下まで運ぶやり方をとっているのだ。
「な。簡単だろ?」信良は両手をパンパンと叩きながら、花江に言った。「狙いを定めて、突き刺す。できるだけ深く。あとはゆっくりたぐり寄せればオッケー。死体は素直に舟まで来てくれる。そいつが舟にチュウをしたら、ロープを柱に縛り付けて完了。舟に乗せてやらなくても不平不満を言うこともない」
「今日は花江の活躍すべき日だね」僕は辺りを見回しながら、ゆっくりと櫓を操った。「たぶん、このへんに流れ着いていると思うんだけど」
「昨日の夜、飛び降りたからあ。うん、このへんかも」花江はキョロキョロと辺りを見回した。「おばあちゃん、赤い半天を着ていたから、目立つと思うんだけどお」
 八個の目を四方八方に向けながら、僕たちは探した。そして、それはあった。花江のおばあちゃんの死体は、川縁の岩に引っかかっていた。
「なるほど、赤い半天ね。確かに目立ってるわね」冴子が櫓を漕ぎながら、岩を抱きかかえるようにして引っかかっている菊江おばあちゃんの死体を横目でとらえる。「見つけやすいという配慮ね。さすが、花江のおばあちゃんね。気配りができてるじゃない」
「うん。できてるできてるう。昨日ね、おばあちゃん、言ってたよお」うれしそうに、花江が顔を揺らせる。「たぶんこの辺に引っかかってると思うから、がんばって見つけておくれよ、って。お駄賃までもらっちゃった。仕事の後でみんなとお汁粉でもお食べよ、って」
「村木屋の汁粉かあ」信良が舌なめずりをする。「ありゃあ、絶品だぜ」
 舟を菊江おばあちゃんの死体に鎌が届くところまで寄せた。おばあちゃんは、岩を抱きながらも、首を変な角度に曲げて空を見ていた。ぽっかりと開いた瞳には青い空が忍び込んでいる。おまけに鳥まで映っているにぎやかさ。独りを嫌い、いつも誰かとしゃべっているのが好きだった菊江おばあちゃんらしいや、と僕は思った。
 水の流れに逆らうように櫓を漕ぎながら、僕は信良に目配せする。信良はうなずきながら、鎌を手にした。それを花江に差し出す。「ほれ、こいつでやってみ」
 うん、とうなずきながら、花江は鎌を受け取った。それをしばらく見つめていたけれど、深呼吸をひとつすると立ち上がった。そして、よいしょ、と鎌を頭上に構えた。鎌はけっこう重量があるので、花江の腕が小刻みに震えている。
「あー、だめだ。そんな構えでは、狙いが外れちまうぞ」信良が立ち上がり、花江に近寄る。そして、鎌を握っている花江の両手の間隔を広げた。「いいか、重い鎌を扱うには、両手の間隔を広くとったほうが安定するんだ。そして、鎌はあまり振り回すものじゃない。どちらかといえば、重さを利用して、高いところから死体の上に落とす感じだよ。それに、多少の力をプラスしてやる。それだけで十分に刺さってくれるし、傷跡も小さくてすむんだ」
 信良が鎌を落とす真似をした。それを僕はにやにやしながら見ている。なんだかんだ言っても、やっぱり信良だ。花江とはいいコンビだ。
 じゃ、やってみ、という信良の声にうなずきながら、花江は左右に足を動かす。ちょうどいい位置を決めた花江は、信良に教わった通りに鎌を構えて、小さくつぶやいた。「いくよ、おばあちゃん」
 花江は、おばあちゃんの死体めがけて鎌を落とした。
 どっ。
 弥助じいちゃんのときよりも少しばかり重い音がしたのは、菊江おばあちゃんが抱えている岩のせいだろう。死体が受けた衝撃を、最終的に岩が受け止めた。それを、重くて硬い音に変えて水面に響かせてくれた。花江としては、より手応えを感じたような気になったに違いない。
「よし、いいぞ!」信良がパン、と一度だけ手を叩いた。「十分な刺さり具合だ。もう終わったも同然だよ。そのまま引き寄せてこい」
 こっくりとうなずく花江の顔は、真剣そのものだ。緊張感で満たされた頬は、たぶん、ぷにぷにをしても、指がはね返されるに違いない。
 花江は唾を飲み込みながら、ゆっくりと鎌を引き寄せた。岩から剥がれた菊江おばあちゃんの死体は、真っ赤な布団のようだった。布団は水を左右に切り分けながら舟に近づいてきて、トンと音を立てた。
「オッケーだ。さあ、ロープを柱に縛り付けるんだ」
 信良の言葉に、花江はまたこくんとうなずいてから、ロープを一生懸命、縛り付ける。余ったロープの端を、フックに引っかけて終わり。荒い呼吸をしながら、花江は信良を見た。
「やったぜ! 花江、うまいじゃないか。もうこれで一人前の回収係だ。俺も楽ができるってもんだ」笑いながら、信良は花江の肩を叩いた。花江はうれしそうな、それでいて疲れ切ったような表情で、その場にペタンと座り込んだ。僕と冴子も花江を祝福し、しばらく舟の中は拍手の渦となった。
「さて、そろそろ引き上げるかな」僕がみんなの顔をながめながら言うと、花江がひときわ大きくうなずいた。
「おばあちゃん、一緒に川下り、しようね」花江は、舟縁にへばりついている菊江おばあちゃんの死体に、微笑みかけた。「今日はちょっぴり水が温かいから、気持ちいいよお」
 うれしそうな花江の声を聞きつつ、僕は櫓で水を切った。同時に冴子も櫓を操る。舟は点在している岩を避けながら、最短距離で川の真ん中まで進んだ。あとは流れにまかせれば、わずかの修正だけで川下までたどり着く。僕と冴子は笑顔を交わす余裕もでき、おまけに冴子はポケットから取り出したあめ玉を僕の口の中に放り込む余裕まで見せた。
 口の中に、昨日食べたジャムパンの味がよみがえった。
「イチゴ味はすきじゃないの。祥一の担当ね」そう言いながら、冴子はパイン味のあめ玉を、自分の口の中に放り込んだ。信良と花江にも手渡す。あのふたつも、当然、イチゴ味のはずだ。
 花江は菊江おばあちゃんのそばで、首を左右に振りながらハミングしていた。ときおり、舟に伴走する菊江おばあちゃんに微笑みかける。
 花江と菊江おばあちゃんのふたりだけの世界から追い出された信良は、小さく舌打ちしながら僕と冴子に向き直った。「まあ、最初はこんなもんさ。回収したものには親近感を覚えるからな。特に、身内とくりゃ、格別だ」
 やれやれ、と首を回していた信良の目が、冴子の前で止まる。短いスカートから伸びている脚に見入っているらしい。信良の喉が、ぐびと動く。
「なによ」冴子のきつい視線に、あわてて目を逸らせた信良は、また舌打ちしながら僕のほうに向き直った。
「なあ、祥一」そこで言葉を切った信良は、ちらと冴子のほうに視線を走らせる。「お前たち、付き合ってんのか?」
 舟がわずかに左に流れ始めたようだ。僕は櫓を水につけて、抵抗を作り出した。手のひらに断続的に圧力がかかる。
「付き合ってるって? それ、僕と冴子のことかい?」問い返しながら、僕は冴子を目の端でとらえた。
 彼女は僕と信良の会話には関心がなさそうで、川岸で背比べをしている木々を見ていた。
 でも、実際には関心がないはずもなく、ただ信良や花江がいるから、そんなふうに振る舞っているだけだ。それは確かだった。その証拠に。
 昨日のことが、頭の中によみがえりそうになった僕は、急いでそれを追い払う。
「いや、そういうわけじゃないけど」僕の言葉が信良や冴子にどういう影響を与えるかなんて、そんなことまで考えるのはおっくうだった。考えることはしないで、ただ反応だけ待つことにした。
「ふうん。そうか」ごくありきたりの反応を返した信良は、もうそれ以上は尋ねてこなかった。再び、花江に関心を向けたようだ。
 冴子は、まだ木々を見ていた。そして、パインのあめ玉を口の中に放り込んだ。ややあって、僕にあめ玉を差し出した。もちろん、イチゴ味だった。
 そのとき、どこからか声がした。あああああ、と言う声は細く長く尾を引いて、しだいに小さくなっていった。
「ありゃあ、また誰か飛び降りたぞ」信良が滝のほうに目を向ける。「まいったな。もう少しはやく飛び降りてくれてればなあ。ついでに回収できたのによう」
「もう明日でいいよ。川、さかのぼれないし」僕が冴子に目を向けると、彼女もうなずいた。
「まあな。そりゃそうだ。仕方がない、死体には明日まで泳いでいてもらうか」信良が舟の腹をパンと叩いた。「じゃあ、ここまま下っていこうぜ」
「おばあちゃんと一緒に下っていくう」花江がまた歌い始めた。
 さっきの声の主が滝からここまで流れてくるのを待つという手もある。一体でも多く死体を回収したほうが、僕たちも稼ぐことができるのだ。今日、回収しなければ、明日の回収ってことになるのだけれど、そうすると、鳥や動物なんかにつつかれて、身体が傷つくかもしれない。きれいな状態でなければ、アルバイト代もそれだけ低くなる。そんなことは、僕だけでなく、みんなよくわかっていることだ。
 でも、花江にとって本日最大の願いは、このまま菊江おばあちゃんと川を下っていきたいということ。そのことも、僕たちはよくわかっている。だから、信良はもうここに留まる気はないようだし、冴子だってあめ玉を食べたのだ。ちなみに、彼女があめ玉を食べるのは、もう仕事は終わったという意思表示でもある。
 僕は横にいる冴子の膝頭をポンと叩いた。相変わらずきれいな膝だな、と思いながら、櫓を水面に差し入れた。冴子がちらと僕のほうを向いてから、櫓の動きを僕に合わせる。流れに任せたままだった舟が、ゆるりと加速し始めた。
 頬に当たる風が強さを増した。流れのより緩やかな場所へと舟を誘導する。強まっていた風が、しだいに弱くなっていく。同時に、舟の速度も落ちてくる。ふたつの死体を携えた舟は、これでもうほとんど揺れることなくゆっくりと川を下るはずだ。近しい者たちが思い出話をするには、最適な環境だから。

 冴子と知り合ったのは、中学に入学してすぐだった。同じクラスになり、真っ先に記憶に残った女の子だった。まだまだ洟垂れ小僧の印象が強いガキどもの中、妙な落ち着きと大人っぽい容姿で、とても目立っていた。目立っていたというのは、彼女の艶やかな容貌に関する感想であって、当の本人は、どちらかと言えば人と打ち解けて楽しむよりも、独りで自分の空間を保っていたいと思うような性格だった。それは、冴子と少しでも話してみればわかることで、クラスの好奇心旺盛な野郎どもは、彼女に話しかけてはあえなく撃沈していたようだ。
 ようだ、と無関心めいたことを言ったのは、そう、まさに無関心そのもの、僕は彼女にまったく関心がなく、それよりも、撃沈していくハイエナたちを観察しているほうが、ずっと楽しかったのだ。それはなにも他人の不幸を楽しむ趣向が僕にあるということじゃなくて、断じてそうじゃなくて、率直に言って彼女に興味が持てなかっただけの話だ。妙に大人びた外観は僕の好みじゃない。ただそれだけのことなんだけれど。
 ところが、同じ教室で学ぶようになって三週間も経った頃、彼女のほうから話しかけてきた。
 昼休み、食事も終えて、それぞれ仲のいい者同士が集まり生産性の低い話に花を咲かせている教室で、僕は机に向かっていた。午後一番の授業で使う三角定規を修理していたのだった。巨大な木製の三角定規で、先生が黒板に図形を描くときに使うやつだ。
 それをなぜ僕が修理しているのかと言うと、午前中の授業で、超がつくほど近眼の女の先生が、たまたま足下に置いてあった三角定規に気づかずに全体重をかけてしまったからだった。そして、その当時、たまたま一番前の席に座っていた僕に、先生が修理の義務を押しつけただけのことだった。
 先生は言った。「あ、でも君になにか用事があればかまわないけど」
 そして、これまたたまたま用事のなかった僕は、バカ正直にも、いえ別になにも、と言ってしまった。少しばかり、後悔が顔に出ていたかもしれないけれど、超がつくほど近眼の先生にそれが見えるはずもなく、彼女は満足そうにうなずきながら教室から消えた。
「それは役得というべきかしらね」背後から聞こえてきた声が、真横に移動する。「先生に好印象を与えるという点では」
 窓から入ってくる光が机の上四分の一を浸食していて、とても憂鬱だった。それを遮って立っている人物を、僕は好意的な笑顔で見上げた。
「そうあってほしいと思うけど無理な相談だよ」応えながら、やっぱりだ、と思った。聞き慣れない声だったので、もしかしたら彼女じゃないかと思ったのだけれど、どんぴしゃり。「あのビン底眼鏡を見なかったのかい? ヘタをすれば、僕の顔すら判別できていないかもしれない。役得が聞いて呆れるね」
「じゃあ命令には忠実、ってこと? 用事もないって言ってたじゃない。おべんちゃらが得意なのかな」
 よく聞いているな、と思いながら、僕は定規の割れ目に木工用ボンドを流し込み、きつく押さえた。「悪いけど、そのビニールテープの端、剥がしてくれる? そう、さんきゅ。用事がないからないって言ったまでだ。せこせこした嘘をつくのは好きじゃない」
 彼女はしばらく僕の作業に見入っていたけれど、僕の任務が終わる頃、隣の席に座った。
「話すの、初めてだったかしら」彼女は脚を組みながら言った。傷跡のないきれいな膝頭がスカートから露出する。「想像していた声とはずいぶん違うのね」
「にゃおん、とでも鳴くと思っていたのかい? 君こそ想像していた声とはまったく違うよ」
「想像していた声って? ゲロゲロって鳴くとでも?」悪戯っぽく笑いながら僕を見る彼女は、脚を組み替える。左だけでなく、右の膝頭も無傷できれいだった。
「君に敵対心がないことは、十分にわかったよ。それで」僕は彼女を正面から見つめた。「僕になんの用?」
「アルバイト、したくない?」彼女は唐突にそう言った。したくない? ではなくて、しましょう、という意思が、言葉の強さに表れている。それを意識的に匂わせているあたりが、彼女のやり方なのかもしれない。だから、当然、僕はイエスかノーで答えることなどできなかった。
「なんのバイト?」と、僕は無難なところでつないでおいて、なぜ僕なんだろうという疑問を一生懸命に考えた。今現在の手持ちの駒だけでわかるはずないのだけれど。
「回収係。成らずの滝からダイヴする人の。今、募集してるらしいわ。人員に空きができたから」彼女は言葉を短く切りながら、その切り目ごとに僕の反応を確かめているようだった。「けっこう割のいいバイトよ」
 回収係なら僕も知っている。高齢者の著しい増加に対する対策として、一定年齢に達すると町単位で『間引き』が行われることになっている。『間引き』に該当すれば、この町から離れなくてはならなくなる。それがいやな人は、生まれ育った愛すべきこの落葉町で、自ら自然と一体になる方法を選択することができる。それが、成らずの滝からのダイヴだ。落葉町の人間で、この町が誇る成らずの滝を愛さない者はいない。すばらしい景観と一体になって人生に終止符を打ちたいと願う人のほうが圧倒的に多い。だから、ダイヴした人々の遺体を回収する係も必要になるのだ。
 でも、この回収係のアルバイトは報酬がいいから、競争率が高かったはずだ。そのことを尋ねると、彼女は微笑んだ。「ちょっとしたツテがあってね。今日中に返事すれば、募集に間に合うと思う」
「君と僕だけ?」なぜ僕に? という問いは、相変わらず頭の中を大回転していたけれど、それを口に出して聞くような野暮はしたくない。掛け違いのボタンを見て見ぬふりするような質問で自分を誤魔化しながら、周囲をうかがう。彼女が僕に話しかけているのが信じられないという、うんざりするほどパターン化された表情の連中が少しずつ増え始めたようだ。
「四人、必要らしいわ。四人で一組なの。ほかに誰かいる?」
「それじゃあ」と僕は増えつつあるギャラリーの視線を背中に感じながら言う。「信良と花江がいいと思う。小学校のときからの腐れ縁だから、気心が知れている」
「じゃあ決まりね」彼女は、僕との会話だけで、すべてを決定してしまったようだ。「放課後、残っていて。その二人にも残るように伝えといて」
 このとき、これからの僕の中学生活に道がつくられたように思う。その道は曲がりくねっていて粘質で、とっても歩きにくそうだけれど。

 ポケットの中のあめ玉がなくなったらしく、冴子は上半身をひねった。背後に置いてある手提げに入っているあめ玉を取るためだろう。当然、彼女のそろえていた両膝は割れて、スカートの中に光が侵入する。
 冴子の正面に座っている信良は、それをめざとく見つけて、お、と声を上げた。上体を低くして、さらに奥を求めようとする。
 前に向き直った冴子は、目の前の中年男のような粘っこい視線を受けて表情を変えた。「あんた、なにしてるのよ」
 ほ、と鳩のような声を上げた信良は、口を丸く開けたまま、冴子の顔を見た。そのまま、もう一度、ほ、と言った。犯行現場をしっかり押さえられた信良は、開き直ったらしく、鼻を鳴らした。「ちょっとくらい、いいじゃんか。なんだよケチ。お前ら付き合ってないんだろ? だったら、少しくらい」
 信良の言葉を、冴子がさえぎる。「舟から放り出されたい?」
「わかったよ。ちぇ、なんだよ少しくらい。色っぽい脚した冴子が悪いんだ」そう言いながら、信良はむくれた。が、そのままでは収まらなかったらしく、今度は花江に向き直った。「なあ花江。さっき、死体の回収方法、教えてやったよな? その礼として、ちらっとパンツくらい見せろよ、ちらっと」
 菊江おばあちゃんの死体を見ていた花江が、信良のほうを見た。一瞬、なんのことかわからないようで、きょとんとした顔で信良を見ていた。が、すぐに微笑む。
「パンツ? うんいいよ」そう言いながら、花江は桃色のスカートをまくり上げた。「これでいい?」
 え? と声を上げたのは冴子。声は上げないけれど、目をそむけたのは僕。どちらも驚きゆえの反応。でも、もっとも驚いたのは、信良のようだ。座ったまま固まっている。
「ば、ばかやろ。本気にするやつがあるか。冗談だよ冗談」信良の視線が、花江のパンツと僕と冴子の間をくるくると回転する。広げた両手を団扇のように振りながら、はやくスカートを下ろせ、のジェスチャー。「だいたいな、そんな汚いパンツ、見たくもねえよ。匂いそうだし」
 花江の表情が曇る。「見たくないの? 花江の汚いから? 匂いそうだから?」
「そ、そうじゃなくってだな、き、きれいも汚いもあるかよ。匂いなんて知らねーよ。その、お前、見せろって言われて、すぐに見せるなんてのは、だな、ええと」口をパクパクさせてがんばっていた信良だったが、泣きそうな花江の顔を見て、ついに根を上げた。冴子に向き直り、合掌する。「頼む、助けてくれ」
 冴子はため息をつきながら、助ける気はしないけどね、と言った。「花江、あんた、いやならいやとはっきり言わないとだめよ。そうしないと、この手の男は」信良を一瞥する。「どこまでも図に乗るから」
 信良が慌てた。「おい、図に乗るってなんだよ。俺はそんな男じゃ」
「ううん、べつにいやじゃないよ。だってあたし、信ちゃんが」花江がにっこり笑って、甘酸っぱい言葉を出そうとする。
「はいはい、わかったわかった」信良が両手を上げて花江を制する。「もういい、俺が悪かった。とにかく、そんなことはやめてくれ。それはまあ、言った俺が悪いんだけど、でも、いくら言われたからといって、簡単にパンツなんて見せるな。たしかに見せろと命令したのは俺なんだけど、それでも、ああもう」
 焦りまくる信良を見て、僕は笑いをこらえた。信良らしいや。
 小学生のとき、信良は花江をいじめから守ってやった。それ以来、花江が信良に想いを寄せていることは、彼だって知っている。純粋な花江の前で素直になれない信良の純粋さ。歯車を組み合わせるのが苦手な者同士。言葉は悪いけれど、ふたりのやりとりは、いつ見ても漫才のようで面白い。
 それにしても、と僕は思う。冴子はチクチクと信良に仕返しをしながらも、同時にふたりの距離を縮めようとする。そんな彼女のやり方に、僕はいつも感心させられる。容姿だけでなく頭の切れもいい冴子には、僕もしてやられることがある。先日のように。
「どうでもいいけど」と冴子が言った。
 ほら。今日の冴子は、これだけでは終わらないようだ。もう少しだけ、仕返しを楽しみたいらしい。
「バレない工夫くらいしたらどう?」冴子が信良の下腹部に目を走らせる。
 信良は、膨らんだ場所を慌てて両手で覆った。いやこれは違うんだ、なんでもないんだ、と言いながら、アルマジロのように丸くなっている。
 溶けるあめ玉のような信良を見て、冴子は満足そうな微笑みを浮かべている。彼女にとってみれば、信良も彼女の好きなパインのあめ玉も同じだ。その気になれば、いとも簡単に溶けさせてしまうに違いない。そう。僕でさえ、溶けそうだったのだから。
 僕の頭の中を見透かしたかのように、冴子が悪戯っぽい笑みを投げかけてきた。僕はため息をつきながら、滑るように流れる水面に目をやった。
 ため息の原因は、もちろん、昨日のできごとだ。青緑の水面の向こう側に、昨日の記憶が映し出された。

「舟を漕ぐのは、また祥一とあたしね」冴子が微笑む。「もう、何度目のコンビかしら」
「中学に入ったときからずっとだから、三年目か。回数なんてわかんないな。両手じゃ足りないくらいだろうね」ぼくはきちんと整理された部屋を見回しながら答える。
 中学生の女の子なら、たいていはお気に入りの人形や装飾品が、部屋を占拠しているはずだ。でも、この部屋にはそれらが見あたらなかった。かわりに、壁にはいくつかの風景画が、棚にはたくさんの本が、そして、窓には落ち着いた雰囲気のカーテンがかかっていた。それらの絵や本の作者を、僕はまったく知らなかった。「ここ、実は姉さんの部屋なのよ」と冴子が言ったとしても、僕は素直にうなずけただろう。落ち着くはずの部屋なのに、妙にそわそわするのはなぜだろう。
 明日からのアルバイトのやり方を、前回の反省も含めて話し合おうと言ったのは冴子だった。
「家にこない?」冴子が僕の目をのぞき込んだ。彼女の両親は親戚の家に行っていて、帰りが遅くなるらしい。「ウチの親に気兼ねすることなく話し合えるでしょう?」
「いいけど。紅茶くらい、出してくれるのかい?」
「あたしの淹れた紅茶のファンにしてみせるわ」
 冴子の言葉に嘘偽りはなく、彼女の紅茶は、とてもおいしかった。
 ドアを開けて紅茶とともに部屋に入ってきた冴子は、いつの間にかワンピースに着替えていた。花柄のワンピースが、紅茶の香りに違和感なく溶け込んでいる。ガラス製のティーポットの向こう側に透けて見える花は、それがまるでポットの中で花開いているかのようだ。
 以前、母が親戚にもらった中国の工芸茶に、そういうのがあったことを僕は思い出した。お湯を入れて数分すると、ポットの中で花を咲かせるお茶。小学生だった僕は、母とふたりで「きれいだねえ」なんて、お茶を飲むのも忘れて見とれていた。
 あのときと同じように、僕は冴子が運んでくる「花」にも目を奪われた。もっともそれは、工芸茶ではなく、冴子の着ていたワンピースが原因だったかもしれないけれど。
 僕たちは、冴子の手書きの図面を広げて、麻米川の岩の集中している場所や流れのきつい場所を確認しあった。危険なポイントは、あらかじめチェックしておかないと、アルバイトどころではなくなるからだ。死体を回収するどころか、ミイラ取りがミイラになってしまう可能性だってある。実際、過去にそういうアルバイトの学生もいたらしい。
 じゃあ、信良と花江にも、今夜電話でハッパかけとくよ、と紅茶片手の僕が言ったときだった。
「ねえ、しようか」冴子が彼女にしては珍しい明るい声で言った。
「しようって、なにを?」紅茶を持ったままの僕は、彼女の手元や周囲に目をやった。トランプかなにかのゲームでも用意しているのかと思ったからだ。冴子の声には、カードゲームを楽しむような気軽さがあった。
 冴子はガラス細工のようにきれいな顔で僕の目をのぞき込んでいたけれど、突然、立ち上がった。そのままワンピースを脱ぎ始める。あっけにとられて見ている僕の前で、冴子は下着姿になった。
「なんの真似だい、それは?」
「わかってるくせに、そんな返答は間抜けだと思うわよ」
「あのさあ、なんで今、こんなことをお前の部屋で」僕は冴子から目を離し、ティーカップをゆっくりとソーサーに戻した。予定より大きな音を立ててしまう。そのせいで、次の言葉が引っ込んでしまった。
「祥一って、女の子をこんな格好のままほっといて平気な人なの?」冴子は僕を非難めいた目で見下ろした。
 僕が黙っていると、冴子は体育座りになり、僕に目線を合わせた。「祥一、誰かと付き合ってる?」
「いや、ないよ」
「じゃあ、誰か気になる女の子、いるの?」
「いや、別に」
 そう、と小さな声で言うと、冴子は立ち上がった。そして、僕の手を引っ張った。僕はむりやり立たされてしまった。
「さわってみて」冴子はわずかにハスキーがかった声を出すと、胸を突き出した。真っ白いブラジャーから、彼女の胸があふれそうになっている。服の上からは想像もできなかった大きな乳房に、僕は圧倒された。
「さわってみて」もう一度、冴子が言った。僕の手を取って、胸元の位置まで誘導する。そして、目で催促する。
 僕は、冴子の膨らみをしばらく見ていたけれど、人差し指を突き出し、でも胸には触らずにそれをもっと上げた。そして、彼女の鼻の頭をぷに、と押した。
 冴子は驚いた顔で僕を見つめた。が、それも一瞬のことで、すぐに僕の手を払いのけた。返す手で僕の頬をぴしゃり、と打った。
「ふざけないで」彼女の声にはわずかに怒りが混じっていた。「あなた、誰に義理立てしてるのよ」
「義理立て? 僕がかい? なんだよそれ。意味、わかんないんだけど」急に熱を帯びた頬が気になったけれど、放置する。
「遠慮しなくていいのよ。はっきり言ってくれて」冴子が悪戯っぽい笑いを含んだ。「カナにはもう告白したのかしら?」
 僕は黙ったまま、冴子から目を逸らせた。完全に僕の形勢のほうが不利だ。かといって、立ち直る術もしらないけれど。
「まあ、あたしには関係のないことだけどね。でも、あたしと祥一がどんなことになっても、カナにも関係ないんじゃない? それとも、関係あるのかな? どっちかしら?」
「まあ、関係ない、よ」喉の奥にできものができて、それが僕の返事を妨げているようだ。かったるさというできものが。
「そう」冴子の言葉には力がこもっていた。それはまるで、これでくだらない議論は終わりよ、と言っているかのようだった。
 冴子の行動は早かった。パラパラマンガのようにぎこちない動きしかできない僕とは対照的だった。両手を身体の後ろに回すと、ブラジャーのホックを外した。胸の上で踊るように縮んだそれをベッドの上に放り投げる。そして、頭半分高い位置にある僕の目を見た。
 僕は反射的に目を背けてしまった。視線の先には、カラになった紅茶のカップがあった。
「さわってみて」三度目の誘いだった。いや、今度は命令といえなくもない口調だった。ここまできたら、軽い命令口調くらいでちょうどいい、そう考えているのかもしれない。僕だって、そのほうがしっくりくるし、自然だと思う。受け入れるかどうかは別にして。
 断る理由を探せない僕は、小さく息を吐いて冴子の胸に視線を向けた。ぬけるように白い乳房が、彼女の呼吸に合わせて上下している。冴子のそれは、僕たちの学園生活には似つかわしくないようななまめかしさと大人の香りを放っていた。
 僕は、冴子の胸にそっと触れてみた。即座に彼女の反応が僕の指に伝わる。見知らぬ世界のものと思っていた冴子のものが、急に身近に感じた。軽く指をめり込ませてみる。彼女の鼻の頭より、数段柔らかく感じた。
「ねえ、見せて」大きく息を吸ったあと、冴子が言った。小首を傾げて僕を見る。
 僕たちはわずかの時間だけれど、見つめ合った。先に視線を外したのは、やっぱり僕だ。
 度胸がないなんて思われるのもしゃくだし、この期に及んでそれだけを断るのもなんか変だし、ってことで、僕はベルトに手をかけた。恥ずかしさを紛らわせる効果があるかどうかわからないけれど、ズボンと下着を一気に下ろした。
 冴子は僕の性器にゆっくりと目を落とした。明らかに表情が変化した。
 十秒ほど経っただろうか、冴子はかすれた声を出した。「へえ」
「答えになったかい?」僕は尋ねた。
 冴子は、僕の質問には答えず微笑んだ。
「あたしのも見せてあげる」誰かが耳をそばだてているわけでもないのに、冴子はささやくような声で言った。スカートを足下に落とし、下着を下ろした。
「さわってみて」四度目の台詞を冴子が発した。だけど、それは今までのものと同じなわけはない。
 僕は冴子の下腹部に手を伸ばした。手探りで目的地を見つけ、縦に指でなぞってみる。それが合図だったかのように、冴子も僕の性器に触った。
 僕の性器は当然のように大きく膨らんできたけれど、別段、どうこうすることもなく、彼女のものをなぞり続けた。
 冴子は、僕の性器の形状が変化するにつれて触る角度を変えていたけれど、そのうち柔らかく握りしめた。そうするほうが自然な大きさになっていた。
 僕も、なぞることをやめて、指先にちょっとだけ力を込めてみた。指先がわずかに冴子の中に隠れる。でも、冴子の場所は、異物をはじき出そうと固く閉じたままだった。
 冴子を見る。彼女は鼻をちょっと膨らませ、頬が紅潮していた。
「いいわよ」そう言いながら、冴子は僕から手を離し、ベッドに座った。「きて」
 僕はなんとも不細工な格好で、その場に立ちすくんでいた。前を隠すこともしないけれど、戸惑いも隠さなかった。冴子はそれに気づいたようだった。
「まさか──初めてなんてこと、ないわよね?」
 僕は返事をしないで曖昧に笑った。冴子は一瞬、あっけにとられていたけれど、すぐに声を殺して笑い始めた。
「なあんだ、そうだったの。あたしはてっきり」冴子が笑いながら続ける。「あなたみたいなタイプって、意外と経験豊富だったりするのよね。ギラギラしているわけでもなく、かといって、陰でモンモンとしているわけでもない。適度に冷静で適度に熱くなる。女の子がコミュニケーションを求めたがるクールガイ」
「クールガイ? 僕がかい? そりゃあ、買いかぶりだ」
「買いかぶりでもなんでもいいのよ。相手がそう思っていれば、それがすべて。でもまあ、意外ねえ。ふふ」まだ笑いがとまらないらしい。
「幻滅したかい?」
「まさか」やっと笑いがやんだらしい、冴子が僕を見つめた。「なんとでもなるわよ。さあ、きて」
 ちらとカナの顔が頭に浮かんだけれど、すぐに消えた。いや、消したのかもしれない。
 横たわる冴子のわきに、僕は座った。そして、身体を添える。冴子は僕の手をとって、また自分の胸に誘導した。僕はそれを受け入れた。
 彼女の身体から甘い香りが立ち上ってきた。意外だった。シャワーでも浴びていなければ、エネルギー発散の盛んな中高生なんて、男女の差なく汗臭い存在だ。
 ずるいぞ、と僕は思った。紅茶の用意にやけに時間がかかると思っていたら、自分だけシャワーを浴びていたな。
「紅茶の葉、わざわざ買いに出かけたのかと思ってたんだけど」僕は冴子の乳房を転がしながら言う。「風呂場で栽培していたとはね。シャワーを使って育てるのかい?」
 ふふ、と冴子が笑った。「優遇措置よ。女の子だから」
 僕は唇を尖らせて、冴子の上に覆い被さった。

「おい、祥一。なに、ぼやっとしてるんだ。お前もなんか言ってやれよ。冴子には俺一人じゃ太刀打ちできねーよ」
 視界が焦点を結び、その先に信良の顔があった。彼はまだ股間を押さえている。内股気味な脚の格好が、しっぽを巻いてひれ伏している犬を思わせた。
 冴子を見ると、彼女は僕の横顔を意味ありげな表情でながめている。やれやれだ。
 舟が揺れた。最後の大きなカーブにさしかかったらしい。僕は冴子に目配せした。冴子は小さくうなずくと、櫓で水を切って舟の向きを調整した。
 カーブを曲がり切ったとき、信良が中腰になった。「見えたぞ、終点だ」
 僕と冴子は櫓を上げ、進行方向を振り返った。大人が何人か見えた。
 彼らは僕たちの舟に気づくと、大きく手を振った。僕たちも手を振り返した。

 発着所に舟を寄せ、ロープを投げる。大人がそれを受け取り、三人がかりで引っ張ってくれた。舟は吸い寄せられるように岸辺に乗り上げ、ざくっと大きな音を立てた。
 僕たちは舟を下り、岸辺に立って大人たちのすることを見ていた。彼らは舟に縛り付けていた死体を下ろし、えいほえいほと七人のこびとのように軽やかな足取りで、物言わぬ老人二人を軽トラックの荷台に横たえた。真っ赤な毛布を掛けてやってから、みんなで黙祷を始めた。僕たちもそれにならって黙祷する。もう見慣れた光景だ。
 僕は花江にささやいた。「お別れはもう十分にしたかい?」
 花江は微笑んだ。「ううん。またいつか会おうね、って言ったんだよ。お別れじゃないよお」
 そうか、そうだよな、と僕は答え、今日は活躍したな、上手かったよ、と花江の肩を叩いた。
「ご苦労さん。今日はふたつだな」口の周りにドーナツ状の髭をたくわえているおじさんが、にやにやしながらやってきた。「お前ら、相変わらずいい腕してるなあ。仏さんをふたつも抱えてこの時間に終了するなんてなあ。まったく驚きだよ。少なくとも中学生のレベルじゃないぞ」
「それはどうも」と僕は頭を下げた。信良が得意げに鼻を膨らませてうなずいた。そんな信良の様子を見て、花江もうれしそうに喜んだ。冴子だけが無表情で川の流れを見ている。
「間もなく高校生だけどよう、お前ら続けてくれるんだろう?」髭おじさんが、僕に尋ねる。ときおり、ちらちらと冴子のほうを見ていた。このおじさんのにやけ顔も、いつものことだった。三日月のような目で、さりげなく冴子の身体を上から下まで盗み見る。冴子はそんな視線に気づいているらしいけれど、別段、反応するでもなく、知らぬ顔をしていた。
「あんれまあ」舟のほうから驚きの声が上がった。禿頭のおじさんが、両膝に手を置いて舟の底をのぞき込んでいる。「古い仏さんが引っかかっているぞお。こりゃあ、誰かのう」
「ほんとだ。どれ、引っ張ってみようかい」樽のようなお腹をしたおじさんが、よっちらよっちら舟の下に近づき、引っかかっている遺体の腕を持った。強く引っ張る。
「お」樽おじさんが後方へのけぞった。そのまま倒れ込み、でんぐり返った。「おおう」
「ありゃりゃ。腕がちぎれてやんの。こりゃあ、かなり古い遺体だわい」禿頭のおじさんが、太陽の光を最も反射している頭頂の辺りをぺちぺちと叩いた。「いったい、誰だ、こりゃあ」
 僕は、足下に飛んできた、ボロボロの袖に収まっている腕を拾い上げてドーナツ髭のおじさんに渡した。
 髭おじさんはありがとうと言い、眉を寄せて腕をながめていた。「こりゃあ、隣町の義一じゃねえか」
「義一? 浮葉町のか?」ようやく起き上がった樽おじさんがやってきて、腕をのぞき込んだ。「ありゃ、ほんとだ。間違いない、義一だ」
「どうしてわかるの?」信良が尋ねる。「古い腕だけでしょう? 顔も見てないのに」
 髭おじさんが鼻を鳴らした。「ほれ、薬指と小指がないだろう? これはダイヴのときにちぎれたり魚に食われたりしたものじゃないんだ。切断面を見てみろ。ちゃんと皮膚で被われているだろう、ダイヴの後でちぎれたものじゃないって証拠だ」
「義一はな、昔、事故で薬指と小指を失ったのよ。旋盤工の仕事中に機械に巻き込まれてな」樽おじさんが、腹を叩いた。「わしは直接見ていないのだが、聞くところによると凄まじい光景だったらしいぞ。義一は血が噴出する左手を頭上で振り回し、『俺の指はどこだ、俺の指は』と叫びながら、聖火ランナーのごとく工場内を走り回ったらしい。それで、聖血ランナーというあだ名がついたくらいだ。それ以来、なにか揉め事が起きると、義一を呼んでくるらしい。奴が左腕を上げれば、揉め事を起こした連中は青くなって引き下がるって話だ。話がまとまらないときなどに使う慣用句で、『義一を呼べ!』っていうのを学校で習っただろう? あれは、浮葉町の義一の伝説から誕生したものなんだよ」
「義一の伝説、こええ」禿おじさんが身震いする。
「ああ、怖すぎるぜよ」髭おじさんも身震いした。
「気に入らないことを言うようですが」僕は髭おじさんが持っている腕を指さす。「それ、左腕じゃなくて右腕です」
「な」髭おじさんが慌てて腕に目をやった。樽おじさんと禿おじさんも急いでのぞき込む。
「おのれ、謀ったな。いったい誰でえ、こんなまやかしをしやがった野郎は」樽おじさんが頭を抱える。
「もしかしたら、町長かもしんねえど」禿おじさんが拳を手のひらに叩きつけた。「あの野郎、死体の発見を遅らせて、ダイヴ推定時刻をごまかそうと思ったに違いねえがや。おそらくこの死体が義一だということも隠したかったに違いねえだが、相手が悪かったようだなも。そう簡単に騙される俺たちじゃねえど」
 そうだそうだ、俺たちを見くびるんじゃねえ、と息巻いている三人組の前に、僕は進み出る。
「あのう、嘘ですけど」僕は眉を上げた。「右腕というのは、嘘です。そんなミステリーのような謎は、現実には起こるわけありませんよね。ところで、隣町の義一さんのダイヴ推定時刻を、なぜこの町の町長がごまかさなければならないんですか? 町長はミステリーマニアだとか?」
 三人のおじさんは、ぽかんとした顔で僕を見つめていた。静けさの中、冴子だけが小さな声でクスクス笑った。
 おじさんたちの表情が次第に険しく変化していく途中で、僕は素直にごめんなさい、と謝った。先手必勝。
 おじさんたちは顔を見合わせていたけれど、急に笑い始めた。髭おじさんは、こいつめこいつめと言いながら、腹を抱えて笑っていた。樽おじさんと禿おじさんは、腹がいてえ腹がいてえ、助けてくれと、ひぃひぃ泣き叫んでいた。
「お前、なかなか見どころがあるぞ。必ずまた来てくれや」そう言いながら、髭おじさんはそばに置いてある鞄の中から大きなスルメを一枚取りだし、僕にくれた。「そこのたき火で炙って食うといい。うめえぞ」
 僕はお礼を言って、スルメを火で炙った。熱々のそれを四等分し、みんなで分けた。僕たちは河原の石に座ってそれをかじった。
 僕はふと考える。最近、隣町──浮葉町の死体が増えてきたような気がする。なぜだろう。なぜ、この落葉町にまでやってきてダイヴするのか。「間引き」は町単位で行っている。間引きの該当者が間引き以外の方法、つまり、自ら命を絶つ方法を選んだとしても、それも町単位で処理すべき問題だろう。なぜ、この町にまできて。
 信良、と僕は自分でも知らないうちに声を出していた。信良が眉を上げて僕を見る。口の端からスルメの足が飛び出していて、彼が咀嚼するたびに、その足は生きているようにうごめいた。
「お前、不思議に思ったこと、ないか?」僕はなるべくうごめく足を直視しないようにする。
「なにが?」信良は器用なことに、スルメの足をツルッと口の中に引っ込めてから続ける。
「不思議なことって? なぜ冴子には大人並みの色気があるのかってことか?」それだけ言うと、またスルメの足を口から垂らして動かし始めた。
 真向かいに座っていた冴子が、スルメの足を信良に投げつける。いてえ、と顔をさすりながらも、地面に落ちたスルメの足を信良はくわえた。口の両端から、スルメの足が牙のように飛び出した。
「さっきの義一さんもそうだけど、最近、やたら増えてないか? 隣町の人の死体」
「浮葉町の人の死体が?」牙もどきが気に入ったのか、信良はスルメの足を細かく動かし始めた。器用にも、ふたつの足を異なる方向に回転させている。でも、僕が感嘆しないせいか、つまらなそうな顔をして牙を動きを止めた。「まあ、そういやそうだな。改めて考えたこともなかったよ」
「なぜだと思う?」
「わかんねえよ。でもまあ、バイト代が入るんだから、なんでもいいだろ。俺たちは川に浮かんでいる死体という死体を回収して、あのおっちゃんたちに渡せばいいだけさ。よけいなことを考えると腹が減るだけだぞ」
「黙って」冴子の声だった。見ると、唇に人差し指を当てている。話すのをやめろという合図だ。
「ん? なんだ、どうしたんだよ」スルメ牙の信良が言った。
 冴子がいくぶん僕たちのほうへ身を寄せるようにして声をひそめる。「わかんないけど、あんまりいい話題じゃないような気がするのよね。単なるあたしの感だけど」
「冴子の感、か」僕は考え込んだ。眉間に皺を寄せて考えた。顔を上げて信良を見る。「なんだい、冴子の感って?」
 首を振る信良の後ろ側で、冴子がスルメを投げそうな気配がした。僕はそれを両手を上げて制する。「食べ物を粗末にするんじゃない」
「なんだ? なんの話をしているんだ?」車に作業道具を積み込んでいた髭おじさんが、不審そうな顔をして僕たちのほうを見る。
「いけねえ」信良が舌打ちする。「なんだかよくわからないけど、ここはごまかしておくほうがよさそうだな」そう言いながら立ち上がる。
「ねえ、おじさんたち」信良がスルメをかじりながら言う。「まだダイヴしている人、いると思うよ。下ってくる途中で声が聞こえたから」
「なあに、明日の回収でいいさ」髭おじさんが手を振った。「焦るこたあねえ。死体には足がねえ。おいそれと逃げやしねえからな」
「ちげえねえ」樽おじさんと禿おじさんがゲラゲラ笑った。
「待てよ、足はついているな」髭おじさんが首を傾げる。「だがしかし、逃げやしねえ。それは間違いねえ。なぜなら」指を信良に突きつける。「俺はまだ歩いている死体を見たことがないからだ」
「ちげえねえ」樽おじさんと禿おじさんが、またゲラゲラ笑った。
「他に質問はないか? なんでもいいぞ」そう言っておいてから、髭おじさんは炙ったスルメを巻物のようにくるくる巻いて口の中に放り込んだ。乱暴に咀嚼する。鼻から蒸気機関のような激しい湯気が吹き出た。咀嚼に合わせてドーナツ状の髭が、いびつに変化する。
「あのう、名前があ」花江が右手をこわごわと上げた。遠慮がちに質問する。「髭おじさんと禿おじさんって、発音が似ているじゃないですかあ。それってえ、紛らわしくて困るんですう。花江、呼び間違えそうで」
 おじさんたちは、しばし沈黙していた。やがて、樽おじさんが口を開いた。「お嬢ちゃん、そりゃあ、呼ぶ側の問題だよ。俺たちにゃ責任はねえ」
 ふうん、わかりましたあ、と返事をした花江は、再び、スルメと格闘し始めた。
 信良が、お前、食うの遅すぎるぞ、と花江を小突いた。

 花江がスルメを食べ終わるのを待って、僕たちは腰を上げた。もっとも、食べるのが遅い花江のスルメを三分の一ほど横取りした信良は、立ち上がってもまだ口を動かしていた。
 これで仕事が終わったわけじゃない。僕たちは大人たちに手伝ってもらって、舟を岸辺から引き上げた。ソロバンのようなコロコロがたくさんついたやつに舟を乗せる。そのまま転がしながらスロープの上まで持って行き、その下に配置してある荷車に積み込んだ。荷車が軽い悲鳴を上げて舟を背負い込む。よし、うまくいった。ここまでやれば、あとは僕たち四人で最後までできる。
 僕たちはおじさん三人組にお礼を言って、荷車を動かし始めた。僕と信良が前で引っ張り、冴子と花江が後ろから押す。いつものやり方だ。
 かけ声とともに、僕たちは全身に力を込める。喉仏を押し込んだような音が聞こえ、荷車が動き出す。一度動き出せば、あとは楽だ。なるべく終点まで止まらないようにする。
 僕は歩きながら息を吐き出した。あとはこの荷車を川上まで運んで舟を川岸に下ろせば、本日のアルバイトは終了となる。川上まではそこそこ距離があるけれど、鼻歌でも歌いながら四人で歩くのは、けっこう楽しいものだ。
「なあ」真横で頭を上下させながら荷車を引いていた信良が、正面を向いたまま言う。「さっき、お前がおじやたちに言ってたアレのことだけど」
「おじやじゃなくて、おやじ」僕も前方を向いたまま訂正する。もう少し川の水がぶつかり合う音に耳を浸していたいからだ。
「揚げ足取りは冴子に任せておけよ」信良が僕のほうへ身体を寄せ、小さな声で言った。「お前のキャラじゃないぞ」
「で、なんだって? さっき僕が言ってたことって」
「ほら、浮葉町の死体が増えているってことだよ。あれから俺も考えているんだけど、どうしてかわかんないんだ。浮葉町は浮葉町で処理する問題だろ? たまにならわかるけど、こう増えてきちゃ、なんかあるのかと思っちまうよな」
「やるな信良。さすが自他ともに認める女好きだ。感が鋭い」僕は信良の尻をポンと叩いた。
「あたしは認めていない」後方から冴子の声がした。
「だから、なんで聞いているんだよ」信良が上体をひねりながら、後方にいる冴子に返す。「祥一も祥一だ、女好きはねえだろ。誤解を招くような発言はやめてくれ」
 あたしは信くんのことがあ、と言いかけた花江を、「わかった」の五連射で妨害した信良は、咳払いとともに僕に向き直った。「頼むから、無事に話を続けさせてくれ」
「でもねえ」また冴子が声を投げかけてきた。が、さっきとは声のトーンが違う。「浮葉町の人が多くなったのなら、こっちも向こうへ行けばいいんじゃない? 落葉町の人間が浮葉町でダイヴすれば、狂ったバランスも元に戻るわ。なんなら、あたしが向こうでダイヴしてあげてもいいわよ」
「え?」ぎょっとした声を信良は出す。「お前、なにを言ってる?」
「と言っても、まだずっと先の話だけどね」冴子がクスクス笑う。歯ぎしりする信良。
「あたしはあ、いやだなあ。あたしは、ここでダイヴしたいからあ。ここが好きだからあ」花江が悲しそうな声を出した。
 花江の言葉に、一瞬黙り込んでいた信良が僕を見る。「祥一、お前もなんか言ったらどうだ?」
 僕は大きなカーブの先に目を向けた。ゆっくりと曲がっているカーブは、出し惜しみするかのように少しずつ少しずつ新たな景色を見せてくれる。巻物のような風景画が永遠に続くような感じがした。
「行ってみようかな」僕は独り言のような口調で言う。
「は? 行くって、どこへ?」信良が素っ頓狂な声を上げる。
 僕は、信良に微笑む。「浮葉町へ」
 なんだってえ、そりゃ、どういうことだよ、え、祥一。
 そんな信良の言葉が、ちょっとだけ遠くで聞こえたような感覚があった。
 カーブの先に、大きくて平らな岩が見えてきた。僕の頭の中は次なる行動で占拠され、さっきまでの会話はどうでもよくなっていた。
「見えてきたよ。さあ、腹ごしらえをしよう」僕は信良の肩を叩いた。

 この大きな岩に座って、四人で昼食を食べる。このアルバイトの楽しみのひとつだ。
 ここから滝までは、もうそんなに遠くない。だから、重々しい水の落下音が響いてくる。それを聞きながら食べる弁当は、格別だ。
 弁当は、冴子と花江の共同作品だ。おにぎりやサンドイッチは花江が、オカズは冴子が主に作るらしい。お世辞抜きで、どちらもとびきり美味い。美味いものだから、僕と信良の手は止まらない。機械人形のように弁当箱と口をしきりに往復した結果、以前はそれで冴子と花江の分がなくなってしまうという極悪非道のミスを犯していた。
 でも、今はそんなことは起こらない。起こらないといっても、僕や信良が食べる量を抑えたわけじゃなくて、単に弁当の量が増加しただけのことなんだけれど。
 とにかく、お腹が落ち着き、胃が、「ようし、もうかき込まなくていいぞ。ゆっくりでオッケーだ」と言えば、僕と信良はコーヒーに手を伸ばすのだ。
「さっきの話だけどよ」信良が派手な音をたててコーヒーをすする。「どういうことか気になるけどさ、蒸し返さないほうがいいのかな」
「どうして?」と僕。
「だってさ。お前、あんまし言いたがらないようだし、冴子もなんかほら、変な予感がするみたいなことを言ってたじゃん」
「ああ、そういうことか。正直に言おう。これを言うとヤバいんだ」
「え? ヤバいのか? おい待てよ、それって、どういう」
「だから、聞かないほうがいいって言ったでしょ」冴子が割り込んでくる。「男なら、一度で納得しなさい」
「納得も納豆もあるかい。ぜんぜん、意味わかんねえよ。そもそも、どこからそんなヤバい話になっちまったんだよ」
「嘘だよ」僕は微笑む。「ヤバいなんて話はぜんぜんないし、僕だって、隣町の死体増加の問題は、てんで見当がつかない」
「人を信じるのは大切よ。でも、時と場合によるわ。もっと冷静に分析しなさいな」冴子が紅茶を淹れて花江に渡した。ありがと、と花江。
「俺は信じねえ。お前たちは、二度と信用しねえ」信良が頭をかきむしった。
「でもさ、隣町に行ってみようか、と思ったのは本当だ。まだオムツがとれない頃に行ったっきりだから」僕が言うと、信良は頭をかきむしるのをやめ、髪型を整えた。
「そういや、俺は一度も行ったことがないなあ。お前らはどうだ?」信良が冴子と花江に問いかける。
「あたしも幼い頃に一度だけ」
「花江はあ、ぜんぜん行ったことないよお」
 それから、僕たちは少しの間、なにもしゃべらなかった。コーヒーや紅茶を飲みながら、ただただ滝の音に耳を傾けていた。
「なあ。知ってるか?」信良が明るい声を出した。「向こうに見える森なんだけどさ、あの森の奥深くにある廃屋の話」
「廃屋? なんだいそれは。持ち主に捨てられた建物があるってこと?」僕の問いに信良がうなずく。
「そう。その廃屋だけどよ、出るんだよ」
「出るって、なにが?」
「出るって言ったら、決まってんじゃんか。あれだよあれ」信良は両手を胸の前に掲げてぶらぶらさせた。「幽霊だよ」
「花江ねえ、紅茶、もう一杯ほしいなあ。冴子ちゃんの紅茶、おいしいからあ」花江がコップを冴子に差し出す。
「いいわよ。まだたくさんあるから、どんどん飲んでね」冴子が紅茶の入ったポットを傾けた。
「聞けよ、お前ら!」信良が片膝立てて叫んだ。「さっきのところは、最もインパクトのある部分だったんだぞ。それを聞き逃しやがって。いったい、どういう性格してやがる」
「聞いてたわよ、一応」冴子が横目で信良を見る。
「だってえ、花江も聞いてたけどお、花江、怖いもの、絶対、だめなんだもの。そんな話聞くと、夜、トイレに行けなくなるよお。信ちゃん、夜、電話してもいい?」
「わわ、わかったわかった」信良が慌てる。「いや、たいしてインパクトないから安心してくれ。怖くなんて全然ないから。夜、トイレになんて五回でも十回でも行けるから。そりゃあもう、鼻歌まじりのスキップで行けるから」
 信良がため息とともに肩を落とした。「俺、ちょっと物思いにふけるわ。祥一、あとはよろしく」
 岩の上にごろりと寝転がった信良を見て、花江が、あたしも寝るう、とそばに寄り添う。
 信良が慌てて跳ね起きた。「これは寝てるんじゃない。寝ながら起きているんだ」
 ふたりのやりとりを見ていた冴子が、ふふ、と笑った。僕を見る。「あたしたちも寝る?」
「ご冗談」僕はコーヒーカップを冴子に差し出した。冴子は笑いながら、新たなコーヒーを注いでくれた。
「おい、今、なにか見えなかったか?」信良が森を指さしながら言った。「いや、確かに見えた。向こうの森の中だ」
「森の中? なにかって、なにが?」
「よくはわかんなかったけどさ、白っぽいものがもの凄い速さで現れて空中へ消えたような。速すぎて目で追えなかった」
「おいおい、嘘つきは、僕だけでいいよ。お前のキャラじゃない」僕は冗談めかして言う。
「嘘じゃないって。ほんとだってば」信良はいたって真剣だ。
「森の中になんかいるのお? 花江、怖いよお」花江が信良の袖にしがみつく。
「出現してすぐに消えたの? それって人間だった? それとも動物?」冴子が真剣な表情で尋ねる。信良が嘘を言ってないとわかっている顔だ。付け加えると、信良は勘違いするようなやつでもないという確信にあふれた顔でもある。なんだかんだ言っても、けっこう仲間を信用しているのだろう。
「わかんねえけど、でも、白っぽい服のような気がしたな」
「そう。じゃあ、それは勘違いだったのかもね。服を着ているのなら人間だけど、人間が空中へ消えるはずないじゃない。間違いないわ、あなたの気のせいよ。頭、疲れているのよ。老眼になるの、はやいかもよ」
 そうじゃないってば、と雄叫びを上げている信良を背に、冴子が僕を見る。「本当になにかいるみたいね。なにかしら」
「その前に、君は悪魔の申し子かなにかかい?」
「わかる? でも、あなたは襲わないから安心して」
「襲ったような気がするけど。先日。君の部屋で」僕は森へ目を向けた。
「そっちなら、いつでも襲う準備があるわ。あなた次第よ」そう言いながら、冴子も森を見た。
 ふたりしてしばらく見ていたけれど、森にはなんの変化もなかった。やっと温度の下がった信良、それに花江も加わって、八つの目でなにも見逃すまいとがんばっていたのだけれど、一度沈黙した森は、二度と口をきいてはくれなかった。
「しかたがない。時間も時間だから、そろそろ行くか」僕はよいしょと腰を上げた。岩の上に広げた昼食の残骸を、四人で片付ける。
「冴子、お前、俺の言うことが信用できないのか?」信良が片付けながらも冴子に食いついていた。「そんなに信用できないのなら、俺は」
 冴子は信良のほうへ顔をぐっと近づけた。信良が言葉を切ってのけぞる。「な、なんだよ」
「信用してないと思ってるわけ?」指で信良の胸をつつきながら、冴子は強い口調で言う。「あなた、仲間をなんだと思っているのよ。信用しているから仲間なんじゃない。どうしたらそんな言葉が出てくるのかしら。なんか悲しくなっちゃったじゃない」
「あ、いや」信良が二、三歩下がる。唇を尖らせながらも頭を掻く。「わ、悪かったよ。別に変な意味で言ったんじゃないんだけどさ。とにかくその、えと、悲しくさせたのなら謝るよ。すまなかった」
「いいわ。でも、もう二度と、そんなことは言わないでちょうだい。約束よ」そう言ってから、冴子は片付けを再開した。
 信良はまだ首を傾げてぶつぶつ言っていた。「待てよ、でもあいつ、俺の勘違いとか言ってなかったっけ、気のせいとか頭が疲れてるとか、老眼がどうのこうの。ええいもうめんどくせえ。どうでもいいやそんなこと」
 自分の中で、ひとつの問題が消化できたのだろう、信良は口笛を吹きながら、片付けに参加した。
 やれやれ。やっぱり悪魔の申し子だよ、君は。
 冴子と目が合った僕は、片方の眉を上げた。冴子はウインクして肩をすくめた。

 片付けが終わってから、再び荷車に取りかかった。花江の民謡だか童謡だかわからない不思議な歌を聴きながら、僕たちは荷車を川上まで運んでいった。
 川岸の広場に荷車を停めてから、舟を下ろす作業に取りかかる。下ろすのは上げるよりも力がいらないから、僕たち四人でもできるのだ。
 荷車の後部に長い板を取り付け、スロープを作る。舟を乗せるときに、あらかじめ舟の下にソロバンの大きいやつを敷いていたので、舟を引っ張るだけで動いてくれる。
 スロープまで引っ張り、ソロバンを前に継ぎ足してから、僕はいくぞと合図した。みんながうなずく。舟をぐい、と引っ張った。舟は坂道を雷のような音を響かせながら落ちていき、砂地に滑り込んだ。
「よおし、終了!」信良が万歳の格好で叫んだ。その後ろで、花江が手を叩いている。
「じゃあ、行くかい?」僕はみんなを見回す。
「ああ、行こうぜ」と信良。冴子もうなずく。
「花江、お汁粉、大好きなんだあ」手を叩きながら、ぴょんぴょん飛びまくる花江。
 僕たちは、荷物を手に、来た道を引き返していった。
 お汁粉、お汁粉お、と歌いながら歩く花江を、信良が、誰かが聞いていたらみっともねえからやめろ、と止める。僕と冴子はその後ろを歩きながら苦笑する。
 ときおり、冴子が森を見るのを、僕は知っていた。僕だって気にかかっているからだ。でも、いくら期待を込めた視線を送っても、今日はもうなにも起こらないと思う。なぜかそんな気がした。

 村木屋の暖簾をくぐると、甘い香りが鼻をくすぐる。汁粉の匂いだ。
 ここは雑貨屋さんだけに、いろいろな物が所狭しと並べられている。日用品あり装飾品あり食料品ありだ。
 ただ、他の雑貨屋さんと異なる点がひとつだけある。それは、ここの羽音おばあちゃんの手作りの汁粉が食べられるということだ。
 あまり広くはない店の奥まったところに、四人がけのテーブルがふたつ据えられていて、そのうちの一つが空いていた。もうひとつのテーブルでは、すでに親子連れが汁粉をすすっている。
 僕たちは甘い香りに誘われるまま、まっすぐにテーブルを目指した。
 席に腰を下ろす。急に疲れが襲ってきて、体重が倍増したかのようだ。他のみんなも似たり寄ったりの顔つきで、昆布のように椅子の背もたれに張り付いていた、
「ああ、疲れたなあ。こんなときは甘いものを食べるに限るぜ」信良が手のひらで顔を扇ぎながら言う。「汁粉だ、汁粉に限るぜ」
「それも、この村木屋の汁粉でなくちゃね。聞くところによると、ここの汁粉は世界一らしいよ」僕がそう言うと、信良がそうだそうだと相槌を打った。
「お汁粉って、世界中にあるの?」冴子が不思議そうな顔をする。「どこの国? 誰がそう言ったの?」
「うちのおばあちゃんによる最新情報」
「祥一のおばあちゃん、三年前にダイヴしなかったっけ? あなた、あの世とも交流があるのね。ますます興味深い男だわ」冴子は片頬だけで笑った。
「いらっしゃい」羽音おばあちゃんが猫背を上下させながらやってきた。僕たちに微笑む。「あんたたち、アルバイトの帰りかい? そりゃ、疲れただろう。なんか食べていくかい?」
「もちろん、汁粉だ」ぐでんとしていた信良が、ちょっとだけ復活して片手を上げた。「バイトが終われば汁粉で乾杯と相場が決まってるんだ」
「じゃあ、汁粉四人前、お願いします」僕は羽音おばあちゃんにそう言ってから、冴子に向き直った。「汁粉は砂糖がたっぷり入ってるんだよね。こんなの食べてたら、太ってしまうだろうなあ」
「それ、仕返しのつもり? けっこう陰険な攻め方をする男ね」
「とんでもない。これでも気遣いのできる男として有名なんだ」
「あんたら、相変わらず仲がいいねえ」羽音おばあちゃんが、福笑いのように表情を崩した。「うらやましいこと。ウチのカナは、どうも内気すぎてねえ。少しはあんたらを見習ってほしいんだけどねえ」
「カナ、今いるの?」僕は何気なく尋ねた。
 しまった。横目で見たけれど、もう遅い。冴子が薄ら笑いを浮かべながら、僕を見ていた。
「ああ、いるよ。たぶん奥の部屋で本を読んでいると思うけど」羽音おばあちゃんが首を傾げて考える。
 冴子が本日最高の悪魔チックな顔で言う。「じゃあ、カナも呼んであげたらどう? 人数が多いほうが楽しいでしょ?」
「え? カナもくるのお? やったあ、一緒にお汁粉、食べれるう」花江が飛び上がらんばかりに喜んだ。
「お、おい花江、もうちょっと静かにしろよな」信良が花江をたしなめる。隣りのテーブルのお客さんが驚いてこっちを見ているのを気にしている様子だ。
 信良は、僕と冴子の顔を何往復かした後、ため息をついた。「まったく、どっちもどっちだよ、お前らは。頼むから、中学生にふさわしい明るさで汁粉を食おうぜ。俺と花江は別世界の人間かよ」
「いや、悪い」「ごめんなさい」僕と冴子は同時に謝った。
「いやまあ、べつにいいけどよ」信良が唇を尖らせて頭をかく。そして、「なあ花江」と花江に同意を求めて、気まずさから逃げた。
 花江は、案の定、話が見えていないようで、「信ちゃんと花江は別世界の人間なの?」と信良を問い詰めている。僕と冴子より目の前のふたりのほうが大変そうだ。
 そのとき、羽音おばあちゃんがカナをつれてやってきた。
「こんにちは」カナが恥ずかしそうに微笑む。「呼んでくれてありがとう」
「こんにちは、カナ」冴子も微笑みながら、胸元で小さく手を振る。
 冴子め。それって本日最高の笑顔だろ。女というものは変幻自在の生き物らしい。男なんかに太刀打ちできるわけがない。
 すぐに羽音おばあちゃんが椅子をもうひとつ持ってきてくれた。五人で汁粉を食べ、僕たちは語り合い、笑い合った。
 カナもとても楽しそうだった。実際、冴子がうまくカナから話を引き出していた。だから、カナはごく自然に自分のことを話すことができたのだと思う。
 学校では「ガラス細工の美少女」というあだ名がついているカナ。内気で繊細で華奢な女の子は、今、冴子によって最高の時間を持てたことだろう。
 あとで悪魔殿に礼を言っておくべきかな。僕は楽しそうに話をする冴子とカナを見ながら、そう思った。
「さて、そろそろ帰るとするか」信良が柱時計を見ながら言った。「明日も仕事、あるからな。疲れをとっておかないと」
「大変だけど、とってもやりがいのある仕事だからね。がんばってねえ」羽音おばあちゃんが言う。そして、遠くを見るような目をする。「わたしも、そろそろですからねえ」
「あ、そうなんですか?」僕は驚いておばあちゃんを見る。「それで、いつなんです?」
「今年ですよ。今年の始めに、決めなくちゃいけなかったんだけどねえ。間引きだけはいやだから。だから、ダイヴを選んだのよ」
 そのとき、カナが悲しそうにうつむいた。
「あれ? カナ、なんで悲しそうにするんだい? 羽音おばあちゃんの晴れの舞台なんだぞ。もっと喜んであげなきゃ」信良が言った。
「花江のおばあちゃんもお、昨日、ダイヴしたんだけどお、とっても幸せそうな顔をしてたよお。だから、花江も幸せなんだよお。カナだってそうなるよお」
 カナは、うん、そうだね、と言って、羽音おばあちゃんの顔を見上げた。羽音おばあちゃんは、カナの肩に手を置いて、「みんなの言うとおりだよ。あたしは幸せなんだよ。だから、カナも喜んでね」と言った。
 カナはこくりとうなずいた。
 じゃあ、わたしは店番があるから、と言って、羽音おばあちゃんは去っていった。
 カナはうつむいたままだったけれど、隣りに座っている僕の手に軽く触れてきた。
 僕は驚いてカナを見た。カナは顔を上げなかった。そのとき、なぜかカナの向こう側にいる冴子の顔が目に入った。冴子と視線が絡んだ。冴子は僕の顔をじっとみたまま、うなずいた。
 やれやれ。やっぱり勝てないな。
 僕はカナの手を握った。カナはうつむいたまま少しだけ微笑んで、蚊の鳴くような声でありがと、と言った。そして、僕の手を握り返してきた。
 冴子は席を立って、棚に並んでいる商品を物色し始めた。花江も一緒に見ている。
 信良は、頭をガシガシかいたあと席を立って、花江の横に並んだ。
 僕とガラス細工の美少女は、少しの間だけテーブルを占拠することになった。
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