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1巻
1-2
泣きじゃくる優を慰めながらも、俺はまだ信じきれていなかった。
俺は兄さんを尊敬しているし、兄さんがこの柊家を継ぐのに相応しいとそう思っている。
でも、これが事実なら兄さんは許されない罪を犯している。
「優、その男の人は蔵にいるんだな?」
「うん、そうだよ。この部屋から少し見えるんだ。でも、一度も蔵を出たのを見たことがない。メイドが蔵に行くのは一日に一回だけだと思う。さっき出てきたから、今日はもう誰もあそこには行かないはず」
「分かった。俺が様子を見てくるよ。優、もう少しの間このこと黙っていられるか? 俺と優との秘密だ。じゃないと、その人が危険に晒されるかもしれないからね」
「うん、分かった」
俺は優の頭を撫でて部屋を出た。自然と早足になる。
小さい頃にかくれんぼに使った記憶がある蔵。
小さい嵌め格子の窓があるだけの暗い蔵に何年も閉じ込められるなんて。
それに、メイドが一日に一回しか訪れないということは、食事もまともに摂れていないのかもしれない。あの蔵には電気もエアコンもついていない、人が住むような場所ではないはずだ。
兄さんが本家に言わずにこんなことをしているなら、あの蔵を改装なんてしていないだろう。
そう言えば、今日父さんが言っていた兄さんのようになるなという言葉は、もしかしたらこのことなのかもしれない。
そうなると、本家は知っていながらも知らないふりをしているということか。余計に反吐が出る。
蔵に着いた。周囲を確かめてみると、足跡がいくつもあり人が出入りしているのが分かる。
恐る恐る扉を開け、中に入る。格子窓のすぐ下にシングルベッドが置いてあり、そのベッドに男の人が横になっていた。
「本当に、いた」
本当に、Ωの男性がここにいた。
医療知識のない俺でも分かる。かなり弱っている。
痩せ頬はこけていて、呼吸が荒い。
俺を不思議そうな目で見る彼の近くにしゃがみ込み、顔を覗いてみる。
彼はΩらしい可愛い顔をしていた。歳は、二十六とかか?
「はじめまして、俺は理玖って言います。君の名前は?」
「えっと、俺の名前」
少し難しい顔をして何かを思い出すような表情だ。
自分の名前が分からないのか?
「ぁ、か、楓」
「楓君だね。よろしくね」
「はい」
楓君か、彼に似合う名前だ。
俺は初めて会ったこの時から彼に夢中になっていたんだと思う。
□ ■ □
知らない人が俺の近くにしゃがみ込んだ。
ピアスをしていてなんだかちょっとチャラい感じがする人。その人は優しそうに微笑んで、「はじめまして、俺は理玖って言います。君の名前は?」と言った。
「えっと、俺の名前」
名前、俺の名前って、なんだっけ。
あ、そうだ、楓だ。
「ぁ、か、楓」
「楓君だね。よろしくね」
名前を呼ばれたのはかなり久しぶりで、自分の名前すら思い出せなかったことに驚いた。ここに来て初めて自分の名前が呼ばれた。
「はい」
よろしくってどういうことだろう。もしかして、次はこの人の子供を産むのかな。
でも、柊さんと番になっている俺は別の人には拒絶反応が出る。それに、もう産みたくない。
「あの」
「ん? 何?」
「俺、もう産みたくないです」
「え?」
「ぁ、ごめんなさい、ごめんなさい、産む、産むから、ごめんなさいっ」
「楓君? 俺は君に子供を産ませるためにここに来たわけじゃないよ?」
え、違うの? なら、なんで?
分からないことだらけだった。俺とちゃんと会話してくれる人なんてここに来てから初めてだ。
この人は、何?
「楓君、単刀直入に聞くよ? 君は、柊結弦の子供を無理やり産まされたのか?」
「っ」
「それは、肯定と受け取っていいね? それに、匂いがしないってことは君は兄さんに番契約をされているね? そして今、番欠乏の症状で起き上がることができない。違う?」
本当のことを否定はできない。ただ、この人が何者なのかが分からなくて、どうしたらいいのかも分からない。
「あの、あなたは?」
「ん? さっき言った通り理玖だ」
「ぇっと、何者なのかが、分からなくて」
ここで会ったことがあるのは、柊さんとその奥さんといつも来るお医者さん、あとはいつも来てくれるメイドさん。俺はその四人しか知らない。
「怖がらないで聞いてね? 俺は柊理玖。柊結弦の弟だ」
それを聞いて体が震えてしまった。怖い。単純にそう思った。
「大丈夫、俺は兄から君を救いたくてここに来たんだ。兄がしていることは大罪だ。君をここに監禁してこんな状態にしている。このままでは君は死んでしまう」
「……いいんです」
「え?」
「死んでいい」
「な、なんで?」
「なんで? じゃあ、なんで死んじゃダメなんですか?」
死んじゃダメな理由が俺には分からなかった。
こんな状態では子供だって産めないだろうし、もう邪魔なだけだろうし。
「君は生きていたくないの?」
生きていたく、ない。
だって、俺は生きていたって道具にされるだけ。
最近では少しの食事も吐いてしまう時があるし、トイレだって一人では行けない。起き上がることもできない。こんな状態で生き続けたいと思うのか?
自分の産んだ子供にも会えず、番にも会えず、愛されもせず、体が弱っていくのを感じる毎日。
そんな日々で生きる希望なんて生まれるわけがない。
俺は馬鹿だから何度も何度も期待した。子供を産めば愛してくれるかも、もう一人産めば次こそはって――
でも、願いは一度も叶わなかった。
「もうやり残したことは、ない?」
「…………」
やり残したこと。
「……会いたい人もいない?」
「……俺が、俺が産んだ子供に、会ってみたいっ、でも」
「でも?」
「会いたくない」
「どうして?」
「辛かったことを、思い出すからっ、俺はきっと、俺が産んだ子供に恐怖を感じてしまうっ。ここから声が時々聞こえるから、それで十分です」
本音だった。
窓から子供の声を遠くに聞きながら過ごす日々の中で、会いたいという願いをずっと諦められなかった。
持ったことのない家族という存在、自分と血の繋がった存在、俺のお腹を蹴っていた子供たち。
でも、会いたくないのも本音だ。
怖いから。自分のお腹の中で育てた大切な存在なのも事実だが、柊さんとの子供。あの冷たい瞳や俺を道具のように使う彼の行動を嫌でも思い出す。それが怖くて仕方ない。
だから、会いたくなかった。お腹の中にいたあの十ヶ月の思い出だけで十分だと思った。
会話ができたわけでも顔を見られたわけでもないけれど、俺の体は覚えてる。確かにあの子たちは俺の中にいたんだ、俺のお腹の中で生きていたんだ。
「……俺、また会いに来てもいい?」
「え?」
「君に会いに来てもいい?」
「……」
「いや、勝手に会いに来ることにするよ。好きな食べ物とかある? お土産に持ってくるよ」
「……好きな食べ物?」
「じゃあ嫌いなのは?」
「……特に、ないです」
「そっか。じゃあ消化が良さそうなもの持ってくるね」
俺の頭を撫でてその人は扉から去っていった。結局、何しに来たのかよく分からなかった。
また来るって言っていたけど、本当なのかな?
とりあえず疲れた。今日はもう眠ろう。
今の俺は眠ってばかりだ。少しのことで体が疲労を感じる。眠くて仕方ない。
ただ、久しぶりに人と会話して、少し、ほんの少しだけ嬉しかった。
あれから三日が経つ。
俺は風邪をひき、蔵で一人苦しんでいた。
病気だからといってお医者さんを呼んでもらえるわけではない。三人目の出産までは毎月お医者さんが来てくれていたが、三人目を産んでからはほとんど訪れなくなった。
柊さんと奥さんは子供は三人まででいいと言っていたらしいから、もう用なしになった俺はさっさと死んでくれってことなんだと思う。
「はぁ、まだ熱、下がらないんですか。さっさと治してもらえません? 私にうつったら困るんですけど」
「ごほっ、っ、すいませっ、ごほっっ」
「どうせ眠ってるだけでしょ? ならオムツ替えなくていいですよね? 食事もめんどくさいんでここ置いときますから自分でやってください」
「えっ、あのっ」
「あなた、旦那様の愛人なのかなんなのか知りませんけどね! 旦那様と奥様とお子様たちで幸せな家族を邪魔して楽しいんですか? ほんと、Ωって卑しい生き物ねっ!」
そう言ってメイドさんは出ていってしまった。
そっか、俺はこの家を邪魔している存在なのか。
そうだよな、ほとんどの人はあの子供たちを俺が産んだなんて知らない。
Ωになんて生まれたくて生まれたわけじゃない。俺は平凡に生きられればそれで良かったのに。
あぁダメだ。熱が出ているのもあって、いつも以上にネガティブな考えで頭がいっぱいになってしまう。
――ガラガラッ。
「楓君、入るぞー?」
あ、この声、えっと確か……
「理玖さん」
「楓君っ! どうしたの? 風邪かい? ……ひどい熱じゃないかっ! ちょっと待っててくれ!」
理玖さんが蔵に入ってきたと思った直後、扉から出ていってしまった。
こうして一人で苦しい思いをしていると、そんなのありえないって分かっているのに柊さんがあの扉から入ってきてくれるんじゃないかって期待してしまう。たった三度しか抱かれたことはないけれど、その時に嗅いだあの匂いをもう一度嗅ぎたくて仕方ない。
「柊さん……」
来るはずのない彼の名を口にして外に向かって手を伸ばす。
自分の命の終わりが近いことを日々感じていて、さらに今回のように熱が出ると、どうしても最後に柊さんに手を握ってほしいとそう願わずにはいられない。
手を伸ばしたままだんだんと瞼が落ちる。閉じ切ったと同時に涙がポロリと零れた。
眠っている間に夢を見た。
あんなに伸ばしたのに握られることのなかった手を誰かが握ってくれる夢。
柊さんや生まれた子に向かって伸ばしていた手を誰かに握ってもらった夢だ。
ここに来て初めて明るい夢を見た。いつも見るのは初日に柊さんに事実を告げられた時や子供を出産した日の夢ばかりだったから。
起きた時に泣いているなんて日常だ。
だからなんだかふわふわとしたような感覚で目覚めたのは初めてで、おでこに冷たいタオルが置かれてるのにすぐには気づかなかった。
「起きたかい? とりあえず解熱剤が効いてるみたいだけど、体が弱ってる状態だから油断はできない。……お粥あっためたけど食べられそう?」
「お、粥?」
「ここに置いてあった食事は病人が食べるようなものじゃない。もしかして君はいつもあんな食事しか貰えないの?」
「……ぇっと」
何も言えなかった。だって事実だから。
俺だって普通じゃないって分かっている。悪意で粗末な食事が用意されていることなんて、分かっているんだ。
「もう少し、もう少しだけ待っててくれ。俺が絶対に救い出すから。すぐだから」
そんなに必死にならなくていいのに。俺はどうせ長くないんだから。
それよりも、さっきの夢をもう一度見たい。誰かに手を握ってもらっていたあの夢を。
もう一度目を閉じたら見られるかなと思い目を閉じてみるが、起きたばかりで眠れるわけもなく再び目を開けた。
「食べやすそうなもの色々買ってきた。ごめん、俺、料理できねえから、全部出来合いのものだけど……」
理玖さんが袋から出してくれたのは、お粥や茶碗蒸しのご飯系からヨーグルトにゼリーなど甘いものまであった。
あ、みかんのゼリーだ。
甘いものなんて施設で食べたのを最後に口にしていなかったし、みかんは妊娠中に食べたかったけれどできなかったものだ。思わず見入ってしまう。
「ゼリー? これ食べる?」
「……欲しいです」
「うん、……はい、あーん」
口を開けると、冷たいゼリーが口の中に入ってきた。
優しい甘さが口の中に広がってずっとずっと食べたかったみかんを食べられたことが嬉しいのか、食べたかったのに食べられなかったことが悲しいのか、そもそもあの妊娠生活を思い出したのか、ポロポロと涙が流れて理玖さんを困らせてしまった。
普段から食事量が少ないので半分も食べられなかったが、この食事だけで当分は元気でいられるんじゃないかと思う。
「もう少し食べられるといいんだけど、これはどう?」
俺がゼリーをもういらないと言った直後なのに、理玖さんは茶碗蒸しを口元に持ってきた。
お腹いっぱいだと思ったはずなのに湯気が立っているそれが視界に入ると、自然と口を開いていた。さっきとは違う温かくて優しい味が美味しくて、呑み込んですぐにまた口を開く。
温かい食事も、久しぶりだな。妊娠中だけは普段よりは良いものを貰えたけれど、それでも出来立ての温かいものを食べられる日はなかった。
今日は涙腺が緩いみたいだ。ご飯が温かいってだけでこんなに涙が出るなんて。
「こんなことで感動なんてしないで。それが当たり前だって思えるようにするから」
そんな言葉が聞こえたが、俺はそれに答えられなかった。
【理玖】
俺は知人の探偵事務所を訪れていた。
優を疑っていたわけではない。でも、尊敬していた兄さんがあんなことを、あんな酷いことをしているだなんて思いたくなかった。
歳の離れた兄さんは俺にとって憧れで、好きなことばかりしている俺と違い昔からこの家を継ぐために努力し続け柊のために動いている人だ。勝手な俺に嫌な顔一つせずに。
「俺が柊を継ぐからお前は好きに生きたら良い。やりたいことしろ」
そう言ってくれる人だった。兄さんがいるから俺は好きに生きられていたし、俺が作った会社が潰れなかったのも軌道に乗るまで兄さんが柊から守ってくれたからだ。
〝良い兄〟
そんな言葉がぴったりの人だった。歳が離れているというのもあるが、兄弟喧嘩なんてしたことなかったし、兄さんが怒っているところすら見たことがなかった。
だが、俺は兄さんの薄っぺらい表面しか見ていなかったんだと思い知らされる。
ずっと使っていなかったはずの蔵の中は信じられない光景だった。
痩せ細ったΩの青年。弱っているのが一目で分かるほど顔色の悪い青年と手入れされていない埃っぽい部屋、不快に感じる異臭。
悪い意味で別世界がそこには広がっていた。
けれど、こんなに弱っていても優と同じ黒いその瞳は綺麗で、吸い込まれそうだと思った。
名前を聞いても、彼がすぐに思い出せないのには驚いた。
俺が「楓君」と呼ぶと少し嬉しそうだった。そのちょっとした変化で彼がなぜ自分の名前を思い出せなかったのか分かってしまった。
この家で彼の名を呼ぶ者がいなかったに違いない。自分の名前を忘れてしまうほどに。
俺はこれから柊家にとって敵になるだろう。
本家の敷地内で起こっていることだ。たとえ本家が兄を切り捨てても影響があることは自明だ。
少し気がかりなのは、楓君が産んだ三人の子供たち。このことが世間に知られれば、好奇の目からは逃れられないはずだ。
子供たちに罪はない。だから、慎重に迅速に事を進めなければならない。
「よう、久しぶりだな。お前が探偵頼るなんてどうしたんだ? 彼女の浮気調査とか?」
大学の先輩の吉良幹也。一流大卒業、司法試験一発合格、大手弁護士事務所に就職という輝かしい経歴があるにもかかわらず、急に探偵に転職した変わり者。
「彼女なんていませんって。幹也先輩、俺の兄のこと調べてくれません? 金はいくらかかってもいいですから」
「……へぇ? なにそれ面白そうじゃん。俺が乗り気になったから格安で引き受けてやるよ。早く話せよ、なんかあったんだろ? お前、尊敬してるとか言ってたじゃん兄貴のこと」
「実は、兄がΩを番にして子供産ませてたことが分かって。告発するために証拠を集めたいんです。できれば早急に。Ωの子、楓というんですけど、番欠乏でかなり弱っていて自分では動けないほどになってるんです」
「……一旦連れ出せねえの?」
「俺は医者じゃないので、彼を動かして良いのかが判断できません。それに、兄の家の蔵にいて家の者の目を盗んで連れ出すのは難しそうで。昨日、俺の通っているバース医に協力をお願いしたところ、詳しい状況見て記録してきてくれれば薬を処方できるかもしれないと言われました。明日、兄も義姉も家を留守にするそうなので状況を詳しく見てこようかと」
「なるほどな。他になんか分かってることあるか?」
「すいません。俺のほうで調べたんですけど、何も分からなくて」
「おっけー。俺に任せろ、調べ尽くしてやる。……一週間だ。一週間で全部証拠集めてやる。もしそれ以上かかったらタダにしてやるよ」
「ありがとうございます先輩」
「……理玖、お前分かってるだろうが、一応聞くぞ? 柊を敵にしていいんだな? 下手すりゃ柊は終わるぞ?」
まだまだ差別的な目は残ってはいるが、今の世論はΩに味方する方向に寄っている。今回のことが公になれば、兄も柊も世間からバッシングを受けるだろう。
でも――
「いいんです。俺はこんなことをしてる奴らなんて潰れれば良いって思ってますから」
楓君は、楓君の目は助けを求めているように見えたから。
同じ柊の俺になんて助けられたくないだろうけど、柊の俺だからこそできる償いがある。今回のことが終わったら、一生かけて彼に償うつもりだ。兄さんの分まで。
「ま、俺が協力してやるんだから証拠は集まるぜ。あとはお前次第だ」
「ありがとうございます、助かります」
「理玖、躊躇したらそのΩの子を余計苦しめるだけだってこと、頭に置いとけよ? お前はこういうことをするには優しすぎるからな。俺はそこが心配だ」
「……兄さんのこと尊敬してたし、今回のことはショックだったけど、昨日、一生分悩んだんで大丈夫です」
「なら頑張れよ。俺が協力してやって失敗なんてさせねえからな」
本当は毎日、蔵に通いたい。
番欠乏は想像以上に進行が早い。その事実を知ってから彼が心配でたまらない。
だが、ある程度の延命は薬さえ手に入れれば簡単にできるというのも事実だ。本人は苦しいばかりなのに。
毎日蔵に通って兄さんに知られることは避けたかった。証拠を隠され、彼を苦しめるための投薬をされたら彼の身を今よりも危険に晒してしまう。
……本当に? 彼のためなのか? 昨日先輩には躊躇しないと断言したけど、俺はまだ兄さんに……
楓君のあの状況をもう一度思い出せ。躊躇するな。
そう自分に言い聞かせながら本家の裏門を通った。
今日は兄さんも義姉さんも出かけていると優からメッセージが来ていた。
優は確信している。あの蔵の中にいるのが自分の本当の母親であり、それを自分の父と母が隠しているということを。さらに、俺に助けを求めたということは、楓君が酷い目にあっていることも予想しているのかもしれない。
本当に、賢い子だ。
できるだけ誰にも会わないように蔵に近づくと、女の人の声が聞こえてきた。
何か話しているのか?
音を立てないように聞き耳を立てる。
「……食事もめんどくさいんでここ置いときますから自分でやってください」
「えっ、あのっ」
「あなた、旦那様の愛人なのかなんなのか知りませんけどね! 旦那様と奥様とお子様たちで幸せな家族を邪魔して楽しいんですか? ほんと、Ωって卑しい生き物ねっ!」
こんなふうに扱われていたのか。動けない体になって、誰かの手助けがないと生活ができなくなっているのに、こんな。
やっぱり、躊躇なんてするな。先輩が証拠を見つけ次第、すぐに彼をここから連れ出して入院させる。
とりあえず今は、楓君に少しでも生きる希望を持ってもらうために明るく、俺を頼りたくなるように。
「楓君、入るぞー?」
蔵に入ると、彼は風邪をひいたようで咳をして苦しそうにしていた。おでこを触ってみると熱がある。こんなにも弱っている状態でさらに風邪だなんて。
それに、ベッドの横に置いてある食事は酷いものだ。表面が乾いているご飯少量に、具のない味噌汁、明らかに焦げている唐揚げのようなものが二つ。言い方は悪いが残飯のような食事。触ってみるとどれも冷たい。先ほどメイドが来ていたから、冷めたとかではなく冷たいものがここに運ばれたんだろう。
俺は彼に少し待っててくれと伝え、急いで俺自身も診てもらっているバース医に連絡を取った。病院に来れば薬を処方すると言ったので、タクシーを拾い病院へ急ぐ。
「――先生、ありがとう」
「いいですよ。この間相談された人ですよね?」
「ええ。風邪みたいで」
「強い薬は実際に患者を診ていないので出せませんが、解熱剤は処方しましょう。あと、おおよその身長と体重を教えてくれたので、このバース薬を飲ませてください。とりあえず番欠乏の進行を緩められます。……でも、あくまで進行を緩めるものです。できるだけ早く病院に連れてきてください」
楓君のおおよその身長と、体の細さから推測した体重を伝えたことで、バース薬を処方してもらえた。
「あぁ。ありがとう」
待たせていたタクシーに急いで乗り込み、本家に戻る。裏口から蔵へ入ろうとした時、中に楓君以外の人がいることに気がついた。
そこには、優がいた。
楓君の手をとって自分の頬をその手で包み込んでいる。優がこんなに甘えているのは初めて見た。
「……ママ」
ママと、そう言った。
義姉さんのことは母さんと呼んでいる。小さい時ですらママと呼んでいるのを聞いたことはない。
呼んでみただけなのか? 優が? 俺の中の優はこんなふうに甘えるイメージなんてない、ママと呼ぶキャラじゃないというか……
そもそもなぜここに? 入ったことはないはずじゃ。いや、この蔵に何があるのか知っていて入ったことがないなんてことあるのか? 本当は時々入っていた?
「優?」
「あ、理玖おじさん」
優の隣にしゃがみ込みその顔を覗くと、少し気まずそうに目を逸らされた。
これは、ビンゴか?
「優はここに来るの初めてじゃないのか?」
「…………うん。本当は何度も来てるしママが寝ている時にこの窓から覗いてた。父さんや母さんにバレないようにだから毎日ではなかったけど」
「ママって呼んでるのか?」
「僕がお腹にいた時に、ママは自分のことママって言ってたから。俺が君のママだよ。とか、ママは家族がいないから初めての家族になってくれる? とか。……それに、僕はママの名前を知らないから。僕が知ってるママのことといえば、お腹にいた時に話してくれたことだけなんだ。ママはね? 授業参観に誰も来たことなくて寂しかったから僕の授業参観は行ってみたいって言ってたんだ。僕はそのママの願いを叶えたい。生まれる前からずっと僕はママのこと見てた。ママがどんどん弱ってるのも、命が危険なことも分かっちゃった。でも僕は子供で、何もできない。どうすればママを守れるのかも助けられるのかも分からない。ママは十ヶ月もお腹の中で僕を守ってくれたのに、僕はママを守れない。それが悔しい」
俺は優が涙をポロポロ流すのをこれまでほとんど見たことがなかった。優は子供らしくない子供で感情が見えない。
なのに、楓君のことに関してはこんなにも子供らしい。ママのことが大好きな子供だ。
「おじさんっ、お願いっ、僕なんでもする。今はお金とかないけどっ働くようになったら必ず払うっ。だからお願い、ママを助けてっ」
「優。大丈夫だよ、そんなお金なんていらないから。なあ優? 俺からもお願いがあるんだけどいい?」
「なに?」
「優のママを助けるために、優も俺に協力してほしいんだ」
「僕にできること、あるの?」
「あるよ。優、今回みたいにお父さんとお母さんが留守の日を教えてほしいんだ。それと、優のママがすごく苦しそうにしていたり何か酷いことをされていたら、すぐに教えてほしい。それにね、優のママはね、体の調子が悪いんだ。だから、助け出した後は病院に入院することになると思う。その時に近くにいて励ましてあげてほしいんだ」
彼は俺になんて心を開いてくれていない。
助け出すのがゴールじゃないんだ。助け出してから症状を改善するための治療が始まる。この家でずっと酷い扱いを受けていた彼の精神面もケアするために、俺ではできないことも、彼の息子である優ならできるかもしれない。
それに、優はママを思って泣き行動できる子だ。楓君の心の支えになってくれるかもしれない。
「僕、ママのためになんでもする」
「うん。でもね優、優のママは優に会ったことがないだろう。びっくりしちゃうから、ここから助け出せたら初めましてしよう。な?」
「うん。おじさん、ママが寝てる時なら時々ここに来てもいい?」
「あぁ。ただし、他の人に見つからないようにな」
俺は兄さんを尊敬しているし、兄さんがこの柊家を継ぐのに相応しいとそう思っている。
でも、これが事実なら兄さんは許されない罪を犯している。
「優、その男の人は蔵にいるんだな?」
「うん、そうだよ。この部屋から少し見えるんだ。でも、一度も蔵を出たのを見たことがない。メイドが蔵に行くのは一日に一回だけだと思う。さっき出てきたから、今日はもう誰もあそこには行かないはず」
「分かった。俺が様子を見てくるよ。優、もう少しの間このこと黙っていられるか? 俺と優との秘密だ。じゃないと、その人が危険に晒されるかもしれないからね」
「うん、分かった」
俺は優の頭を撫でて部屋を出た。自然と早足になる。
小さい頃にかくれんぼに使った記憶がある蔵。
小さい嵌め格子の窓があるだけの暗い蔵に何年も閉じ込められるなんて。
それに、メイドが一日に一回しか訪れないということは、食事もまともに摂れていないのかもしれない。あの蔵には電気もエアコンもついていない、人が住むような場所ではないはずだ。
兄さんが本家に言わずにこんなことをしているなら、あの蔵を改装なんてしていないだろう。
そう言えば、今日父さんが言っていた兄さんのようになるなという言葉は、もしかしたらこのことなのかもしれない。
そうなると、本家は知っていながらも知らないふりをしているということか。余計に反吐が出る。
蔵に着いた。周囲を確かめてみると、足跡がいくつもあり人が出入りしているのが分かる。
恐る恐る扉を開け、中に入る。格子窓のすぐ下にシングルベッドが置いてあり、そのベッドに男の人が横になっていた。
「本当に、いた」
本当に、Ωの男性がここにいた。
医療知識のない俺でも分かる。かなり弱っている。
痩せ頬はこけていて、呼吸が荒い。
俺を不思議そうな目で見る彼の近くにしゃがみ込み、顔を覗いてみる。
彼はΩらしい可愛い顔をしていた。歳は、二十六とかか?
「はじめまして、俺は理玖って言います。君の名前は?」
「えっと、俺の名前」
少し難しい顔をして何かを思い出すような表情だ。
自分の名前が分からないのか?
「ぁ、か、楓」
「楓君だね。よろしくね」
「はい」
楓君か、彼に似合う名前だ。
俺は初めて会ったこの時から彼に夢中になっていたんだと思う。
□ ■ □
知らない人が俺の近くにしゃがみ込んだ。
ピアスをしていてなんだかちょっとチャラい感じがする人。その人は優しそうに微笑んで、「はじめまして、俺は理玖って言います。君の名前は?」と言った。
「えっと、俺の名前」
名前、俺の名前って、なんだっけ。
あ、そうだ、楓だ。
「ぁ、か、楓」
「楓君だね。よろしくね」
名前を呼ばれたのはかなり久しぶりで、自分の名前すら思い出せなかったことに驚いた。ここに来て初めて自分の名前が呼ばれた。
「はい」
よろしくってどういうことだろう。もしかして、次はこの人の子供を産むのかな。
でも、柊さんと番になっている俺は別の人には拒絶反応が出る。それに、もう産みたくない。
「あの」
「ん? 何?」
「俺、もう産みたくないです」
「え?」
「ぁ、ごめんなさい、ごめんなさい、産む、産むから、ごめんなさいっ」
「楓君? 俺は君に子供を産ませるためにここに来たわけじゃないよ?」
え、違うの? なら、なんで?
分からないことだらけだった。俺とちゃんと会話してくれる人なんてここに来てから初めてだ。
この人は、何?
「楓君、単刀直入に聞くよ? 君は、柊結弦の子供を無理やり産まされたのか?」
「っ」
「それは、肯定と受け取っていいね? それに、匂いがしないってことは君は兄さんに番契約をされているね? そして今、番欠乏の症状で起き上がることができない。違う?」
本当のことを否定はできない。ただ、この人が何者なのかが分からなくて、どうしたらいいのかも分からない。
「あの、あなたは?」
「ん? さっき言った通り理玖だ」
「ぇっと、何者なのかが、分からなくて」
ここで会ったことがあるのは、柊さんとその奥さんといつも来るお医者さん、あとはいつも来てくれるメイドさん。俺はその四人しか知らない。
「怖がらないで聞いてね? 俺は柊理玖。柊結弦の弟だ」
それを聞いて体が震えてしまった。怖い。単純にそう思った。
「大丈夫、俺は兄から君を救いたくてここに来たんだ。兄がしていることは大罪だ。君をここに監禁してこんな状態にしている。このままでは君は死んでしまう」
「……いいんです」
「え?」
「死んでいい」
「な、なんで?」
「なんで? じゃあ、なんで死んじゃダメなんですか?」
死んじゃダメな理由が俺には分からなかった。
こんな状態では子供だって産めないだろうし、もう邪魔なだけだろうし。
「君は生きていたくないの?」
生きていたく、ない。
だって、俺は生きていたって道具にされるだけ。
最近では少しの食事も吐いてしまう時があるし、トイレだって一人では行けない。起き上がることもできない。こんな状態で生き続けたいと思うのか?
自分の産んだ子供にも会えず、番にも会えず、愛されもせず、体が弱っていくのを感じる毎日。
そんな日々で生きる希望なんて生まれるわけがない。
俺は馬鹿だから何度も何度も期待した。子供を産めば愛してくれるかも、もう一人産めば次こそはって――
でも、願いは一度も叶わなかった。
「もうやり残したことは、ない?」
「…………」
やり残したこと。
「……会いたい人もいない?」
「……俺が、俺が産んだ子供に、会ってみたいっ、でも」
「でも?」
「会いたくない」
「どうして?」
「辛かったことを、思い出すからっ、俺はきっと、俺が産んだ子供に恐怖を感じてしまうっ。ここから声が時々聞こえるから、それで十分です」
本音だった。
窓から子供の声を遠くに聞きながら過ごす日々の中で、会いたいという願いをずっと諦められなかった。
持ったことのない家族という存在、自分と血の繋がった存在、俺のお腹を蹴っていた子供たち。
でも、会いたくないのも本音だ。
怖いから。自分のお腹の中で育てた大切な存在なのも事実だが、柊さんとの子供。あの冷たい瞳や俺を道具のように使う彼の行動を嫌でも思い出す。それが怖くて仕方ない。
だから、会いたくなかった。お腹の中にいたあの十ヶ月の思い出だけで十分だと思った。
会話ができたわけでも顔を見られたわけでもないけれど、俺の体は覚えてる。確かにあの子たちは俺の中にいたんだ、俺のお腹の中で生きていたんだ。
「……俺、また会いに来てもいい?」
「え?」
「君に会いに来てもいい?」
「……」
「いや、勝手に会いに来ることにするよ。好きな食べ物とかある? お土産に持ってくるよ」
「……好きな食べ物?」
「じゃあ嫌いなのは?」
「……特に、ないです」
「そっか。じゃあ消化が良さそうなもの持ってくるね」
俺の頭を撫でてその人は扉から去っていった。結局、何しに来たのかよく分からなかった。
また来るって言っていたけど、本当なのかな?
とりあえず疲れた。今日はもう眠ろう。
今の俺は眠ってばかりだ。少しのことで体が疲労を感じる。眠くて仕方ない。
ただ、久しぶりに人と会話して、少し、ほんの少しだけ嬉しかった。
あれから三日が経つ。
俺は風邪をひき、蔵で一人苦しんでいた。
病気だからといってお医者さんを呼んでもらえるわけではない。三人目の出産までは毎月お医者さんが来てくれていたが、三人目を産んでからはほとんど訪れなくなった。
柊さんと奥さんは子供は三人まででいいと言っていたらしいから、もう用なしになった俺はさっさと死んでくれってことなんだと思う。
「はぁ、まだ熱、下がらないんですか。さっさと治してもらえません? 私にうつったら困るんですけど」
「ごほっ、っ、すいませっ、ごほっっ」
「どうせ眠ってるだけでしょ? ならオムツ替えなくていいですよね? 食事もめんどくさいんでここ置いときますから自分でやってください」
「えっ、あのっ」
「あなた、旦那様の愛人なのかなんなのか知りませんけどね! 旦那様と奥様とお子様たちで幸せな家族を邪魔して楽しいんですか? ほんと、Ωって卑しい生き物ねっ!」
そう言ってメイドさんは出ていってしまった。
そっか、俺はこの家を邪魔している存在なのか。
そうだよな、ほとんどの人はあの子供たちを俺が産んだなんて知らない。
Ωになんて生まれたくて生まれたわけじゃない。俺は平凡に生きられればそれで良かったのに。
あぁダメだ。熱が出ているのもあって、いつも以上にネガティブな考えで頭がいっぱいになってしまう。
――ガラガラッ。
「楓君、入るぞー?」
あ、この声、えっと確か……
「理玖さん」
「楓君っ! どうしたの? 風邪かい? ……ひどい熱じゃないかっ! ちょっと待っててくれ!」
理玖さんが蔵に入ってきたと思った直後、扉から出ていってしまった。
こうして一人で苦しい思いをしていると、そんなのありえないって分かっているのに柊さんがあの扉から入ってきてくれるんじゃないかって期待してしまう。たった三度しか抱かれたことはないけれど、その時に嗅いだあの匂いをもう一度嗅ぎたくて仕方ない。
「柊さん……」
来るはずのない彼の名を口にして外に向かって手を伸ばす。
自分の命の終わりが近いことを日々感じていて、さらに今回のように熱が出ると、どうしても最後に柊さんに手を握ってほしいとそう願わずにはいられない。
手を伸ばしたままだんだんと瞼が落ちる。閉じ切ったと同時に涙がポロリと零れた。
眠っている間に夢を見た。
あんなに伸ばしたのに握られることのなかった手を誰かが握ってくれる夢。
柊さんや生まれた子に向かって伸ばしていた手を誰かに握ってもらった夢だ。
ここに来て初めて明るい夢を見た。いつも見るのは初日に柊さんに事実を告げられた時や子供を出産した日の夢ばかりだったから。
起きた時に泣いているなんて日常だ。
だからなんだかふわふわとしたような感覚で目覚めたのは初めてで、おでこに冷たいタオルが置かれてるのにすぐには気づかなかった。
「起きたかい? とりあえず解熱剤が効いてるみたいだけど、体が弱ってる状態だから油断はできない。……お粥あっためたけど食べられそう?」
「お、粥?」
「ここに置いてあった食事は病人が食べるようなものじゃない。もしかして君はいつもあんな食事しか貰えないの?」
「……ぇっと」
何も言えなかった。だって事実だから。
俺だって普通じゃないって分かっている。悪意で粗末な食事が用意されていることなんて、分かっているんだ。
「もう少し、もう少しだけ待っててくれ。俺が絶対に救い出すから。すぐだから」
そんなに必死にならなくていいのに。俺はどうせ長くないんだから。
それよりも、さっきの夢をもう一度見たい。誰かに手を握ってもらっていたあの夢を。
もう一度目を閉じたら見られるかなと思い目を閉じてみるが、起きたばかりで眠れるわけもなく再び目を開けた。
「食べやすそうなもの色々買ってきた。ごめん、俺、料理できねえから、全部出来合いのものだけど……」
理玖さんが袋から出してくれたのは、お粥や茶碗蒸しのご飯系からヨーグルトにゼリーなど甘いものまであった。
あ、みかんのゼリーだ。
甘いものなんて施設で食べたのを最後に口にしていなかったし、みかんは妊娠中に食べたかったけれどできなかったものだ。思わず見入ってしまう。
「ゼリー? これ食べる?」
「……欲しいです」
「うん、……はい、あーん」
口を開けると、冷たいゼリーが口の中に入ってきた。
優しい甘さが口の中に広がってずっとずっと食べたかったみかんを食べられたことが嬉しいのか、食べたかったのに食べられなかったことが悲しいのか、そもそもあの妊娠生活を思い出したのか、ポロポロと涙が流れて理玖さんを困らせてしまった。
普段から食事量が少ないので半分も食べられなかったが、この食事だけで当分は元気でいられるんじゃないかと思う。
「もう少し食べられるといいんだけど、これはどう?」
俺がゼリーをもういらないと言った直後なのに、理玖さんは茶碗蒸しを口元に持ってきた。
お腹いっぱいだと思ったはずなのに湯気が立っているそれが視界に入ると、自然と口を開いていた。さっきとは違う温かくて優しい味が美味しくて、呑み込んですぐにまた口を開く。
温かい食事も、久しぶりだな。妊娠中だけは普段よりは良いものを貰えたけれど、それでも出来立ての温かいものを食べられる日はなかった。
今日は涙腺が緩いみたいだ。ご飯が温かいってだけでこんなに涙が出るなんて。
「こんなことで感動なんてしないで。それが当たり前だって思えるようにするから」
そんな言葉が聞こえたが、俺はそれに答えられなかった。
【理玖】
俺は知人の探偵事務所を訪れていた。
優を疑っていたわけではない。でも、尊敬していた兄さんがあんなことを、あんな酷いことをしているだなんて思いたくなかった。
歳の離れた兄さんは俺にとって憧れで、好きなことばかりしている俺と違い昔からこの家を継ぐために努力し続け柊のために動いている人だ。勝手な俺に嫌な顔一つせずに。
「俺が柊を継ぐからお前は好きに生きたら良い。やりたいことしろ」
そう言ってくれる人だった。兄さんがいるから俺は好きに生きられていたし、俺が作った会社が潰れなかったのも軌道に乗るまで兄さんが柊から守ってくれたからだ。
〝良い兄〟
そんな言葉がぴったりの人だった。歳が離れているというのもあるが、兄弟喧嘩なんてしたことなかったし、兄さんが怒っているところすら見たことがなかった。
だが、俺は兄さんの薄っぺらい表面しか見ていなかったんだと思い知らされる。
ずっと使っていなかったはずの蔵の中は信じられない光景だった。
痩せ細ったΩの青年。弱っているのが一目で分かるほど顔色の悪い青年と手入れされていない埃っぽい部屋、不快に感じる異臭。
悪い意味で別世界がそこには広がっていた。
けれど、こんなに弱っていても優と同じ黒いその瞳は綺麗で、吸い込まれそうだと思った。
名前を聞いても、彼がすぐに思い出せないのには驚いた。
俺が「楓君」と呼ぶと少し嬉しそうだった。そのちょっとした変化で彼がなぜ自分の名前を思い出せなかったのか分かってしまった。
この家で彼の名を呼ぶ者がいなかったに違いない。自分の名前を忘れてしまうほどに。
俺はこれから柊家にとって敵になるだろう。
本家の敷地内で起こっていることだ。たとえ本家が兄を切り捨てても影響があることは自明だ。
少し気がかりなのは、楓君が産んだ三人の子供たち。このことが世間に知られれば、好奇の目からは逃れられないはずだ。
子供たちに罪はない。だから、慎重に迅速に事を進めなければならない。
「よう、久しぶりだな。お前が探偵頼るなんてどうしたんだ? 彼女の浮気調査とか?」
大学の先輩の吉良幹也。一流大卒業、司法試験一発合格、大手弁護士事務所に就職という輝かしい経歴があるにもかかわらず、急に探偵に転職した変わり者。
「彼女なんていませんって。幹也先輩、俺の兄のこと調べてくれません? 金はいくらかかってもいいですから」
「……へぇ? なにそれ面白そうじゃん。俺が乗り気になったから格安で引き受けてやるよ。早く話せよ、なんかあったんだろ? お前、尊敬してるとか言ってたじゃん兄貴のこと」
「実は、兄がΩを番にして子供産ませてたことが分かって。告発するために証拠を集めたいんです。できれば早急に。Ωの子、楓というんですけど、番欠乏でかなり弱っていて自分では動けないほどになってるんです」
「……一旦連れ出せねえの?」
「俺は医者じゃないので、彼を動かして良いのかが判断できません。それに、兄の家の蔵にいて家の者の目を盗んで連れ出すのは難しそうで。昨日、俺の通っているバース医に協力をお願いしたところ、詳しい状況見て記録してきてくれれば薬を処方できるかもしれないと言われました。明日、兄も義姉も家を留守にするそうなので状況を詳しく見てこようかと」
「なるほどな。他になんか分かってることあるか?」
「すいません。俺のほうで調べたんですけど、何も分からなくて」
「おっけー。俺に任せろ、調べ尽くしてやる。……一週間だ。一週間で全部証拠集めてやる。もしそれ以上かかったらタダにしてやるよ」
「ありがとうございます先輩」
「……理玖、お前分かってるだろうが、一応聞くぞ? 柊を敵にしていいんだな? 下手すりゃ柊は終わるぞ?」
まだまだ差別的な目は残ってはいるが、今の世論はΩに味方する方向に寄っている。今回のことが公になれば、兄も柊も世間からバッシングを受けるだろう。
でも――
「いいんです。俺はこんなことをしてる奴らなんて潰れれば良いって思ってますから」
楓君は、楓君の目は助けを求めているように見えたから。
同じ柊の俺になんて助けられたくないだろうけど、柊の俺だからこそできる償いがある。今回のことが終わったら、一生かけて彼に償うつもりだ。兄さんの分まで。
「ま、俺が協力してやるんだから証拠は集まるぜ。あとはお前次第だ」
「ありがとうございます、助かります」
「理玖、躊躇したらそのΩの子を余計苦しめるだけだってこと、頭に置いとけよ? お前はこういうことをするには優しすぎるからな。俺はそこが心配だ」
「……兄さんのこと尊敬してたし、今回のことはショックだったけど、昨日、一生分悩んだんで大丈夫です」
「なら頑張れよ。俺が協力してやって失敗なんてさせねえからな」
本当は毎日、蔵に通いたい。
番欠乏は想像以上に進行が早い。その事実を知ってから彼が心配でたまらない。
だが、ある程度の延命は薬さえ手に入れれば簡単にできるというのも事実だ。本人は苦しいばかりなのに。
毎日蔵に通って兄さんに知られることは避けたかった。証拠を隠され、彼を苦しめるための投薬をされたら彼の身を今よりも危険に晒してしまう。
……本当に? 彼のためなのか? 昨日先輩には躊躇しないと断言したけど、俺はまだ兄さんに……
楓君のあの状況をもう一度思い出せ。躊躇するな。
そう自分に言い聞かせながら本家の裏門を通った。
今日は兄さんも義姉さんも出かけていると優からメッセージが来ていた。
優は確信している。あの蔵の中にいるのが自分の本当の母親であり、それを自分の父と母が隠しているということを。さらに、俺に助けを求めたということは、楓君が酷い目にあっていることも予想しているのかもしれない。
本当に、賢い子だ。
できるだけ誰にも会わないように蔵に近づくと、女の人の声が聞こえてきた。
何か話しているのか?
音を立てないように聞き耳を立てる。
「……食事もめんどくさいんでここ置いときますから自分でやってください」
「えっ、あのっ」
「あなた、旦那様の愛人なのかなんなのか知りませんけどね! 旦那様と奥様とお子様たちで幸せな家族を邪魔して楽しいんですか? ほんと、Ωって卑しい生き物ねっ!」
こんなふうに扱われていたのか。動けない体になって、誰かの手助けがないと生活ができなくなっているのに、こんな。
やっぱり、躊躇なんてするな。先輩が証拠を見つけ次第、すぐに彼をここから連れ出して入院させる。
とりあえず今は、楓君に少しでも生きる希望を持ってもらうために明るく、俺を頼りたくなるように。
「楓君、入るぞー?」
蔵に入ると、彼は風邪をひいたようで咳をして苦しそうにしていた。おでこを触ってみると熱がある。こんなにも弱っている状態でさらに風邪だなんて。
それに、ベッドの横に置いてある食事は酷いものだ。表面が乾いているご飯少量に、具のない味噌汁、明らかに焦げている唐揚げのようなものが二つ。言い方は悪いが残飯のような食事。触ってみるとどれも冷たい。先ほどメイドが来ていたから、冷めたとかではなく冷たいものがここに運ばれたんだろう。
俺は彼に少し待っててくれと伝え、急いで俺自身も診てもらっているバース医に連絡を取った。病院に来れば薬を処方すると言ったので、タクシーを拾い病院へ急ぐ。
「――先生、ありがとう」
「いいですよ。この間相談された人ですよね?」
「ええ。風邪みたいで」
「強い薬は実際に患者を診ていないので出せませんが、解熱剤は処方しましょう。あと、おおよその身長と体重を教えてくれたので、このバース薬を飲ませてください。とりあえず番欠乏の進行を緩められます。……でも、あくまで進行を緩めるものです。できるだけ早く病院に連れてきてください」
楓君のおおよその身長と、体の細さから推測した体重を伝えたことで、バース薬を処方してもらえた。
「あぁ。ありがとう」
待たせていたタクシーに急いで乗り込み、本家に戻る。裏口から蔵へ入ろうとした時、中に楓君以外の人がいることに気がついた。
そこには、優がいた。
楓君の手をとって自分の頬をその手で包み込んでいる。優がこんなに甘えているのは初めて見た。
「……ママ」
ママと、そう言った。
義姉さんのことは母さんと呼んでいる。小さい時ですらママと呼んでいるのを聞いたことはない。
呼んでみただけなのか? 優が? 俺の中の優はこんなふうに甘えるイメージなんてない、ママと呼ぶキャラじゃないというか……
そもそもなぜここに? 入ったことはないはずじゃ。いや、この蔵に何があるのか知っていて入ったことがないなんてことあるのか? 本当は時々入っていた?
「優?」
「あ、理玖おじさん」
優の隣にしゃがみ込みその顔を覗くと、少し気まずそうに目を逸らされた。
これは、ビンゴか?
「優はここに来るの初めてじゃないのか?」
「…………うん。本当は何度も来てるしママが寝ている時にこの窓から覗いてた。父さんや母さんにバレないようにだから毎日ではなかったけど」
「ママって呼んでるのか?」
「僕がお腹にいた時に、ママは自分のことママって言ってたから。俺が君のママだよ。とか、ママは家族がいないから初めての家族になってくれる? とか。……それに、僕はママの名前を知らないから。僕が知ってるママのことといえば、お腹にいた時に話してくれたことだけなんだ。ママはね? 授業参観に誰も来たことなくて寂しかったから僕の授業参観は行ってみたいって言ってたんだ。僕はそのママの願いを叶えたい。生まれる前からずっと僕はママのこと見てた。ママがどんどん弱ってるのも、命が危険なことも分かっちゃった。でも僕は子供で、何もできない。どうすればママを守れるのかも助けられるのかも分からない。ママは十ヶ月もお腹の中で僕を守ってくれたのに、僕はママを守れない。それが悔しい」
俺は優が涙をポロポロ流すのをこれまでほとんど見たことがなかった。優は子供らしくない子供で感情が見えない。
なのに、楓君のことに関してはこんなにも子供らしい。ママのことが大好きな子供だ。
「おじさんっ、お願いっ、僕なんでもする。今はお金とかないけどっ働くようになったら必ず払うっ。だからお願い、ママを助けてっ」
「優。大丈夫だよ、そんなお金なんていらないから。なあ優? 俺からもお願いがあるんだけどいい?」
「なに?」
「優のママを助けるために、優も俺に協力してほしいんだ」
「僕にできること、あるの?」
「あるよ。優、今回みたいにお父さんとお母さんが留守の日を教えてほしいんだ。それと、優のママがすごく苦しそうにしていたり何か酷いことをされていたら、すぐに教えてほしい。それにね、優のママはね、体の調子が悪いんだ。だから、助け出した後は病院に入院することになると思う。その時に近くにいて励ましてあげてほしいんだ」
彼は俺になんて心を開いてくれていない。
助け出すのがゴールじゃないんだ。助け出してから症状を改善するための治療が始まる。この家でずっと酷い扱いを受けていた彼の精神面もケアするために、俺ではできないことも、彼の息子である優ならできるかもしれない。
それに、優はママを思って泣き行動できる子だ。楓君の心の支えになってくれるかもしれない。
「僕、ママのためになんでもする」
「うん。でもね優、優のママは優に会ったことがないだろう。びっくりしちゃうから、ここから助け出せたら初めましてしよう。な?」
「うん。おじさん、ママが寝てる時なら時々ここに来てもいい?」
「あぁ。ただし、他の人に見つからないようにな」
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