LYCAN

ナカハラ

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Chapter1

06

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 翌日の天気は心配していたものとは異なり、とても綺麗な青空が広がっていた。
 眩しいくらいの朝日に目を細めながら零す大きな欠伸。昨日の様子から天気が崩れるかと考えていたのだが、その予想は見事に裏切られる。絶好の仕事日和に苦笑を浮かべると、グレイヴはガレージへと向かう。
 車庫に駐められた愛車は彼が近付くと、小さな音を立てて鍵が外れる。持っていた道具は本日の仕事に使う物。それらを荷台に乗せ、運転席に乗り込みエンジンを掛けると、サイドブレーキを下ろしクラッチを半分踏んだ状態をキープしてギアをバックモードに動かす。ゆっくりと転がり始めるタイヤの速度を調整しながら、静かに後退させる車体。車庫から全体が出たところで今度はギアをドライブモードへと切り替え、ハンドルを操り職場へ向かう。
 子供の頃憧れていた職業は、分かりやすいものばかりだった。
 誰もが一度は夢見る格好良いと言われる仕事。スポーツ選手やパイロット、警察官や宇宙飛行士。グレイヴも一時期はその様な職業に強い憧れを抱いていたし、そうなりたいと未来図を描き努力した事もある。
 しかし、彼が選んだのは全くの別の職種。建築用の木材を伐採する職に就いてどれくらい経ったのだろうか。この予想外の選択には彼自身も驚いては居る。だが、不思議とその仕事が嫌いでは無く、割と気に入っていると言うことだけは間違いない。
 愛車を走らせ到着したのは、本日の現場になる森の入口。何台かのトラックが既に待機し、職場の人間が各々準備を開始しているのが見える。
「お早うさん」
 その中でも随分と年上の先輩が、グレイヴの存在に気付き手を挙げた。
「お早う、おやっさん」
 持ってきた道具を下ろし彼の元に歩み寄ると、おやっさんと呼ばれた男性が、朝飯用に持ってきたサンドイッチを取り出す。
「朝飯は食ってきたか?」
 これは彼の愛する奥さんが作った、特製のサンドイッチなのだろう。朝食を食べていようがいまいがお構いなしに、早く食べろと目で訴えられる。それが分かっているからこそ、グレイヴはその提案を素直に受け入れることにする。
「残念ながら、寝坊したよ」
 求められている回答は多分このような物だろう。困ったように眉を下げお腹が空いたというジェスチャを見せてやれば、彼はとても嬉しそうに歯を見せて笑いながら、持っていたサンドイッチをグレイヴの方へと差し出した。
「なら、これやるよ」
「アリガト」
 ラップに包まれた大きめの簡易食。作られてまだ時間もそれほど経っていないのか、パンの間に挟まれた野菜はみずみずしさを保ったまま。一口齧り付くと、口いっぱいに広がる旨味。レタスの甘みとトマトの酸味に重なるようにハムの香ばしい香りが、たっぷりのケチャップ、マヨネーズと合わさり食欲を刺激する。味のワンポイントで添えられたマスタードの辛さが鼻をつくと、思わずくしゃみが出そうになってしまった。
「これもあるぞ」
 鼻を押さえて痛みをやり過ごすグレイヴの反応を楽しみながら、差し出された紙コップ。湯気を立てて香りを広げるコーヒーは、彼の持ってきていた水筒から注いだもので、これも愛妻が用意してくれた物の一つである。言葉を返すことができず軽く手を挙げそれに応えた後で、差し出された紙コップを受け取り中身を煽る。漸く息が落ち着いたところで、グレイヴは男の隣に腰掛けた。
「今日はどこで作業するんだ?」
 まだ量の残るサンドイッチを頬張りながらグレイヴが訪ねる。
「んー? ああ、この辺りだな」
 グレイヴの言葉を受け、先輩の男性が広げるこの森の地図。紙面の上を指が移動し目的の場所を見つけると、軽くそこを囲むように円を描いた後で、指定されたポイントを突いてみせる。
「ここかぁ。了解、了解」
 この森は何度か作業をしに来た事があるから大体の地形は分かる。本日の作業はそこまで難易度が高そうでは無い事に安堵し、残ったサンドイッチを片付けると、グレイヴは紙コップの中身を一気に片付け立ち上がった。
「ミーティング、これから?」
「ああ。もうそろそろ始まると思うぞ」
 先輩の言葉が終わると同時に、現場監督から掛かる招集の合図。本日の作業内容と日程、注意事項などの説明が終わると、早速、本日の仕事がスタート。その場に集まった作業員達がそれぞれ持ち場に向けて移動を開始し始める。
「そう言えば……」
 持っていく道具を背負い移動しながら交わす会話。
「昨夜、狼の遠吠えを聞いたんだよ」
 持ち場に到着し、相棒であるチェーンソーの調子を確かめながら呟けば、同伴した男が難しい表情を浮かべ考え込む。
「狼……か」
「ああ」
 彼は一度顔を上げ、辺りの様子を覗うように見回した後、小さく溜息を吐き方を竦めた。
「気を付けた方が良いかもなぁ」
 その言葉に対し反射的に返したのは、間の抜けた一言で。
「何故?」
 そう問いかけると、呆れたような表情を浮かべた彼が大きな溜息を吐いてみせる。
「遠吠えを聞いたって事は、この近くまで来ている可能性があるだろう?」
「そうだな」
 彼の言わんとしていることは何となく分かるが、道具の点検で会話は半分しか聞いていない状態。
「それならば、襲われる危険も有るってだろう? だからだよ」
「ああ、成る程」
 鈍い音を立てて稼働し始める機械。
「確かに、それは一理あるな」
 チェーンソーのエンジンがかかり、勢いよく刃が回転し始めた事を確認すると、作業が出来る事を告げるように監督に合図を送る。
「取り敢えず、用心するに超したことはねぇってことだよな?」
「そう言う事だ!」
 作業開始の掛け声が現場に全体に響く。それを合図に、今日の業務はスタート。各自がそれぞれ持ち場に別れると、彼らは慣れた手つきで予定された作業を開始し始めた。
 仕事をしているとあっという間に時間が過ぎる。相手と行うコミュニケーションは最小限で、小休憩を挟みながら、淡々と片付けられていく作業。少しの油断が命取りと言うこともある緊張感も相まって、作業中の悪ふざけなどは一切無い。そうやって仕事に集中していると、あっという間に本日の終業時間が訪れてしまった。
「お疲れ様でしたー」
 予定されていたタスクの進行を報告し、それぞれが道具を片付け帰路に着く。交わす言葉は実に簡易的な物で、一台、また一台と姿を消すトラック。気が付けばゆっくりと空は茜色に。もう暫くすると夜の帳が訪れるのだろう。
『今の仕事が好きか?』
 そう聞かれたら即答できる。確かに作業内容はきついと感じる事も多い。だからといって、それが充実していないという訳ではない。
 給料面で考えると割と不安定な事も多いし、常に事故の恐怖と隣あわせという状況は確かにある。その代わり、余り他人に気を遣う事も無ければ、複雑な人間関係のコミュニティが無い分気は楽だなのだ。先輩・後輩・上司。其処に女性が含まれることが殆どないせいで、その手のいざこざの心配もない。そして何より……仲間の存在が温かい。意外にもグレイヴが求めていたのはほんとうに些細なもの。多くを望まない代わりに、自分に対して必要以上に干渉されない居場所を欲していたのだった。
 毎日が変わり映えしない事の繰り返し。だが、それがとても贅沢なことに思える。何処にも寄り道すること無く真っ直ぐに帰宅すると、ガレージにトラックを停車しエンジンを止める。
「……ふぅ」
 キーを抜き取りシートに預ける背。直ぐに建物の中へと入る事はせず、グレイヴは暫く車内に留まると、ゆっくりと髪の毛を掻き上げ瞼を伏せた。
「久しぶりにビールでも飲むかなぁ……」
 幸いにも明日の業務予定は無い。シフトが変わったことで与えられた休みに自然と柔らぐ表情。明日の予定は何も入れていないのだから、本日は遅くまでゆっくり出来る。そう考えると、普段は楽しむ事の無いアルコールの味が恋しいと感じてしまった。
「その前にシャワーだな」
 この後の予定を漠然と決めたところで、助手席に放り投げたショルダーバッグを掴み、ドアに手を掛ける。漸く車外に出ると決心し地面へと足を下ろせば、敷き詰められた砂利の感触が靴底ごしに足の裏へと伝わる。
「つまみに出来そうな物って何かあったか……な……」
 シャワーの後に飲むビールのお供は何にしよう。そんなことを考えながら、何となく視線を向けた先。目の前に広がる林の中に見慣れない影を見付け眉を寄せる。
「何だ?」
 目を懲らしすと見えてくるシルエット。どうやらそれは、灰色の毛をした一匹の狼のようだ。
「おお……かみ……」
 ふと、先程同僚に言われた言葉が頭を過ぎった。今はまだ距離があり、目の前の獣がグレイヴを襲う気配はない。だからといって襲われないという保障も無いのだから、どう行動するかでこの先の運命は決まる。
 今できる最善は何だろう。
 最も適切な対応をするにはどうするべきなのか。それを考えながら、ゆっくりと後退を続ける。狼から視線を離すこと無く辿り着いた建物へと続く扉の前。警戒を解くことなく素早く鍵を外すと、ガレージから家の中に入り急いで猟銃を取りに向かう。
「辺りをうろつかれると拙いよな」
 猟銃を手にしたからと言って、何も殺す必要は無い。殺生は好まないのだから、相手が怯むように威嚇するだけで十分だ。要は此処は危ない場所なんだと。それが狼に伝われば良い。それと同時に、自分に襲いかかる前に怯み、姿を消して欲しいと。それがあの獣に理解して貰えれば済む話。最近手入れしたばかりの猟銃を手に取ると、グレイヴは再びガレージへと引き返す。
「狼は……」
 出来る事ならば、銃を取りに行っている間に姿を消していて欲しかった。獣の姿を探し視線を彷徨わせれば、狼は未だにそこに居り、じっとグレイヴのことを見つめている。
「頼むから……これで居なくなってくれよ……」
 立ち去らないのならば仕方が無い。ライフルの中に弾を装填し、狼に向けてそれを構える。渇いた唇は濡らした舌で湿らせ慎重に狙いを定めると、トリガーに掛けた指に力を入れ勢いよく手前に引いた。弾は狼より少し手前の地面に着弾し、小さな土埃が上がる。
「どうだ……?」
 弾が直接狼に当たったわけでは無いため、狼が叫び声を上げることは無い。その音に驚き一目散に逃げていくことを期待していたというのに、どういうことか、狼は逃げていく気配が無かった。
「嘘だろ……そんな……」
 それどころか一度小さく首を傾げた後、林の茂みの中から姿を現し、此方に向けて歩み寄ってきたのだ。
「おいおい……冗談……」
 走って襲いかかってくる気配は無いにしろ、狼が自分の方へと向かってくることで身の危険が迫っていることには変わりない。もう一度威嚇射撃をして相手を遠ざけるべく、グレイヴは弾を装填し直すと再びライフルを構えてみせる。狼に当たらないように照準を合わせながら、狼に近いギリギリのラインを狙ってトリガーに指を掛ける。
「今だ!」
 このタイミングならという所でトリガーを引いた時だ。
「ギャン!!」
「なっ…」
 突然狼が身体の向きを変えた。狼に当たるはずのないと思っていたその弾は、何の因果か狼の胴の部分に当たってしまう。それにより傷付いた狼は、小さく蹌踉めいた後で地面へと勢いよく倒れ込んでしまった。
「嘘……だろ……おい……」
 傷つけるつもりは無かった。それなのに、どんな悪い偶然なのだろう。グレイヴの放った弾は狼を退けるではなく、狼の身体に傷を付けるという結果を招く。
「おいっ……狼!!」
 猟銃をトラックの荷台に置くと、グレイヴは慌てて狼の方へと駆け寄る。
「グルルルルル……」
「……あ……」
 しかし狼は素早く身体を起こすと、一度威嚇の唸り声を上げた後、直ぐさまその場から立ち去ってしまった。
「まっ……」
 伸ばした手は何も掴めないまま。空気だけがその手の平に触れる。
「……うそ……だ……」
 後に残されたのは小さな血の痕。早く手当をしてやらなければと思い急いで追いかけたが、林の中に逃げ込んでしまったため、その姿を見つけ出すことは叶わなかった。
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