LYCAN

ナカハラ

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Chapter1

31-

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 そんなこととは露知らず、グレイヴは急いで買い物を進めていた。購入していく日用雑貨の数は、簡単にカートを一杯にしてしまう。食料品と異なり容量の大きな品物ばかりなのだから、それも仕方の無い話。その為食料品間専ら日持ちがするものばかり。生鮮食品も購入したいのだが、ここは一度諦めた方が良さそうだ。
 こういう時に欲しいと思うのが、同伴者の存在だった。
「少し買いすぎたかなぁ」
 結局一人で来た以上、運べる荷物の量には限界があるのは当たり前だ。予定していたよりは少なくなってしまった荷物の量。カートを使っているからまだ楽が出来ているが、荷物を愛車に移すという作業は一人で行わなければならない可能性もある。その労力に憂鬱さを感じつつ、向かうのは愛車を停車させている駐車ブロック。直ぐに制御を失い暴走しそうになる車輪を抑えながら、重くなったカートを押して足を動かす。
「早く戻ってやらないとルカの奴、拗ねていじけちまってるかも」
 車内で一人留守番中のルカのために、ご機嫌取り用のお菓子もしっかり入手済み。一刻も早くルカの元に戻り、早く家に帰宅することにしよう。そう決めると、重かった足取りも軽くなっていく。重たい荷物で直ぐに自由に動こうとするカートと格闘しながら、漸く愛車を停めたブロックに辿り着いた時だった。
「おい! 大丈夫かよ、グレイヴ!!」
 聞き覚えのある大声が、愛車を停めている付近から聞こえ足が止まる。
「え? 俺?」
 呼ばれた名前に思わず思考が停止。確かにその声には聞き覚えがあったが、どうやら自分に対して掛けられているものでは無い事に気が付き首を傾げる。よくよく聞いてみると、声が聞こえてくる方向ははトラックを留めた辺り。
「まさ……か……」
 一瞬嫌な予感がする。こういう時の勘は滅多に外れる事が無いから嫌になる。カートを押す速度を速め急いでトラックに向かおうとした瞬間、聞こえてきたのはガラスが割れる音。グレイヴの心臓が大きく跳ねる。
「お前、本当に大丈夫かよ!!」
 車内で怯えるルカの目の前で、音を立てて砕ける窓ガラス。車内と外を隔てていた一枚の壁はが崩れ、向こう側に居た相手がルカに向かって手を伸ばす。
「グレイヴ!? 薬のやすぎてラリってんじゃねぇだろうな!? お前……」
 叩き割った際、僅かに残った窓ガラスを上着巻いた腕で払いながら、外に居た男がドアの鍵を外し扉を開いた。
「……って、グレイヴ……じゃ……ない……?」
 初めから勘違いだったのだが、そのことに気が付かなかったと零れる舌打ち。
「……わ、悪い」
 罰の悪さに一度視線を逸らすが、怯えたルカの顔色が悪い事に気が付くと、今度は別の意味でお節介を焼いてしまう。
「おい、お前! 大丈夫か? 意識は有るんだよな!?」
 それは純粋な人助けからの言葉だったはずだ。
「うぅ……」
 それでも、ルカにとっては、この状況は恐怖しか感じられない。しっかりと握っていたはずのペットボトルが音を立てて落ちる。
「おい!!」
 怯えるルカのことを助けようと男が手を伸ばしたのと同時に響く咆吼。ルカは素早く身を起こすと男の方へ向かって手を伸ばし襲いかかった。
「なっ……!?」
「ガァァっ!!」
 パニックを起こした状態で、冷静な判断など出来るはずもない。
 今、ルカが感じているのは、この男は自分に危害を加える敵だということだけ。それは勘違いだったのだが、何が正しいのかが分からないルカは無条件に男へと攻撃を仕掛けてしまう。狙う場所は急所、ただ一点のみ。口を大きく開け、男の喉笛に喰らい付こうと距離を詰める。
「お前っ! なにやってんだよ!!」
 襲いかかられた時に崩れた姿勢。大きくふらついた男の身体が、隣の車のボディ当たりよろける。その隙を見逃さないとルカが飛びついてくる。足の踏ん張りが利かず大きく傾くバランス。男の身体はそのまま、アスファルトの上へと盛大にぶつかった。
「くっ……」
 痛みで直ぐに体勢を立て直すことが出来ない男の無防備な姿。それが好機だと、直ぐにルカが馬乗りになり、男に噛みつこうと動く。咄嗟に腕を前に出し顔を庇うと、躊躇うこと無く立てる歯。喰らい付かれた腕に鋭い痛みが走り、男は表情を歪めた。
「ラリってんじゃねぇよ!! クソが!!」
 反射的に、男の右足がルカの左腹を蹴り上げる。喰らい付いた痛みが男の腕から抜け、蹴り飛ばされたルカは蹌踉めきながら後ろへ後退し体制を立て直している。
「痛………っ……」
 己の腕から流れ出る赤い色。それは明らかに意図を持って付けられた傷で、断続的に鈍い痛みが続いていた。
「……なん…………で……?」
 傷口を庇うように腕を押さえながら、男が身を起こし弱々しく呟く。知り合いだと思って声を掛けた他人は、何故か四つん這いの姿勢を取っている。次にどう動くのか分からず身を固めていると、突然目の前の相手が唸り始める。地面に手を付け姿勢を低くし、再び男の方へと襲いかかるため動き出した。
「おい! 止めろ!!」
 再び襲われては堪らない。急いで迎撃の態勢を取るが、相手の方が反応が早く抵抗する間も取れないまま詰められてしまった距離。
「自分でなにやってんのか分かってんのか!? テメェ!!」
 襲いかかられ再びアスファルトへと背中を叩きつけられた男が呻きながら、必死にルカの身体を押し戻す。
「ガルルルル……」
 先程から自分の下で男が必死に何かを叫んでいることは分かるが、男が何を伝えようとしているのかがルカには理解が出来なかった。ただ、この男が【グレイヴではない】と言うことだけははっきりと判る。彼がグレイヴでは無い以上、ルカにとって危険な相手の可能性が高い。そう判断した結果、必死に自分を守る為に相手に対して牙を向けてしまう。そうしないと自分が男に攻撃されるかもしれないという恐怖。極限まで高まった緊張感から、ルカは自分の身を守ることを優先して行動を起こしていた。そして、それが他人から見ると異常だと言うことを教えてくれる人間は、残念ながらこの場所には居ない。何処までもすれ違う勘違いは、悲劇までのカウントダウンを開始し止める事は不可能だ。
「止めろぉぉぉっっっ!!」
 再び男が顔を庇うように腕を上げる。その腕に容赦なく噛みつくと、ルカは顎に力を込め、そのまま思いっきり顔を動かした。
「がぁぁっっ!!」
 上がる悲鳴と飛び散る血しぶき。食いちぎられた腕は一部が欠けた状態で流血し、それを奪い取ったルカの口の周りには血が滴っていた。
「痛てぇっ!! 痛てぇよっっ!!」
 吐き出されるのは男の身体の一部だった肉片。それを見て頭に血が上った男の手が、ルカの顔を思いっきり叩く。衝撃でよろけるルカの身体が離れると、男は素早くその場から逃げ出し、腕を押さえながらアスファルトの上で転げ回った。
「何すんだよ!! テメェっっ!!」
「ガルルルル……」
 男が逃げ出したことで再び開いてしまった距離。もう一度四つん這いになり姿勢を低くすると、威嚇するように唸りながら、ルカは攻撃体勢を取る。口の中に広がる生臭い匂いが不快で仕方ない。
「……っざっけんじゃねぇぞ!! テメェェエっっ!!」
 得たいの知れないものが目の前にある。訳が分からないまま襲われた男が、怒りで大声を上げながら立ち上がった。
「心配して声かけてやったらこれかよ!! 巫山戯んな!! クソがぁぁ!!」
「ガァッ!!」
 一方的にやられてばかりの訳には行かないと、男がルカに向かって走り出しす。そのまま決まったタックルで完全に体制をクズされたルカの上に馬乗りになると、振り上げて顔面目掛け振り下ろす右の拳。
「俺の腕の肉返せ!! この野郎!!」
「っっ!!」
 次々に繰り出される攻撃にルカの頭は益々混乱していく。早く何とかしなければ殺されてしまう。そんな考えに意識が囚われ方向を上げると男の目に向かって手を振り上げ爪で顔面を引っ掻いた。
「ぎゃぁぁぁぁっっっっっっ!!」
 駐車場に男の絶叫が響いた。
「テメェ……て……」
 姿勢を崩した男の身体を突き飛ばしルカは男と距離を置く。口の中に再び広がる鉄錆に似た味。それを溜まった唾と一緒に吐き出した後、顔を腕で拭い真っ直ぐに男を睨み付ける。
「何なんだよ!! 俺がお前に何をしたって言うんだ!!」
 男の手が抑えた顔面。右目から流れる血が指の間から肌を伝いアスファルトの上に小さな染みを作った。
「一体何だって言うんだ!!」
「ガァァッッ!!」
 男の声が上がるのと同時にルカが動き出す。この男を殺さなければ自分が殺される。ルカは確実に男を仕留めるために男の身体を押し倒すと喉元に喰らい吐き深く牙を埋める。
「がっ……ぁ……」
 男の目が大きく見開く。深く刺さる鋭い感覚に恐怖で震え出す身体。目の前に広がる青い空が一瞬霞んで見えた。
 聞こえた絶叫に不安を煽られたのはグレイヴの方だ。そしてその不安は、その場に近付くにつれどんどん強くなっていく。早歩きで動かしていた足が駆け足に変わり、いつしか全力疾走に変わっていた。カートの中で荷物が嫌な音を立てていたが、そんな事を気にして居る余裕など無い。
「ルカ!?」
 トラックが漸く見えてきた所で目に飛び込んできた光景にグレイヴは大きく目を見開いた。
「ガルルルル……」
 アスファルトの上に倒れているのは二人の男。一人はグレイヴの同僚で、もう一人は自分が最も大切だと思って居る大好きな相手である。
「る……か……?」
 同僚の身体の上に跨り首元に顔を埋めたルカにグレイヴの頭は真っ白になった。
「な……に……やって……」
 この状態は一体どういうことだろう。
 誰か説明して欲しい。そう無意識に願ってしまう。
 だが、どんなにそう願っても、それに答えをくれる者など誰も居ない。冷静になるように必死に努め視線を巡らせると、同僚の下に黒い染みの広がりがあることに気が付いた。
「まさか!?」
 押していたカートのハンドルを手放すと、グレイヴは慌てて二人の元へと駆け寄る。
「ルカ!!」
 顔を動かし覗き込んで確かめる状況。予想していたよりも大分悪い事に次第に歪んでいく表情。同僚に覆い被さったルカの口元は、しっかりと喉元に食らい付いてしまっている。ルカの下で横たわる同僚の呼吸は弱く、僅かに痙攣が始まっていた。
「拙い……」
 見たところ怪我をしているのは其処だけではなかった。確認できるのは、左腕の出血もそうだ。まるで獣に食いちぎられたかの様な痛々しい傷跡は、どう見ても人間がつけたものではない。だが、それを付けたのが誰かなのなんて、グレイヴには直ぐ判ってしまう。犯人はどう見ても一人しかないのだから。
「ルカ……落ち着け……」
 なるべくルカを刺激しないように静かに諭しながら続ける言葉。
「いいからその人を離すんだ……」
 気が昂ぶったルカを無理矢理引き剥がそうとすれば、同僚の喉の肉を食いちぎってしまうかも知れないだろう。宥めるようにルカの背中を撫でながら、グレイヴは出来るだけ優しい声でルカにそう指示を出していく。
「ルカ……良い子だから、俺の言うことをきいてくれよ……」
「……………」
 余り時間を掛けている暇は無い。そんな焦りで滲む汗。だが、ルカはグレイヴの存在に気が付いたのだろうか。上げていた唸り声が小さくなると、ルカの肩から徐々に力が抜けていく。
「そう……ゆっくりこの人から離れるんだ。良いな? ルカ」
 その言葉を合図に、身体の緊張を解いたルカが、グレイヴの言葉に従い始める。肉に埋めていた牙を引き抜くと、ゆっくりと顔を離し身体を起こした。
「………っっ……」
 目の前に現れたルカの顔に残る殴られた跡に言葉が詰まる。
「一体……何が……」
 そう言いかけた所で一旦言葉を切ると、グレイヴは携帯を取り出し救急車を呼んだ。
「ルカ……何が有ったんだ…?」
 その事がとても気になりはしたが、事実確認は後回し。今は一刻も早く怪我人の救助が先だった。
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