LYCAN

ナカハラ

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Chapter1

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 その場に漂う緊張感。この状況は、狼と再会を果たしたときに似ているようで、どことなく異なるもの。
「クゥン」
 狼自身は、離れることが嫌だと訴えるように、甘えた声を出し耳を伏せて見せる。
「……早く……行けよ……」
 狼が何を求めているのかが分かるほど、今、こうして、銃口を突きつけないといけないという事実が、グレイヴを苦しめた。
「早く行けよっ!」
 それを受け入れる事は出来ないんだ、と。今にも飛びかかりそうに構える愛犬を制止ながら、グレイヴは必死に訴える。
「じゃないと本気で殺すぞっ!!」
 装填している弾は数発程度しか残されていない。たった数回分しかない弾で、素直に退いてくれるかは予測不可能。出来る事ならば、発砲する前に姿を消して欲しい。
 そんな風に願いながら狼の出方を覗っていたが、目の前の獣は諦めることを知らないようで、微かな望みに縋るように抱きしめて欲しいと訴え続けた。
「…………クソッ!!」
 このままでは状況を変えることは難しいのだろう。そう判断したグレイヴは、大きく舌打ちを零した後、猟銃を構えトリガーを引いた。狙うのは狼に当たらないギリギリのライン。撃鉄が下りるのと同時に響く乾いた発砲音が、辺りに響き渡る。
「俺は本気だ」
 お前の願いは叶うことがないんだ。自分でも驚くほど低い声で言い放つ拒絶の言葉。
「早くしないと、俺はお前を殺さなければならなくなっちまう。だから……」
 今度は威嚇だけでは済まないと。正確に狙いを定め、合わせる照準。スコープの中に記されたサークルの位置を動かしながら、フォーカスを狼の眉間へと合わせ、再び引き金に指をかける。
「……………………」
 いつでも撃つ準備は出来ているというのに、暫く狼との睨み合いが続く。
 殺してしまうと示す態度と、いつまでも動く事の無い固まったままの引き金。その矛盾が現すのは、グレイヴ自身の心の葛藤だ。
 相手の命を奪うための武器は、指を手前に動かせば一瞬で生死を分けるほど簡単で。それは実に呆気なく、宣言した結果を実現する事ができる。それでもそれを行わないのは、言葉と気持ちが噛み合わないからだ。
 相変わらず自分の傍で待機する猟犬は、目の前の狼に攻撃を仕掛けるタイミングを窺い警戒を解くことはない。
「…………」
 どれだけ硬直状態が続いたのだろうか。
 先に沈黙をやぶったのは狼の方だった。
 どんなに訴えてもグレイヴの態度が変わらない事に気が付くと、狼は寂しそうに顔を伏せ、ゆっくりと背を向けて歩き出す。
「……………………っ」
 スコープのレンズ越しに見える姿は、どことなく寂しそうで。だが、今度は、こちらを振り返る気配は見せない。
 少しずつ小さくなる姿が完全に消えたところで、傍で構えていた愛犬が警戒を解く。言いつけを守り頑張ったことを褒めてくれとでも言うように、甘えるような声を出しながら主を見る相棒のお陰で緩む空気。
「ありがとうな、アレックス」
 構えていた猟銃を下ろすと、横で待機する相棒の事を抱きしめてやる。良くやったと褒めてやれば、嬉しそうに尻尾を振りながら目を細めてみせる愛犬に笑みが零れた。
「良く、我慢してくれたな。助かったよ」
 この犬が、とても頭の良い子で良かった。
 もう、用の無くなった猟銃。安全装置を掛け直し深い溜息を吐く。狼が姿を消してしまった森の奥は、随分と静かでもの悲しい。それに別れを告げるように背を向けると、グレイヴは愛犬を伴いロッジへと引き返した。
 淡泊ながらも毎日は進んでいく。
 自分が生きている限り、その時間が止まることは有り得ないのだから、仕方が無い話だ。
 あの日以来、狼がロッジに姿を現すことは無くなった。少しずつ狼が居ない生活に慣れ始めると、彼と過ごした時間は良い思い出として姿を変えていくから不思議である。
「ふわぁぁぁ……」
 いつもと同じように愛車を操りながら着く帰路。本日の業務は、思ったよりタイトなスケジュールで、大分疲労が濃い。早く帰宅してゆっくりしたい。そんなことを考えながら山道をひたすら走る。カーラジオから流れるのは、懐かしいオールドミュージック。暫くはそれを口ずさんでいたが、段々と色濃くなる疲れに、グレイヴは大きな欠伸を零す。
「拙いなぁ……」
 今にも塞がりそうな瞼を無理にこじ開け、軽く叩く頬。その痛みで僅かに遠ざかる眠気は、完全に消えてくれる訳では無く、直ぐにもどろうと手を伸ばす。
「こんな事なら、昨夜、遅くまで本を読むんじゃなかった」
 激しい眠気は何も、業務で感じる疲労だけではなかった。
 その理由の一つとしてあるのは、昨夜やってしまった夜更かしだ。
 随分久しぶりに読書をしようと思ったのは、何気なく店頭で見つけた本が気になったからである。買ったものは、今話題のベストセラー本で、話題作なだけあって読みやすく、思った以上に面白いと感じてしまった。没入感の凄さに時間を忘れ、気が付いた時には時計は既に日付変更線を越えて随分と経った後。どうやら酷く熱中してしまっていたらしい。
 読書は翌日の業務に支障が出るとの理由で、残念ながら半分を読んだところで強制的に打ち切られてしまう。中途半端に投げ出された内容が、消化不良で仕方が無い。
「早く帰って続きを読もう」
 そう呟きながら見たバックミラー。
「ん?」
 いつからそこに居たのだろうか。気が付けば、後ろにはぴったり張り付く一台のトレーラーがある。
「珍しいなぁ」
 この道は、名前こそあるが、それほど使用率が高いものでは無い。この道を使う人間は普段から限られており、住人でも用がある者以外は滅多に使用することが無い。
 ましてや、住人でもない外部の人間なんてものは、間違って迷い込まない限り、この道を走ろうとはしないはずだ。
 この先にあるのは私有地だけ。観光客が自然を楽しむようなスポットは無かったはずだと、グレイヴは首を傾げる。
「この辺りでは見たことのない車種だよな?」
 そのトレーラーはキャンパーがよく使うタイプのもののようだが、知り合いが所有している形のものでは無いようだ。
「キャンパーが間違ってこっち側に入ったのか?」
 先程から、一定の間隔でずっと後を着いてくるトレーラーに、気味の悪さを感じ眉を寄せる。
 この場合、自分はどうするべきだろうか。
 所有者の考えが分からない以上、具体的な答えを見つけることは難しいだろう。もしかしたら、本当に間違えて入り込み、不安で後を付けてきているだけかもしれない。
 グレイヴは随分悩んだ末、指を動かしウィンカーを点滅させる。重いハンドルをゆっくりと回しながら愛車を路肩に寄せると、サイドブレーキを引いて駐車し、トレーラーが追いつくことを待つことに決めた。
「この先はスタンドもねぇし、引き返すなら早い方がいいよなぁ」
 未だに消える事の無い眠気は、こうやって停車してしまうと、余計に強く感じてしまう。
「ガソリンも勿体ないだろうし、道が間違っていることを教えてやった方が良いよな、きっと」
 小さな親切心でそう決め、ポケットから取り出したミントガムを口に含んだ瞬間だ。
「え?」
 何気なく視線をやったバックミラーの中に写る光景に、グレイヴは大きく目を見開き固まる。
「なっ……」
 徐々に強くなるヘッドライトの光。縮まる距離に対して、背後に迫る車体は減速をする気配を見せない。それどころか、後方に居たトレーラーが、停車したトラックに向かい速度を上げ迫ってくる。
「そんな馬鹿なっっ!!」
 慌ててシートベルトを外し車外に飛び出す。出来るだけトラックから離れなければ、確実に事故に巻き込まれるに巻き込まれることだろう。全速力で走りトラックから距離を取れば、突っ込んでくるトレーラーのフロントが、トラックの荷台部分と衝突しガードレールを突き破る。嫌な音を立てて上がるブレーキ音。事故を起こしたトレーラーは、左側の前輪を道路の外に出した状態で止まった。
「……何……考えてんだ……」
 こんなことは想定外だった。悪意があって事故を起こしたのか、それとも運転中のトラブルにあったのか。それを判断するには、トレーラーの運転手の状態を知る必要がある。嫌な予感はある。だが、今動かないことで後悔をすることを望んで居る訳ではない。
 万が一という可能性を考えた結果、グレイヴは慌ててトレーラーに近寄り、大きな声を上げながら運転席のドアをこじ開けるべく手を掛ける。
「おい! アンタ!」
 衝突の衝撃で噛み合わせのずれたドアは、すんなりと開く気配が無い。それでも無理に力を込め何とか開くと、中で項垂れている人に向かって声をかけた。
「大丈夫か!!」
 運転席に座る男が僅かに反応を示す。
「ああ……平気だよ」
 次の瞬間、目の前に現れたのはショットガンの銃口。ゆっくりとこちらに身体を向ける相手の顔が、鉄の塊の向こう側に見え、グレイヴは息を呑んだ。
「おま……え……」
「よぉ。久しぶりじゃねぇか。グレイヴ」
 そう言って口角を吊り上げる男。それが誰なのかをグレイヴは良く知っていた。
 今、目の前に立つのは、あの時に大怪我をして病院に救急搬送された同僚だった。以前とは異なる雰囲気の彼が見せるものは、怒りを孕んだ狂気だ。その事に気が付き、上がる心拍数。口の中に溜まる唾液とは裏腹に、喉は痛みを訴えるほど渇きを訴える。本能で感じるとる不穏と危険。グレイヴはゆっくりと、距離を取るようにして後ずさった。
「なぁ、教えてくれよ」
 逃げることは許さない。そんな風に笑う男が運転席から下ると、グレイヴの後を追いかけるようしてに近付いてくる。
「アイツは今、どこに居るんだ?」
 その言葉の意味は、考え無くとも理解が出来る。彼は探しているのだろう。自分をこんな風にした犯人を。
 だが、その問いにグレイヴは答えることが出来ない。何も言わず黙っていると、自分へと突きつけられる銃口が、軽く肩を小突く。卑屈に笑う男は、面倒臭そうに言葉を続けた。
「警察でちゃーんと聞いたんだぜ。俺を襲った人間は、どこにも存在していないんだってな」
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