LYCAN

ナカハラ

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Chapter1

40-

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 発砲音を最後に消えてしまった音。それを頼りに動くのは酷く当てにならないものだ。定期的に立ち止まり大気の匂いを確かめながら、狼はひたすら走り続ける。
 嫌な空気を感じて居るのだろうか。気持ちの焦りで徐々に上がっていくスピード。森の中を疾走する白い影は、荒い呼吸を繰り返しながら目的地へと近付いていく。
「……………!! ………? ……………………。…………………。…………………」
「……………。…………………………………………? ………………。……………………………!!」
 近付くに連れ聞こえてきたのは、激しく争うような人間の声だ。それに気が付くと、狼は一度足を止め鼻を動かし臭いを嗅いだ。
「!」
 大気から感じ取ったものは、どちらも覚えのある二つの匂い。
 先に反応を示したのは不快だと感じる匂いで、狼は嫌そうに歯を見せながら低い唸り声をあげる。だが、もう一つの匂いに揺らぐように、その威嚇音は徐々に小さくなり消えてしまった。
「………クゥン」
 狼は躊躇っていた。
 直ぐそこに、大好きだと感じる人の匂いがある事。それに気付いてしまったからだ。
 しかし、つい数週間前にその人から向けられた敵意は、まだ拭い去ることが出来ない真新しい記憶で。それを鮮明に思い出し、そこに向かうことに怖じ気づいてしまう。
 その他にも嫌いな人間の匂いが近くにある事も、狼の足を鈍らせている原因の一つだった。
「クゥン」
 それでも諦めることの出来ない狼は、すっと顔を上げ、もう一度だけ大気の臭いを嗅いだ。
 始めから分かっているもう一つの香り。二人の人間の匂いに混ざる硝煙が気になって仕方が無い。
「クゥン」
 硝煙の匂いが嫌いで近付きたくないのに、そこに居る人間は銃火器を持っていることは事実のようで。それを悟った狼が寂しそうに顔を伏せると、名残惜しそうに小さく鳴き声を上げた後で、向かっていた先に背を向ける。これほど懸命に走ってきても、その壁を越える勇気がない。傷付くことを恐れた結果、狼はその存在に気が付かなかったと自分の心を偽り、来た道を戻ろうと歩き出す。
「テメェのせいだ!! グレイヴッッ!!」
「!!」
 その場から数歩離れた時だった。はっきりと聞こえてきた怒号に含まれた名前を示す音。それを耳が捉えた途端、狼は弾かれたように顔を上げ振り返る。
「…………」
 音の方向は目の前の傾斜を登った先。距離があるため正確な言葉を聞き取れるわけでは無いが、相変わらず激しい言い争いが続いている。
 一度は諦めた再開だったが、声を聞いてしまったら抑えが効かなくなってしまった。もう我慢をすることは不可能で、会いたいという気持ちばかりが先走ってしまう。
 進路を変更すると、狼は迷うこと無く走り始める。傾斜面の岩場を器用に跳ね上がりながら、上へ上へと駆け上る。不安定に揺れるトレーラーのせいで落ちる影。それを避けただひたすらに登り続ける。もう少しで目的地に辿り着く。そこまで来たときに再び耳に届いた二つの怒号。
「やめろっ!!」
「死ねよ! 化け物っっ!!」
 次の瞬間、二種類の銃声が辺りに響いた。
「……ぁ……」
 勢いを付けて跳躍をし宙に浮く身体。しなやかな筋肉をバネのように動かし、緩やかに着地を果たした狼の目が捉えたのは、探し求めていた人の姿だ。
「!?」
 目の前で揺れる大好きな人の身体。
「て……めぇ……」
 向かいには大嫌いな人間が立ち、右腕から溢れ出る血を抑えながら苦しそうに呟いている。
「………っっ……」
 バランスを失った大好きな人の体が、大きく傾き地面へと崩れ落ちる。
 それはまるでコマを送るように一つずつゆっくりと流れる映像。アスファルトの上でその人の身体が跳ねた事に気が付くと、狼は急いで駆け寄り、小さく鳴きながらその頬を必死に舐めた。
「……る……か……?」
 地面へと崩れ落ちたその人は、血で真っ赤に染まった手を上げ、優しく狼の顔に触れ微笑む。
「ははっ、幻覚……かな? これ……」
 濃くなる血の臭い。目の前で弱っていくその人の様子に、狼は狼狽え鳴き声を上げる。
 必死に訴えるのは起きて欲しいと言うこと。だが、言葉を持たない狼がどんなに声を上げようが、彼は力なく笑うだけで身体を起こそうとしない。
「何だ!? この狼!!」
 いつの間にか近付く気配。背後から聞こえてきた声に、狼は顔を上げ振り返ると、唸り声を上げた。
「邪魔だ! 退け!!」
 痛みのせいで苛立ちが激しい殺意に変わってしまったのだろうか。虫の居所が悪い男は、狼の腹にめがけて思い切り蹴りを入る。蹴飛ばされた衝撃で激しく蹌踉く白い身体。間髪入れず飛んでくる右足が再び狼の身体に触れると、不安定に揺れていた四肢が地面から離れ、狼は倒れていた人物から引き離されるようにして弾き飛ばされてしまった。
「キャィンッ!!」
 辺りに響く狼の悲痛な声。上手く着地することが出来ず、そのまま地面へと投げ出され横たわる身体。
「ほら、さっさと変化しろよ! グレイヴ!!」
 そんなことはお構いなしと、右腕を庇いながら男が再び突きつける銃口。金属筒の先にあるものは、横たわり動こうとしないもう一人の男の頭だ。彼は苦しそうに呼吸を繰り返しながら、微かな呻き声を上げ藻掻いている。
「早くしねえと……死んじまうぞ? …………最も、お前が化け物だって分かれば、速効殺して剥製にでもして売っ払てやるつもりだがよ」
 言葉の一つ一つに込められた毒が、どんどん広がり目の前を黒く染め上げていく。真っ直ぐに相手へと向けられる殺意は何処までも純粋で、曇りが無い。それほどにまで男自身も追い詰められてしまっているのだろう。もう後戻りが出来ないところまで行き着いてしまった。あともう少しで外れる理性の箍。辛うじてかかったセーフティは、彼がまだ向こう側へと足を踏み入れる覚悟を決められていない証拠。だがそれも今となっては、とても脆弱な糸で辛うじて守られている状態である。
 そんな光景を見て、早くしなければと気持ちが焦る。狼は唸り声を上げると、蹌踉めきながら無理に立ち上がった。蹴られたことで鈍い痛みが身体に広がるが、そんなことを気にしている場合では無い。男の背後で低く構えとる体制。攻撃を意識したそれを取ると、狼はその高さを保ちながら勢いよく走り出し、男へと襲いかかる。
「なっ!?」
 予想外の方向から掛かる衝撃に、男は驚き姿勢を崩しながら地面へと倒れた。
「グルルルル」
 狼の体当たりにより倒れた男は、すぐに起き上がることができず呻き声をあげる。
 そんな男の上に乗り上げると、狼は低く唸り声を上げながら敵意を示す。
 大きく開かれる口から除く鋭い牙。それは躊躇うこと無く男の喉笛へと突き立てられる。
「がぁっ!」
 その痛みに男の身体が跳ねる。引き剥がそうと無理に狼の身体を掴む逞しい腕。だが、今度ばかりは容赦をするつもりはない。
 それは一度、食らいついたことのあるものだ。あの時は加減し直ぐに離したが、この男は大切な者を傷つけた。怒りという感情に囚われた獣は、仲間を守る為に牙をむく。肉に埋めた鋭い凶器。それを更に深く突き立てると、狼は顎に力を込め思いきり肉を食いちぎるようにして顔を動かした。
 無理に引きちぎられていく肉は、切り取られた歪な断面から赤い色を吹き上がらせる。顕わになった骨の上に降りかかる血飛沫。皮膚の下に隠されているものが顕わになり、その痛みで男が激しく藻掻く。
「っっっっっっっっっっっっっっ!!」
 男が上げる声にならない絶叫。大きく見開いた目は血走り、苦しそうに呼吸を繰り返す口からは、次々に生臭い液体が溢れ出す。
「ッッ?!」
 反射的に振り上げられた腕から逃れるように、狼は素早く後方へ跳んだ。寸でのところで空を切る拳は直ぐに地に落ち、男の身体は激しく痙攣を起こしてしまう。時間と共に少し力が抜け始めると、投げ出された足の間にアンモニア臭のする黄色の水溜まりが、ゆっくりと広がっていった。
「ハッ、ハッ」
 食いちぎられた部位から吹き上がる血により、狼の身体はすっかりくすんだ紅に変わってしまっていた。赤黒い血液が固まり、毛に張り付くことで感じられる痛み。
 口の中にはまだ、男の身体の一部だった肉片が残ったままだ。その味を美味いと感じる事は無く、寧ろそれを含んでいる事に対して抱く嫌悪。不必要だと判断したそれを勢いよく吐き捨てると、狼は微弱な痙攣を繰り返す男の傍から離れ、もう一人の男の元へと駆け寄った。
「クゥン……」
「……………か……」
 苦しそうに繰り返される呼吸は、所々途切れてしまっているが、辛うじてまだ意識は有るようだった。見たことの無い脆い一面に、狼は不安を煽られ必死に相手に訴える。目を開けて欲しい、起き上がって欲しい、と。そうしていると、そんな狼の願いが伝わったのだろうか。弱々しいながらも男は何かを言いたそうに口を動かし微笑んでみせた。
『……ご……め……ん……な……』
 それは確かに言葉だったのだろう。
 一つ一つの音は聞こえなかったが、狼はその言葉を知っているような気がした。
 そしてそれは、狼にとって見たくない言葉としてその瞳に映る。
 狼の目に映った男の紡いだ言葉の形。
 その言葉は、何度もこの人間が自分に対して呟いた言葉の内の一つ。
 そして、その言葉を彼が呟くと、その後には必ず狼にとって哀しいことが起こるものだった。
「クゥン、クゥン」
 狼は必死に甘えたような声を出しながら、男の顔に鼻先を擦り寄せる。
 早くしないとこの人間は、自分の前から完全に消えてしまう。
 そんな予感がして怖くて。だからこそ、狼は酷く焦って居たのだろう。
「オォォォォォン」
 顔を上げると鼻先を真っ直ぐに天へと向け、長い遠吠えを辺りに響かせる。
 その声に応える者が居るのであれば、誰でも良いから助けて欲しいと。
 肺を大きく膨らませ、気持ちを乗せて吐き出す声という思い。どうかこの場所に、少しでも早く気が付いてもらえるようにと、願いを込めて繰り返す。
「オォォォォォン」
 何度も、何度も、同じ様な遠吠えを繰り返していると、そのうち声の質が変化し、やがてそれは嗚咽となって辺りに響き始めた。
「うあぁ……」
 だが、皮肉にも狼は、自分の変化に気付くことはない。ただ、目の前に倒れる人間と同じ形をした掌で、相手の身体を何度も何度も叩きながら、必死に泣きじゃくり続けるだけ。
「うあ……あぁ……」
 目から溢れ出る大粒の涙。それが頬を伝い地面へと落ちる。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっ!!」
 その声は、何よりも大きく、そして、悲しく辺りに響き渡った。
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