LYCAN

ナカハラ

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Chapter2

08

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 買い物に出たはいいが、自分でも一体何を買ったのか良く分からない。買った荷物を乱暴に助手席に放り乗り込んだ愛車。一度は、素直に帰宅しようと考えていた。しかし、その考えは直ぐに改められる。
「どうせ、帰っても一人だしな……」
 買い足した食料品はほぼ全て、保存を急ぐような物が存在していない。最悪、自分が長期的に家を空けても良いように、瓶や缶、レトルト用品を中心に買い漁ったからである。それを思い出し、即座に行き先を変更。グレイヴを乗せた鉄の塊は、家とは異なる方向に向かって走り出す。
 久しぶりに扉を開いたのは、昔よく顔を出していた馴染みのバーである。
「よぉ、グレイヴ!」
 相変わらずこの店を贔屓にしているのだろう。馴染みの顔がグレイヴに気が付き手を挙げた。
「久しぶりだな」
「それはこっちの台詞だわい!」
 既に空けられたジョッキは二つ。思わず腕時計を見て確認した時間はまだ九時を刺す手前といったところ。どうやら今日は、随分と速いペースでアルコールを消費しているようだ。
「何だ? その顔は」
 グレイヴの顔を見た男が、眉間に皺を寄せながら鼻を鳴らす。
「随分と空けるペースが早くねぇか?」
 ジョッキを傾けるジェスチャをしながら思ったことを口に出せば、相手は侵害だというように眉間に皺を寄せ口を尖らせた。
「失礼な! 今日は作業が早めに片付いただけだわい!」
「そりゃあ、失礼いたしました」
 大きな声で怒鳴られたものの、相手もいい年をした大人である。本気で怒っているわけではないため、次の瞬間大きな笑い声が響いた。その雰囲気はとても懐かしく心地良いもので、思わずグレイヴの表情も和らぐ。
「どうだ? お前も一杯やってくか?」
 先に飲んでいた男が相席を勧めてくる。
「そうだな……」
 特に断る理由が見つからず、グレイヴは素直にその誘いを受けるべく頷いて見せた。
 薄暗い店内は、暫く来ないうちに、少しずつ変わっていったようだ。以前はあったものが今はなく、以前はなかったものが今はあったり。それはとても小さな変化でじっくり見ないと見落としてしまうほど些細なものではあったが、確かにグレイヴの知らない顔には違いがない。内装だけではない。客も馴染みの客の中にグレイヴの知らない新しい顔も紛れている。変化していくことに少しばかり寂しさを感じ、無意識に浮かべてしまう苦笑。
「最近はどうだ?」
「ん?」
 追加した三杯目のジョッキに口を付けながら、目の前の男はそう尋ねてくる。
「元気にやっているのか?」
「んー……まぁ、何とか?」
 昔世話になっていた彼に対しては、どうしても、上手く嘘を吐くことが難しいと感じてしまう。グレイヴがこうやって男に伝えた言葉。それが嘘であることなど、彼には直ぐにばれてしまうのだろう。しかし、相手もその辺は理解しているようで、野暮な詮索をされたくはないとグレイヴが考えている事を雰囲気で感じ取ったてくれたのだろう。言いかけた言葉を飲み込むと、面倒くさそうに頭を掻く。
「そうか。元気でやっているなら良い」
 そう言って渇いた喉をビールで潤し吐いた溜息。
「あんな事があったとは言え、お前さんは良い部下だった。みんな寂しがっとるよ、お前さんが居なくなったことをな」
「ははっ、まさか」
「いやいや、本当のことさ」
 懐かしい空気に自然と軟らかくなる表情。その出会いは偶然だったが、今は人と言葉を交わせることが何よりも嬉しく感じる。漸く戻ってきた心の余裕は、張り詰めていた気を解すのには十分で。いつの間にか目の前に出された酒に無意識に手が伸び、そのグラスを口元で傾け中身を口に流し込むのを止められない。
「偶には顔を出せ。じゃねぇと、寂しくて夜も眠れやしねぇ」
 そんな冗談を口にしながら、男は口角をつり上げる。
「何言ってんだ? 息子さんが独り立ちして清々したって言ってたのはどこの誰だよ?」
 それならばと、グレイヴも態と言葉を選び切り返す。
「生憎、息子が居なくなっても口煩いのが居るからな」
「それは奥さんのことかい?」
「そうだ」
 豪快にジョッキの中身を飲み干すと、男の手の中にあったジョッキは音を立てて机の上に置かれる。
「ああ、頭が痛い」
 大袈裟なジェスチャで抱え込んだ頭。それをゆっくり降り吐いた溜息は周りが振り向くほど音が大きい。
「そんなこと言うなよ。好きだから結婚したんだろう?」
 その反応にグレイヴは苦笑をこぼしフォローを入れる。
「長年連れ添うと、いい加減見飽きるってもんだ」
 今度は拗ねるようなジェスチャを取りながら、男はグレイヴを睨みつけた。
「そんなことを言っても良いのかい? 奥さんに、アンタが此処で飲んだくれになっているのを、今直ぐ教えてやってもいいんだぜ?」
 そう切り返し不適に笑えば、男は弾かれたように顔を上げ、首を左右に振り慌て始めた。
「勘弁してくれ! そんなことをされたら、只でさえ少ない小遣いが全く貰えなくなっちまう!」
「ははっ、冗談だって。そんな事しねぇよ」
 グレイヴが言い終わったと同時に二人とも吹き出し笑い出す。
「まぁ、母ちゃんに言う、言わないは兎も角、お前さん偶にで良いから顔ぐらいは出せ。家の母ちゃんが『グレイヴはどうした』『グレイヴは元気でやってるの?』と煩くて叶わん」
「何だよ、それ」
「家の母ちゃんにとっちゃあ、お前も可愛い息子みたいなもんだってことだ。実の息子よりも可愛がっているかもしれんな、実際」
「そうか」
 以前勤めていた職場は、起こった事件がきっかけで辞めた。不可抗力とは言え、同僚の命を自分の手で奪い消した事実はいつまで経っても消えることはない。そのことで感じた罪悪感や自責の念に押しつぶされそうで居づらくなった前の居場所。それなのに、以前の上司はどこまでも優しかった。
 そのことは気にするな、いつでも戻ってこいと、無条件で手を差し伸べてくれている。誰かに必要とされていることは何よりも嬉しくて仕方が無い。些細で小さなことではあるが、今のグレイヴが欲しいと無意識に願う一つはそれだった。
 男との話は思った以上に弾む。それは他愛ない世間話が殆どではあった。でも、どんな話でも面白いと感じる話題には違いがない。気が付けば時刻はとっくに深夜零時を切っている。
「そろそろ俺は帰るが、お前さんはどうすんだ?」
 呂律は回るが足取りは覚束ない。男はこの時間になって漸く重たい腰を上げた。
「俺は少し酔いを醒ましてから帰る。車で来てるからな」
「そうか、なら、先に失礼するぜ」
「ああ」
 別れ際でもう一度、家に遊びに来るように無理矢理結ばされた約束。大分機嫌の良い男は軽い足取りで店の出入り口に向かって歩き始める。聞こえてくるのは陽気な鼻歌。その後ろ姿を見送り姿が完全に見えなくなった所で、グラスの中に残っていた酒を一気に煽る。
「……ふぅ」
 楽しかった時間の終わりはとても静かだと感じてしまう。その場に残ったのはグレイヴ自身なはずなのに、この場に取り残されたような錯覚。一人になった途端、遠のいていた寂しさがそっと傍らに寄り添ってくる。
「遊びに来い……か」
 確かに彼の家には何度も遊びに行っていた。彼の奥さんにも気に入られ、家族同然に親しくしてもらっていたのは事実だ。それが懐かしく感じ思い出に耽る。あの頃はひとりで居ることに苦しみを感じることが極端に少なかった。そんな自分が少しだけ恋しくなる。
「久しぶりに……遊びに行ってみようかな……」
 逃げ場所を探している。それは判っている。だけどもう、寂しさに耐えられそうにない。外へ向けられた視線で探すのは自分を必要としてくれる居場所。グレイヴの意識は時とともに自分の住まう家という空間から離れていく。
 少し早めに店を出て酔い醒ましにバーの近くを彷徨いていると、ふと自分の右腕が誰かに軽く引っ張られた。
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