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Chapter 0 君がいなくちゃ始まらない
side C
しおりを挟むぱらぱらぱら。帰りの会で先生が何か話しているのを聞きながらノートの端を摘んでめくる。そこには前に立つ先生を模したキャラクターがコマ送りに描かれており、流れるようにめくれば動き出すように仕組まれたアニメーションが施されていた。もちろん描いたのはわたしで、それは授業などの暇な時にやってしまうわたしの癖のようなものだった。
「じゃあ、まあ、今日はこれで終了~。はい帰った帰った~。」
一しきりその流れを見終えたあと、いまいち納得のいかなかったわたしは、流れたアニメーションを思い返しながら数枚戻って細部の最適化を試みていた。帰りの会の際の先生を思い返しながら、何度かめくっては見比べる。手の動きがちょっと俊敏すぎるかなあ、なんて。
わたしの担任は宗方先生という、若めの化学の先生だった。先生はすごくやる気のない人で、わたしが書いた漫画よりももっとゆっくり動く人だった。そう思うとどれだけいつもやる気がないのか、とおかしく思えてきて、ふふ、と口元が緩んだ。
「こら。」
ぽす、と頭に何かがあたって反射的に頭をあげた。そこにはだるそうな瞳でわたしを見下す宗方先生かいた。先生はわたしの頭を叩いたのであろう生徒の名簿帳を肩に掲げ、相変わらず気の抜けた顔でわたしの隣の机に腰を預けた。
「帰りの会終わったぞ。」
そう言われて周りを見渡してみれば、もうすっかりほとんどの生徒が教室を後にしていた。そんなにこのパラパラ漫画に集中していたとは、なんて今更気づいて、呑気に感心する。わたしの悪い癖だった。人とペースが合わないというか、何か好きなことに集中するとすっかり周りから外れてしまうのだ。先生はそれをよく知っていた。知っているからこそ、気にかけてくれていた。
もう一度先生をちらり、と見あげる。
「えへへ。」
「えへへ、じゃなかろうに。またそんなの書いてたのか。」
そう言って先生は戒めのようにわしゃわしゃとわたしの頭を撫でた。
好きだった、先生のこの暖かい手が。昔から、先生は優しかった。ヤサシイ先生なんてたくさんいるのだけれど、本当に優しい先生というのは結構少ないもので。真面目で、社会規律を必死に追いかけて、顔色を伺うようなヤサシイ先生はたくさんいるのだ。でも先生は全然違った。不真面目で、社会性は乏しくて、でも生徒の気持ちは裏切らない優しい先生だった。
「うん。よく出来てるでしょう?」
「出来云々ではなく、真面目に帰りの会の報告を聞きなさい。」
そう、さも形式的に怒っているかのように言うものの、先生はわたしのパラパラ漫画を手にとってパラパラとめくっていく。先生がなにを言いに来たのか、なんてわかっていた。わかっているけど、その優しさに甘えていた。
ひとしきり見終えた先生はほほう、と口にしてニヤリと笑った。
「まあなかなかの出来だが、俺はこんなに機敏な動きはせんな。」
それはまるで先ほどのわたしの心を見透かしたかのような一言で。言われた途端、わたしはけたけた笑いだしてしまった。単純に嬉しかった。先生と同じようなこと考えていたことが。一方先生はきょとんとそんな私を見つめ、困ったように頬をかく。
「小娘になめられたもんだな、こりゃ。」
「ふふふふ、ふふ、だって、わたしもっ、ふふふふ、おんなじこと思ってた!」
学校に来て楽しいことなんて、これくらいだった。私は中学の頃、学校という世界に出ることを諦めていた。それはやはり周りとペースの合わないこの性格と周りとは少し違った母子家庭、というものがきっかけで、クラスで浮ついた存在だったことから始まった。当時、私はそのことすら気づいてもいなかったが、中学生という生き物からするとそういう存在は格好の標的となる。だんだんと周りからの扱いはひどくなり、次第に私は人間の恐ろしい一面を目の当たりにすることになった。それを体感した時、私は率直に必要ないと思った。その頃大切だったものは母と好きだった絵を描くことくらいで。それ以外はもう必要ないと、見たくないと目を背けたのがお終いだった。たくさんの想いがつまった絵では表しきれない人間が、昔は大好きだった。けれどその時にはもう、怖くなっていた。そうやってわたしの世界は閉じたのだった。
「七瀬、お前さ、」
ひとしきり笑い終わった後、一息ついたタイミングで急に先生は真剣な顔をした。つられて私の笑顔もその雰囲気に吸い取られてしまった。
先生は母の古くからの友人だった。父がいた頃からよく遊びにくるくらい親しい間柄で、私も何度かあったことはあった。けれど初めてきちんと話したのは中学三年生の冬、それは突然に先生がうちへやってきた時だった。
「学校、楽しいか?」
昔と全く同じ質問だった。あのとき、初めて私が先生と話した時と。巻き戻るような感覚に、自然と喉が縮こまり声をうまく出せなくなる。
あの頃、高校教師を勤めていた先生は母に相談されたかどうか分からないが、わたしにそう言って高校に連れ出してくれた。人を描く楽しみや、人と関わる楽しさを、思い出させてくれた。
「…楽しいよ、先生面白いし。」
嘘偽りなんてない言葉を、真っ直ぐ先生を見つめながら告げる。先生は微動だにせず、数十秒間じっとわたしを見つめ続けた。
わかっていた。中学の時から、まだ一歩も進歩していないこと。先生は、きっとそれをわたしに伝えたいのだ。そんなこと、わかっていた。この1年間、ゆっくり元へ戻っていくわたしを先生はじっと待っていてくれた。けれど、わたしは答えられなかった。もう一歩、その先の壁が果てしなく高く感じていた。きっと今だって、先生にはそんなわたしの気持ちなんてばればれなんだ。
「そうか。まあ、ならよかった。」
甘えてばかりでもう愛想をつかされてしまったかと思ったけれど、思っていたよりも先生はあっさりと引き下がる。なにを考えているのか読みきれないその表情を、わたしは不安を交えた視線でじっと見つめ返した。
いつもよくわからない人だった。先生はそうやって当たり前のようにわたしの中に入り込んできた。そうして、ぐちゃぐちゃにかき乱して、わたしをバラバラにしてしまう。
「なあ、七瀬、お前委員会やってみないか?」
そう、そうやって、いつもわたしの世界をぶち壊していくのだ。
君がいなくちゃ始まらない
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