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17. 番契約 ※
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番になると決断した時籐達が連れて行かれたのは、天蓋付きベッドが中央にどーんと置かれた大きな寝室だった。
室内はアンティーク調の家具やカーテンで統一されており、欧州の住宅を感じさせる温かみのある部屋だ。
夏目は中に入り、奥に二つ並んだ扉を開けてみせた。
「バス・トイレ付き。いい部屋やろ? デザイナーさんに内装頼んだんや」
「………」
「そしたらネックガードの暗証番号取りに行ってもらおか。住所は?」
そう言われ、時籐は思い切って提案した。
「あの、自分がここに残るので、更科に取りに行ってもらってもいいですか?」
すると、夏目はこちらを推し量るように見たのち、頷いた。
「……エエで」
「更科、頼める?」
そう聞くと、相手は頷いた。
「オッケー。どこ?」
時籐は小声でネックガードの箱の場所を教え、家の鍵を渡した。そしてゴムも買ってきて欲しい、と耳打ちする。持ち合わせがなかったからだ。
すると、更科は緊迫した表情で頷き、部屋を出て行った。
ヒート中のオメガは特に着床率が高く、避妊具なしで行為に及べばほぼ百パーセント妊娠する。実際、若宮に番にされた日も避妊具なしでセックスしたせいで妊娠し、そのせいで大学を中退せざるをえなくなった。だから、避妊には細心の注意を払う必要があった。
そんなことを考えながらその場に立ち尽くしていると、夏目から座るよう促され、向かいのソファに腰を下ろす。
そして勧められるがままにワインを飲んだが、全く味がしなかった。しかし、口を潤すことはできる。
舌が上顎に張り付くほど口がカラカラだったのでワインで潤していると、夏目に話しかけられた。
「利人君、戻ってくると思う?」
思わず顔を上げると、夏目は意地悪く笑っていた。
「………」
「戻ってこぉへんかったら、君終わりやなぁ。連帯責任ってやつや」
「………」
「あのアルファのこと、信じれる?」
「はい」
「何を根拠に? 人なんてな、簡単に裏切るで。特にアルファは」
「更科は……そういう奴じゃないんで」
「ふぅん? 信じてるんや」
「自分が逆の立場でもそうするんで」
すると夏目はワイングラスを置き、探るようにこちらを覗き込んだ。
「愛してるんか」
「……そうかもしれません」
先ほど夏目が言った「好きでもない奴のために命を懸けるわけがない」という言葉を思い出す。
ここにいるのが更科か家族でなければ、ここへは来なかった。夏目が前科者のヤクザだと知りながら、単身乗り込むような無茶はとてもできなかった。無事を祈りながら帰りを待つだけだっただろう。
だから、更科が家族と同じぐらい大事な存在であるのは確かだ。それが愛だというのなら、多分そうなのだろう。
「なら、何で今まで番にならんかったん?」
「……自分を失いたくないからです。番に依存して、それが世界の全てになったら自分が自分でなくなってしまうから」
「でも、それが本来の自分かもよ? オメガの幸せは番と添い遂げることやと言われとる。オメガの本来がそっちだとは思わんの?」
「思わないです。意思をなくすぐらいなら番にならない方がいい。自分はそう思います」
すると、夏目はワイングラスを揺らしながら唇の端を引き上げた。
「へえ。君面白い考え方するね。名前は?」
「時籐です」
「下の名前は?」
「啓です」
一瞬偽名を使おうかとも思ったが、更科の素性がバレている以上無意味だと思い、本名を名乗る。
こういう人間相手に簡単にバレるような嘘をつくことが賢明だとは思わなかった。
「啓君、啓君ね。ほんなら、もしこういうことがなかったら一生番にならずに過ごすつもりやったん?」
「……はい」
「そう。まぁそれも一つの考え方やな。けどな、好きな相手と番になれるって幸せなことなんやで」
内心、余計なお世話だと思ったが、そんなことを口に出せるわけもなく、曖昧に頷く。
「はあ……」
「もしあの子が戻ってきて番になったら、逃がさんように捕まえとき。あの子もなぁ、多分本気やで。どんなに痛めつけられても君がうちの帳簿見たこと、一言も漏らさんかった。素人でそんなことできる奴はなかなかいいひん。よっぽど啓君のこと守りたかったんやろ」
「………」
「予言するわ。君はいつか俺に感謝する」
そう言われても、今はただただ無理強いされているとしか思えないし、感謝などもってのほかだ。むしろ恐怖しかない。
だが、本音を言うわけにもいかず、時籐はあいまいに相槌を打った。
夏目は上機嫌で絶対そうやで、と言い、その後も番の絆についてや更科のこと、ひいては自分と幼馴染みの思い出話を喋り続けた。酒が入ってより饒舌になったらしい。
時籐は、夏目がここまで喋る理由が、自分達を生きて帰す予定がないから、ではないことを祈りながらひたすら相槌を打ち続けたのだった。
◇
永遠にも思える夏目の昔話が幼馴染みとの高校時代の回想シーンに入った時、不意にドアが開く音がした。顔を上げると、息を切らした更科が立っていた。
すると夏目がワイングラスを置き、声をかける。
「戻ったか」
「はい」
更科は返事をし、コートのポケットからネックガードの暗証番号の入った封筒を取り出した。そしてコートを脱ぎ捨て、こちらに近づいてきてその封筒を差し出す。時籐はそれを受け取り、番号を確認した。
暗証番号は『1324』だった。
それを再び封筒にしまい、ズボンのポケットに入れる。すると、夏目が更科に話しかけた。
「啓君とな、話しとってん。利人君が戻ってくるかどうか」
「……そうですか」
「啓君は信じとったで。一瞬たりとも疑わんかった……。で、君はその信頼に応えたわけや」
夏目の言葉に、更科がこちらを見る。目と目が合うと、相手は見たこともないような真剣な表情で言った。
「置いてくわけがない」
「ほうかほうか。相思相愛ってわけや。ほんならラブラブの二人に愛を紡いでもらおか。最高の愛の結晶を見せてや」
いよいよという雰囲気になり、時籐は遠慮がちに聞いた。
「先にシャワー……いいですか?」
すると夏目が頷く。
「ええよ」
ワイングラス片手に上機嫌でそう言った夏目に、二人きりで話すチャンスだと思い、更科に合図をして一緒に脱衣所に入る。
扉を閉め、夏目の視線が遮断された途端に緊張が一気に緩み、それまで感じなかった疲労感がどっとのしかかってきた。
時籐は深々と息を吐き出し、壁にもたれかかって腕組みをした。そして近くに立った更科の顔の痣に目をやる。白い肌に青黒い痣が目立ち、痛々しかった。
「殴られたのか」
「ああ。でも、あの人の方が酷かった……。『威圧』使って抵抗しようとしてたけど、その度ボコされて……本当に容赦なかった。けど、最初から生かすつもりなんてなかったんだな……」
あの人、というのは殺されたアルファのことだろう。
「だろうな……」
「マジでありえねぇよ……。つうか巻き込んじゃってごめん」
恐怖にこわばった顔で謝ってくる更科に首を振る。
「いや、こっちこそ。つうかマジで番になってくれんの?」
「いや……ていうか、何か作戦あるんだと思ってた。通風孔から逃げるとか?」
そう言って脱衣所内を見回し、逃げられる場所を探す更科に、やはり番になる気はなかったのだと少し落胆する。そうだ、ただの友達相手に番契約などできるわけがないではないか。いくら更科がお人好しといえども限度がある。勝手に期待していた自分が恥ずかしかった。
「まあ……そんな感じ」
曖昧に頷き、浴室の扉を開けて脱出口を探す更科に続く。しかし、残念ながら人が通れそうな通風孔はなく、窓は十センチほどしか開かず、外に出られそうなところはなかった。
「いや無理かー……映画とかだとうまく脱出できるんだけどな」
「………」
「これ譲さん……じゃなくて拓海さん?だっけ?に土下座するしかねぇかな。俺アルファ亜種なんで無理でしたっつって」
「そのことなんだけど……番になれる可能性はあると思う」
「えっ、何で?」
「この前俺がヒート起こしかけたの、覚えてる? 滝口さんとかと会った日の帰り」
「ああ。それが何?」
「実はあん時、まだその時期じゃなかったんだ。俺、薬で周期管理してるからあんなこと滅多にない。けどヒートになりかけて、その後本当に来た。あれは……お前の性フェロモンに誘発されたんじゃないかと思うんだよ。フェロモン過敏症の人ってそういうの起こりやすいから」
失踪した榎本菜々の調査のため、友人の滝口と元恋人の柿崎に話を聞きに行った日、時籐は更科と一日中一緒にいた。そして帰りの車で時期外れのヒートになりかけ、偶然薬を持っていた更科からヒート抑制剤を貰って何とかことなきをえた。しかし、その後まもなくして本格的なヒートとなり、職場に多大な迷惑をかけたのだった。
時籐は、あの時ヒートを誘発したのは更科の性フェロモンなのではないか、と推測していた。
「そんなことあるかなぁ? 他にそんなんなった人いないけど」
「あの日、薬飲んでた?」
そう問うと、更科は少し考えてから首を振った。
「フェロモン抑制剤? いや、忘れたと思う」
「やっぱりそうか……。あとさっきさ、ここに来た時、玄関からお前がいるのわかったんだよ。匂いで」
「マジで?」
「ああ。性フェロモンが出てないんだったらそんなんありえないだろ? 過敏症だったとしても、そこまでの感度はない」
通常、固有フェロモンの匂いは弱く、例えフェロモン過敏症だとしても扉の向こうから感知できるほどの匂いはしない。
また、『威圧』『誘導』等の行動系フェロモンはそれを使った時しか匂いがせず、匂いを感知した時点で行動指令の影響を受ける。『威圧』ならば体が動かなくなり、『誘導』ならば指令主の声が聞こえてきて体が勝手に動くのだ。
時籐は玄関先で匂いを感知した時、そのどちらの影響も受けなかった。すなわち、あれは性フェロモンだった可能性が高い。
そして、性フェロモンが出ているならば番契約ができる。それで時籐は、更科は番になれるのではないか、と推測したのだった。
「………」
「だから、お前は番作れる可能性が高いと思う。治験の影響か何かでフェロモン出るようになった特殊なケースじゃねえかな」
「じゃあ……番になる?」
そう聞かれ、時籐は深々と頭を下げた。
「頼む。こんなこと頭おかしいのはわかってるけど、どうしても無理なんだよ……解体とか……あんなことできるわけない。考えるだけで頭がおかしくなりそうだ……。本当にお前にとってはいい迷惑だと思うし、そんなことする義理ねえし、巻き込んで申し訳ないけど、これしかねえんだよ。頼む……! 後で迷惑料も払うから番になってくれ」
「迷惑料?」
「こんなことタダでさせるわけにはいかねえだろ?」
すると、更科の雰囲気が変わった。どうしたのかと顔を上げると、なんともいえない面持ちで言った。
「そんなのいらねえよ」
「けど、困るよ。俺の気が済まねえから貰ってくれ。十? 二十?」
「だから、いらねえって」
「いやいや」
そうやってしばらく押し問答をしていると、更科は苛々したように頭をガリガリと掻き、叫ぶように言った。
「ああもう! だから、いくら貰ったって好きでもねえ奴と番になんてなれねぇよ!」
「えっ……?」
更科の言葉に一瞬頭が真っ白になる。今、好きと言ったか?
それは友達としてとか、そういうことなのか?
混乱していると、更科はぷいっと横を向いてごにょごにょと言った。
「……だから、金はいらないってことだよ……」
「好きって……友達としてってこと?」
「友達とセックスするのか?」
「………」
「そういうことだよ。だから、金はいらない。お前が気に病む必要もない。……ごめん、黙ってて」
「……いつから?」
更科はうーん、と天を仰ぐようにして少し考えてから答えた。
「最初は多分、中学」
「中学!?」
「いやそっからずっととかじゃないよ?さすがに。けど、かっけぇなーって思ってた。でも中学の頃はベータの子も多かったし、男同士なんてありえないみたいな雰囲気だっただろ? だから勘違いかなって思ってた。でも去年再会して……やっぱそういう感情だったんだってわかった。っていうのもさ、俺フェロモンぶっ壊れてからそういう欲全然なかったんだよ。枯れちゃったっていうか……。だから、お前と再会したときも下心とかは全然なかった。これはマジで信じて欲しいんだけど……。けど、お前と過ごしてたらだんだんそうじゃなくなってきて……それで、ああそういう感情だったんだって気付いたわけ」
「けど……全然そんなそぶりなかったじゃん」
「そりゃ隠してたからな。友達からそんな目で見られたらキモいだろ」
「……そう、なんだ……」
更科はそこで再びこちらを見て、無理矢理笑顔を作った。そして痛々しい笑みで言う。
「でも安心しろよ、帰ったら速攻番解消するし。あと俺、別れた後友達に戻れる派だから、戻ったらまた友達として?遊べるし。お前が気まずくなければ。いや、付き合ってたとかじゃないんだけど、でもほらちょっと似たような状況っていうか……。いや俺何言ってんだろ、変だな」
居心地悪そうに頭をガリガリと掻いて視線を彷徨わせる更科に、時籐は意を決して告白した。
「俺も好き、だと思う……」
「えっ?」
更科は虚を突かれたように目をまん丸にしてこちらを凝視した。
その視線を受け止めて、訥々と告白する。
「中学の頃、かっけぇって思ってくれてたって言っただろ? 俺も思ってた。かっけぇっていうか……お前はマジでキラキラしてたよ。なんていうかな、お前は恒星なんだよ。周りの人を明るくする。中学で初めてネックガード着けてった日……皆に避けられた。でもお前だけは話しかけてくれた。めちゃくちゃ普通に、それカッケェじゃんって言ってくれたんだよ。もう忘れたかもしんないけど」
「そんなこともあったっけなぁ……?」
首を捻る更科に、あれは下心から来る優しさではなかったのだと確信する。そうであれば覚えているはずだし、何より時籐にだけ声をかけたはずだからだ。
しかし、更科は覚えておらず、またクラスの他のオメガにも同様にフォローを入れていた。
そういうところが、たまらなく魅力的だと思う。
「あったよ。お前はマジでオメガに本当の意味で優しかったと思う。オメガとして見ないっていうか……。俺だけじゃなくて、皆お前がいてくれてよかったって思ってたと思う」
「いや、そんな大層なことしてないと思うけどなぁ……。だっておんなじ人間じゃん? オメガってなった途端に変な目で見る方がおかしいよ。まあでも、ベータ家庭の子が多かったし、普段あんま触れ合わないから慣れてなかったのかな? 俺は家族の半分オメガだから普通だったけど」
その言葉に、それは違うと心の中で思う。アルファ家庭でも、いやアルファ家庭だからこそオメガへの差別心が強いアルファはいる。というかむしろそちらが大多数である。更科のようなタイプのアルファは非常に珍しいのだ。
しかし、説明すると長くなりそうなので時籐は相手の言い分を否定せずに話を続けた。
「かもな。でも実際助かってたよ。俺、お前がいなかったらオメガ校に転校してたと思うし」
「えっ、そんなに? ならまあ良かったよ。あんま覚えてねーけど」
時籐は頷いた。
「だからってわけでもないけど、そんときからいいなって思ってた。でもお前が言うように男同士なんてって空気だったから恋愛感情とかじゃないんだろうなって思ってた。でも高校でオメガの友達も増えて、そうとは限らないんだって知った。相手がアルファだったら男女関係なく好きになることもあるんだって。そんで……薄々気付いたんだと思う。更科のこと……好きだったんだって」
「えっ、じゃあ何で言ってくれなかったの? 高校の時そこそこ遊んでたじゃん」
更科の言う通り、高校は別々だったが変わらずゲーム仲間だったし、たまに休日一緒に出かけたりもしていた。といってもゲーム関連のイベントやeスポーツの試合観戦が主だったが。
だから言う機会が無かったわけではない。しかし、更科の気持ちを察知していなかった時籐にそんな勇気があるわけもなかったし、はっきりと自分の気持ちを自覚していたわけでもなかった。
「いや、さすがに言えない。そんなにはっきり自覚してた訳でもねえし」
「そっかぁ」
「お前だって最近まで自覚なかったんだろ?」
「まあ確かに」
「だから高校んときは無理だった。多分、その後会うこともなかったらそのまま自覚もせずに終わったんじゃねえかな。それはお互いそうだと思う」
「一般校の弊害出たな、男女の括りで見ちゃうっていう」
「かもな。けど、純粋に友達として接してくれたのが嬉しかったのもあるんだよ。そんな奴他にいなくて……お前と郷原と吉澤ぐらいだった、そういうの気にせず接してくれる奴」
郷原純と吉澤直哉は中学時代の友人である。二人ともベータで元々更科と親しかったが、時籐がオメガだと知れてクラスで孤立するようになってからよく話すようになった相手だ。
類は友を呼ぶということわざがこれほどしっくりくることもないと思うほど、更科に似て明るく社交的で、平和主義者かつバース平等主義者だった。二人が誰かを悪く言っているのを聞いたことがなかったし、よくあるオメガへのからかいの言葉も一切口にしなかった。
全員部活が違った彼らの共通の趣味がゲームであり、会話の半分以上がその話題だった記憶がある。
そこに時籐を引き入れてくれたのは、ゲームが好きで話が合うというのもあっただろうが、ベータの部活仲間から避けられ孤立した自分への温情もあったのだろうと思う。
中学時代、ベータの女子はオメガの女子を弾くことがなかったので、オメガの女子達は変わらずに女子のコミュニティの中で生活できた。
だが、ベータの男子からオメガの男子への風当たりは強く、ネックガードを着けて行った日、時籐ともう一人のオメガ男子ーー下の名前は忘れたが高岸と呼んでいた記憶があるーーは一瞬にして孤立した。そして何となく二人でいるようになったが、性格が全く合わなかったのを覚えている。
その二人に声をかけてくれたのが更科達だった。
高岸はそれからまもなくしてオメガ校に転校したので時籐はクラスで一人のオメガ男子になったが、その頃には更科達とよく話すようになっていたので孤独感はなかった。
このように、時籐の中学時代は更科、吉澤、郷原ありきだった。
そして時籐は更科と再会後、ずっと二人と付き合いがあったらしい更科が引き合わせてくれたのがきっかけで、二人と再会した。
二人は既に家庭を持っており、変わらずにいい奴で、それ以来時たま四人で飲んだりゲームしたりしている。
「ああ、あいつらも良い奴だよな」
「ああ。だからあの頃は友達で逆に良かったなって思ったりもするんだよ。もし俺らが付き合ったりしてたら吉澤も郷原も気まずかったと思うし」
「まあ確かにそうかも」
「でも今は……そういう関係になりたいって思う。こういう状況だからとかじゃなく、本当にそう思う」
ここから生きて帰れる保証はない。ならば想いを今きちんと伝えねばと、時籐は本心を吐露した。すると更科は目を見開いてまじまじとこちらを見た。
「……ガチ?」
「うん」
「そう、なんだ……。じゃあ俺たち、両想いってこと?」
「まあ、そうなんじゃねえの?」
すると、更科が太陽のような笑顔になる。そして抱きしめてこようとしたが、時籐は拒否した。
「多分汗臭ぇからダメ。ダッシュで階段上り下りしたから」
「どういうこと?」
「エレベーターがカードキーないと動かないタイプでさ。部屋の表札チェックするのに階段使った。位置共有アプリゴミだな。Y軸までしかない。Z軸まで表示してくれないと」
「高さ情報な。いやそんなんしてくれたんだ。どうやってここ見つけたのかと思ってたけど……。でも正直、助かった。来てくれなかったら……」
「安心するのはまだ早ぇよ。あの人、完全にヤバい人だろ。ちょっとでも何かあったら殺されるぞ」
「だよな……。絶対に番になって戻らないと」
「うん。それで、お願いなんだけど、帰った後――俺が何と言おうと番解消してほしい」
すると、更科は微妙な表情になった。
「……俺と番になりたくないってこと?」
「そうじゃないよ。お前がどうとかじゃない。ただ、自分を失いたくないんだよ。お前に依存して、お前が世界の全てになって、お前なしじゃいられなくなるみたいな……そういうのは嫌なんだ。お前だって嫌になると思う」
「嫌になるかはわかんねぇけど、まあ確かにお前はお前のままがいいかも。俺なしじゃいられなくなるとか、そういうのちょっと想像できないし」
「だろ? だから頼むな。当然普通のやつじゃなくて後遺症残らない方、お前がいつもやってる首噛むやつな」
「わかった」
「じゃあ、ヒート起こせる?」
「今?」
「うん。あっち行って緊張で出来なかったら詰むだろ」
アルファの強制ヒートは基本的に法律で禁じられているので、遵法精神のある善良な市民は普通使わない。ましてやアルファ亜種の更科が使ったことがあるとは思えなかった。
なぜならば、強制ヒートは性フェロモンを使ってするからだ。
それが出ないとされているアルファ亜種は通常強制ヒートは起こせないと言われており、できた例というのも聞いたことがない。だから、更科がヒートを起こせるかさえわからなかった。
だが、やるしかない。時籐のヒート周期はまだ先だし、フェロモン過敏症とはいえ一日更科と一緒にいるぐらいの濃厚接触がなければヒートは起こらないからだ。それは、滝口や柿崎に話を聞くために一日行動を共にした日の帰りの車でヒートを起こしかけたことからもわかる。
すなわち、更科が今ここで強制ヒートを使い、時籐のヒートを起こさせる必要がある。それができなければ夏目に土下座して許しを請い、あの狂気じみた『片付け』をやるほかないだろう。
「そ、そうだな。でも俺やったことないんだよな……できるかな」
「できるよ。性フェロモン出てるから、やろうと思えばできる」
「えーと……こう?」
「うーん……」
「ダメ?」
「何も感じない」
「んー……じゃあこう?」
そうやってしばらく試行錯誤したのち、不意に更科のフェロモン臭が強くなった。
甘い匂いが脱衣所内に充満し、それを吸い込むと体が火照り始めた。
「あっ、いい感じかも」
「マジ?」
「うん。そのまま続けて」
「OK」
すると間もなく、心拍数が上がり、全身が熱くなって性衝動が湧き上がってきた。ヒートが来たのだ。
その瞬間に確信する。更科からは疑いようもなく性フェロモンが出ていると。これなら番になれるだろう。
それが分かった時籐は身の内を荒れ狂う欲望を制御しようとしながら言った。
「もういいよ。ヒートになった」
「うん。あれ? でも俺ラットになれないんだけど、それでも番になれるんだっけ?」
そこで時籐は重大な見落としに気付いた。更科は、治験の後遺症でフェロモン受容器の機能が低下しており、他人のフェロモンを感じ取れないのだ。
性フェロモンを発する器官と受容する器官は別であり、更科は受容器だけが機能不全になっている状態だ。
すなわち、ヒートのオメガの性フェロモンに反応してラットになることもない。そして番はラットのアルファがヒートのオメガの首筋を噛むことでしか成立しない―――。
「いや無理だな。やっべぇ、忘れてた……つうかお前も気づかなかったのかよ?」
「何かテンパってて気づかんかった」
「クッソ……じゃあ無理か……」
ここまで来て番になれないとは。時籐はがっくりと気落ちし、ため息をついた。
せっかく更科の気持ちも知れて、ヒートも起こせて、番になって帰れるかと思ったのに、最後の最後で阻まれた。しかもヒートになってしまったこの状態で、アルファが何人もいる密室で夏目の言う片付けをしなければならない。地獄ではないか。
浅知恵で番になろうとしたのが間違いだった。最初から解体作業を選んでいれば、状況はまだマシだったのに……。
そんなことを思いながら落ち込んでいると、更科が不思議そうな声を上げた。
「あれ? 何か匂いするかも」
「何が?」
「お前の匂い……感じる。今まではしなかったのに……」
不思議そうに首を捻る更科に、もしかすると多量のオメガフェロモンを浴びてフェロモン受容器が刺激されたのかもしれない、とひらめく。実際にそのようにしてフェロモン不感症を治療したという話を、どこかで読んだ気がした。
「ラット起こせるかもしんねえ……。汗臭くて悪いけど、ちょっと触っていい?」
「いや別に臭くねえよ。それよりむしろ……」
そう言って更科が手を伸ばした時籐の腕を掴み、抱き寄せる。そして顔を近づけて来たので目を瞑ると、唇に柔らかいものが触れた。
時籐は相手の背に手を回し、角度を変えてその唇を味わった後、誘うように口を少し開いた。
すると、遠慮がちに舌が入ってきて口腔内を舐め始める。それに舌を絡め合わせると驚くほどの快楽が腰を直撃した。
気持ちいい。そしてそれ以上に幸福だ。
誰かと触れ合ってこれほどの幸福を感じたのは初めてだった。
「んっ……」
「マジでお前……めっちゃいい匂い」
更科は耳元でそう囁き、時籐を壁に押し付けてそのズボンの中に手を入れ、緩く勃ち上がった性器を下着の上から撫でた。
「っ……!」
「もうガチガチじゃん」
笑いを含んだ声で言われ、少しムッとして相手のモノを触り返す。それはズボンごしでもわかるほど硬くなっていた。
「お前こそ……人のこと言えねえんじゃねーの?」
「はっ……そう、かも」
悩ましげに眉を寄せた表情に刺激され、顔を引き寄せて再びキスをする。
そうしてお互いの性器を触りながらキスを繰り返しているうち、不意に更科のフェロモン臭が強くなった。
自分でもそれを感じたらしい更科が声を漏らす。
「あっ……」
「ラットになったな」
「マジで? 俺、治ったんだ……」
「良かったじゃん。じゃあ一旦シャワー……」
そう言って壁と更科の間から抜け出し、浴室に行こうとする。しかし、後ろから抱きしめられて足が止まった。
「俺も」
「は? 一人で入りたいんだけど」
「えー、一緒に入ろうよ。全部洗ってやるからさ」
「嫌だ」
にべもなく断ると、更科はあざとい上目遣いでゴネ出した。
「いいじゃん。これが人生最後のシャワーかもしれないんだぜ。一緒に入ろうよー」
「キモ。言っとくけど、付き合っても一緒に風呂とかねえから」
「えー」
「じゃあ先入るわ」
時籐はゴネている更科を放置して浴室に入った。中は大理石張りの広々とした浴室で、中央に猫足の浴槽があった。
時籐は火照った全身を洗い、最後に後ろをほぐしにかかった。最近そういった機会も全くなく、自慰でも後ろを使うことはほとんどないので、硬く閉じてしまっている。
ただでさえ治験の影響でフェロモンが不安定な更科といざ行為に及んだ時に、準備で手間取ってラットが終わるのだけは避けたいし、自分自身も痛い思いをしたくない。
それでボディソープを潤滑油代わりにして後孔をほぐした。
ヒートが来ているので体はどこもかしこも敏感で、指を入れただけでも腰がじんじんと疼き、先走りがとろりと垂れる。
「はぁ……」
時籐は息をつきながら指二本入るところまで穴を拡げ、指を引き抜いた。
「ッ……」
その刺激にさえ体が反応する。もう後ろは濡れて、さらなる刺激を求めてヒクついていた。
時籐はそれをできるだけ意識しないように最後にサッと体を流し、浴室を出た。すると、外で待っていた更科の視線が濡れた体に突き刺さる。
「あんま見るなよ……」
「あっ、ごめん。じゃあ次入ってくるわ。ここで待ってて」
「おう」
更科は服を脱ぎ捨て、浴室に入った。まもなくシャワーの音がし始める。
時籐は体を拭き、腰にバスタオルを巻いて更科が出てくるのを待った。部屋は暖かいし、どうせ脱ぐのだから服を着るのは二度手間だろう。
そうしてしばらく待っていると更科が戻ってくる。体は引き締まっていて、贅肉はほとんどない。そのうっすら割れた腹筋に、痛々しい痣がいくつもあった。
時籐はそれを見て僅かに眉を顰めたのち、自分の体を見下ろして腹が出ていないことを確認した。普段腹筋だけでもしておいて良かったと心底安堵する。
せっかく両想いになったのに、体を見て秒で幻滅されたら目も当てられない。
そんなことを考えながら待っていると、体を拭き終えた更科が腰にタオルを巻き、近づいてきた。
幸いまだ体臭は変わっておらず、ラットが継続している。
更科は時籐を抱きしめて言った。
「巻き込んでごめんな」
「いいって」
「番になって帰ろう。何かあっても……お前のことだけは絶対帰すから」
「一緒に帰るんだよ。だろ?」
「……うん」
頷いて体を離した更科はじっとこちらを見て、その後キスをした。触れるだけの優しいキスに、相手の気持ちが伝わってくる。
それを受け止め、束の間更科の唇を味わってから体を離し、相手に続いて脱衣所を出た。すると、夏目がこちらを見て声を上げた。
「遅っそいわぁ~。待ちくたびれたで。ワインもほら、一本空けてもうた」
そう言って空のワインボトルを持ち上げてみせた夏目に謝る。
「すいません……」
「京男の矜持だけでそっち行くの我慢したわ。俺野暮は嫌いやねん」
「京男……?」
「実家が京都やねん。組の事務所は大阪にあるんやけど」
それで十五年前に夏目が起こした傷害致死事件が京都で起きていたことに合点がいく。おそらくは幼馴染み夫夫も京都に住んでいたのだろう。
「そうなんですね」
「ていうか自分ら綺麗な体しとんなぁ。二人ともイケメンやし、エロビ撮って売ったら儲かりそうや」
「………」「………」
「ははっ、冗談冗談。そんなことせんよ」
こわばった顔をしている更科と顔を見合わせる。冗談と言われても信じられるわけがない。
その時、初めて迷いが生じた。そんな動画を撮られて拡散されたら、一生それを背負っていくことになる。会う人会う人全てに、動画を見られたのではないかという疑いが生じ、まともな社会生活が送れなくなるだろう。
そして、その被害に遭うのは時籐だけではない。更科まで巻き込むことになる。
そんなリスクを冒してまでここでセックスしていいのか。それならまだ死体処理を手伝った方がいいのではないか……?
今更迷い始めた時籐の心の内を読んだかのように、更科が言った。
「撮るのはやめてください。譲さん――本名は拓海さんでしたっけ? 拓海さん以外には見せたくないんで」
「可愛いこと言うやん。ほんま、何でオメガじゃなかったんや……」
そう嘆く夏目を横目に、更科が時籐の腕を引いてベッドに連れて行った。そして躊躇う時籐に、大丈夫だから、と小声で言う。
それにしばし考えたのち、ここまで来たらもう引き返せないか、とネックガードに手をかけ、中に収納されているダイヤル錠を取り出した。
強靭なワイヤーでネックガードと繋がっているそれを解錠し、ネックガードを外す。久しぶりに首元がスースーして落ち着かない気分になった。
更科は首を気にする時籐をゆっくりとベッドの上に押し倒し、聞いた。
「俺がこっち側でいい?」
つまり抱く側でいいかということだろう。
他のケースと違い、アルファとオメガ男性が番う場合にはオメガが抱く側でも番が成立する。それは、番成立の条件が発情状態で性行為をすることと、アルファがオメガの首を噛むことだからだ。
そのため、理論的にはオメガの男が抱く側でも番は成立し、実際そういったカップルも少数ではあるが存在する。
しかし、アルファの男ーーといっても若宮だけだがーーにそんな確認をされたことがなかったのでわざわざ聞かれるのは少し意外だった。時籐はその問いに悪戯心で聞き返した。
「ダメっつったら抱かせてくれんの?」
すると更科は葛藤するような顔で答えた。
「……まあ、お前なら」
だいぶ嫌そうだ。それを見て、時籐は言った。
「このままでいいよ。でもちゃんとゴムは着けろよ」
「うん」
更科はほっとしたように頷き、顔を近づけてきた。目を瞑ると唇に柔らかい感触がして、キスされたのだとわかる。
唇の感触を味わっていると、互いの腰に巻いていたタオルがはだけ、体が露わになる。時籐はできるだけ夏目の視線を意識しないようにしながら更科の背に手を回し、口を開いて相手の舌を招じ入れた。
すると、更科の手が体を這い始め、触れられた場所から電流のような快楽が流れてくる。乳首をはじかれて息を詰めると、更科は一旦キスをやめて胸を舐め始めた。
「ちょっ、そこっ……やめろよっ……」
その制止を無視し、更科はそこをねぶるように舐めたり先端を舌先でほじくったりし始めた。
ぴちゃぴちゃと卑猥な水音がして、死にたくなってくる。若宮に開発されつくした体が目覚めようとしていた。
「マジでっ……もういいからっ……ッ……」
更科の頭を掴んで押しのけようとすると、それを諫めるように局部を触られて体が跳ねる。
「んっ……!」
そうして先走りで濡れたそれをしごかれる。ダイレクトな快楽が腰を直撃し、体の力が抜けていった。
「はっ……はぁ……」
時籐は吐息をついて、更科の局部に手を伸ばし、既に硬くなっているそれを刺激し始めた。すると、しつこく胸を舐めていた更科が一瞬動きを止め、吐息を漏らす。
そして快楽に染まった顔を上げ、再びキスをしてきた。
「んっ……むっ……」
入ってくる舌と舌を絡め合わせながら、更科のソコをしごき続ける。すると更科がかすかに声を漏らし、喘いだ。
「はっ……」
美しい顔の眉間にしわが寄り、悩ましげな表情になる。それに煽られて手と舌の動きを激しくすると、更科は一旦身を引いた。そして首筋、胸、腹と唇を這わせてゆき、最後に勃ち上がった性器を口に咥えた。
熱い粘膜に包まれた瞬間、意図せずして体が震える。背中をのけぞらせて内ももを閉じようとすると、更科がそれを押さえこみ、飴のように性器を舐め始めた。
「ッ……!」
裏筋に沿って舐め上げられ、先端をぐりぐりとほじくられて体がビクビクと痙攣する。
ヒートで感度が上がった体には辛いほどの刺激だった。自らの先走りと更科の唾液で濡れ、充血しきった性器をじゅぶじゅぶとしごかれ、どんどん体が高まってゆく。
そして我慢の限界が来た時、視界が一瞬真っ白になった。
「……もう出るから、放せっ……!……あぁっ……!」
そう言って必死に更科を押しのけようとしたが、相手は動かなかった。その直後に体が一瞬硬直し、熱が放出される。
更科は最後の一滴まで搾り取るように吸い上げ、それを口で受け止めた。そしてティッシュに出し、そばのゴミ箱に捨てる。
「はぁ、はぁ、はぁ……だから放せって言ったのに……」
息をつきながらそう言うと相手は微笑んで、何も言わずにまた時籐自身を咥えた。
「あっ、ちょっと……! 今出したばっか……あぁっ……」
イって敏感になった性器の先端を集中的に責められ、体が跳ねる。恐ろしいほどの快楽に足をじたばたさせるとそれを押さえ込まれ、ひたすら舐められ、舌でしごかれ、また性器が硬くなり始める。
「くっ……更科、もう無理っ、出ないからっ……!」
すると更科は一旦舌の動きを止めて言った。
「出るだろ」
「出ねえって! お前いい加減にしろよ……あっ!」
更科は文句を言う時籐の口を塞ぐかのように動きを再開した。そして容赦なく責め立て、再び高みへと導いてゆく。
時籐はその動きに翻弄され、悪態をつきながら再び達しかけた。
「んっ……あっ、もう……!」
「イく?」
「これやばっ、イ、イく―――」
その時、ふっと更科の動きが止まった。怪訝に思って下を見ると、相手が性器を口から出して、見たこともないような顔で言った。
「イかせてほしい?」
「………」
「なあ、イかせてほしい?」
「……ああ」
「ふふっ、いいよ」
更科は満足げに笑い、舌なめずりするかのように赤い唇を舐めて口淫を再開した。
先ほどまでよりもっと激しく性器をしごきたてられ、最後の一押しとなって射精に至る。
長く深い絶頂に悲鳴じみた嬌声が勝手に漏れ、思わず手で口を塞いた。
「――――ッ!」
快楽に背筋を貫かれ、脳がスパークする。腰がガクガクと揺れ、心臓はバクバクいっていた。
更科は先ほどと同じようにイった後に性器を吸い上げ、精液を搾り取った。そして再び性器を舐め始める。
絶頂の余韻に浸っていた時籐は、そこで本気で更科の頭を押しやった。
「もうやめろ、バカ」
「何で? まだイけるだろ」
「無理だって。もう死ぬ」
すると、更科はにやりと笑って唇を後孔へ移動させた。
「じゃあ次はこっちで」
そして制止する間もなく時籐の足を開かせて持ち上げ、尻穴を露わにしてそこに口をつけた。
「ッ……」
先ほどから疼いていた後ろを舐められ、気持ちよさに声を漏らす。そこはもう、侵入者を待ちわびるかのように濡れそぼっていた。
くちゅくちゅと音を立てながら舌が肛門の周りを這いまわる。舌は焦らすようにそこをしばらく舐めたのち、つぷりと中に入ってきた。
「んっ……」
そしてゆっくり抜き差しを始める。腰がじんじんとした痺れてきて、粘膜がヒクついているのが自分でもわかった。
更科はそうやってしばらく愛撫をしてから舌を抜き、指を挿入した。
細く長い指がゆっくり入ってきて胎内を探り、しこりを見つけてさすり出す。前立腺への刺激に体がビクッとしたのを見逃さず、指はそこを執拗に触った。
「っ、っ、っ……」
やがて二本になり、抜き差しし始めた指がそこを押し込み刺激する。それに合わせて穴が収縮し、足が痙攣した。
だんだん声が抑えられなくなって、口を塞いだ手の隙間から喘ぎ声が漏れてゆく。
「んっ……んんっ……!」
指は三本になり、ぐりぐりと前立腺を押し潰してくる。動きが次第に速くなり、ひときわ強くしこりを押された瞬間、時籐は絶頂した。
「んぅっ――――!」
体をビクビクと震わせ、出さずに絶頂する。すると指が出て行き、それに代わるようにして熱い剛直が入ってきた。
そして蕩け切ったアナルを貫き、しこりを押し潰した。
「あぁっ! あっ、あぁっ……」
もう手で口を塞ぐのも忘れて声を上げる。更科は欲望にぎらついた目でこちらを見下ろしながら、腰を動かし始めた。
最初はゆっくり、徐々にスピードを速めて敏感になった内壁を突く。そのたびに腫れあがったしこりが刺激され、そのたびに後ろだけでイった。
長い絶頂に息も絶え絶えで悲鳴じみた声で喘いでいると、更科が首筋に顔を埋め、舌を這わせだす。
時籐は残っている理性をかき集めて言った。
「痕付けるなよ」
「ん……」
そうしてねぶるように首筋を舐める。背中に手を回すと、相手の動きが速くなった。
硬いモノで奥を突かれ、頭が飛びそうになるぐらいの快楽に目の前が真っ白になる。
そうだった、ヒートのセックスとはこういうものだった、と思い出しながらされるがままになっていると、やがて更科が動きを止めた。そして身を引いて時籐の中から出て行く。
ずるりとソレが出て行く感覚に身を震わせていると、更科が快楽で上気した顔をこちらに近づけ、囁いた。
「うつ伏せになって」
それに従い、四つん這いになると再び後ろから貫かれる。その衝撃でペニスから蜜が溢れ、シーツに垂れていく。
それを更科にまた触られ、背後から突かれ、許容量オーバーの刺激に頭が飛びそうになる。
もはや腕で体を支えることもできずにシーツに突っ伏し、耳を覆いたくなるような卑猥な音と次第に激しくなる抽挿に耐えていると、やがて更科が言った。
「首、噛むよ」
それに頷いてみせると、うなじに軽い痛みが走った。それと同時にものすごい快楽と多幸感に包まれ、全身が一瞬硬直する。
「あぁっ……!」
時籐はかすれた悲鳴を上げ、だいぶ薄くなった白濁を吐き出した。
それとほぼ同時に更科が呻いて身を震わせ、動かなくなる。そしてずるりとペニスを引き抜き、どさりと時籐の隣に横たわった。
時籐はシーツに突っ伏したまま荒い息をついた。そして、絶頂の余韻の中で番は成立しただろうか、とぼんやり思う。
首を噛まれたときの多幸感と圧倒的な快楽、あれは若宮にされた時と同じだった。だが、若宮の時にあったような相手への執着心が湧いてこないのだ。
あの時、時籐は瞬時に若宮に心を奪われ、相手のことしか考えられなくなった。
だが、今は違う。更科のことは好きだが、それは今までと同じ「好き」なのだ。おそらく番依存症になっていないのだろう。
それで不安になって更科を見ると、目が合った相手は愛しげに時籐の髪を撫でた。
「番になった?」
小声で聞くとどうでもよさそうに、さあ、と答える。時籐は身を起こし、夏目を見た。
すると二本目のワインをつまみと共に飲んでいた相手は笑みを浮かべてこちらを見た。
「おめでとさん。良かったなぁ、番になれて。利人君治験でフェロモンおかしなったいうてたから無理かなと思ったけど。愛の力やな」
「じゃあ……」
「ああ。帰ってええで」
二人は顔を見合わせ、安堵の息を吐いた。ベタベタの体をバスタオルで申し訳程度に拭き、夏目に会釈をして洋服を取りに脱衣所に行こうとすると、相手は思い立ったように言った。
「ああそれからな、これからは月イチでうち来てな。二人で」
「「えっ?」」
思わず振り向くと、夏目はにこやかに言った。
「俺が番にしたんやから最後まで責任持たなアカンやろ? 番のキューピットとして二人の幸せ見届けな」
「えっと……」
「な?」
「でも、時籐は忙しいですし、毎回来れるかは……」
更科が控えめに断ろうとすると、夏目は同じ顔のまま言った。
「ていうのは建前に決まっとるやん。二人が約束守ってるか、確認したいだけや。利人君は簡単に番解消できるからな。あ~もう全部言わすなや。野暮やわぁ」
「すいません。……わかりました」「はい……」
そう答えるほかない。この場で、二人に拒否権はないも同然だった。
「ほんなら服着て帰ってええよ。あとうちのに下まで送らせるわ」
「すいません」
会釈をして服を取りに脱衣所に行こうとすると、夏目が付け加える。
「ああ、あと稼ぎたなったらまたおいでや。これとおんなじの見せてくれたらお小遣いあげるわ。なかなか酒が美味かった」
「はは、まぁ考えときます~」
更科が若干引きつった笑みを浮かべながら言うと、夏目は頷いて立ち上がった。
そして寝室の扉を開け、ほんならまた、と言って去っていった。
去り際に見えた後ろ姿の腰の辺りに、ズボンと衣服の間に挟まれた拳銃が見えて息を呑む。寝室で何か一つでも間違った言動をしたら、あっさり『処理』されたあのアルファのように殺されたに違いなかった。
二人は無言で手早く服を着、夏目の部下に見送られてマンションを出た。そして更科が車を停めていた近くのパーキングへ行き、車に乗り込む。
エンジンがかかり、車が動き出した瞬間に全身の緊張が解け、体が脱力した。先ほどまでの強気が嘘のように、膝が笑っている。時籐はそれでどれほど恐怖を感じていたかを実感した。
吐息をつくと、それに呼応するように更科も深々と息を吐き出す。そうしてしばらく無言で運転していたが、夏目のマンションからある程度離れたところまで来ると、口を開いた。
「ちょっとその辺の店寄っていい?」
「トイレ?」
「いや、手震えて事故りそうだから」
そう言ってハンドルから上げてみせた更科の左手は、確かに震えていた。時籐は痙攣している右手を上げてみせ、言った。
「俺も」
さっきから手の震えが止まらないし、足の力も抜けていて立てそうにない。腰が抜けているのかもしれなかった。
更科は近くにあったドラッグストアの駐車場に車を停め、エンジンを切った。そして手の震えを押さえつけるように両手を組み、呟くように言った。
「……ヤバかったな」
「マジでやべぇよ……」
「震えヤバい、しばらく運転できねえかも」
「したらその辺のパーキングに停めてタクシーで帰ればいいよ」
「だな。……つうか何なんだよあれ……夢じゃねえよな?」
先ほどとは打って変わってこわばった表情でこちらに問いかけてくる。時籐と同様アドレナリンが切れて一気に恐怖に襲われたのだろう。
「あの人、ヤクザだったんだな……」
「昔事件起こしたとか言ってたけど、よくそんな記事見つけたな」
「偶然。顔写真載ってたからさ。載ってなかったら気付かなかったと思う」
時籐がそう答えると、更科はしばし考えたのちに言った。
「それ見つけてくれなかったらヤバかったわ。あの人のこと……殺せって言われたけど、できなかったと思う」
「普通無理だよ」
その可能性を想像し、背筋がぞっとする。時籐が夏目の事件の記事を見つけなかった未来で、更科は死んでいたに違いなかった。
「けど、何で来てくれたの? 相手ヤクザだってわかってたんだろ? 警察に言うなり色々あったと思うけど」
「警察なんて証拠がなきゃ何もしないだろ。せいぜい玄関先で話聞いて終わりだよ。それに、無理に上がり込んだら何か違法行為だろ。住居侵入とか。警察はそんなことしないしできないから」
「にしたって一人で……つうか無理矢理家入ったの?」
少し驚いたように聞かれ、時籐は顎を引く。
「お前がいるっていうの、匂いでわかったから。話してても埒開かなかったしさ」
「肝据わってんなー、すげえ」
「肝据わってるとかじゃないよ。お前じゃなきゃ行かなかった」
「そう……なんだ」
「ただの友達のために命懸けられるほど善人じゃない。お前だから……お前だったから……」
そう言うと、シートベルトを外した更科が身を乗り出してキスしてきた。
「ちょっ……何だよ、いきなり」
戸惑いと照れで体を押しやると、更科は真剣な目でこちらを覗き込んで言った。
「ありがとう、助けてくれて。お前はマジで俺の王子様だよ」
「何それ……」
「……俺、あそこで死ぬと思った。お前が散々忠告してくれたのにそれも聞かずに突っ走って、ヤクザに目付けられて殺されるんだって。でも自業自得だって思った。これまでも何回か危ない目に遭ってきたけど大丈夫だったから、自分だけは大丈夫って正直舐めてた……。だから罰が当たったんだって思った。でもお前が来てくれて……マジで助かったって思った。お前、あの人の前でもめちゃめちゃ堂々としてたし、何とかしてくれるって……。で、本当に何とかしてくれた。マジで……ありがとう」
長々と思いを吐露した更科に、時籐は少し考えてから言った。
「……いいよ。でもこれからはもうこういう無茶はやめてほしい。そういう仕事だからある程度リスクあることしなきゃないってのはわかるけど、ヤバそうな案件の時は相手と二人きりにならないとか複数で行くとか、せめて工夫してほしい。毎回助けに行けるわけじゃないから」
「わかった。次から気をつける」
「でも本当、帰ってこれてよかったよ」
「マジでそう。でも、番解消はできなくなっちゃったな……。お前、番作らない主義だろ? なんとか誤魔化して番解消する方法見つけるよ。こうなっちゃったの、俺のせいだし」
「いや、いい。バレたら大変なことになるだろうし、修司と龍司のこともあるからリスク負いたくない。ああいう人の情報網ってすごそうだし」
「そう? でも……」
「何か今回は番依存にならなかったっぽいし、別にいいよ」
「確かに今まで通りだな」
更科の言う通り、番契約の前後で更科に対する感情にこれといった変化はなかった。若宮相手の時のような病的な執着心や依存心が出てこないのだ。きっと今回は発症しなかったのだろう。
番になったオメガの七割程度が番依存になるといわれているが、確率でなる時とならない時があるのだろうと思う。
時籐は頷き、言う。
「うん。だからいいよ。お前が嫌じゃなければ」
「嫌じゃないよ。ていうか、番になれるなんて思わなかったし。俺、番になれたんだな」
「多分治験の副作用か何かで特殊なフェロモン出るようになったんだと思う。俺みたいなフェロモン過敏症のオメガしか感知できない類のやつ。後で調べてみようと思ってるけど」
「へー、そんなことあるんだ」
「調べないとわからんけどね。もしかしたら先天的にそうっていう可能性もあるし……」
「そっかー」
そこでふと、中学時代にも更科から金木犀の香りがしていたことを思い出す。アルファ亜種だと知った後はあれが固有フェロモンなのだろうと思っていたが、よく考えてみれば今日夏目のマンションの玄関先で同じ匂いをかいでいる。そして、部屋の向こうから香るほどの強い匂いは性フェロモンしかしない。
すなわち、あの金木犀の匂いは更科の性フェロモンであり、それは中学時代から出ていたのではないか? だとすれば治験は関係なく、生まれつきということになる。
それが更科のみの特殊なケースなのか、アルファ亜種に共通のものなのか――ふと確かめたくなった時籐は聞いた。
「なあ、お前ってアルファ亜種の知り合いとかいる?」
「いるっちゃいるけど、何で?」
「お前が性フェロモン出てるって言ったじゃん? あれがお前だけなのか、他のアルファ亜種の人もそうなのか、ちょっと興味あってさ。良かったら紹介してくれない?」
「確かにそれ気になるな。オッケー、あと連絡してみるわ。アルファ亜種の自助グループ主催してる人なんだけど」
「自助グループ?」
更科が顎を引く。
「そう。似たような悩み抱えた人たちが集まって悩み話したりする会。ほら、アルファ亜種って生きにくいからさ。学生時代に色々悩んでた時に親が色々調べてくれて見つけたんだよ。最近はたまにしか行ってないけど、そこの主催の人の連絡先知ってるから」
「へえ、そういうグループあるんだ。いいな」
「うん。結構いいよ」
その話を聞き、なるほどそれで更科にはアルファ亜種特有の斜に構えた感じがないのかと納得する。そういったサポートグループに若いうちから通って、アルファ亜種としての悩みを相談できる場があったからひねくれずに育ったのだろう。
そういったグループカウンセリングや精神医療を軽く見る人もいるが、その力は意外と侮れない。
「じゃあ連絡よろしく」
「オッケー。……じゃあちょっと店行ってくるわ。さすがに何も買わないのもな。何かいるものある?」
「何か甘いモン食いたい。チョコとか」
「飲み物は?」
「お茶」
「オッケー、行ってくる」
「いってら」
更科は一旦車から降りて店に行き、菓子と飲み物を買ってきた。ビールも買い込んでいるところを見ると、今夜は飲むようだ。まあ、今晩は酒でも入れないととても眠れないだろう。
時籐は戻ってきた更科とぽつぽつと話しながらしばらくその場で休憩した。
三十分もそうしていると、だんだんと心が落ち着いてくる。その頃には手の震えも治まっていた。
更科の様子を窺うと、同様に落ち着いてきたらしかった。
更科は、食べ終わった菓子パンの袋が入ったレジ袋をダッシュボードにしまうと、再びハンドルを握った。
「よし、じゃあ行くか」
「行けそう?」
「うん。もう大丈夫」
更科は頷いて車を発進させた。
そうして九死に一生を得た二人はほうほうのていで帰宅したのだった。
室内はアンティーク調の家具やカーテンで統一されており、欧州の住宅を感じさせる温かみのある部屋だ。
夏目は中に入り、奥に二つ並んだ扉を開けてみせた。
「バス・トイレ付き。いい部屋やろ? デザイナーさんに内装頼んだんや」
「………」
「そしたらネックガードの暗証番号取りに行ってもらおか。住所は?」
そう言われ、時籐は思い切って提案した。
「あの、自分がここに残るので、更科に取りに行ってもらってもいいですか?」
すると、夏目はこちらを推し量るように見たのち、頷いた。
「……エエで」
「更科、頼める?」
そう聞くと、相手は頷いた。
「オッケー。どこ?」
時籐は小声でネックガードの箱の場所を教え、家の鍵を渡した。そしてゴムも買ってきて欲しい、と耳打ちする。持ち合わせがなかったからだ。
すると、更科は緊迫した表情で頷き、部屋を出て行った。
ヒート中のオメガは特に着床率が高く、避妊具なしで行為に及べばほぼ百パーセント妊娠する。実際、若宮に番にされた日も避妊具なしでセックスしたせいで妊娠し、そのせいで大学を中退せざるをえなくなった。だから、避妊には細心の注意を払う必要があった。
そんなことを考えながらその場に立ち尽くしていると、夏目から座るよう促され、向かいのソファに腰を下ろす。
そして勧められるがままにワインを飲んだが、全く味がしなかった。しかし、口を潤すことはできる。
舌が上顎に張り付くほど口がカラカラだったのでワインで潤していると、夏目に話しかけられた。
「利人君、戻ってくると思う?」
思わず顔を上げると、夏目は意地悪く笑っていた。
「………」
「戻ってこぉへんかったら、君終わりやなぁ。連帯責任ってやつや」
「………」
「あのアルファのこと、信じれる?」
「はい」
「何を根拠に? 人なんてな、簡単に裏切るで。特にアルファは」
「更科は……そういう奴じゃないんで」
「ふぅん? 信じてるんや」
「自分が逆の立場でもそうするんで」
すると夏目はワイングラスを置き、探るようにこちらを覗き込んだ。
「愛してるんか」
「……そうかもしれません」
先ほど夏目が言った「好きでもない奴のために命を懸けるわけがない」という言葉を思い出す。
ここにいるのが更科か家族でなければ、ここへは来なかった。夏目が前科者のヤクザだと知りながら、単身乗り込むような無茶はとてもできなかった。無事を祈りながら帰りを待つだけだっただろう。
だから、更科が家族と同じぐらい大事な存在であるのは確かだ。それが愛だというのなら、多分そうなのだろう。
「なら、何で今まで番にならんかったん?」
「……自分を失いたくないからです。番に依存して、それが世界の全てになったら自分が自分でなくなってしまうから」
「でも、それが本来の自分かもよ? オメガの幸せは番と添い遂げることやと言われとる。オメガの本来がそっちだとは思わんの?」
「思わないです。意思をなくすぐらいなら番にならない方がいい。自分はそう思います」
すると、夏目はワイングラスを揺らしながら唇の端を引き上げた。
「へえ。君面白い考え方するね。名前は?」
「時籐です」
「下の名前は?」
「啓です」
一瞬偽名を使おうかとも思ったが、更科の素性がバレている以上無意味だと思い、本名を名乗る。
こういう人間相手に簡単にバレるような嘘をつくことが賢明だとは思わなかった。
「啓君、啓君ね。ほんなら、もしこういうことがなかったら一生番にならずに過ごすつもりやったん?」
「……はい」
「そう。まぁそれも一つの考え方やな。けどな、好きな相手と番になれるって幸せなことなんやで」
内心、余計なお世話だと思ったが、そんなことを口に出せるわけもなく、曖昧に頷く。
「はあ……」
「もしあの子が戻ってきて番になったら、逃がさんように捕まえとき。あの子もなぁ、多分本気やで。どんなに痛めつけられても君がうちの帳簿見たこと、一言も漏らさんかった。素人でそんなことできる奴はなかなかいいひん。よっぽど啓君のこと守りたかったんやろ」
「………」
「予言するわ。君はいつか俺に感謝する」
そう言われても、今はただただ無理強いされているとしか思えないし、感謝などもってのほかだ。むしろ恐怖しかない。
だが、本音を言うわけにもいかず、時籐はあいまいに相槌を打った。
夏目は上機嫌で絶対そうやで、と言い、その後も番の絆についてや更科のこと、ひいては自分と幼馴染みの思い出話を喋り続けた。酒が入ってより饒舌になったらしい。
時籐は、夏目がここまで喋る理由が、自分達を生きて帰す予定がないから、ではないことを祈りながらひたすら相槌を打ち続けたのだった。
◇
永遠にも思える夏目の昔話が幼馴染みとの高校時代の回想シーンに入った時、不意にドアが開く音がした。顔を上げると、息を切らした更科が立っていた。
すると夏目がワイングラスを置き、声をかける。
「戻ったか」
「はい」
更科は返事をし、コートのポケットからネックガードの暗証番号の入った封筒を取り出した。そしてコートを脱ぎ捨て、こちらに近づいてきてその封筒を差し出す。時籐はそれを受け取り、番号を確認した。
暗証番号は『1324』だった。
それを再び封筒にしまい、ズボンのポケットに入れる。すると、夏目が更科に話しかけた。
「啓君とな、話しとってん。利人君が戻ってくるかどうか」
「……そうですか」
「啓君は信じとったで。一瞬たりとも疑わんかった……。で、君はその信頼に応えたわけや」
夏目の言葉に、更科がこちらを見る。目と目が合うと、相手は見たこともないような真剣な表情で言った。
「置いてくわけがない」
「ほうかほうか。相思相愛ってわけや。ほんならラブラブの二人に愛を紡いでもらおか。最高の愛の結晶を見せてや」
いよいよという雰囲気になり、時籐は遠慮がちに聞いた。
「先にシャワー……いいですか?」
すると夏目が頷く。
「ええよ」
ワイングラス片手に上機嫌でそう言った夏目に、二人きりで話すチャンスだと思い、更科に合図をして一緒に脱衣所に入る。
扉を閉め、夏目の視線が遮断された途端に緊張が一気に緩み、それまで感じなかった疲労感がどっとのしかかってきた。
時籐は深々と息を吐き出し、壁にもたれかかって腕組みをした。そして近くに立った更科の顔の痣に目をやる。白い肌に青黒い痣が目立ち、痛々しかった。
「殴られたのか」
「ああ。でも、あの人の方が酷かった……。『威圧』使って抵抗しようとしてたけど、その度ボコされて……本当に容赦なかった。けど、最初から生かすつもりなんてなかったんだな……」
あの人、というのは殺されたアルファのことだろう。
「だろうな……」
「マジでありえねぇよ……。つうか巻き込んじゃってごめん」
恐怖にこわばった顔で謝ってくる更科に首を振る。
「いや、こっちこそ。つうかマジで番になってくれんの?」
「いや……ていうか、何か作戦あるんだと思ってた。通風孔から逃げるとか?」
そう言って脱衣所内を見回し、逃げられる場所を探す更科に、やはり番になる気はなかったのだと少し落胆する。そうだ、ただの友達相手に番契約などできるわけがないではないか。いくら更科がお人好しといえども限度がある。勝手に期待していた自分が恥ずかしかった。
「まあ……そんな感じ」
曖昧に頷き、浴室の扉を開けて脱出口を探す更科に続く。しかし、残念ながら人が通れそうな通風孔はなく、窓は十センチほどしか開かず、外に出られそうなところはなかった。
「いや無理かー……映画とかだとうまく脱出できるんだけどな」
「………」
「これ譲さん……じゃなくて拓海さん?だっけ?に土下座するしかねぇかな。俺アルファ亜種なんで無理でしたっつって」
「そのことなんだけど……番になれる可能性はあると思う」
「えっ、何で?」
「この前俺がヒート起こしかけたの、覚えてる? 滝口さんとかと会った日の帰り」
「ああ。それが何?」
「実はあん時、まだその時期じゃなかったんだ。俺、薬で周期管理してるからあんなこと滅多にない。けどヒートになりかけて、その後本当に来た。あれは……お前の性フェロモンに誘発されたんじゃないかと思うんだよ。フェロモン過敏症の人ってそういうの起こりやすいから」
失踪した榎本菜々の調査のため、友人の滝口と元恋人の柿崎に話を聞きに行った日、時籐は更科と一日中一緒にいた。そして帰りの車で時期外れのヒートになりかけ、偶然薬を持っていた更科からヒート抑制剤を貰って何とかことなきをえた。しかし、その後まもなくして本格的なヒートとなり、職場に多大な迷惑をかけたのだった。
時籐は、あの時ヒートを誘発したのは更科の性フェロモンなのではないか、と推測していた。
「そんなことあるかなぁ? 他にそんなんなった人いないけど」
「あの日、薬飲んでた?」
そう問うと、更科は少し考えてから首を振った。
「フェロモン抑制剤? いや、忘れたと思う」
「やっぱりそうか……。あとさっきさ、ここに来た時、玄関からお前がいるのわかったんだよ。匂いで」
「マジで?」
「ああ。性フェロモンが出てないんだったらそんなんありえないだろ? 過敏症だったとしても、そこまでの感度はない」
通常、固有フェロモンの匂いは弱く、例えフェロモン過敏症だとしても扉の向こうから感知できるほどの匂いはしない。
また、『威圧』『誘導』等の行動系フェロモンはそれを使った時しか匂いがせず、匂いを感知した時点で行動指令の影響を受ける。『威圧』ならば体が動かなくなり、『誘導』ならば指令主の声が聞こえてきて体が勝手に動くのだ。
時籐は玄関先で匂いを感知した時、そのどちらの影響も受けなかった。すなわち、あれは性フェロモンだった可能性が高い。
そして、性フェロモンが出ているならば番契約ができる。それで時籐は、更科は番になれるのではないか、と推測したのだった。
「………」
「だから、お前は番作れる可能性が高いと思う。治験の影響か何かでフェロモン出るようになった特殊なケースじゃねえかな」
「じゃあ……番になる?」
そう聞かれ、時籐は深々と頭を下げた。
「頼む。こんなこと頭おかしいのはわかってるけど、どうしても無理なんだよ……解体とか……あんなことできるわけない。考えるだけで頭がおかしくなりそうだ……。本当にお前にとってはいい迷惑だと思うし、そんなことする義理ねえし、巻き込んで申し訳ないけど、これしかねえんだよ。頼む……! 後で迷惑料も払うから番になってくれ」
「迷惑料?」
「こんなことタダでさせるわけにはいかねえだろ?」
すると、更科の雰囲気が変わった。どうしたのかと顔を上げると、なんともいえない面持ちで言った。
「そんなのいらねえよ」
「けど、困るよ。俺の気が済まねえから貰ってくれ。十? 二十?」
「だから、いらねえって」
「いやいや」
そうやってしばらく押し問答をしていると、更科は苛々したように頭をガリガリと掻き、叫ぶように言った。
「ああもう! だから、いくら貰ったって好きでもねえ奴と番になんてなれねぇよ!」
「えっ……?」
更科の言葉に一瞬頭が真っ白になる。今、好きと言ったか?
それは友達としてとか、そういうことなのか?
混乱していると、更科はぷいっと横を向いてごにょごにょと言った。
「……だから、金はいらないってことだよ……」
「好きって……友達としてってこと?」
「友達とセックスするのか?」
「………」
「そういうことだよ。だから、金はいらない。お前が気に病む必要もない。……ごめん、黙ってて」
「……いつから?」
更科はうーん、と天を仰ぐようにして少し考えてから答えた。
「最初は多分、中学」
「中学!?」
「いやそっからずっととかじゃないよ?さすがに。けど、かっけぇなーって思ってた。でも中学の頃はベータの子も多かったし、男同士なんてありえないみたいな雰囲気だっただろ? だから勘違いかなって思ってた。でも去年再会して……やっぱそういう感情だったんだってわかった。っていうのもさ、俺フェロモンぶっ壊れてからそういう欲全然なかったんだよ。枯れちゃったっていうか……。だから、お前と再会したときも下心とかは全然なかった。これはマジで信じて欲しいんだけど……。けど、お前と過ごしてたらだんだんそうじゃなくなってきて……それで、ああそういう感情だったんだって気付いたわけ」
「けど……全然そんなそぶりなかったじゃん」
「そりゃ隠してたからな。友達からそんな目で見られたらキモいだろ」
「……そう、なんだ……」
更科はそこで再びこちらを見て、無理矢理笑顔を作った。そして痛々しい笑みで言う。
「でも安心しろよ、帰ったら速攻番解消するし。あと俺、別れた後友達に戻れる派だから、戻ったらまた友達として?遊べるし。お前が気まずくなければ。いや、付き合ってたとかじゃないんだけど、でもほらちょっと似たような状況っていうか……。いや俺何言ってんだろ、変だな」
居心地悪そうに頭をガリガリと掻いて視線を彷徨わせる更科に、時籐は意を決して告白した。
「俺も好き、だと思う……」
「えっ?」
更科は虚を突かれたように目をまん丸にしてこちらを凝視した。
その視線を受け止めて、訥々と告白する。
「中学の頃、かっけぇって思ってくれてたって言っただろ? 俺も思ってた。かっけぇっていうか……お前はマジでキラキラしてたよ。なんていうかな、お前は恒星なんだよ。周りの人を明るくする。中学で初めてネックガード着けてった日……皆に避けられた。でもお前だけは話しかけてくれた。めちゃくちゃ普通に、それカッケェじゃんって言ってくれたんだよ。もう忘れたかもしんないけど」
「そんなこともあったっけなぁ……?」
首を捻る更科に、あれは下心から来る優しさではなかったのだと確信する。そうであれば覚えているはずだし、何より時籐にだけ声をかけたはずだからだ。
しかし、更科は覚えておらず、またクラスの他のオメガにも同様にフォローを入れていた。
そういうところが、たまらなく魅力的だと思う。
「あったよ。お前はマジでオメガに本当の意味で優しかったと思う。オメガとして見ないっていうか……。俺だけじゃなくて、皆お前がいてくれてよかったって思ってたと思う」
「いや、そんな大層なことしてないと思うけどなぁ……。だっておんなじ人間じゃん? オメガってなった途端に変な目で見る方がおかしいよ。まあでも、ベータ家庭の子が多かったし、普段あんま触れ合わないから慣れてなかったのかな? 俺は家族の半分オメガだから普通だったけど」
その言葉に、それは違うと心の中で思う。アルファ家庭でも、いやアルファ家庭だからこそオメガへの差別心が強いアルファはいる。というかむしろそちらが大多数である。更科のようなタイプのアルファは非常に珍しいのだ。
しかし、説明すると長くなりそうなので時籐は相手の言い分を否定せずに話を続けた。
「かもな。でも実際助かってたよ。俺、お前がいなかったらオメガ校に転校してたと思うし」
「えっ、そんなに? ならまあ良かったよ。あんま覚えてねーけど」
時籐は頷いた。
「だからってわけでもないけど、そんときからいいなって思ってた。でもお前が言うように男同士なんてって空気だったから恋愛感情とかじゃないんだろうなって思ってた。でも高校でオメガの友達も増えて、そうとは限らないんだって知った。相手がアルファだったら男女関係なく好きになることもあるんだって。そんで……薄々気付いたんだと思う。更科のこと……好きだったんだって」
「えっ、じゃあ何で言ってくれなかったの? 高校の時そこそこ遊んでたじゃん」
更科の言う通り、高校は別々だったが変わらずゲーム仲間だったし、たまに休日一緒に出かけたりもしていた。といってもゲーム関連のイベントやeスポーツの試合観戦が主だったが。
だから言う機会が無かったわけではない。しかし、更科の気持ちを察知していなかった時籐にそんな勇気があるわけもなかったし、はっきりと自分の気持ちを自覚していたわけでもなかった。
「いや、さすがに言えない。そんなにはっきり自覚してた訳でもねえし」
「そっかぁ」
「お前だって最近まで自覚なかったんだろ?」
「まあ確かに」
「だから高校んときは無理だった。多分、その後会うこともなかったらそのまま自覚もせずに終わったんじゃねえかな。それはお互いそうだと思う」
「一般校の弊害出たな、男女の括りで見ちゃうっていう」
「かもな。けど、純粋に友達として接してくれたのが嬉しかったのもあるんだよ。そんな奴他にいなくて……お前と郷原と吉澤ぐらいだった、そういうの気にせず接してくれる奴」
郷原純と吉澤直哉は中学時代の友人である。二人ともベータで元々更科と親しかったが、時籐がオメガだと知れてクラスで孤立するようになってからよく話すようになった相手だ。
類は友を呼ぶということわざがこれほどしっくりくることもないと思うほど、更科に似て明るく社交的で、平和主義者かつバース平等主義者だった。二人が誰かを悪く言っているのを聞いたことがなかったし、よくあるオメガへのからかいの言葉も一切口にしなかった。
全員部活が違った彼らの共通の趣味がゲームであり、会話の半分以上がその話題だった記憶がある。
そこに時籐を引き入れてくれたのは、ゲームが好きで話が合うというのもあっただろうが、ベータの部活仲間から避けられ孤立した自分への温情もあったのだろうと思う。
中学時代、ベータの女子はオメガの女子を弾くことがなかったので、オメガの女子達は変わらずに女子のコミュニティの中で生活できた。
だが、ベータの男子からオメガの男子への風当たりは強く、ネックガードを着けて行った日、時籐ともう一人のオメガ男子ーー下の名前は忘れたが高岸と呼んでいた記憶があるーーは一瞬にして孤立した。そして何となく二人でいるようになったが、性格が全く合わなかったのを覚えている。
その二人に声をかけてくれたのが更科達だった。
高岸はそれからまもなくしてオメガ校に転校したので時籐はクラスで一人のオメガ男子になったが、その頃には更科達とよく話すようになっていたので孤独感はなかった。
このように、時籐の中学時代は更科、吉澤、郷原ありきだった。
そして時籐は更科と再会後、ずっと二人と付き合いがあったらしい更科が引き合わせてくれたのがきっかけで、二人と再会した。
二人は既に家庭を持っており、変わらずにいい奴で、それ以来時たま四人で飲んだりゲームしたりしている。
「ああ、あいつらも良い奴だよな」
「ああ。だからあの頃は友達で逆に良かったなって思ったりもするんだよ。もし俺らが付き合ったりしてたら吉澤も郷原も気まずかったと思うし」
「まあ確かにそうかも」
「でも今は……そういう関係になりたいって思う。こういう状況だからとかじゃなく、本当にそう思う」
ここから生きて帰れる保証はない。ならば想いを今きちんと伝えねばと、時籐は本心を吐露した。すると更科は目を見開いてまじまじとこちらを見た。
「……ガチ?」
「うん」
「そう、なんだ……。じゃあ俺たち、両想いってこと?」
「まあ、そうなんじゃねえの?」
すると、更科が太陽のような笑顔になる。そして抱きしめてこようとしたが、時籐は拒否した。
「多分汗臭ぇからダメ。ダッシュで階段上り下りしたから」
「どういうこと?」
「エレベーターがカードキーないと動かないタイプでさ。部屋の表札チェックするのに階段使った。位置共有アプリゴミだな。Y軸までしかない。Z軸まで表示してくれないと」
「高さ情報な。いやそんなんしてくれたんだ。どうやってここ見つけたのかと思ってたけど……。でも正直、助かった。来てくれなかったら……」
「安心するのはまだ早ぇよ。あの人、完全にヤバい人だろ。ちょっとでも何かあったら殺されるぞ」
「だよな……。絶対に番になって戻らないと」
「うん。それで、お願いなんだけど、帰った後――俺が何と言おうと番解消してほしい」
すると、更科は微妙な表情になった。
「……俺と番になりたくないってこと?」
「そうじゃないよ。お前がどうとかじゃない。ただ、自分を失いたくないんだよ。お前に依存して、お前が世界の全てになって、お前なしじゃいられなくなるみたいな……そういうのは嫌なんだ。お前だって嫌になると思う」
「嫌になるかはわかんねぇけど、まあ確かにお前はお前のままがいいかも。俺なしじゃいられなくなるとか、そういうのちょっと想像できないし」
「だろ? だから頼むな。当然普通のやつじゃなくて後遺症残らない方、お前がいつもやってる首噛むやつな」
「わかった」
「じゃあ、ヒート起こせる?」
「今?」
「うん。あっち行って緊張で出来なかったら詰むだろ」
アルファの強制ヒートは基本的に法律で禁じられているので、遵法精神のある善良な市民は普通使わない。ましてやアルファ亜種の更科が使ったことがあるとは思えなかった。
なぜならば、強制ヒートは性フェロモンを使ってするからだ。
それが出ないとされているアルファ亜種は通常強制ヒートは起こせないと言われており、できた例というのも聞いたことがない。だから、更科がヒートを起こせるかさえわからなかった。
だが、やるしかない。時籐のヒート周期はまだ先だし、フェロモン過敏症とはいえ一日更科と一緒にいるぐらいの濃厚接触がなければヒートは起こらないからだ。それは、滝口や柿崎に話を聞くために一日行動を共にした日の帰りの車でヒートを起こしかけたことからもわかる。
すなわち、更科が今ここで強制ヒートを使い、時籐のヒートを起こさせる必要がある。それができなければ夏目に土下座して許しを請い、あの狂気じみた『片付け』をやるほかないだろう。
「そ、そうだな。でも俺やったことないんだよな……できるかな」
「できるよ。性フェロモン出てるから、やろうと思えばできる」
「えーと……こう?」
「うーん……」
「ダメ?」
「何も感じない」
「んー……じゃあこう?」
そうやってしばらく試行錯誤したのち、不意に更科のフェロモン臭が強くなった。
甘い匂いが脱衣所内に充満し、それを吸い込むと体が火照り始めた。
「あっ、いい感じかも」
「マジ?」
「うん。そのまま続けて」
「OK」
すると間もなく、心拍数が上がり、全身が熱くなって性衝動が湧き上がってきた。ヒートが来たのだ。
その瞬間に確信する。更科からは疑いようもなく性フェロモンが出ていると。これなら番になれるだろう。
それが分かった時籐は身の内を荒れ狂う欲望を制御しようとしながら言った。
「もういいよ。ヒートになった」
「うん。あれ? でも俺ラットになれないんだけど、それでも番になれるんだっけ?」
そこで時籐は重大な見落としに気付いた。更科は、治験の後遺症でフェロモン受容器の機能が低下しており、他人のフェロモンを感じ取れないのだ。
性フェロモンを発する器官と受容する器官は別であり、更科は受容器だけが機能不全になっている状態だ。
すなわち、ヒートのオメガの性フェロモンに反応してラットになることもない。そして番はラットのアルファがヒートのオメガの首筋を噛むことでしか成立しない―――。
「いや無理だな。やっべぇ、忘れてた……つうかお前も気づかなかったのかよ?」
「何かテンパってて気づかんかった」
「クッソ……じゃあ無理か……」
ここまで来て番になれないとは。時籐はがっくりと気落ちし、ため息をついた。
せっかく更科の気持ちも知れて、ヒートも起こせて、番になって帰れるかと思ったのに、最後の最後で阻まれた。しかもヒートになってしまったこの状態で、アルファが何人もいる密室で夏目の言う片付けをしなければならない。地獄ではないか。
浅知恵で番になろうとしたのが間違いだった。最初から解体作業を選んでいれば、状況はまだマシだったのに……。
そんなことを思いながら落ち込んでいると、更科が不思議そうな声を上げた。
「あれ? 何か匂いするかも」
「何が?」
「お前の匂い……感じる。今まではしなかったのに……」
不思議そうに首を捻る更科に、もしかすると多量のオメガフェロモンを浴びてフェロモン受容器が刺激されたのかもしれない、とひらめく。実際にそのようにしてフェロモン不感症を治療したという話を、どこかで読んだ気がした。
「ラット起こせるかもしんねえ……。汗臭くて悪いけど、ちょっと触っていい?」
「いや別に臭くねえよ。それよりむしろ……」
そう言って更科が手を伸ばした時籐の腕を掴み、抱き寄せる。そして顔を近づけて来たので目を瞑ると、唇に柔らかいものが触れた。
時籐は相手の背に手を回し、角度を変えてその唇を味わった後、誘うように口を少し開いた。
すると、遠慮がちに舌が入ってきて口腔内を舐め始める。それに舌を絡め合わせると驚くほどの快楽が腰を直撃した。
気持ちいい。そしてそれ以上に幸福だ。
誰かと触れ合ってこれほどの幸福を感じたのは初めてだった。
「んっ……」
「マジでお前……めっちゃいい匂い」
更科は耳元でそう囁き、時籐を壁に押し付けてそのズボンの中に手を入れ、緩く勃ち上がった性器を下着の上から撫でた。
「っ……!」
「もうガチガチじゃん」
笑いを含んだ声で言われ、少しムッとして相手のモノを触り返す。それはズボンごしでもわかるほど硬くなっていた。
「お前こそ……人のこと言えねえんじゃねーの?」
「はっ……そう、かも」
悩ましげに眉を寄せた表情に刺激され、顔を引き寄せて再びキスをする。
そうしてお互いの性器を触りながらキスを繰り返しているうち、不意に更科のフェロモン臭が強くなった。
自分でもそれを感じたらしい更科が声を漏らす。
「あっ……」
「ラットになったな」
「マジで? 俺、治ったんだ……」
「良かったじゃん。じゃあ一旦シャワー……」
そう言って壁と更科の間から抜け出し、浴室に行こうとする。しかし、後ろから抱きしめられて足が止まった。
「俺も」
「は? 一人で入りたいんだけど」
「えー、一緒に入ろうよ。全部洗ってやるからさ」
「嫌だ」
にべもなく断ると、更科はあざとい上目遣いでゴネ出した。
「いいじゃん。これが人生最後のシャワーかもしれないんだぜ。一緒に入ろうよー」
「キモ。言っとくけど、付き合っても一緒に風呂とかねえから」
「えー」
「じゃあ先入るわ」
時籐はゴネている更科を放置して浴室に入った。中は大理石張りの広々とした浴室で、中央に猫足の浴槽があった。
時籐は火照った全身を洗い、最後に後ろをほぐしにかかった。最近そういった機会も全くなく、自慰でも後ろを使うことはほとんどないので、硬く閉じてしまっている。
ただでさえ治験の影響でフェロモンが不安定な更科といざ行為に及んだ時に、準備で手間取ってラットが終わるのだけは避けたいし、自分自身も痛い思いをしたくない。
それでボディソープを潤滑油代わりにして後孔をほぐした。
ヒートが来ているので体はどこもかしこも敏感で、指を入れただけでも腰がじんじんと疼き、先走りがとろりと垂れる。
「はぁ……」
時籐は息をつきながら指二本入るところまで穴を拡げ、指を引き抜いた。
「ッ……」
その刺激にさえ体が反応する。もう後ろは濡れて、さらなる刺激を求めてヒクついていた。
時籐はそれをできるだけ意識しないように最後にサッと体を流し、浴室を出た。すると、外で待っていた更科の視線が濡れた体に突き刺さる。
「あんま見るなよ……」
「あっ、ごめん。じゃあ次入ってくるわ。ここで待ってて」
「おう」
更科は服を脱ぎ捨て、浴室に入った。まもなくシャワーの音がし始める。
時籐は体を拭き、腰にバスタオルを巻いて更科が出てくるのを待った。部屋は暖かいし、どうせ脱ぐのだから服を着るのは二度手間だろう。
そうしてしばらく待っていると更科が戻ってくる。体は引き締まっていて、贅肉はほとんどない。そのうっすら割れた腹筋に、痛々しい痣がいくつもあった。
時籐はそれを見て僅かに眉を顰めたのち、自分の体を見下ろして腹が出ていないことを確認した。普段腹筋だけでもしておいて良かったと心底安堵する。
せっかく両想いになったのに、体を見て秒で幻滅されたら目も当てられない。
そんなことを考えながら待っていると、体を拭き終えた更科が腰にタオルを巻き、近づいてきた。
幸いまだ体臭は変わっておらず、ラットが継続している。
更科は時籐を抱きしめて言った。
「巻き込んでごめんな」
「いいって」
「番になって帰ろう。何かあっても……お前のことだけは絶対帰すから」
「一緒に帰るんだよ。だろ?」
「……うん」
頷いて体を離した更科はじっとこちらを見て、その後キスをした。触れるだけの優しいキスに、相手の気持ちが伝わってくる。
それを受け止め、束の間更科の唇を味わってから体を離し、相手に続いて脱衣所を出た。すると、夏目がこちらを見て声を上げた。
「遅っそいわぁ~。待ちくたびれたで。ワインもほら、一本空けてもうた」
そう言って空のワインボトルを持ち上げてみせた夏目に謝る。
「すいません……」
「京男の矜持だけでそっち行くの我慢したわ。俺野暮は嫌いやねん」
「京男……?」
「実家が京都やねん。組の事務所は大阪にあるんやけど」
それで十五年前に夏目が起こした傷害致死事件が京都で起きていたことに合点がいく。おそらくは幼馴染み夫夫も京都に住んでいたのだろう。
「そうなんですね」
「ていうか自分ら綺麗な体しとんなぁ。二人ともイケメンやし、エロビ撮って売ったら儲かりそうや」
「………」「………」
「ははっ、冗談冗談。そんなことせんよ」
こわばった顔をしている更科と顔を見合わせる。冗談と言われても信じられるわけがない。
その時、初めて迷いが生じた。そんな動画を撮られて拡散されたら、一生それを背負っていくことになる。会う人会う人全てに、動画を見られたのではないかという疑いが生じ、まともな社会生活が送れなくなるだろう。
そして、その被害に遭うのは時籐だけではない。更科まで巻き込むことになる。
そんなリスクを冒してまでここでセックスしていいのか。それならまだ死体処理を手伝った方がいいのではないか……?
今更迷い始めた時籐の心の内を読んだかのように、更科が言った。
「撮るのはやめてください。譲さん――本名は拓海さんでしたっけ? 拓海さん以外には見せたくないんで」
「可愛いこと言うやん。ほんま、何でオメガじゃなかったんや……」
そう嘆く夏目を横目に、更科が時籐の腕を引いてベッドに連れて行った。そして躊躇う時籐に、大丈夫だから、と小声で言う。
それにしばし考えたのち、ここまで来たらもう引き返せないか、とネックガードに手をかけ、中に収納されているダイヤル錠を取り出した。
強靭なワイヤーでネックガードと繋がっているそれを解錠し、ネックガードを外す。久しぶりに首元がスースーして落ち着かない気分になった。
更科は首を気にする時籐をゆっくりとベッドの上に押し倒し、聞いた。
「俺がこっち側でいい?」
つまり抱く側でいいかということだろう。
他のケースと違い、アルファとオメガ男性が番う場合にはオメガが抱く側でも番が成立する。それは、番成立の条件が発情状態で性行為をすることと、アルファがオメガの首を噛むことだからだ。
そのため、理論的にはオメガの男が抱く側でも番は成立し、実際そういったカップルも少数ではあるが存在する。
しかし、アルファの男ーーといっても若宮だけだがーーにそんな確認をされたことがなかったのでわざわざ聞かれるのは少し意外だった。時籐はその問いに悪戯心で聞き返した。
「ダメっつったら抱かせてくれんの?」
すると更科は葛藤するような顔で答えた。
「……まあ、お前なら」
だいぶ嫌そうだ。それを見て、時籐は言った。
「このままでいいよ。でもちゃんとゴムは着けろよ」
「うん」
更科はほっとしたように頷き、顔を近づけてきた。目を瞑ると唇に柔らかい感触がして、キスされたのだとわかる。
唇の感触を味わっていると、互いの腰に巻いていたタオルがはだけ、体が露わになる。時籐はできるだけ夏目の視線を意識しないようにしながら更科の背に手を回し、口を開いて相手の舌を招じ入れた。
すると、更科の手が体を這い始め、触れられた場所から電流のような快楽が流れてくる。乳首をはじかれて息を詰めると、更科は一旦キスをやめて胸を舐め始めた。
「ちょっ、そこっ……やめろよっ……」
その制止を無視し、更科はそこをねぶるように舐めたり先端を舌先でほじくったりし始めた。
ぴちゃぴちゃと卑猥な水音がして、死にたくなってくる。若宮に開発されつくした体が目覚めようとしていた。
「マジでっ……もういいからっ……ッ……」
更科の頭を掴んで押しのけようとすると、それを諫めるように局部を触られて体が跳ねる。
「んっ……!」
そうして先走りで濡れたそれをしごかれる。ダイレクトな快楽が腰を直撃し、体の力が抜けていった。
「はっ……はぁ……」
時籐は吐息をついて、更科の局部に手を伸ばし、既に硬くなっているそれを刺激し始めた。すると、しつこく胸を舐めていた更科が一瞬動きを止め、吐息を漏らす。
そして快楽に染まった顔を上げ、再びキスをしてきた。
「んっ……むっ……」
入ってくる舌と舌を絡め合わせながら、更科のソコをしごき続ける。すると更科がかすかに声を漏らし、喘いだ。
「はっ……」
美しい顔の眉間にしわが寄り、悩ましげな表情になる。それに煽られて手と舌の動きを激しくすると、更科は一旦身を引いた。そして首筋、胸、腹と唇を這わせてゆき、最後に勃ち上がった性器を口に咥えた。
熱い粘膜に包まれた瞬間、意図せずして体が震える。背中をのけぞらせて内ももを閉じようとすると、更科がそれを押さえこみ、飴のように性器を舐め始めた。
「ッ……!」
裏筋に沿って舐め上げられ、先端をぐりぐりとほじくられて体がビクビクと痙攣する。
ヒートで感度が上がった体には辛いほどの刺激だった。自らの先走りと更科の唾液で濡れ、充血しきった性器をじゅぶじゅぶとしごかれ、どんどん体が高まってゆく。
そして我慢の限界が来た時、視界が一瞬真っ白になった。
「……もう出るから、放せっ……!……あぁっ……!」
そう言って必死に更科を押しのけようとしたが、相手は動かなかった。その直後に体が一瞬硬直し、熱が放出される。
更科は最後の一滴まで搾り取るように吸い上げ、それを口で受け止めた。そしてティッシュに出し、そばのゴミ箱に捨てる。
「はぁ、はぁ、はぁ……だから放せって言ったのに……」
息をつきながらそう言うと相手は微笑んで、何も言わずにまた時籐自身を咥えた。
「あっ、ちょっと……! 今出したばっか……あぁっ……」
イって敏感になった性器の先端を集中的に責められ、体が跳ねる。恐ろしいほどの快楽に足をじたばたさせるとそれを押さえ込まれ、ひたすら舐められ、舌でしごかれ、また性器が硬くなり始める。
「くっ……更科、もう無理っ、出ないからっ……!」
すると更科は一旦舌の動きを止めて言った。
「出るだろ」
「出ねえって! お前いい加減にしろよ……あっ!」
更科は文句を言う時籐の口を塞ぐかのように動きを再開した。そして容赦なく責め立て、再び高みへと導いてゆく。
時籐はその動きに翻弄され、悪態をつきながら再び達しかけた。
「んっ……あっ、もう……!」
「イく?」
「これやばっ、イ、イく―――」
その時、ふっと更科の動きが止まった。怪訝に思って下を見ると、相手が性器を口から出して、見たこともないような顔で言った。
「イかせてほしい?」
「………」
「なあ、イかせてほしい?」
「……ああ」
「ふふっ、いいよ」
更科は満足げに笑い、舌なめずりするかのように赤い唇を舐めて口淫を再開した。
先ほどまでよりもっと激しく性器をしごきたてられ、最後の一押しとなって射精に至る。
長く深い絶頂に悲鳴じみた嬌声が勝手に漏れ、思わず手で口を塞いた。
「――――ッ!」
快楽に背筋を貫かれ、脳がスパークする。腰がガクガクと揺れ、心臓はバクバクいっていた。
更科は先ほどと同じようにイった後に性器を吸い上げ、精液を搾り取った。そして再び性器を舐め始める。
絶頂の余韻に浸っていた時籐は、そこで本気で更科の頭を押しやった。
「もうやめろ、バカ」
「何で? まだイけるだろ」
「無理だって。もう死ぬ」
すると、更科はにやりと笑って唇を後孔へ移動させた。
「じゃあ次はこっちで」
そして制止する間もなく時籐の足を開かせて持ち上げ、尻穴を露わにしてそこに口をつけた。
「ッ……」
先ほどから疼いていた後ろを舐められ、気持ちよさに声を漏らす。そこはもう、侵入者を待ちわびるかのように濡れそぼっていた。
くちゅくちゅと音を立てながら舌が肛門の周りを這いまわる。舌は焦らすようにそこをしばらく舐めたのち、つぷりと中に入ってきた。
「んっ……」
そしてゆっくり抜き差しを始める。腰がじんじんとした痺れてきて、粘膜がヒクついているのが自分でもわかった。
更科はそうやってしばらく愛撫をしてから舌を抜き、指を挿入した。
細く長い指がゆっくり入ってきて胎内を探り、しこりを見つけてさすり出す。前立腺への刺激に体がビクッとしたのを見逃さず、指はそこを執拗に触った。
「っ、っ、っ……」
やがて二本になり、抜き差しし始めた指がそこを押し込み刺激する。それに合わせて穴が収縮し、足が痙攣した。
だんだん声が抑えられなくなって、口を塞いだ手の隙間から喘ぎ声が漏れてゆく。
「んっ……んんっ……!」
指は三本になり、ぐりぐりと前立腺を押し潰してくる。動きが次第に速くなり、ひときわ強くしこりを押された瞬間、時籐は絶頂した。
「んぅっ――――!」
体をビクビクと震わせ、出さずに絶頂する。すると指が出て行き、それに代わるようにして熱い剛直が入ってきた。
そして蕩け切ったアナルを貫き、しこりを押し潰した。
「あぁっ! あっ、あぁっ……」
もう手で口を塞ぐのも忘れて声を上げる。更科は欲望にぎらついた目でこちらを見下ろしながら、腰を動かし始めた。
最初はゆっくり、徐々にスピードを速めて敏感になった内壁を突く。そのたびに腫れあがったしこりが刺激され、そのたびに後ろだけでイった。
長い絶頂に息も絶え絶えで悲鳴じみた声で喘いでいると、更科が首筋に顔を埋め、舌を這わせだす。
時籐は残っている理性をかき集めて言った。
「痕付けるなよ」
「ん……」
そうしてねぶるように首筋を舐める。背中に手を回すと、相手の動きが速くなった。
硬いモノで奥を突かれ、頭が飛びそうになるぐらいの快楽に目の前が真っ白になる。
そうだった、ヒートのセックスとはこういうものだった、と思い出しながらされるがままになっていると、やがて更科が動きを止めた。そして身を引いて時籐の中から出て行く。
ずるりとソレが出て行く感覚に身を震わせていると、更科が快楽で上気した顔をこちらに近づけ、囁いた。
「うつ伏せになって」
それに従い、四つん這いになると再び後ろから貫かれる。その衝撃でペニスから蜜が溢れ、シーツに垂れていく。
それを更科にまた触られ、背後から突かれ、許容量オーバーの刺激に頭が飛びそうになる。
もはや腕で体を支えることもできずにシーツに突っ伏し、耳を覆いたくなるような卑猥な音と次第に激しくなる抽挿に耐えていると、やがて更科が言った。
「首、噛むよ」
それに頷いてみせると、うなじに軽い痛みが走った。それと同時にものすごい快楽と多幸感に包まれ、全身が一瞬硬直する。
「あぁっ……!」
時籐はかすれた悲鳴を上げ、だいぶ薄くなった白濁を吐き出した。
それとほぼ同時に更科が呻いて身を震わせ、動かなくなる。そしてずるりとペニスを引き抜き、どさりと時籐の隣に横たわった。
時籐はシーツに突っ伏したまま荒い息をついた。そして、絶頂の余韻の中で番は成立しただろうか、とぼんやり思う。
首を噛まれたときの多幸感と圧倒的な快楽、あれは若宮にされた時と同じだった。だが、若宮の時にあったような相手への執着心が湧いてこないのだ。
あの時、時籐は瞬時に若宮に心を奪われ、相手のことしか考えられなくなった。
だが、今は違う。更科のことは好きだが、それは今までと同じ「好き」なのだ。おそらく番依存症になっていないのだろう。
それで不安になって更科を見ると、目が合った相手は愛しげに時籐の髪を撫でた。
「番になった?」
小声で聞くとどうでもよさそうに、さあ、と答える。時籐は身を起こし、夏目を見た。
すると二本目のワインをつまみと共に飲んでいた相手は笑みを浮かべてこちらを見た。
「おめでとさん。良かったなぁ、番になれて。利人君治験でフェロモンおかしなったいうてたから無理かなと思ったけど。愛の力やな」
「じゃあ……」
「ああ。帰ってええで」
二人は顔を見合わせ、安堵の息を吐いた。ベタベタの体をバスタオルで申し訳程度に拭き、夏目に会釈をして洋服を取りに脱衣所に行こうとすると、相手は思い立ったように言った。
「ああそれからな、これからは月イチでうち来てな。二人で」
「「えっ?」」
思わず振り向くと、夏目はにこやかに言った。
「俺が番にしたんやから最後まで責任持たなアカンやろ? 番のキューピットとして二人の幸せ見届けな」
「えっと……」
「な?」
「でも、時籐は忙しいですし、毎回来れるかは……」
更科が控えめに断ろうとすると、夏目は同じ顔のまま言った。
「ていうのは建前に決まっとるやん。二人が約束守ってるか、確認したいだけや。利人君は簡単に番解消できるからな。あ~もう全部言わすなや。野暮やわぁ」
「すいません。……わかりました」「はい……」
そう答えるほかない。この場で、二人に拒否権はないも同然だった。
「ほんなら服着て帰ってええよ。あとうちのに下まで送らせるわ」
「すいません」
会釈をして服を取りに脱衣所に行こうとすると、夏目が付け加える。
「ああ、あと稼ぎたなったらまたおいでや。これとおんなじの見せてくれたらお小遣いあげるわ。なかなか酒が美味かった」
「はは、まぁ考えときます~」
更科が若干引きつった笑みを浮かべながら言うと、夏目は頷いて立ち上がった。
そして寝室の扉を開け、ほんならまた、と言って去っていった。
去り際に見えた後ろ姿の腰の辺りに、ズボンと衣服の間に挟まれた拳銃が見えて息を呑む。寝室で何か一つでも間違った言動をしたら、あっさり『処理』されたあのアルファのように殺されたに違いなかった。
二人は無言で手早く服を着、夏目の部下に見送られてマンションを出た。そして更科が車を停めていた近くのパーキングへ行き、車に乗り込む。
エンジンがかかり、車が動き出した瞬間に全身の緊張が解け、体が脱力した。先ほどまでの強気が嘘のように、膝が笑っている。時籐はそれでどれほど恐怖を感じていたかを実感した。
吐息をつくと、それに呼応するように更科も深々と息を吐き出す。そうしてしばらく無言で運転していたが、夏目のマンションからある程度離れたところまで来ると、口を開いた。
「ちょっとその辺の店寄っていい?」
「トイレ?」
「いや、手震えて事故りそうだから」
そう言ってハンドルから上げてみせた更科の左手は、確かに震えていた。時籐は痙攣している右手を上げてみせ、言った。
「俺も」
さっきから手の震えが止まらないし、足の力も抜けていて立てそうにない。腰が抜けているのかもしれなかった。
更科は近くにあったドラッグストアの駐車場に車を停め、エンジンを切った。そして手の震えを押さえつけるように両手を組み、呟くように言った。
「……ヤバかったな」
「マジでやべぇよ……」
「震えヤバい、しばらく運転できねえかも」
「したらその辺のパーキングに停めてタクシーで帰ればいいよ」
「だな。……つうか何なんだよあれ……夢じゃねえよな?」
先ほどとは打って変わってこわばった表情でこちらに問いかけてくる。時籐と同様アドレナリンが切れて一気に恐怖に襲われたのだろう。
「あの人、ヤクザだったんだな……」
「昔事件起こしたとか言ってたけど、よくそんな記事見つけたな」
「偶然。顔写真載ってたからさ。載ってなかったら気付かなかったと思う」
時籐がそう答えると、更科はしばし考えたのちに言った。
「それ見つけてくれなかったらヤバかったわ。あの人のこと……殺せって言われたけど、できなかったと思う」
「普通無理だよ」
その可能性を想像し、背筋がぞっとする。時籐が夏目の事件の記事を見つけなかった未来で、更科は死んでいたに違いなかった。
「けど、何で来てくれたの? 相手ヤクザだってわかってたんだろ? 警察に言うなり色々あったと思うけど」
「警察なんて証拠がなきゃ何もしないだろ。せいぜい玄関先で話聞いて終わりだよ。それに、無理に上がり込んだら何か違法行為だろ。住居侵入とか。警察はそんなことしないしできないから」
「にしたって一人で……つうか無理矢理家入ったの?」
少し驚いたように聞かれ、時籐は顎を引く。
「お前がいるっていうの、匂いでわかったから。話してても埒開かなかったしさ」
「肝据わってんなー、すげえ」
「肝据わってるとかじゃないよ。お前じゃなきゃ行かなかった」
「そう……なんだ」
「ただの友達のために命懸けられるほど善人じゃない。お前だから……お前だったから……」
そう言うと、シートベルトを外した更科が身を乗り出してキスしてきた。
「ちょっ……何だよ、いきなり」
戸惑いと照れで体を押しやると、更科は真剣な目でこちらを覗き込んで言った。
「ありがとう、助けてくれて。お前はマジで俺の王子様だよ」
「何それ……」
「……俺、あそこで死ぬと思った。お前が散々忠告してくれたのにそれも聞かずに突っ走って、ヤクザに目付けられて殺されるんだって。でも自業自得だって思った。これまでも何回か危ない目に遭ってきたけど大丈夫だったから、自分だけは大丈夫って正直舐めてた……。だから罰が当たったんだって思った。でもお前が来てくれて……マジで助かったって思った。お前、あの人の前でもめちゃめちゃ堂々としてたし、何とかしてくれるって……。で、本当に何とかしてくれた。マジで……ありがとう」
長々と思いを吐露した更科に、時籐は少し考えてから言った。
「……いいよ。でもこれからはもうこういう無茶はやめてほしい。そういう仕事だからある程度リスクあることしなきゃないってのはわかるけど、ヤバそうな案件の時は相手と二人きりにならないとか複数で行くとか、せめて工夫してほしい。毎回助けに行けるわけじゃないから」
「わかった。次から気をつける」
「でも本当、帰ってこれてよかったよ」
「マジでそう。でも、番解消はできなくなっちゃったな……。お前、番作らない主義だろ? なんとか誤魔化して番解消する方法見つけるよ。こうなっちゃったの、俺のせいだし」
「いや、いい。バレたら大変なことになるだろうし、修司と龍司のこともあるからリスク負いたくない。ああいう人の情報網ってすごそうだし」
「そう? でも……」
「何か今回は番依存にならなかったっぽいし、別にいいよ」
「確かに今まで通りだな」
更科の言う通り、番契約の前後で更科に対する感情にこれといった変化はなかった。若宮相手の時のような病的な執着心や依存心が出てこないのだ。きっと今回は発症しなかったのだろう。
番になったオメガの七割程度が番依存になるといわれているが、確率でなる時とならない時があるのだろうと思う。
時籐は頷き、言う。
「うん。だからいいよ。お前が嫌じゃなければ」
「嫌じゃないよ。ていうか、番になれるなんて思わなかったし。俺、番になれたんだな」
「多分治験の副作用か何かで特殊なフェロモン出るようになったんだと思う。俺みたいなフェロモン過敏症のオメガしか感知できない類のやつ。後で調べてみようと思ってるけど」
「へー、そんなことあるんだ」
「調べないとわからんけどね。もしかしたら先天的にそうっていう可能性もあるし……」
「そっかー」
そこでふと、中学時代にも更科から金木犀の香りがしていたことを思い出す。アルファ亜種だと知った後はあれが固有フェロモンなのだろうと思っていたが、よく考えてみれば今日夏目のマンションの玄関先で同じ匂いをかいでいる。そして、部屋の向こうから香るほどの強い匂いは性フェロモンしかしない。
すなわち、あの金木犀の匂いは更科の性フェロモンであり、それは中学時代から出ていたのではないか? だとすれば治験は関係なく、生まれつきということになる。
それが更科のみの特殊なケースなのか、アルファ亜種に共通のものなのか――ふと確かめたくなった時籐は聞いた。
「なあ、お前ってアルファ亜種の知り合いとかいる?」
「いるっちゃいるけど、何で?」
「お前が性フェロモン出てるって言ったじゃん? あれがお前だけなのか、他のアルファ亜種の人もそうなのか、ちょっと興味あってさ。良かったら紹介してくれない?」
「確かにそれ気になるな。オッケー、あと連絡してみるわ。アルファ亜種の自助グループ主催してる人なんだけど」
「自助グループ?」
更科が顎を引く。
「そう。似たような悩み抱えた人たちが集まって悩み話したりする会。ほら、アルファ亜種って生きにくいからさ。学生時代に色々悩んでた時に親が色々調べてくれて見つけたんだよ。最近はたまにしか行ってないけど、そこの主催の人の連絡先知ってるから」
「へえ、そういうグループあるんだ。いいな」
「うん。結構いいよ」
その話を聞き、なるほどそれで更科にはアルファ亜種特有の斜に構えた感じがないのかと納得する。そういったサポートグループに若いうちから通って、アルファ亜種としての悩みを相談できる場があったからひねくれずに育ったのだろう。
そういったグループカウンセリングや精神医療を軽く見る人もいるが、その力は意外と侮れない。
「じゃあ連絡よろしく」
「オッケー。……じゃあちょっと店行ってくるわ。さすがに何も買わないのもな。何かいるものある?」
「何か甘いモン食いたい。チョコとか」
「飲み物は?」
「お茶」
「オッケー、行ってくる」
「いってら」
更科は一旦車から降りて店に行き、菓子と飲み物を買ってきた。ビールも買い込んでいるところを見ると、今夜は飲むようだ。まあ、今晩は酒でも入れないととても眠れないだろう。
時籐は戻ってきた更科とぽつぽつと話しながらしばらくその場で休憩した。
三十分もそうしていると、だんだんと心が落ち着いてくる。その頃には手の震えも治まっていた。
更科の様子を窺うと、同様に落ち着いてきたらしかった。
更科は、食べ終わった菓子パンの袋が入ったレジ袋をダッシュボードにしまうと、再びハンドルを握った。
「よし、じゃあ行くか」
「行けそう?」
「うん。もう大丈夫」
更科は頷いて車を発進させた。
そうして九死に一生を得た二人はほうほうのていで帰宅したのだった。
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