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III 豪奢な檻の中
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帰宅すると、またいつも通りの日常が待っていた。起きて、出勤して、書類の山をひたすら処理して帰る日々。章介は経理課に所属していたが、社内の人間関係は良好で、無理に飲みに付き合わされることもなく、定時で帰って責められる雰囲気もなかった。
皆ごくあっさりしていて踏み込んだことを訊かれることもない。瑞貴の叔父がご丁寧に経歴詐称の書類まで揃えてくれたので、玉東にいた過去や、コネ入社もまだバレていなかった。
立派な経歴を持っていて、本当は自分の席に座るはずだった誰かには申し訳ない気持ちだったが、その分会社に貢献することで罪滅ぼしをしてきたつもりだった。
それが報われたのか、課長から来年度の昇進が決まったと告げられたときは嬉しかった。
瑞貴はとても喜んでくれて、信と共に祝ってくれた。
瑞貴はいつもそうだ。思うところもあるだろうに、章介と仲の良い信を決して排除することがない。
そして祝い事には必ず信を呼ぶ。これは非常にありがたかった。
なぜなら信は、それまで人と深い付き合いをしてこなかった章介に初めてできた友人だったからだ。また、将棋仲間でもある。
そういう相手と会うのを制限されるのはきつい。
だが瑞貴は章介と交際を始めてすぐの頃に信を誘い、三人で食事をした。
その時に、瑞貴を選んだことは間違いではなかった、と確信したのだった。
このように懐の深い伴侶に、今は夢中になってゆくばかりである。
人を悪く言わないところも、快活さも、庇護欲をくすぐるような容姿も、全て愛していた。
だからこそ家族になる決心をした。
玉東に行く前の自分ならば男と結婚など考えられないだろう。その頃の自分に未来を教えてやっても信じないに違いない。
だが、事実は小説より奇なり、とはよく言ったもので、かつて想像もしなかったような未来が待っていた。
しかし後悔はしていない。むしろ満足だった。
このまま瑞貴といい人生を歩んでゆければと思う。
章介はそんなふうに思いながら幸せな日常を過ごしていたのだった。
◇
足元灯と窓の外からのわずかな明かりだけの薄暗い空間で、白い肉体が動く。あえかな喘ぎ声をあげ、自分の下で体をのけぞらせる、男というには華奢な体を見下ろす。相手は、快楽に指を噛んでいた。
その手を外し、口づけてやると、瑞貴は素直に口を開いて舌を受け入れた。
ゆっくり動きながら舌を絡めていると、背に手が回ってきて抱きしめられる。
前も触ってやると、背中に爪が立てられた。
「んっ……はぁっ……息、できなっ……」
「大丈夫だ」
「あっ、待ってっ……」
背中に爪が立っていれば相手は十分に感じている。あと一回位が限界かもしれない。
すでに二度吐精しているし、後ろでも何回かいっているはずだ。
そう冷静に考えながら少しペースを上げる。息を切らしながらうつろな目で中空を見上げる瑞貴の内奥は熱かった。小柄だからか、締めつけも強い。
様子を見ながら刺激を続けていると、やがて瑞貴が悲鳴じみた声を上げて絶頂した。それと共に体が弛緩し、章介も絶頂する。
動きをとめ、瑞貴の中から出ると、我に返ったらしい相手がパッと手を離した。
「あっ、ごめん、また爪……」
「平気だ」
そう言って頭を軽く撫でてやると、瑞貴は再び背中に手を回して言った。
「章ちゃん、好き」
「おれも好きだ」
「ふふ、」
頬を緩めてじっと見上げてくる相手の体をタオルで拭いてやる。
瑞貴は胸を上下させながらされるがままになっていた。うっすらあばら骨が浮き出ている細い体に、章介は眉をしかめる。
「ちょっとまた痩せたんじゃないか? 向こうの食事は口に合わないか」
「ううん、ちょっとダイエットしてるから」
「必要ないだろ」
「もー、そんなお世辞いいって。恥ずかしいから見ないで、デブだし」
そう言って瑞貴は毛布を引っ張りあげた。
章介は相手の言っている意味がわからず聞き返した。
「冗談だよな? 折れそうだぞ」
「だから本当にいいって。こないだも自分のブランドの服入んなくて恥かいたし」
「サイズいくつだ?」
「32だから、日本でいうとXS? とかかな。でも業界じゃ標準サイズだよ」
「そんなサイズは入らなくて当たり前だ。少し前から気にはなっていたが……ちゃんと食え。でないと体を壊す」
「大丈夫だよ、栄養はちゃんとサプリとかでとってるから。スムージーも飲んでるし」
「飯を食ってないだろ」
「もういいよー、この話は。せっかく久しぶりにふたりきりなんだからさぁ。ね?」
「………」
甘えたように言って自分の横をポンポンと叩いた瑞貴に、仕方なく体を横たえる。
瑞貴の過度なダイエット志向はここのところの頭痛の種だった。
充分に痩せているのに、いやむしろ痩せすぎなのに、太っていると言って全く食べようとしない。
こういう姿に恐怖を感じるのは、店にいた頃に心を病んだ友人を思い出すからだった。
その友人――湯田一樹は、信とほぼ同時期に白銀楼にきた傾城だった。だが、信や章介とは違い、自らの意志で来た口だ。借金返済のためと言っていたが、その借金がなぜできたのかは頑なに語ろうとしなかった。きっと何か深い事情があったのだろう。
だから、親に借金の形として売られてきた章介とも、犯罪組織に売り飛ばされた信とも違い、最初から仕事に意欲的だった。自ら望んで仕事をしていたのである。
いやーーそれは正確ではない。厳密には、「そういうポーズをとっていた」というべきだろう。
だが、本当はあそこでの仕事が嫌だったに違いない。一樹はある時から言動が変になり始め、眠れなくなり、やがて心を病んでいった。
ついには寝るために大量の薬を服用し、その影響でどんどん痩せていった。
瑞貴の姿は、そんな友人を思い起こさせる。だから、過度なダイエットはやめてほしかった。
一樹は玉東を出てから三年体重が戻らなかったといっていた。一度病的に減ると体重はそう簡単に戻せないのだ。
だからそういうことを伝えて忠告したかったが、瑞貴はそういう気分ではないようだった。
仕方ないから今度にするか、と思い横に寝転がって仰向けになると、瑞貴が身を寄せてきた。
そこで章介は口を開く。
「再来週の連休は休みだよな。出かけないか?」
「え、本当?」
「ああ。ホテルの予約もとった。三日あるから全部回れるな」
瑞貴は東京近郊にあるおとぎの国のテーマパークが大好きだ。
だから、仕事で疲れていそうなときは連れて行くようにしていた。
章介の言葉に瑞貴はパッと起き上がった。
「え、ほんとにほんと? やったぁ!」
「ここ二ヶ月、海外といったりきたりで忙しかっただろう。少し息抜きした方がいい」
「わあ、嬉しいなー。そうと決まったらいろいろ準備しなきゃ。はあ、今日はよく眠れそうだな。おやすみ、章ちゃん」
「おやすみ」
すぐに寝入った瑞貴に、向こうではあまり眠れていなかったのかもしれないな、と思った。
はじめ、薬やサプリメントの個人輸入代行業で会社を興した瑞貴は、経営が軌道に乗ると、自身のブランドをたちあげ、化粧品や洋服の販売も始めた。
広告媒体は主にSNSで、海外セレブリティとのタイアップ商品も多いファッションブランドだ。
初めはネット販売のみの店だったが、メディアで大きく取り上げられたのをきっかけとして店舗販売を開始した。
そうして国内で数店舗展開した頃にSNSでの発信が海外セレブリティの目に留まり、ロスで出店の話が出た。
最初は期間限定の出店だったが、評判がよかったためそこでの開業を決め、つい三か月前にロス支店がオープンしたばかりだった。
だから瑞貴はこのところ海外出張が多く、月の半分ほどはロサンゼルスで暮らしていた。
章介は体感で、自分が人生の転換点に差しかかっていることを感じていた。
瑞貴の事業はどちらかというとアメリカで順調で、このままだとこれからますます現地で過ごす時間が増える。ニューヨーク出店の話も上がっていた。
そうなったとき、今の状態は維持できないだろう。日本で働いている自分と瑞貴とではあまりにも離れている時間が長すぎる。
だから、どちらかが妥協する必要がある。そしてそれは当然章介の方になるだろう。
章介はため息をついて天井を眺めた。正直、日本を離れたくはない。英語も喋れないし、食事も合わないだろうし、何より向こうには日本アルプスがない。
もちろんそこに匹敵するような高峰はあるだろうが、章介にとっての山は穂高であり、槍だった。
幼い頃から常に視界にあった岩山群は、力強く、美しい。人間を遥かに凌ぐ圧倒的な存在として、それはいつも章介を見下ろしていた。そして気が向けば、踏破させてくれることもあった。
章介を最初に本格的な山登りに誘ってくれた地元の山岳ガイド、大峰は、よく山と対話をすると言っていた。
大峰はたまたま近所に住んでおり、最初に登山を教えてくれた人で、かつ章介の両親の虐待に気づき、当時遠方に住んでいた祖母にそれとなく伝えてくれた大事な人だった。章介の命はそれで助かったようなものだ。
大峰が機転を利かせてくれなければ、育児放棄されていた章介は飢え死にするか、家出をしてろくでもない人生を送っていただろう。
そんなふうに章介を助けてくれた大峰は無類の山好きであり、それを生業にするだけでなく、年中どこかの山に登っていた。昔はプロの登山家を目指したこともあったという。
大峰がよく言っていたのは、今日は登れる日なのか、登る資格があるのか、と山に伺いを立てて登る、ということだった。制覇する、という感覚ではなく、神聖な自然の領域にお邪魔させていただく、という感覚で登るべきである、というのが大峰の持論だった。
章介は幼いながらにその感覚は正しい、と直観的に思っていた。そしてその通りだった。
大峰は章介の知る限り、自分が原因で山の事故を一度も起こしたことがなかった。それは常に謙虚で、自分の限界を心得ていたからだ。
大峰は決して奢らず、無謀な挑戦はしなかった。
その彼が、だから山で命を落としたのは皮肉ともいえるが。
「ちょうど今くらいの時期だったな……」
大峰は章介が玉東に落ちた二年後の冬に北鎌尾根で遭難死した。
九州の大学の登山部パーティのサポート業務だったが、不幸な偶然が重なった事故で、大峰自身の不注意もあったと聞く。
積雪期の穂高といえば登山上級者でも注意しないと危ない目に遭うこともある最難関である。
しかし、大学生たちは冬山の登山経験が少なかった。通常、大峰はこういった依頼は受けない。
そのとき引き受けたのは、グループの中に親戚の子がいたためだという。これが命取りだった。
経験不足の学生たちのうちひとりが動けなくなったため、雪洞を掘ってやってから一度それ以外のメンバーを小屋まで連れて行きその学生の元に戻った。
しかし、直後から吹雪となり吹きっさらしの尾根上にその学生と二人、取り残されてしまったのだ。
この吹雪は予想外のもので、三日続いた。四日目の朝、晴れ間が出たため、救助のヘリが出たが、天候が不安定でわずかな時間しか滞在できなかった。
学生の状態はかなり悪く、低体温症で既に意識がなかったため、救助隊員は大峰に先に乗るよう促したという。
しかし、大峰は拒否して学生の救助を優先させた。同じ状況になったら大半の人間がそうするだろう。その学生が死亡していない限り、仮にも自分が引率している相手を、しかも年若い相手を置いてヘリに乗れるわけがない。
だがその数分が運命の分かれ目だった。ヘリは学生を救助した直後に風に煽られ、一旦その場を離れるしかなくなったのだ。
そして、再び接近を試みたときには地吹雪がぶり返して大峰を見失ったのである。
吹雪はそれから一週間にわたって続いた。予報されていなかった急な前線の発達が原因で、日本海側を中心にドカ雪が降った時期だった。
雪が止んだとき、大峰は上に三メートル以上雪が積もった雪洞で息絶えていたという。
これを聞いたとき、章介はそんなわけがない、と思った。大峰は厳冬期の北アルプスでの経験豊富なトップクライマーだ。十日かそこら、吹雪かれたぐらいでどうにかなるタマではなかった。
だがのちに聞いたところによると、その状態の悪かった学生が途中で渡渉の際衣類の大半を濡らしてしまったため、自分のを脱いで着せてやっていたという。
また、食糧も充分ではなかった。これは大峰のミスといえる。通常は不測の自体を想定して多めに持っていくが、その量が充分ではなかった。準備が足りなかったのだ。
おそらくは、学生のひとりが渡渉に失敗した時点で、避難小屋のない北尾根ルートは断念すべきだった。引き返すべきだったのだ。
なぜ大峰がこんな初歩的な判断ミスをしたのか。何度も何度も考えてたどり着いた答えは高山病だった。
高山病では脳に酸素がゆきわたらなくなり、判断力と思考力が低下する。そしてこれは初心者に限らず、登山上級者でも、健康体でも突如発症する。予測不可能なのだ。
大峰が発症したそのときに、ベースキャンプで体調不良となり離脱した大峰の友人のベテラン登山家・佐藤がいれば、おそらくは異変に気づき、事故は未然に防げただろう。
不幸な偶然が積み重なったとしか思えなかった。
「待っていてはくれなかったな……」
いつか一緒に冬の槍をやるのが夢だった。それを心の支えにしてあの地獄を耐え抜いたのに、出てきたら大峰はいなかった。
誰よりも山を愛し、山を教えてくれた男は山に散ってしまった。
「もうそこまであそこにこだわる必要もない、か……」
北アルプスの山々は、章介の人生そのものだった。しかし今こうして振り返ってみると、本当は大峰のいる山こそが自分の求めていたものかもしれない、と思う。
章介は目を閉じて、もう一度登ってから決めよう、と決めた。
悪魔が現れたのは、章介がそんなふうに己の進退について考えていた時だった。
皆ごくあっさりしていて踏み込んだことを訊かれることもない。瑞貴の叔父がご丁寧に経歴詐称の書類まで揃えてくれたので、玉東にいた過去や、コネ入社もまだバレていなかった。
立派な経歴を持っていて、本当は自分の席に座るはずだった誰かには申し訳ない気持ちだったが、その分会社に貢献することで罪滅ぼしをしてきたつもりだった。
それが報われたのか、課長から来年度の昇進が決まったと告げられたときは嬉しかった。
瑞貴はとても喜んでくれて、信と共に祝ってくれた。
瑞貴はいつもそうだ。思うところもあるだろうに、章介と仲の良い信を決して排除することがない。
そして祝い事には必ず信を呼ぶ。これは非常にありがたかった。
なぜなら信は、それまで人と深い付き合いをしてこなかった章介に初めてできた友人だったからだ。また、将棋仲間でもある。
そういう相手と会うのを制限されるのはきつい。
だが瑞貴は章介と交際を始めてすぐの頃に信を誘い、三人で食事をした。
その時に、瑞貴を選んだことは間違いではなかった、と確信したのだった。
このように懐の深い伴侶に、今は夢中になってゆくばかりである。
人を悪く言わないところも、快活さも、庇護欲をくすぐるような容姿も、全て愛していた。
だからこそ家族になる決心をした。
玉東に行く前の自分ならば男と結婚など考えられないだろう。その頃の自分に未来を教えてやっても信じないに違いない。
だが、事実は小説より奇なり、とはよく言ったもので、かつて想像もしなかったような未来が待っていた。
しかし後悔はしていない。むしろ満足だった。
このまま瑞貴といい人生を歩んでゆければと思う。
章介はそんなふうに思いながら幸せな日常を過ごしていたのだった。
◇
足元灯と窓の外からのわずかな明かりだけの薄暗い空間で、白い肉体が動く。あえかな喘ぎ声をあげ、自分の下で体をのけぞらせる、男というには華奢な体を見下ろす。相手は、快楽に指を噛んでいた。
その手を外し、口づけてやると、瑞貴は素直に口を開いて舌を受け入れた。
ゆっくり動きながら舌を絡めていると、背に手が回ってきて抱きしめられる。
前も触ってやると、背中に爪が立てられた。
「んっ……はぁっ……息、できなっ……」
「大丈夫だ」
「あっ、待ってっ……」
背中に爪が立っていれば相手は十分に感じている。あと一回位が限界かもしれない。
すでに二度吐精しているし、後ろでも何回かいっているはずだ。
そう冷静に考えながら少しペースを上げる。息を切らしながらうつろな目で中空を見上げる瑞貴の内奥は熱かった。小柄だからか、締めつけも強い。
様子を見ながら刺激を続けていると、やがて瑞貴が悲鳴じみた声を上げて絶頂した。それと共に体が弛緩し、章介も絶頂する。
動きをとめ、瑞貴の中から出ると、我に返ったらしい相手がパッと手を離した。
「あっ、ごめん、また爪……」
「平気だ」
そう言って頭を軽く撫でてやると、瑞貴は再び背中に手を回して言った。
「章ちゃん、好き」
「おれも好きだ」
「ふふ、」
頬を緩めてじっと見上げてくる相手の体をタオルで拭いてやる。
瑞貴は胸を上下させながらされるがままになっていた。うっすらあばら骨が浮き出ている細い体に、章介は眉をしかめる。
「ちょっとまた痩せたんじゃないか? 向こうの食事は口に合わないか」
「ううん、ちょっとダイエットしてるから」
「必要ないだろ」
「もー、そんなお世辞いいって。恥ずかしいから見ないで、デブだし」
そう言って瑞貴は毛布を引っ張りあげた。
章介は相手の言っている意味がわからず聞き返した。
「冗談だよな? 折れそうだぞ」
「だから本当にいいって。こないだも自分のブランドの服入んなくて恥かいたし」
「サイズいくつだ?」
「32だから、日本でいうとXS? とかかな。でも業界じゃ標準サイズだよ」
「そんなサイズは入らなくて当たり前だ。少し前から気にはなっていたが……ちゃんと食え。でないと体を壊す」
「大丈夫だよ、栄養はちゃんとサプリとかでとってるから。スムージーも飲んでるし」
「飯を食ってないだろ」
「もういいよー、この話は。せっかく久しぶりにふたりきりなんだからさぁ。ね?」
「………」
甘えたように言って自分の横をポンポンと叩いた瑞貴に、仕方なく体を横たえる。
瑞貴の過度なダイエット志向はここのところの頭痛の種だった。
充分に痩せているのに、いやむしろ痩せすぎなのに、太っていると言って全く食べようとしない。
こういう姿に恐怖を感じるのは、店にいた頃に心を病んだ友人を思い出すからだった。
その友人――湯田一樹は、信とほぼ同時期に白銀楼にきた傾城だった。だが、信や章介とは違い、自らの意志で来た口だ。借金返済のためと言っていたが、その借金がなぜできたのかは頑なに語ろうとしなかった。きっと何か深い事情があったのだろう。
だから、親に借金の形として売られてきた章介とも、犯罪組織に売り飛ばされた信とも違い、最初から仕事に意欲的だった。自ら望んで仕事をしていたのである。
いやーーそれは正確ではない。厳密には、「そういうポーズをとっていた」というべきだろう。
だが、本当はあそこでの仕事が嫌だったに違いない。一樹はある時から言動が変になり始め、眠れなくなり、やがて心を病んでいった。
ついには寝るために大量の薬を服用し、その影響でどんどん痩せていった。
瑞貴の姿は、そんな友人を思い起こさせる。だから、過度なダイエットはやめてほしかった。
一樹は玉東を出てから三年体重が戻らなかったといっていた。一度病的に減ると体重はそう簡単に戻せないのだ。
だからそういうことを伝えて忠告したかったが、瑞貴はそういう気分ではないようだった。
仕方ないから今度にするか、と思い横に寝転がって仰向けになると、瑞貴が身を寄せてきた。
そこで章介は口を開く。
「再来週の連休は休みだよな。出かけないか?」
「え、本当?」
「ああ。ホテルの予約もとった。三日あるから全部回れるな」
瑞貴は東京近郊にあるおとぎの国のテーマパークが大好きだ。
だから、仕事で疲れていそうなときは連れて行くようにしていた。
章介の言葉に瑞貴はパッと起き上がった。
「え、ほんとにほんと? やったぁ!」
「ここ二ヶ月、海外といったりきたりで忙しかっただろう。少し息抜きした方がいい」
「わあ、嬉しいなー。そうと決まったらいろいろ準備しなきゃ。はあ、今日はよく眠れそうだな。おやすみ、章ちゃん」
「おやすみ」
すぐに寝入った瑞貴に、向こうではあまり眠れていなかったのかもしれないな、と思った。
はじめ、薬やサプリメントの個人輸入代行業で会社を興した瑞貴は、経営が軌道に乗ると、自身のブランドをたちあげ、化粧品や洋服の販売も始めた。
広告媒体は主にSNSで、海外セレブリティとのタイアップ商品も多いファッションブランドだ。
初めはネット販売のみの店だったが、メディアで大きく取り上げられたのをきっかけとして店舗販売を開始した。
そうして国内で数店舗展開した頃にSNSでの発信が海外セレブリティの目に留まり、ロスで出店の話が出た。
最初は期間限定の出店だったが、評判がよかったためそこでの開業を決め、つい三か月前にロス支店がオープンしたばかりだった。
だから瑞貴はこのところ海外出張が多く、月の半分ほどはロサンゼルスで暮らしていた。
章介は体感で、自分が人生の転換点に差しかかっていることを感じていた。
瑞貴の事業はどちらかというとアメリカで順調で、このままだとこれからますます現地で過ごす時間が増える。ニューヨーク出店の話も上がっていた。
そうなったとき、今の状態は維持できないだろう。日本で働いている自分と瑞貴とではあまりにも離れている時間が長すぎる。
だから、どちらかが妥協する必要がある。そしてそれは当然章介の方になるだろう。
章介はため息をついて天井を眺めた。正直、日本を離れたくはない。英語も喋れないし、食事も合わないだろうし、何より向こうには日本アルプスがない。
もちろんそこに匹敵するような高峰はあるだろうが、章介にとっての山は穂高であり、槍だった。
幼い頃から常に視界にあった岩山群は、力強く、美しい。人間を遥かに凌ぐ圧倒的な存在として、それはいつも章介を見下ろしていた。そして気が向けば、踏破させてくれることもあった。
章介を最初に本格的な山登りに誘ってくれた地元の山岳ガイド、大峰は、よく山と対話をすると言っていた。
大峰はたまたま近所に住んでおり、最初に登山を教えてくれた人で、かつ章介の両親の虐待に気づき、当時遠方に住んでいた祖母にそれとなく伝えてくれた大事な人だった。章介の命はそれで助かったようなものだ。
大峰が機転を利かせてくれなければ、育児放棄されていた章介は飢え死にするか、家出をしてろくでもない人生を送っていただろう。
そんなふうに章介を助けてくれた大峰は無類の山好きであり、それを生業にするだけでなく、年中どこかの山に登っていた。昔はプロの登山家を目指したこともあったという。
大峰がよく言っていたのは、今日は登れる日なのか、登る資格があるのか、と山に伺いを立てて登る、ということだった。制覇する、という感覚ではなく、神聖な自然の領域にお邪魔させていただく、という感覚で登るべきである、というのが大峰の持論だった。
章介は幼いながらにその感覚は正しい、と直観的に思っていた。そしてその通りだった。
大峰は章介の知る限り、自分が原因で山の事故を一度も起こしたことがなかった。それは常に謙虚で、自分の限界を心得ていたからだ。
大峰は決して奢らず、無謀な挑戦はしなかった。
その彼が、だから山で命を落としたのは皮肉ともいえるが。
「ちょうど今くらいの時期だったな……」
大峰は章介が玉東に落ちた二年後の冬に北鎌尾根で遭難死した。
九州の大学の登山部パーティのサポート業務だったが、不幸な偶然が重なった事故で、大峰自身の不注意もあったと聞く。
積雪期の穂高といえば登山上級者でも注意しないと危ない目に遭うこともある最難関である。
しかし、大学生たちは冬山の登山経験が少なかった。通常、大峰はこういった依頼は受けない。
そのとき引き受けたのは、グループの中に親戚の子がいたためだという。これが命取りだった。
経験不足の学生たちのうちひとりが動けなくなったため、雪洞を掘ってやってから一度それ以外のメンバーを小屋まで連れて行きその学生の元に戻った。
しかし、直後から吹雪となり吹きっさらしの尾根上にその学生と二人、取り残されてしまったのだ。
この吹雪は予想外のもので、三日続いた。四日目の朝、晴れ間が出たため、救助のヘリが出たが、天候が不安定でわずかな時間しか滞在できなかった。
学生の状態はかなり悪く、低体温症で既に意識がなかったため、救助隊員は大峰に先に乗るよう促したという。
しかし、大峰は拒否して学生の救助を優先させた。同じ状況になったら大半の人間がそうするだろう。その学生が死亡していない限り、仮にも自分が引率している相手を、しかも年若い相手を置いてヘリに乗れるわけがない。
だがその数分が運命の分かれ目だった。ヘリは学生を救助した直後に風に煽られ、一旦その場を離れるしかなくなったのだ。
そして、再び接近を試みたときには地吹雪がぶり返して大峰を見失ったのである。
吹雪はそれから一週間にわたって続いた。予報されていなかった急な前線の発達が原因で、日本海側を中心にドカ雪が降った時期だった。
雪が止んだとき、大峰は上に三メートル以上雪が積もった雪洞で息絶えていたという。
これを聞いたとき、章介はそんなわけがない、と思った。大峰は厳冬期の北アルプスでの経験豊富なトップクライマーだ。十日かそこら、吹雪かれたぐらいでどうにかなるタマではなかった。
だがのちに聞いたところによると、その状態の悪かった学生が途中で渡渉の際衣類の大半を濡らしてしまったため、自分のを脱いで着せてやっていたという。
また、食糧も充分ではなかった。これは大峰のミスといえる。通常は不測の自体を想定して多めに持っていくが、その量が充分ではなかった。準備が足りなかったのだ。
おそらくは、学生のひとりが渡渉に失敗した時点で、避難小屋のない北尾根ルートは断念すべきだった。引き返すべきだったのだ。
なぜ大峰がこんな初歩的な判断ミスをしたのか。何度も何度も考えてたどり着いた答えは高山病だった。
高山病では脳に酸素がゆきわたらなくなり、判断力と思考力が低下する。そしてこれは初心者に限らず、登山上級者でも、健康体でも突如発症する。予測不可能なのだ。
大峰が発症したそのときに、ベースキャンプで体調不良となり離脱した大峰の友人のベテラン登山家・佐藤がいれば、おそらくは異変に気づき、事故は未然に防げただろう。
不幸な偶然が積み重なったとしか思えなかった。
「待っていてはくれなかったな……」
いつか一緒に冬の槍をやるのが夢だった。それを心の支えにしてあの地獄を耐え抜いたのに、出てきたら大峰はいなかった。
誰よりも山を愛し、山を教えてくれた男は山に散ってしまった。
「もうそこまであそこにこだわる必要もない、か……」
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山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
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