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第一章 鳥に追われる
消える死体
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オオミ
あれは僕がまだ小学校に上がる前の夏だ。もう名前も思い出せない近所の同年代の子の家に遊びに行こうと思って外に出た。
四歳とか五歳の子どもの足で三分ほど。
カラカラと暑い夏の午後だった。その時、父が捨てようとしていた香水を貰って、見せに行ったのだと思う。香水がどういうものかも良く理解していなかったけれど、何か大人の物は全て魅惑的で、香りもさることながら、変わった形状の瓶が強くなるためのアイテムに思えて、ひそかに興奮していた。
大人になってから同じ香水を手に入れたくて、何度も売り場を覗いた。それでも未だにあの形も、あの香りも見つけることが出来ずにいる。
その後の出来事のインパクトで、その辺の記憶が曖昧になってしまったのも原因の一つだろう。
とにかく母親に声もかけずに外に出た。影が短かったから、午後も早い時間だったと思う。
その子の家は自転車二台もすれ違えないような狭い路地にあった。それが秘密基地みたいで、当時はうらやましいと思っていた。
その子に会いに行くというより、その子の家に会いに行っていたと言っても良い。特に二階の陽の当らない部屋が好きだった。
あの家の話をしていると止まらなくなりそうだから、今はやめておこう。とにかくその日、怪しい形の香水の瓶を握りしめ、路地に入った。
車が通る道から一歩足を踏み入れただけで、少し気温が下がった気がした。その感覚さえ、テレビアニメで見る別世界への入口のようで、子どもの胸を高鳴らせるのに充分だった。
転びそうな勢いで路地に曲がり込んだところまではいつもと一緒だったんだ。
違ったのは数メートル先に何か大きなものが転がっていたことだ。
――何あれ?
薄暗くて良く見えなったが、不吉なものだと言うことは瞬時に理解した。
近づくべきではないと思うほど身体が言うことをきかず、ゆっくりと得体の知れない物体へ向かってしまう。
この接触がきっかけで死人が見えるようになってしまったのなら、僕は怖い物見たさに負けた子ども時代の自分を恨む。
最初に靴を履いた足が見えた。大きな足だった。男の人だと思った。そして顔が見える前に確信した。これは死体だ。寝ているだけとか、そんな平和な選択肢は全く浮かばなかった。
その男の人の首から上が見えた。髪が長かった。少し前に絵本で見たガリバー旅行記の挿絵にそっくりだ。ガリバーが小人たちに捕らわれてる絵が何故か強烈に頭に焼き付いて、夜に思い出して怖かった。それによく似たものが目の前の地面に転がっている。
――顔を覗き込んだ。
ちょうど路地の家と家の隙間から光が刺し、男の人の顔をよりはっきりと僕に見せつけた。
その瞬間からの記憶がほとんど抜け落ちている。しっかり顔を見たはずなのに、その部分だけモザイクがかかったように思い出せない。
気が付いたら家でタオルケットにくるまって身体を小さくして震えていた。母から声をかけられタオルケットから顔を出した時には窓の外はもう薄暗かった。僕の寝汗と顔色の悪さに驚いた母は夏風邪を疑ったが、熱がないことを知ると「何があったの」と問い詰めてきた。
全ての子どもがそうか知らないが、少なくとも当時の僕は本当に恐ろしい事が起きると、それを現実として受け入れるのを拒絶した。
あれは夢だったんだ。僕は午後ずっと昼寝をしていた。そう自分に言い聞かせ、首を横に振った時だ、「こんばんは――」と陽気な声が玄関の方から響いた。
今日、まさに僕が訪ねようとしていた家のおばさんの声だ。
自分の住む場所の目と鼻の先にあんなモノがあったとは思えないほど能天気な口調で母と話しているのが聞こえた。
香水がどうのこうのと言っている。慌てて跳ね起きて、壁に耳を当てた。「高そうな香水の瓶が落ちていて。男性用だったし、この辺でそんなおしゃれな男の人はあまりいないから」とか言っている。確かにそれも落ちていただろうが、それより強烈なモノが転がっていただろ。このおばさん、頭がおかしいんじゃないか。本気でそう思った。
おばさんが「ごめんください」とかなんとか明るく言ってドアが閉じると、母がこちらに向かってくる足音がした。急いで寝たふりに戻る。
「あんた空の香水の瓶なんか路地に置きっぱなしにしてきたの? 変な子」
特にそれ以上突っ込まずに「あと三十分したら夕飯だから」とだけ言って出て行ってくれたことだけが救いだった。
――僕の見た死人はどこに行ったの? 誰かが救急車とかパトカーを呼んで連れて行ったのかな。手遅れだと思うけれど。何故かわからないけれど、完全に死んでいると思ったから。
突然嫌な考えが頭をよぎり、背筋が寒くなった。
――まさか、生き返ったんじゃないか?
*
急に広い食堂が暗くなって、僕たちは互いの顔を見渡した。
何のせいかはわかっている。鳥が現れたんだ。光を遮るほどの数で。立ち上がろうとうする二人の両腕をつかんだ。
「行かないでください。僕を一人にしないで」
二人が腰を浮かせている理由は全く違うのはわかっているけど、どちらも止めないといけない。
二人とも僕の手を振りほどいたりはしないけど、座ってもくれない。互いに違う種類の欲求に抗い難い表情を浮かべている。
冷たい気配が食堂の入口から流れ込んできた。
首を痛めるくらいの勢いでそちらを振り返った。
心臓回収人が立っていた。
「お前ら、外に出るなよ。窓にも近づくな」
こいつは怖いが、言っていることには賛成だ。それより今心配なのはアオチさんだ。さっきはこいつがきっかけでおかしくなってしまった。
思わずアオチさんを回収人から庇うようにして立ち上がった。
「わかりました。鳥の群れが去るまで、ここから一歩も出ませんから、行ってください」
回収人が初めて普通に笑った。意外に笑った時のしわが優しそうだな、と思った。
「そうか、眼鏡、頼んだぞ。先輩たちは憑りつかれているようだから」
そう言って歩き去る回収人を見送ると、アオチさんの顔を確認する。良かった、顔色は普通だ。でも、やっぱり目に何とも言えない不穏な色が滲んでいる。
「ありがとう、お前、やっぱり頼りになるな」
普段強気な人の弱々しい笑顔は胸がズキズキして苦手だ。
オゼさんに視線を移すと、悔しそうな顔で四角い窓の方を見つめている。ここらだと、外は暗い灰色が広がるだけで、もっと窓辺に近づかないと、空の様子も、海の様子もわからない。
どうしてそんなに鳥を掴まえたいんですか、と聞くのはもう諦めていた。
突然そのオゼさんがこっちを見て、僕の腕に手を置いた。
「お前、大丈夫か? 震えてるぞ」
はっとしてその手を振り払った。
「すみません。大丈夫です……」
この人は妙に鋭くて嫌だ。実はかなり混乱していた。たった今思い出したんだ。ずっとモザイクが――いや靄がかかったようにはっきりしなかった、子どもの頃に見た路地裏の死人、あいつの顔を。
――あれは今出て行った回収人の顔だ。
あれは僕がまだ小学校に上がる前の夏だ。もう名前も思い出せない近所の同年代の子の家に遊びに行こうと思って外に出た。
四歳とか五歳の子どもの足で三分ほど。
カラカラと暑い夏の午後だった。その時、父が捨てようとしていた香水を貰って、見せに行ったのだと思う。香水がどういうものかも良く理解していなかったけれど、何か大人の物は全て魅惑的で、香りもさることながら、変わった形状の瓶が強くなるためのアイテムに思えて、ひそかに興奮していた。
大人になってから同じ香水を手に入れたくて、何度も売り場を覗いた。それでも未だにあの形も、あの香りも見つけることが出来ずにいる。
その後の出来事のインパクトで、その辺の記憶が曖昧になってしまったのも原因の一つだろう。
とにかく母親に声もかけずに外に出た。影が短かったから、午後も早い時間だったと思う。
その子の家は自転車二台もすれ違えないような狭い路地にあった。それが秘密基地みたいで、当時はうらやましいと思っていた。
その子に会いに行くというより、その子の家に会いに行っていたと言っても良い。特に二階の陽の当らない部屋が好きだった。
あの家の話をしていると止まらなくなりそうだから、今はやめておこう。とにかくその日、怪しい形の香水の瓶を握りしめ、路地に入った。
車が通る道から一歩足を踏み入れただけで、少し気温が下がった気がした。その感覚さえ、テレビアニメで見る別世界への入口のようで、子どもの胸を高鳴らせるのに充分だった。
転びそうな勢いで路地に曲がり込んだところまではいつもと一緒だったんだ。
違ったのは数メートル先に何か大きなものが転がっていたことだ。
――何あれ?
薄暗くて良く見えなったが、不吉なものだと言うことは瞬時に理解した。
近づくべきではないと思うほど身体が言うことをきかず、ゆっくりと得体の知れない物体へ向かってしまう。
この接触がきっかけで死人が見えるようになってしまったのなら、僕は怖い物見たさに負けた子ども時代の自分を恨む。
最初に靴を履いた足が見えた。大きな足だった。男の人だと思った。そして顔が見える前に確信した。これは死体だ。寝ているだけとか、そんな平和な選択肢は全く浮かばなかった。
その男の人の首から上が見えた。髪が長かった。少し前に絵本で見たガリバー旅行記の挿絵にそっくりだ。ガリバーが小人たちに捕らわれてる絵が何故か強烈に頭に焼き付いて、夜に思い出して怖かった。それによく似たものが目の前の地面に転がっている。
――顔を覗き込んだ。
ちょうど路地の家と家の隙間から光が刺し、男の人の顔をよりはっきりと僕に見せつけた。
その瞬間からの記憶がほとんど抜け落ちている。しっかり顔を見たはずなのに、その部分だけモザイクがかかったように思い出せない。
気が付いたら家でタオルケットにくるまって身体を小さくして震えていた。母から声をかけられタオルケットから顔を出した時には窓の外はもう薄暗かった。僕の寝汗と顔色の悪さに驚いた母は夏風邪を疑ったが、熱がないことを知ると「何があったの」と問い詰めてきた。
全ての子どもがそうか知らないが、少なくとも当時の僕は本当に恐ろしい事が起きると、それを現実として受け入れるのを拒絶した。
あれは夢だったんだ。僕は午後ずっと昼寝をしていた。そう自分に言い聞かせ、首を横に振った時だ、「こんばんは――」と陽気な声が玄関の方から響いた。
今日、まさに僕が訪ねようとしていた家のおばさんの声だ。
自分の住む場所の目と鼻の先にあんなモノがあったとは思えないほど能天気な口調で母と話しているのが聞こえた。
香水がどうのこうのと言っている。慌てて跳ね起きて、壁に耳を当てた。「高そうな香水の瓶が落ちていて。男性用だったし、この辺でそんなおしゃれな男の人はあまりいないから」とか言っている。確かにそれも落ちていただろうが、それより強烈なモノが転がっていただろ。このおばさん、頭がおかしいんじゃないか。本気でそう思った。
おばさんが「ごめんください」とかなんとか明るく言ってドアが閉じると、母がこちらに向かってくる足音がした。急いで寝たふりに戻る。
「あんた空の香水の瓶なんか路地に置きっぱなしにしてきたの? 変な子」
特にそれ以上突っ込まずに「あと三十分したら夕飯だから」とだけ言って出て行ってくれたことだけが救いだった。
――僕の見た死人はどこに行ったの? 誰かが救急車とかパトカーを呼んで連れて行ったのかな。手遅れだと思うけれど。何故かわからないけれど、完全に死んでいると思ったから。
突然嫌な考えが頭をよぎり、背筋が寒くなった。
――まさか、生き返ったんじゃないか?
*
急に広い食堂が暗くなって、僕たちは互いの顔を見渡した。
何のせいかはわかっている。鳥が現れたんだ。光を遮るほどの数で。立ち上がろうとうする二人の両腕をつかんだ。
「行かないでください。僕を一人にしないで」
二人が腰を浮かせている理由は全く違うのはわかっているけど、どちらも止めないといけない。
二人とも僕の手を振りほどいたりはしないけど、座ってもくれない。互いに違う種類の欲求に抗い難い表情を浮かべている。
冷たい気配が食堂の入口から流れ込んできた。
首を痛めるくらいの勢いでそちらを振り返った。
心臓回収人が立っていた。
「お前ら、外に出るなよ。窓にも近づくな」
こいつは怖いが、言っていることには賛成だ。それより今心配なのはアオチさんだ。さっきはこいつがきっかけでおかしくなってしまった。
思わずアオチさんを回収人から庇うようにして立ち上がった。
「わかりました。鳥の群れが去るまで、ここから一歩も出ませんから、行ってください」
回収人が初めて普通に笑った。意外に笑った時のしわが優しそうだな、と思った。
「そうか、眼鏡、頼んだぞ。先輩たちは憑りつかれているようだから」
そう言って歩き去る回収人を見送ると、アオチさんの顔を確認する。良かった、顔色は普通だ。でも、やっぱり目に何とも言えない不穏な色が滲んでいる。
「ありがとう、お前、やっぱり頼りになるな」
普段強気な人の弱々しい笑顔は胸がズキズキして苦手だ。
オゼさんに視線を移すと、悔しそうな顔で四角い窓の方を見つめている。ここらだと、外は暗い灰色が広がるだけで、もっと窓辺に近づかないと、空の様子も、海の様子もわからない。
どうしてそんなに鳥を掴まえたいんですか、と聞くのはもう諦めていた。
突然そのオゼさんがこっちを見て、僕の腕に手を置いた。
「お前、大丈夫か? 震えてるぞ」
はっとしてその手を振り払った。
「すみません。大丈夫です……」
この人は妙に鋭くて嫌だ。実はかなり混乱していた。たった今思い出したんだ。ずっとモザイクが――いや靄がかかったようにはっきりしなかった、子どもの頃に見た路地裏の死人、あいつの顔を。
――あれは今出て行った回収人の顔だ。
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