僕は勇者に救われたくない

御堂あゆこ

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本編

42. 感情の供物

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 階段を降りきると、肺の奥まで凍りつくような冷気が突き刺さった。
 石壁はうっすらと湿り気を帯び、わずかな灯だけが青白く光っている。
「……ここは、何だ」
 長卓には見慣れぬ金属器具や硝子瓶が並んでいる。部屋の中心に置かれた結晶が鈍い赤紫に光り、呼吸のような明滅を繰り返していた。

「気になるかい?」
 後ろから響いた声に振り向くと、リュカがいつものように薄い笑みを浮かべていた。
「ここでは、人の負の感情を集めている。恐怖、怒り、後悔……それら全てが、私の研究にとって極めて有用な“素材”なんだ」
「素材……?」
「やがては結晶に集約され、ひとつの大きな“核”となる。その力があれば――魔王を再びこの地に還すこともできる」
 その声音は、あまりに平静で、かえって底知れぬ狂気を孕んでいた。

 ここは宿舎の簡素な自室ではなく、ヴァレリウス家の屋敷の地下深くにある、彼だけの領域だ。
 それでも僕は自ら足を踏み入れたのだ。

 軍に尽くしてきた年月は、報われることなく背を向けられた。
 心を通わせたと思えたレオは、勇者となって――僕の世界から、静かに離れていった。
 残されたのは、蘇芳を失うかもしれないという恐怖だけだ。
 それでも、どうすれば守れるのか――その鍵を握っているのは、この男しかいなかった。だからこそ、誘いに乗った。
 たとえ、それが僕自身を蝕む選択だったとしても。

「他に質問はあるかい、千景。君の目で確かめたくて、私についてきてくれたんだろう?」
「確かめたいことは山ほどある。だがまず、なぜレオの前で――あんな真似をした」
「……あんな真似? 何のことを言っているのかな」
「……唇を……重ねただろう。魔力供給のためなら、あんな仕方じゃなくても十分だったはずだ」
「……あんな、とは?」
 リュカはわざとらしく首を傾げる。
「……し、舌まで、絡めて……」
 かすれる声で絞り出した瞬間、頬が焼けるように熱くなる。
 リュカは、くすりと喉を鳴らして笑った。
「そんなことか。……千景の口から、そういう台詞が出るとはね」
 艶のある声が、耳の奥に滴る。
「普段は、もっと深いところまで許していたじゃないか。なのに、どうして怒っている? ――まさか、勇者殿の前だったから?」
「……っ!」
「あれほど馴れ合っていたのに、まだ口づけも交わしていなかったとはね。てっきり、身体の関係があるものだと――勇者殿の、あの顔を見るまでは思っていたよ」
「何を言っている……?」
「彼が千景を見る目は明らかに普通じゃなかっただろう? まさか、君は気づいていなかったのか」
「ふざけるな! レオは……お前とは違う!」
「違う。……それは確かにそうだ。だが――」

 囁きが耳を掠め、次の瞬間、腰のあたりに冷たい指先が触れた。布越しに滑った手が、ためらいもなく尻を撫で、割れ目をなぞるように押し広げる。
「っ……触るな……!」
「だが千景を見つめるときの欲望は、同じだ。君を自分のものにしたいと願っている。自分という楔を、奥の奥まで、刻み込みたいと」
 指先が布越しに穴の縁をなぞり、ぐっと押し込まれた。身体が勝手に反応して強ばり、羞恥と屈辱が火花のように脳裏を弾けた。
「やめろっ!」
 振り払おうとするが、触れたままの指は離れず、むしろ愉しむように圧を深めてきた。
「いい反応だ。君の身体は正直だね」
「……っ、お前とレオが同じなわけない!」

 リュカは笑みを崩さないまま、卓上から薄い水色の板状結晶をつまみ上げ、装置の溝に差し込んだ。
 途端に低い唸りが深くなり、瓶の液面がわずかに波を立てる。床に走る刻印が、氷の花のように光った。
「君がそんなに怒る顔は、初めて見る。普段はよく抑えているからね。……綺麗だ。もっと見せてくれ」
 言葉と同時に、顎をすくい上げられる。抗う間もなく唇が塞がれ、冷たい吐息と共に舌が押し入ってくる。
「――っ!」
 反射的に奥歯を噛みしめ、侵入した柔肉に牙を立てた。鉄の味が口内に広がり、リュカの喉から短い息が漏れる。
「……いいね。そうやって抗ってくれると、ますます惹かれる」
「――もう一度言う。あれは必要じゃなかった。やめろ。二度と、あんなことをするな」
 息を荒げながら吐き捨てる。唇の端に残る血の味が、怒りと屈辱をいっそう濃くした。
「勇者殿の前でなければ、君を好きにしていいということかな?」
「ち、違うっ!」
「ねえ、千景。彼の前で、僕に触れられて、どう感じたのかもっと教えてくれないか」
「黙れ」
 睨みつけた僕を、リュカは愉しげに見下ろす。
「ふふ……お礼に、君の質問に答えよう」
 指先で装置の結晶を軽く叩くと、赤紫の光が一層強く脈打つ。
「理由は単純だよ。君と勇者殿、そしてここに姿を見せない“誰か”。その負の感情を引き出すためだ」
 淡々と告げる声が、地下の冷気よりも冷たく響いた。
「怒りも、嫉妬も、羞恥も……すべてはこの結晶に集められ、魔王へと捧げられる。君を介して生まれる感情の揺らぎは、何よりも純粋で、美しい“燃料”になるんだ」

 言葉が終わるか終わらないかのうちに、背後で乾いた金属音が鳴った。反射的に振り向こうとした瞬間、両手首に冷たい輪が噛みついた。
「――っ!」
 瞬きをしたときには、手首に鉄の輪が嵌められ、鎖が床の刻印へと繋がれていた。
 引き剥がそうと力を込めるが、鎖は微動だにせず、代わりに足元の刻印がひときわ鮮やかに光を放つ。
「な……何を――」
「心配しなくてもいい」
 背後から、やけに穏やかな声がかかる。肩に置かれた手が、やわらかくも拒絶し難い重さでのしかかる。
「君を傷つけるつもりはない。ここで少しのあいだ、その感情を滲ませてもらうだけだ。そうすれば、もっと澄んだ結晶が育つ」
「……っ、離せ!」
 鎖を引き、身をよじるたび、足元の刻印が鮮烈に輝き、いっそう縛りつけられる。
 魔力がじわじわと吸われていく感覚に、歯を食いしばった。鎖が手首に食い込み、わずかな身じろぎすら制限される。
 リュカは結晶の脈動に満足げな視線を投げると、静かに身を翻し、部屋の扉へと向かう。
「待てっ! まだ聞きたいことが山ほどあるっ! これから何をするつもりなんだ!」

 ――ガチャリ。
 外から鍵が掛けられる音が、湿った空気を揺らして響いた。
 僕の叫びは、虚しく暗闇に沈んでいった。

 静寂の中、気配が揺れた。
 赤紫の光に重なるように影が結び、見慣れた姿を形作る。
「……蘇芳」
 呼びかけた声に応えるように、影が目を伏せる。
「お前はそれでいいのか」
 様々な言葉が頭の中に渦巻くのに、うまく形にすることができない。
「あんな奴と手を組んで、どうするつもりだ」
「手を組んだわけじゃない!」
 咄嗟に言い返した声に、自分でも驚くほど焦りが滲んでいた。
「じゃあ何だ。鎖につながれてまで、何をしたいんだ」
「決まっているだろう……守りたいんだ、蘇芳を……っ!」
 吐き出した瞬間、蘇芳の瞳の赤紫が強く揺らめいた。
「……私のために、自分を差し出すな。愚か者。お前はいつもそうだ。誰かを守るふりをして、ただ、自分を罰している」

 否定したい。否定しなければ、きっと何かが壊れてしまう。
 けれど――言葉が、出なかった。
 うまく呼吸ができない。喉に詰まった感情が、ただ沈んでいくばかりだった。
 黙りこくった僕を一瞥し、蘇芳は影を揺らして、再び闇に融けていった。
 本当は、行くなと縋りつきたかった。
 けれどもし手を伸ばせば、その手ごと拒まれてしまうような気がして――震える指先を、ただ、強く握りしめた。

***
【作者コメント】
 ここまで読んでくださりありがとうございます。
 今日は22時台にも更新があります!
 次話では、千景が深い絶望へと墜ちていきます。
 物語もいよいよクライマックスに差し掛かりました。
 彼の行く先にあるのは、闇か、それとも……
 最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
***
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