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本編
44. 選ばれた器
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内側で、何かが静かに崩れた。
同時に、それとは別の“何か”が、ゆっくりと立ち上がる。
冷たい魔力が血の一滴まで満たし、灼けつく熱が骨に染み込んでいく。
耳の奥で、誰かの囁きが洪水のように流れていく。
――寂しい。
――怖い。
――苦しい。
――羨ましい。
――許せない。
――死にたくない。
――消えてしまいたい。
――愛してほしかった。
その全てが、まるで僕自身のもののように血に溶けていく。
理解してしまった。
――ああ、僕はもう、人間じゃない。
そう悟った瞬間、全身を覆うように赤紫の光が閃き、鎖が砕ける音が耳を裂いた。
視界が赤に染まり、瞳の奥に灼熱が差し込む。けれど、それすら心地よい。
皮膚の下を奔る魔力が、金属音のような響きを立てながら組み替えられていく。
あれほど不安定だった力は、今や澄みきった水のように、静かな奔流として体内を巡った。
僕の内には、ひと欠けらの揺らぎもなかった。
重力さえも軽く感じられるほどに、すべてが均整を保っていた。
だが――その代償に、いつも傍に感じていた気配が消えていた。
「蘇芳……?」
耳を澄ませても、返事はなかった。
心の奥を撫でるような魔力の気配が感じられない。――寂しい、と思った。彼は去ったのだ。
だが同時に仕方のないことだとも思った。
最後に蘇芳に言われた、あの言葉が蘇る。
――愚か者。
ああ、そうだ。
僕はいつだって、手遅れになるまで気づけない。
「……そうだね。僕はいつもそうだった」
涙の代わりに、笑いが漏れた。
今は胸の痛みすら心地よいものに感じた。
「素晴らしい……っ!」
興奮しきったリュカの声が、壁に反響した。
その瞳は狂気に濡れ、熱に浮かされた崇拝者のように、焦点の合わぬ目で僕を見つめていた。
「最初は、周囲に漂うあの気配を魔王に……そう思っていたが違った」
息を呑み、陶然とした面持ちで、彼は続ける。
「君こそが……完璧な器だった」
「何だと……!? 貴様、千景さんに何をしたぁっ!?」
レオの鋭い叫びが空気を裂く。だがリュカは動じない。
指先を震わせ、赤紫の光の軌跡をうっとりと見つめていた。
「見ろ……! これが、人間の負が辿り着く極点だ! 痛みも嘆きも、すべてが結晶し、新しい意志となった。闇から生まれたものこそが真の命だ……君の闇が、神を越え、魔王と成った! 千景……なんて美しい。世界が、ようやく完成した」
狂ったように語りながら、リュカは僕へと歩み寄る。
伸ばされた手が、赤紫の光の中でゆらめき、指先が頬に触れようとする。
――ああ、そうか。
この人も、僕の名前を呼びながら、僕自身を見ていたわけじゃなかった。
たとえ歪んだ形でも、僕を必要としてくれたと、そう信じたかったのに。
リュカが見ていたのは、“理想の器”。完成した“魔王”という、作品だった。
ならせめて、彼の望んだ“魔王”を、最期まで演じてあげよう。
その結末まで、ちゃんと見届けさせてあげよう。
僕は逃げなかった。
むしろ、彼の指先を微笑んで受け入れた。
「ああ……千景っ、いや、魔王様……」
頬に触れようとするリュカの手に、そっと指先を重ねる。
「――魂喰」
言葉と同時に、僕の指先から赤紫の光が滲み出す。
それは脈を打つように彼の胸元へ流れ込み、内側から心臓を掴み取った。
「ぐはっ……っ!」
リュカの身体が激しく痙攣する。
唇から泡のような血が溢れ、瞳が驚愕に見開かれる。
掌が何かを掴もうとして宙を彷徨い――そのまま、崩れて動かなくなった。
ねぇ、リュカ。
最期にその瞳に映った僕は、どんなふうに見えた?
あなたの望んだ“魔王”になれていたかな。
――答えはもう、永遠に聞けないけど。
崩れ落ちた身体から流れる血が僕の裾を濡らした。
生温かい感触が皮膚を撫で、鉄の匂いが甘く立ちのぼる。その香りが、心地よかった。
血塗れの手を見つめる。
怒りも、憎しみもなかった。
かつてあれほど苦しんだ、人の命を奪う実感も、重さも、もうどこにもなかった。
「……もっと早く、こうしていればよかったのかな」
顔を上げると、レオがいた。
恐怖に染まった瞳で、息を呑んで僕を見ている。
ああ、なんて、美しい瞳なんだろう。
恐怖の気配が空気を震わせて肌を撫でる。その感覚にぞくりとした。
「ねぇ、レオ。どう思う?」
微笑む唇が、自然と艶を帯びた。
指先で結界をなぞれば、空気が軋み、粉雪のように崩れ落ちていく。
世界の理すら、今の僕には壊せそうな気がした。
立ち尽くすレオの手を取ると、温かかった。
人間の温度だ。
その温度が、ひどく懐かしく、同時に汚したくなった。
その手を自分の頬へ導くと、レオの血が指の間を伝って滑り落ちた。
「ち、千景さん……っ、血が、ついてしまう……!」
掠れた声が、僕の中では甘美な音に聞こえた。
「ふふっ……」
僕はもう血塗れなんだから、気にする必要なんてないのに。
逃れようとする手を少し強く握ると、レオの指が震えた。
その震えを、頬で味わう。
――怖がられている。
なのに、それが快感に変わっていく。
「……ねぇ、勇者は、魔王を討つために存在するんですよね」
囁くたび、彼の喉が震え、その動きを見るのが楽しかった。
僕は血のついたレオの手を持ち上げ、舌でなぞった。
「……ぅっ」
鉄の味が、熱と混じりあって甘く変わっていく。
僕はそれを味わうように、喉の奥で転がした。
「……っ! 千景さん……駄目ですっ」
振り払われた彼の手をもう一度握り、今度は自分の首へと導く。
「君が勇者なら――僕を、殺してくれますよね?」
***
【作者コメント】
ここまで読んでくださりありがとうございます。
次話では、この地下室での出来事を、レオの視点で描きます。
彼の想いは千景に届くのでしょうか。
***
同時に、それとは別の“何か”が、ゆっくりと立ち上がる。
冷たい魔力が血の一滴まで満たし、灼けつく熱が骨に染み込んでいく。
耳の奥で、誰かの囁きが洪水のように流れていく。
――寂しい。
――怖い。
――苦しい。
――羨ましい。
――許せない。
――死にたくない。
――消えてしまいたい。
――愛してほしかった。
その全てが、まるで僕自身のもののように血に溶けていく。
理解してしまった。
――ああ、僕はもう、人間じゃない。
そう悟った瞬間、全身を覆うように赤紫の光が閃き、鎖が砕ける音が耳を裂いた。
視界が赤に染まり、瞳の奥に灼熱が差し込む。けれど、それすら心地よい。
皮膚の下を奔る魔力が、金属音のような響きを立てながら組み替えられていく。
あれほど不安定だった力は、今や澄みきった水のように、静かな奔流として体内を巡った。
僕の内には、ひと欠けらの揺らぎもなかった。
重力さえも軽く感じられるほどに、すべてが均整を保っていた。
だが――その代償に、いつも傍に感じていた気配が消えていた。
「蘇芳……?」
耳を澄ませても、返事はなかった。
心の奥を撫でるような魔力の気配が感じられない。――寂しい、と思った。彼は去ったのだ。
だが同時に仕方のないことだとも思った。
最後に蘇芳に言われた、あの言葉が蘇る。
――愚か者。
ああ、そうだ。
僕はいつだって、手遅れになるまで気づけない。
「……そうだね。僕はいつもそうだった」
涙の代わりに、笑いが漏れた。
今は胸の痛みすら心地よいものに感じた。
「素晴らしい……っ!」
興奮しきったリュカの声が、壁に反響した。
その瞳は狂気に濡れ、熱に浮かされた崇拝者のように、焦点の合わぬ目で僕を見つめていた。
「最初は、周囲に漂うあの気配を魔王に……そう思っていたが違った」
息を呑み、陶然とした面持ちで、彼は続ける。
「君こそが……完璧な器だった」
「何だと……!? 貴様、千景さんに何をしたぁっ!?」
レオの鋭い叫びが空気を裂く。だがリュカは動じない。
指先を震わせ、赤紫の光の軌跡をうっとりと見つめていた。
「見ろ……! これが、人間の負が辿り着く極点だ! 痛みも嘆きも、すべてが結晶し、新しい意志となった。闇から生まれたものこそが真の命だ……君の闇が、神を越え、魔王と成った! 千景……なんて美しい。世界が、ようやく完成した」
狂ったように語りながら、リュカは僕へと歩み寄る。
伸ばされた手が、赤紫の光の中でゆらめき、指先が頬に触れようとする。
――ああ、そうか。
この人も、僕の名前を呼びながら、僕自身を見ていたわけじゃなかった。
たとえ歪んだ形でも、僕を必要としてくれたと、そう信じたかったのに。
リュカが見ていたのは、“理想の器”。完成した“魔王”という、作品だった。
ならせめて、彼の望んだ“魔王”を、最期まで演じてあげよう。
その結末まで、ちゃんと見届けさせてあげよう。
僕は逃げなかった。
むしろ、彼の指先を微笑んで受け入れた。
「ああ……千景っ、いや、魔王様……」
頬に触れようとするリュカの手に、そっと指先を重ねる。
「――魂喰」
言葉と同時に、僕の指先から赤紫の光が滲み出す。
それは脈を打つように彼の胸元へ流れ込み、内側から心臓を掴み取った。
「ぐはっ……っ!」
リュカの身体が激しく痙攣する。
唇から泡のような血が溢れ、瞳が驚愕に見開かれる。
掌が何かを掴もうとして宙を彷徨い――そのまま、崩れて動かなくなった。
ねぇ、リュカ。
最期にその瞳に映った僕は、どんなふうに見えた?
あなたの望んだ“魔王”になれていたかな。
――答えはもう、永遠に聞けないけど。
崩れ落ちた身体から流れる血が僕の裾を濡らした。
生温かい感触が皮膚を撫で、鉄の匂いが甘く立ちのぼる。その香りが、心地よかった。
血塗れの手を見つめる。
怒りも、憎しみもなかった。
かつてあれほど苦しんだ、人の命を奪う実感も、重さも、もうどこにもなかった。
「……もっと早く、こうしていればよかったのかな」
顔を上げると、レオがいた。
恐怖に染まった瞳で、息を呑んで僕を見ている。
ああ、なんて、美しい瞳なんだろう。
恐怖の気配が空気を震わせて肌を撫でる。その感覚にぞくりとした。
「ねぇ、レオ。どう思う?」
微笑む唇が、自然と艶を帯びた。
指先で結界をなぞれば、空気が軋み、粉雪のように崩れ落ちていく。
世界の理すら、今の僕には壊せそうな気がした。
立ち尽くすレオの手を取ると、温かかった。
人間の温度だ。
その温度が、ひどく懐かしく、同時に汚したくなった。
その手を自分の頬へ導くと、レオの血が指の間を伝って滑り落ちた。
「ち、千景さん……っ、血が、ついてしまう……!」
掠れた声が、僕の中では甘美な音に聞こえた。
「ふふっ……」
僕はもう血塗れなんだから、気にする必要なんてないのに。
逃れようとする手を少し強く握ると、レオの指が震えた。
その震えを、頬で味わう。
――怖がられている。
なのに、それが快感に変わっていく。
「……ねぇ、勇者は、魔王を討つために存在するんですよね」
囁くたび、彼の喉が震え、その動きを見るのが楽しかった。
僕は血のついたレオの手を持ち上げ、舌でなぞった。
「……ぅっ」
鉄の味が、熱と混じりあって甘く変わっていく。
僕はそれを味わうように、喉の奥で転がした。
「……っ! 千景さん……駄目ですっ」
振り払われた彼の手をもう一度握り、今度は自分の首へと導く。
「君が勇者なら――僕を、殺してくれますよね?」
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【作者コメント】
ここまで読んでくださりありがとうございます。
次話では、この地下室での出来事を、レオの視点で描きます。
彼の想いは千景に届くのでしょうか。
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