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第八章 白き魔女
第87話 死者の国へ
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教皇が目覚めた、同時刻。
審問官と魔女の死闘は、いまだ続いている。
アルヴィンとクリスティーは、双方との接触を慎重に避けながら、フェリシアの記憶を辿った。
禁書アズラリエルの紙片に導かれた先は、大聖堂だ。
昼間、神々しい光で満たされる聖堂は薄暗く、人気はない。
長い身廊の先に、翼を広げた天使像が四隅に配された、大天蓋があった。
三階建ての建物に匹敵するほどの、青銅製の巨大なものだ。
それがすっぽりと大聖堂の中に収まり、さらに遙か上方に天井があるものだから、容易に距離感が狂う。
スケールに圧倒されつつ、アルヴィンは赤い絨毯が敷かれた、大天蓋の下に立つ。
目の前には、教皇が典礼を行う祭壇があった。
「会主たちは、地下に降りたみたいね」
言ってクリスティーは、足元を指さした。
祭壇の下に、カタコンベ──地下墓所へと繋がる、石階段がある。普段、固く閉ざされているはずの入り口が、開け放たれたままとなっている……
躊躇する暇はない。二人は腹をくくり、カタコンベへと足を踏み入れる。
数世紀を経て摩耗した古い石階段は滑りやすく、クリスティーは慎重に足を進める。
「──アルヴィン?」
十段ほど降りて、クリスティーは入り口を振り仰ぎ、怪訝な声を発した。
アルヴィンは、祭壇の近くにあったオイルランタンを手にしたまま、立ち止まっていた。
「どうしたのかしら? あなた、地下は苦手だったかしら」
クリスティーが、からかうように笑う。
たしかに、地下に良い思い出があるとは、とても言えない。
アルヴィンの脳裏には、三年前、炎上する修道会からメアリーと下水路を逃げた、愉しからざる記憶が甦る。
だが立ち止まったのは、まったく別の理由からだ。
アルヴィンはクリスティーを見下ろし、じっと瞳を見つめた。
「ここには僕たちしかいない。そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか?」
「こんな時に、何の話かしら。愛の告白なら、ここは少し雰囲気に欠けるようだけど?」
アルヴィンは軽口にはのらない。険しい表情で、問う。
「はぐらかさずに答えてくれ。君は聖櫃で、何をするつもりだ?」
「あら。忘れてしまったのかしら? 私の目的は、母を救うこと。ステファーナを止めたら──聖櫃を開くわ」
「聖櫃を……!」
動揺が声を震わせた。
たしかに三年前、審問官ウルバノを粛清し、取引をしたとき──彼女は言った。
母を救い出したい、と。
敢えて問うまでもなく、アルヴィンは回答を予期していたのかもしれない。それでも尋ねたのは……心のどこかで、否定して欲しい気持ちがあったからか。
苦々しい表情のまま、アルヴィンは告げる。
「クリスティー、訊いてくれ。僕は禁書庫の迷宮で、白き魔女と会った」
「母と……?」
「正確にいえば、迷宮が造り出した複製だったが……伝言を託されたんだ。──君との再会は、望まないと」
思いがけない言葉に、クリスティーは双眸に驚きを宿す。
美しく冷然とした魔女との出会いは、偶然と幸運が作用した結果だった。
白き魔女の願いであれば、折れるのではないか──アルヴィンは淡い期待を抱く。
クリスティーの首は、横に振られた。
「それが母の願いだったとしても、私は救いたい」
「……何故なんだ?」
「大陸の安寧のために、永遠に聖櫃に囚われ、犠牲になる。それが正しいと言えるのかしら?」
「だが聖櫃を開けば……大陸は滅ぶぞ」
「仕方ないわね」
「クリスティー!」
「冗談よ」
クリスティーはおどけたような口調で、肩をすくめる。
だが表情は、真剣そのものだ。
「心配しなくてもいいわ。私は大陸を逃げ回っていた三年間、母と大陸、両方を救う手立てを探し続けたの。そして、答えに行き着いた」
「そんな方法が──?」
「あるわ。ただし、あなたの協力が必要よ。力を貸してくれるわね、アルヴィン?」
二人は無言で視線を交わす。
理由は分からないが──決して頷いてはいけない、そんな予感めいたものがアルヴィンの胸に沸きあがった。
「……何をするつもりだ?」
「その時がきたら話すわ」
ここまで、ということなのだろう。
返事を待たず、クリスティーは踵を返した。
この相棒から本心を引き出すのは、いつだって難しい……。これ以上の追及が無意味であることは、明白だった。
まったく納得のいかないまま、アルヴィンは彼女の背中を追った。
通路は狭く、空気は重い。じめじめとしていて、カビ臭さが漂う。
血なまぐさい死闘が繰り広げられる地上とは対照的に、地下は陰鬱とした静寂の支配下にあった。
カタコンベは迷宮のように複雑に、そして無秩序に張り巡らされていた。
いたるところで分岐し、遺骸を安置した墓室が散在する。無意味に曲がりくねり、傾斜し、いつの間にか元の場所に戻ってきている……だまし絵のような通路さえ存在する。
まるで気の狂った画家が、線を引いたかのようだ。
アルヴィンは、祭服についた蜘蛛の巣を払った。
地上が生者の国であるとすれば、地下はまさに死者の国だろう。
その奥深くに、唯一の不死者である白き魔女がいるのだとすれば……どこか、皮肉めいたものを感じずにはおれない。
地下へ地下へと、アズラリエルは二人を誘う。
グングニルを構えたアルヴィンが前方を警戒し、クリスティーが後ろから進路を指示する。
アズラリエルを読み解きながらの追跡は、遅々として進まない。
こうしている間にも、ステファーナが聖櫃を開くのではないか……焦りだけが募る。
と。
僅かな違和感を覚え、アルヴィンは足を止めた。ランタンで、足元を照らす。
「……クリスティー!」
それが何であるか理解し、声が高ぶった。
福音は、思わぬ方向からもたらされた。
カタコンベの深部、滅多に人が訪れることのない通路には、薄く埃が積もっている。
そこに、真新しい足跡があったのだ。
子供のものと、複数の大人のものだ。
ランタンの光が届かない、闇の向こう側へと続いている……
アルヴィンは確信した。
「ステファーナだ。これは、神のお導きだな」
「当然よ。私みたいな善良な美人を、神様が放っておくわけがないでしょう?」
クリスティーが不敵に笑ってみせる。
彼女の自己評価への論評は後回しにするとして、追跡の速度が格段に増したことは違いない。
二人は小走りとなる。
やがて静寂に包まれていた世界に、音が混ざり始めた。それは進むにつれ、大きさを増していく。
「──水!?」
クリスティーが驚きの声をあげ、足を止めた。
二人が辿り着いたのは、十ほどの柩が安置された、こぢんまりとした墓室だ。
朽ち果て、原形を留めていない柩が多いところをみると、この先客たちが葬られたのは、相当時代を遡るのだろう。
天井に生じた亀裂から、大量の水が流れ込んでいる。飛び散る水滴が、頬を濡らす。
床にぽっかりと開いた黒い穴へと、激しい勢いで吸い込まれていた。
注意深くクリスティーは、痕跡を探る。足跡は……激流が流れ込む、穴の手前で途切れていた。
アズラリエルも、穴を指し示す。
アルヴィンは天井を仰ぎ、心底うんざりとしたため息を漏らした。
「まさか……ここに飛び込めと? 正気なのか?」
「文句があるなら、禁書に言ってちょうだい」
非難の成分が多分に含まれた問いかけを、クリスティーはぴしゃりと撥ねつけた。
そして悪戯っ子のような、からかいの笑みを浮かべる。
「それとも偉そうなことを言うくせに、泳げないのかしら。無理せず、あなただけ戻っても、私は構わないわよ?」
「……行くさ!」
刺々しく言い返して、激流が注ぎ込む穴を睨みつける。
足跡と禁書の両者が、ステファーナの足取りを示している。それは疑いようがない。
だが……会主がここを通ったことと、無事に聖櫃へと辿り着くことはイコールではない。
黒く渦巻く水の先を、ランタンの頼りない光で見通すことはできない。
待ち受けるのは、死かもしれないのだ。
アルヴィンは肩をすくめると、ダークブロンドの相棒を見やった。
「地下の仲間入りだけは避けたいものだな」
「大丈夫よ、あなたは死なない。絶対に聖櫃にたどり着くって、私が保証してあげるわ」
言って、クリスティーは微笑む。
それは根拠のない、広言に属するものだろうが……アルヴィンは否定しなかった。
いや──
「僕たちは、死なないだろう?」
そう訂正すると、アルヴィンは覚悟を決めた。
胸元で十字を切り、三度、深く息を吸い込む。
クリスティーを見やる。彼女は、碧い双眸に迷いのない光を宿し、頷いた。
──行くぞっ!!
二人は、激流の中へと身を投じた。
審問官と魔女の死闘は、いまだ続いている。
アルヴィンとクリスティーは、双方との接触を慎重に避けながら、フェリシアの記憶を辿った。
禁書アズラリエルの紙片に導かれた先は、大聖堂だ。
昼間、神々しい光で満たされる聖堂は薄暗く、人気はない。
長い身廊の先に、翼を広げた天使像が四隅に配された、大天蓋があった。
三階建ての建物に匹敵するほどの、青銅製の巨大なものだ。
それがすっぽりと大聖堂の中に収まり、さらに遙か上方に天井があるものだから、容易に距離感が狂う。
スケールに圧倒されつつ、アルヴィンは赤い絨毯が敷かれた、大天蓋の下に立つ。
目の前には、教皇が典礼を行う祭壇があった。
「会主たちは、地下に降りたみたいね」
言ってクリスティーは、足元を指さした。
祭壇の下に、カタコンベ──地下墓所へと繋がる、石階段がある。普段、固く閉ざされているはずの入り口が、開け放たれたままとなっている……
躊躇する暇はない。二人は腹をくくり、カタコンベへと足を踏み入れる。
数世紀を経て摩耗した古い石階段は滑りやすく、クリスティーは慎重に足を進める。
「──アルヴィン?」
十段ほど降りて、クリスティーは入り口を振り仰ぎ、怪訝な声を発した。
アルヴィンは、祭壇の近くにあったオイルランタンを手にしたまま、立ち止まっていた。
「どうしたのかしら? あなた、地下は苦手だったかしら」
クリスティーが、からかうように笑う。
たしかに、地下に良い思い出があるとは、とても言えない。
アルヴィンの脳裏には、三年前、炎上する修道会からメアリーと下水路を逃げた、愉しからざる記憶が甦る。
だが立ち止まったのは、まったく別の理由からだ。
アルヴィンはクリスティーを見下ろし、じっと瞳を見つめた。
「ここには僕たちしかいない。そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか?」
「こんな時に、何の話かしら。愛の告白なら、ここは少し雰囲気に欠けるようだけど?」
アルヴィンは軽口にはのらない。険しい表情で、問う。
「はぐらかさずに答えてくれ。君は聖櫃で、何をするつもりだ?」
「あら。忘れてしまったのかしら? 私の目的は、母を救うこと。ステファーナを止めたら──聖櫃を開くわ」
「聖櫃を……!」
動揺が声を震わせた。
たしかに三年前、審問官ウルバノを粛清し、取引をしたとき──彼女は言った。
母を救い出したい、と。
敢えて問うまでもなく、アルヴィンは回答を予期していたのかもしれない。それでも尋ねたのは……心のどこかで、否定して欲しい気持ちがあったからか。
苦々しい表情のまま、アルヴィンは告げる。
「クリスティー、訊いてくれ。僕は禁書庫の迷宮で、白き魔女と会った」
「母と……?」
「正確にいえば、迷宮が造り出した複製だったが……伝言を託されたんだ。──君との再会は、望まないと」
思いがけない言葉に、クリスティーは双眸に驚きを宿す。
美しく冷然とした魔女との出会いは、偶然と幸運が作用した結果だった。
白き魔女の願いであれば、折れるのではないか──アルヴィンは淡い期待を抱く。
クリスティーの首は、横に振られた。
「それが母の願いだったとしても、私は救いたい」
「……何故なんだ?」
「大陸の安寧のために、永遠に聖櫃に囚われ、犠牲になる。それが正しいと言えるのかしら?」
「だが聖櫃を開けば……大陸は滅ぶぞ」
「仕方ないわね」
「クリスティー!」
「冗談よ」
クリスティーはおどけたような口調で、肩をすくめる。
だが表情は、真剣そのものだ。
「心配しなくてもいいわ。私は大陸を逃げ回っていた三年間、母と大陸、両方を救う手立てを探し続けたの。そして、答えに行き着いた」
「そんな方法が──?」
「あるわ。ただし、あなたの協力が必要よ。力を貸してくれるわね、アルヴィン?」
二人は無言で視線を交わす。
理由は分からないが──決して頷いてはいけない、そんな予感めいたものがアルヴィンの胸に沸きあがった。
「……何をするつもりだ?」
「その時がきたら話すわ」
ここまで、ということなのだろう。
返事を待たず、クリスティーは踵を返した。
この相棒から本心を引き出すのは、いつだって難しい……。これ以上の追及が無意味であることは、明白だった。
まったく納得のいかないまま、アルヴィンは彼女の背中を追った。
通路は狭く、空気は重い。じめじめとしていて、カビ臭さが漂う。
血なまぐさい死闘が繰り広げられる地上とは対照的に、地下は陰鬱とした静寂の支配下にあった。
カタコンベは迷宮のように複雑に、そして無秩序に張り巡らされていた。
いたるところで分岐し、遺骸を安置した墓室が散在する。無意味に曲がりくねり、傾斜し、いつの間にか元の場所に戻ってきている……だまし絵のような通路さえ存在する。
まるで気の狂った画家が、線を引いたかのようだ。
アルヴィンは、祭服についた蜘蛛の巣を払った。
地上が生者の国であるとすれば、地下はまさに死者の国だろう。
その奥深くに、唯一の不死者である白き魔女がいるのだとすれば……どこか、皮肉めいたものを感じずにはおれない。
地下へ地下へと、アズラリエルは二人を誘う。
グングニルを構えたアルヴィンが前方を警戒し、クリスティーが後ろから進路を指示する。
アズラリエルを読み解きながらの追跡は、遅々として進まない。
こうしている間にも、ステファーナが聖櫃を開くのではないか……焦りだけが募る。
と。
僅かな違和感を覚え、アルヴィンは足を止めた。ランタンで、足元を照らす。
「……クリスティー!」
それが何であるか理解し、声が高ぶった。
福音は、思わぬ方向からもたらされた。
カタコンベの深部、滅多に人が訪れることのない通路には、薄く埃が積もっている。
そこに、真新しい足跡があったのだ。
子供のものと、複数の大人のものだ。
ランタンの光が届かない、闇の向こう側へと続いている……
アルヴィンは確信した。
「ステファーナだ。これは、神のお導きだな」
「当然よ。私みたいな善良な美人を、神様が放っておくわけがないでしょう?」
クリスティーが不敵に笑ってみせる。
彼女の自己評価への論評は後回しにするとして、追跡の速度が格段に増したことは違いない。
二人は小走りとなる。
やがて静寂に包まれていた世界に、音が混ざり始めた。それは進むにつれ、大きさを増していく。
「──水!?」
クリスティーが驚きの声をあげ、足を止めた。
二人が辿り着いたのは、十ほどの柩が安置された、こぢんまりとした墓室だ。
朽ち果て、原形を留めていない柩が多いところをみると、この先客たちが葬られたのは、相当時代を遡るのだろう。
天井に生じた亀裂から、大量の水が流れ込んでいる。飛び散る水滴が、頬を濡らす。
床にぽっかりと開いた黒い穴へと、激しい勢いで吸い込まれていた。
注意深くクリスティーは、痕跡を探る。足跡は……激流が流れ込む、穴の手前で途切れていた。
アズラリエルも、穴を指し示す。
アルヴィンは天井を仰ぎ、心底うんざりとしたため息を漏らした。
「まさか……ここに飛び込めと? 正気なのか?」
「文句があるなら、禁書に言ってちょうだい」
非難の成分が多分に含まれた問いかけを、クリスティーはぴしゃりと撥ねつけた。
そして悪戯っ子のような、からかいの笑みを浮かべる。
「それとも偉そうなことを言うくせに、泳げないのかしら。無理せず、あなただけ戻っても、私は構わないわよ?」
「……行くさ!」
刺々しく言い返して、激流が注ぎ込む穴を睨みつける。
足跡と禁書の両者が、ステファーナの足取りを示している。それは疑いようがない。
だが……会主がここを通ったことと、無事に聖櫃へと辿り着くことはイコールではない。
黒く渦巻く水の先を、ランタンの頼りない光で見通すことはできない。
待ち受けるのは、死かもしれないのだ。
アルヴィンは肩をすくめると、ダークブロンドの相棒を見やった。
「地下の仲間入りだけは避けたいものだな」
「大丈夫よ、あなたは死なない。絶対に聖櫃にたどり着くって、私が保証してあげるわ」
言って、クリスティーは微笑む。
それは根拠のない、広言に属するものだろうが……アルヴィンは否定しなかった。
いや──
「僕たちは、死なないだろう?」
そう訂正すると、アルヴィンは覚悟を決めた。
胸元で十字を切り、三度、深く息を吸い込む。
クリスティーを見やる。彼女は、碧い双眸に迷いのない光を宿し、頷いた。
──行くぞっ!!
二人は、激流の中へと身を投じた。
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