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4.セト君
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重石を固くロープで結んだ。きっとこれで井戸に重石が落ちたりすることはないだろう。
そして、試しに井戸水を汲んでみたら大成功だった。
重石の重さによって、手で加えなければならない力の量が減った。
ロープをたぐり寄せるだけ、というほど楽になった。
改良の余地って意外とあったのか、と驚く。王城暮らしの盲点ということだろうか。お城の私の生活するスペースには、噴水はあれど、井戸などなかった。水が欲しければ、すごに侍女が持ってきてくれた。
「コゼットさんに言われて、手伝いに来たぞ」
「ん?」
突然、子供が走り寄ってきた。小学生くらいの年齢だろうか。
ボロボロの服だ。服と言うより、布切れを体に巻いている感じだ。
コゼットさんの名前を言っているから、きっとバラックに住んでいる子供のひとりだろう。
「手伝いに来てくれたんだ。ありがとう。私は、ソフィーって、昨日からコゼットさんのところでお世話になってます」
セト君は、水樽の中を覗き込んで、「俺は、セトだ。まだ全然、水汲めてないな。手伝うから早くしようぜ。だけど、あまり急いで力むと、腰を痛めるからな」と言った。
「ごめんね。ちょっと、井戸の改良作業をしていたの。だから、まだ水は一回しか汲めてなくて。でも、いまから遅れを取り戻すよ!」
重石を付けて負担は軽減したから、ぎっくり腰になったりすることはないだろう。
「え?」
セト君は、私の言葉を聞いて目を見開いた。驚いているようだ。
「な、な、なんてことするんだ! この井戸は聖女様の井戸で、しんせいにしてふかしんなんだぞ!」
神聖にして不可侵、ということだろうか? 難しい言葉だからか、セト君はうまく言えていなかった。
「た、大切に使って、痛んだりしたらちゃんと修理をみんなでする決まりなんだぞ! 聖女様の井戸なんだからな! 勝手に改良してりもいけないんだぞ!」
なるほど、と私は思った。考えてみれば、スラム街にあるわりに、井戸はしっかりと整備されている。メンテナンスが行き届いている。
道路などは、凸凹であるのにかかわらずである。
石畳はほとんど剥がされて持ち去られて土の道となっている。正直、ゴミとか色々なものが捨ててあって、臭い。
それに対して、この井戸は綺麗に手入れされていたのは、聖女様のご威光なようだ。
滑車も軋んだりしていなかったし、ロープも桶もしっかりしたものだった。
聖女様の井戸は定期的にメンテナンスをするとかいう法律やらがあるのかもしれない。
「壊したりしたわけじゃないから。もっと使いやすくなったのよ? 楽になったから、セト君も、やってみる?」
「コゼットさんに伝えなきゃ。聖女さまの井戸を勝手に変えちゃうなんて、衛兵が、ふけいざいで捕まえにきちゃうよ。それに、バチとかあたるんじゃないか? 聖女さまを馬鹿にした地域は、飢饉になるって……」
セト君は、オロオロとし始めてしまった。
不敬罪は、死刑である。でも、まぁ、私が『元』ではあるが聖女だし、この井戸の発明をこの世界に持ち込んだ張本人が私だ。バチは当たらないはずだ。
でも、この井戸が改良されていないのか、なんとなく理由が分かった気がする。
『神託』というのはこの世界では絶対なのだろう。セト君の言葉を借りれば、神聖不可侵ということなのだろう。
思い返して見れば合点がいく…… だって、色々な研究をしていた学者、錬金術師たちが王宮には沢山いた。しかし、私が『聖女の農法』を考案したときに、誰も理由を聞かなかった。
それに、他の知識についても尋ねられることはなかった。
細かく質問されたら私も困っただろうが、たとえば、『聖女の農法』、つまり、輪栽式農法では作物を、一年目は小麦を、二年目は根菜類、ジャガイモなどを植える。三年目は大麦、そして四年目には牧草地にして、クローバーや大豆を植える。
五年目には一巡して、また一年目と同じものを植えていく。
どうして、四年目にクローバーや大豆を植えるのか?
元の世界の中学生の理科で習うほど簡単なことで、クローバーや大豆がマメ科であるからだ。
もっと言えば、窒素化合物を生成する根粒菌と共生していて、土壌回復の効果があるからだ。牧草地として、家畜の食料になる、という理由だけではない。地力を回復させるのに効果的なのだ。
原因と結果。土壌が回復する理由。
その理由を尋ねる者はいなかった。理由が分かったら、応用できたかもしれないのに。
たとえば……既に痩せてしまって、農業に向かない土地とされていても、マメ科の植物を植えて放置しとけば、地力は自然と回復していただろう。
その間、その土地で放牧でもしておけばよいのだ…………って、あれ? 痩せた土地を再び豊かな土地にする……。
それってすごく聖女っぽくない? 『神託』のネタに使えたかもしれない。いまさら思い付いてどうする——私。
だが、理由は分かった。
『神託』は、神聖不可侵。つまり、これ以上の改良の余地なしと見なされたのかもしれない。
ある意味、盲目的なのかもしれない。
知的好奇心に満ち溢れた錬金術師たちからも私は敬遠されていたのはきっとそういうことなのだろう。前の世界で、錬金術というのは科学の前身であったのに。
もしくは、『神託』は、人知を越える奇跡で人間には理解不能と思われていたのかも知れない。まぁ、窒素とか窒素・リン酸・カリウムとか、肉眼でも見えない物質がこの世にはあるなんて、普通は分からないだろう。
この世界は、五大元素、火、土、水、木、風で構成されているというのが錬金術師たちの常識だった。でも、それは違う。厳密に言うと、火や風は、エネルギーに属する。『土』や『木』、そして『水』は、元素記号ではない。
『水』だって、H2Oという水素と酸素の化合物なのだ。だから、尿から黄金を作るのは不可能なのだ。アンモニア(NH3)から、金(Au)は生成できない。
この世界の人たちは『神託』だから盲目的に信じるし、それ以上は探求しない。
探求することは、ひいては『神託』を疑うということ。禁忌とでもされていたのかもしれない。
私は私で、深く突っ込まれると、私の半端な知識では答えられないし、ボロがでそうだから詳しく説明することを避けていた。
悪循環だ。
もし、困っていることや、知恵を出して欲しいことがあれば言って欲しかったな——なんて今更になって思う。
だって、このスラム街の状況。スラムの道には、水たまりのように糞尿が溜まっている。ネズミさんが道を横断している。
一日スラム街にいて、匂いにはすっかり慣れてしまったけれど、素人知識でも、これは伝染病とか蔓延するんじゃない? 的な状況だと分かる。
王宮にはオマルがあって、それがトイレで侍女達が定期的に交換してくれていて気づかなかったけど、王都って衛生状況が危機的な気がする……。
あと、私って、深窓の令嬢扱いだったようだ。いや、この世界の支配者層に属する貴族の末娘で、王子の婚約者で妻だったらそうなるか……。
王宮の庭園には噴水があった。
部屋のベッドのシーツだって、どんなに汚してもすぐに新しく現れたシーツと交換されていた。
いやぁ……王都で伝染病が流行っていて困っています、とか相談してくれたら、ちょっとは力になれたかもしれないのに……。まぁ、部屋に引きこもっていたから、王都の街に遊びに行ったりもしなかった私も私なのだけど……。
「どうしよう。やっぱり、コゼットさんを呼んでくる。お城に謝りに行けば、聖女さまも許してくれるかもしれない」
セト君は、聖女に赦しを来いに行くのだろう。そういえば、そういう面会が来たっていう事後報告を聞いたことがある。私は、部屋に引きこもって一度もそういうのに顔を出したことはないけど。
「大丈夫だよ」と私は笑顔で言う。
「えっとねぇ、セト君。『聖女』様が、こっちの方が便利だからこうしなさいって教えてくださったのよ。だから、お姉さんが井戸を少し変えたのよ」
「ほ、本当か? って、ここに聖女様が来たのか? 見たかった~~!! 聖女さまって、この世の人とは思えないくらい綺麗で、美人なんだろう? 体が光って神々しいんでしょ?」
セト君は私の言うことを信じてくれたようだ。しかし、聖女が超絶美人な感じというのが、巷の認識なのだろうか? 完全に、噂が一人歩きしている。それに、体が光って、人間辞めてない?
「どうだろう。私も畏れ多くて、あまり直接見ることができなかったんだ~」
「そうだよな。汚れた邪な目で聖女さまを見ると、目が潰れるって聞くしな」
いや、その聖女様、人間辞めすぎでしょ……。美人とか言われたけど、恥ずかしいを通り過ぎて、私、引いちゃったよ。
って、気を取り直そう。
「そういうことだから、水汲みをはじめよう。そうだ、セト君もこの井戸、使ってみて。できれば、前のと、使い易さとかの違いの感想を聞かせて欲しいな」
普段から井戸を使っている人に感想を聞くのが一番だろう。
「えっとね。片方側に石、重石がついたの。だから、楽に引き上げられるはずだよ。えっとね、それで、注意点は、まず桶を降ろして、桶に水が入ったら、この石を井戸の中に落とすの。桶が空の状態で石を落とすと一気に石が落ちちゃって、桶が勢いよく上がってきて怪我とか、故障の原因になるからね。まずはゆっくりやってみようか」
セト君は、祈りを捧げたあとに、恐る恐る井戸から水を汲み上げようとする。そして、すぐに、前より楽になったことに気がついたようだ。
「すごい! これなら、俺が水汲みすることだってできる! ロバート兄ちゃんの代わりに俺が水汲みできる! 聖女様! ありがとうございます!」
セト君は、王城に向かって、お礼の言葉を叫んでいる。聖女は王城でまだ生活していると思っているのだろう。まぁ、私も、自分が聖女だなんて名乗り出るつもりは毛頭ない。
「じゃあ、私がこっちで重石を井戸に降す役をするね」
セト君と私は協力しながら水汲みをすることにした。改良されたし、会話を楽しみながら作業をする余裕があるので、私はセト君から、コゼットさんのことや、スラム街での生活のことを聞いた。
「そういえば、さっき、ロバート兄さんって言っていたけど、その人も、コゼットさんのところに住んでいるの?」
「うん。だけど、いま、病気で倒れちゃって……。ロバート兄ちゃんが水汲み担当だったんだ。ロバート兄ちゃんの代わりに、俺が水汲みするって行ったんだけど、まだ危ないからって……コゼットさんが……。コゼットさんは、もう歳なのに自分がやるって」
セト君はまだ背が伸びていない。改良前の井戸だと、水を汲み上げるために、井戸の穴へと身をかなり乗り出さなければならない。穴への転落のリスクが高い危険な作業となる。
それに、コゼットさん……。私に差し出してくれたスープ。その手は皺だらけだった。背筋だって曲がっている。釣瓶式で楽になったとはいえ、井戸での水汲みが重労働であることにかわりない。
セト君は、健気だ。優しいのだろう。それに、私が井戸を改造した件も疑うことなく信じてくれた。素直で良い子ということだ。可愛い弟ができた、と考えると嬉しくなる。
「そういうことなら、これからは、水汲みは私がやるから大丈夫だよ。だから、セト君は、コゼットさんを助けてあげてね」
水汲みはこれから私がやる。コゼットさんの家に住まわせてもらうのなら、当然だろう。いや、もっと働かないといけない。
この世界では、前の世界のように児童労働が禁止されていない。子どもが労働するのが当たり前なようだけど、やっぱり子どもは遊んで伸び伸び育ったほうがよいのだろう。
「分かった。コゼットさん、俺たちには言わないけど、無理して働いているから……」
セト君はやっぱり優しい子だ。
「あ~。聖女様がまた来て、ロバート兄ちゃんたちの病気を治してくれたらいいのに」
セト君が空に向かってそう呟く。セト君の純粋な願いでもあるのだろう。
「ねぇ、もしかしたら、ロバートさんって人の助けになるかも知れないことがあるんだ。手伝ってくれる?」
「え?」
セト君の顔が一気に明るくなり、「ソフィーってお医者様だったの?」と言った。
「お医者さんではないんだけどね」
私は苦笑いをする。
当然私は、医者ではないし、現代医学の知識なんてない。
ペニシリンなど、抗生物質が感染症に対して極めて有効であるという知識はあっても、抗生物質を作るだけの知識がない。
ペニシリンは青カビが材料らしい、くらいしかしらない。
どうやって作るかなんて知る由もないし、どのカビが青カビなのかも判別できたりしない。
だけど、やれることはありそうだった。
答えは単純だ。
ロバートさんが病気から回復するかは分からない。でも、しないよりはマシだと思えることがある。
「俺、手伝うよ!」
「一緒に頑張ろう! その為には、井戸から水を、また後で、何度も汲む必要があるの」
「へ? 薬を買うとかじゃなくて?」
セト君は意外そうな顔をした。
「掃除をするのに、水は必要だからね」
「掃除?」
セト君はもっと驚いた顔をした。
「今から、コゼットさんの家や、その周辺を掃除するの。床をぜんぶ水で洗い流して綺麗にして、シーツとか全部、洗濯をしてみようと思うの」
衛生面の回復。病原菌の住み処となりそうなところを徹底的に洗い流して、できる限り清潔に保つ。シーツなどは一度、煮沸消毒をした方がよいだろう。
「そ、それって意味あるの?」
意味、というか効果があるのかないのか、やってみなければ分からない。ロバートさんって人が助かる保証なんてない。
病気を治療するわけでもない。というか、ロバートさんの病気が、エボラなのか、ペストなのか、インフルエンザなのか、赤痢なのか、癌なのか、糖尿病なのか、肺炎なのか……。
そんなことが分かるわけがない。診断することもできない。
治療なんて無理だ。薬を作るなんてことはできない。
脚気なら、ビタミンBの豊富な食べ物食べればいいのかなぁ~なんて何故か知っているけど、小麦を主食とするこの国で脚気はまずないだろう。米主食の国でもあるまいし。
掃除することは、意味がないことかも知れない。
私はセト君の着ている服を見つめる。ボロボロの服である。そして、それ以上に、泥などで汚れている服だ。
はっきり言って不潔だけど、そもそも『清潔』という概念がないのかもしれない。
「手伝ってくれるかな?」
私はセト君に聞いた。
「いいぜ! それに、コゼットさんが、もともと手伝えって言ってたし」
セト君は快諾してくれた。
「ありがとう! じゃあまず、この水樽を家まで運ぼう」
私はセト君にお礼を言う。
そして、さっそく動き出す。まずは、家の掃除だ。
どうやら私にはたくさん……この世界でやらなければいけないことがあるようだ。だからきっと、私は命を助けられた。そんな気がした。
そして、試しに井戸水を汲んでみたら大成功だった。
重石の重さによって、手で加えなければならない力の量が減った。
ロープをたぐり寄せるだけ、というほど楽になった。
改良の余地って意外とあったのか、と驚く。王城暮らしの盲点ということだろうか。お城の私の生活するスペースには、噴水はあれど、井戸などなかった。水が欲しければ、すごに侍女が持ってきてくれた。
「コゼットさんに言われて、手伝いに来たぞ」
「ん?」
突然、子供が走り寄ってきた。小学生くらいの年齢だろうか。
ボロボロの服だ。服と言うより、布切れを体に巻いている感じだ。
コゼットさんの名前を言っているから、きっとバラックに住んでいる子供のひとりだろう。
「手伝いに来てくれたんだ。ありがとう。私は、ソフィーって、昨日からコゼットさんのところでお世話になってます」
セト君は、水樽の中を覗き込んで、「俺は、セトだ。まだ全然、水汲めてないな。手伝うから早くしようぜ。だけど、あまり急いで力むと、腰を痛めるからな」と言った。
「ごめんね。ちょっと、井戸の改良作業をしていたの。だから、まだ水は一回しか汲めてなくて。でも、いまから遅れを取り戻すよ!」
重石を付けて負担は軽減したから、ぎっくり腰になったりすることはないだろう。
「え?」
セト君は、私の言葉を聞いて目を見開いた。驚いているようだ。
「な、な、なんてことするんだ! この井戸は聖女様の井戸で、しんせいにしてふかしんなんだぞ!」
神聖にして不可侵、ということだろうか? 難しい言葉だからか、セト君はうまく言えていなかった。
「た、大切に使って、痛んだりしたらちゃんと修理をみんなでする決まりなんだぞ! 聖女様の井戸なんだからな! 勝手に改良してりもいけないんだぞ!」
なるほど、と私は思った。考えてみれば、スラム街にあるわりに、井戸はしっかりと整備されている。メンテナンスが行き届いている。
道路などは、凸凹であるのにかかわらずである。
石畳はほとんど剥がされて持ち去られて土の道となっている。正直、ゴミとか色々なものが捨ててあって、臭い。
それに対して、この井戸は綺麗に手入れされていたのは、聖女様のご威光なようだ。
滑車も軋んだりしていなかったし、ロープも桶もしっかりしたものだった。
聖女様の井戸は定期的にメンテナンスをするとかいう法律やらがあるのかもしれない。
「壊したりしたわけじゃないから。もっと使いやすくなったのよ? 楽になったから、セト君も、やってみる?」
「コゼットさんに伝えなきゃ。聖女さまの井戸を勝手に変えちゃうなんて、衛兵が、ふけいざいで捕まえにきちゃうよ。それに、バチとかあたるんじゃないか? 聖女さまを馬鹿にした地域は、飢饉になるって……」
セト君は、オロオロとし始めてしまった。
不敬罪は、死刑である。でも、まぁ、私が『元』ではあるが聖女だし、この井戸の発明をこの世界に持ち込んだ張本人が私だ。バチは当たらないはずだ。
でも、この井戸が改良されていないのか、なんとなく理由が分かった気がする。
『神託』というのはこの世界では絶対なのだろう。セト君の言葉を借りれば、神聖不可侵ということなのだろう。
思い返して見れば合点がいく…… だって、色々な研究をしていた学者、錬金術師たちが王宮には沢山いた。しかし、私が『聖女の農法』を考案したときに、誰も理由を聞かなかった。
それに、他の知識についても尋ねられることはなかった。
細かく質問されたら私も困っただろうが、たとえば、『聖女の農法』、つまり、輪栽式農法では作物を、一年目は小麦を、二年目は根菜類、ジャガイモなどを植える。三年目は大麦、そして四年目には牧草地にして、クローバーや大豆を植える。
五年目には一巡して、また一年目と同じものを植えていく。
どうして、四年目にクローバーや大豆を植えるのか?
元の世界の中学生の理科で習うほど簡単なことで、クローバーや大豆がマメ科であるからだ。
もっと言えば、窒素化合物を生成する根粒菌と共生していて、土壌回復の効果があるからだ。牧草地として、家畜の食料になる、という理由だけではない。地力を回復させるのに効果的なのだ。
原因と結果。土壌が回復する理由。
その理由を尋ねる者はいなかった。理由が分かったら、応用できたかもしれないのに。
たとえば……既に痩せてしまって、農業に向かない土地とされていても、マメ科の植物を植えて放置しとけば、地力は自然と回復していただろう。
その間、その土地で放牧でもしておけばよいのだ…………って、あれ? 痩せた土地を再び豊かな土地にする……。
それってすごく聖女っぽくない? 『神託』のネタに使えたかもしれない。いまさら思い付いてどうする——私。
だが、理由は分かった。
『神託』は、神聖不可侵。つまり、これ以上の改良の余地なしと見なされたのかもしれない。
ある意味、盲目的なのかもしれない。
知的好奇心に満ち溢れた錬金術師たちからも私は敬遠されていたのはきっとそういうことなのだろう。前の世界で、錬金術というのは科学の前身であったのに。
もしくは、『神託』は、人知を越える奇跡で人間には理解不能と思われていたのかも知れない。まぁ、窒素とか窒素・リン酸・カリウムとか、肉眼でも見えない物質がこの世にはあるなんて、普通は分からないだろう。
この世界は、五大元素、火、土、水、木、風で構成されているというのが錬金術師たちの常識だった。でも、それは違う。厳密に言うと、火や風は、エネルギーに属する。『土』や『木』、そして『水』は、元素記号ではない。
『水』だって、H2Oという水素と酸素の化合物なのだ。だから、尿から黄金を作るのは不可能なのだ。アンモニア(NH3)から、金(Au)は生成できない。
この世界の人たちは『神託』だから盲目的に信じるし、それ以上は探求しない。
探求することは、ひいては『神託』を疑うということ。禁忌とでもされていたのかもしれない。
私は私で、深く突っ込まれると、私の半端な知識では答えられないし、ボロがでそうだから詳しく説明することを避けていた。
悪循環だ。
もし、困っていることや、知恵を出して欲しいことがあれば言って欲しかったな——なんて今更になって思う。
だって、このスラム街の状況。スラムの道には、水たまりのように糞尿が溜まっている。ネズミさんが道を横断している。
一日スラム街にいて、匂いにはすっかり慣れてしまったけれど、素人知識でも、これは伝染病とか蔓延するんじゃない? 的な状況だと分かる。
王宮にはオマルがあって、それがトイレで侍女達が定期的に交換してくれていて気づかなかったけど、王都って衛生状況が危機的な気がする……。
あと、私って、深窓の令嬢扱いだったようだ。いや、この世界の支配者層に属する貴族の末娘で、王子の婚約者で妻だったらそうなるか……。
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部屋のベッドのシーツだって、どんなに汚してもすぐに新しく現れたシーツと交換されていた。
いやぁ……王都で伝染病が流行っていて困っています、とか相談してくれたら、ちょっとは力になれたかもしれないのに……。まぁ、部屋に引きこもっていたから、王都の街に遊びに行ったりもしなかった私も私なのだけど……。
「どうしよう。やっぱり、コゼットさんを呼んでくる。お城に謝りに行けば、聖女さまも許してくれるかもしれない」
セト君は、聖女に赦しを来いに行くのだろう。そういえば、そういう面会が来たっていう事後報告を聞いたことがある。私は、部屋に引きこもって一度もそういうのに顔を出したことはないけど。
「大丈夫だよ」と私は笑顔で言う。
「えっとねぇ、セト君。『聖女』様が、こっちの方が便利だからこうしなさいって教えてくださったのよ。だから、お姉さんが井戸を少し変えたのよ」
「ほ、本当か? って、ここに聖女様が来たのか? 見たかった~~!! 聖女さまって、この世の人とは思えないくらい綺麗で、美人なんだろう? 体が光って神々しいんでしょ?」
セト君は私の言うことを信じてくれたようだ。しかし、聖女が超絶美人な感じというのが、巷の認識なのだろうか? 完全に、噂が一人歩きしている。それに、体が光って、人間辞めてない?
「どうだろう。私も畏れ多くて、あまり直接見ることができなかったんだ~」
「そうだよな。汚れた邪な目で聖女さまを見ると、目が潰れるって聞くしな」
いや、その聖女様、人間辞めすぎでしょ……。美人とか言われたけど、恥ずかしいを通り過ぎて、私、引いちゃったよ。
って、気を取り直そう。
「そういうことだから、水汲みをはじめよう。そうだ、セト君もこの井戸、使ってみて。できれば、前のと、使い易さとかの違いの感想を聞かせて欲しいな」
普段から井戸を使っている人に感想を聞くのが一番だろう。
「えっとね。片方側に石、重石がついたの。だから、楽に引き上げられるはずだよ。えっとね、それで、注意点は、まず桶を降ろして、桶に水が入ったら、この石を井戸の中に落とすの。桶が空の状態で石を落とすと一気に石が落ちちゃって、桶が勢いよく上がってきて怪我とか、故障の原因になるからね。まずはゆっくりやってみようか」
セト君は、祈りを捧げたあとに、恐る恐る井戸から水を汲み上げようとする。そして、すぐに、前より楽になったことに気がついたようだ。
「すごい! これなら、俺が水汲みすることだってできる! ロバート兄ちゃんの代わりに俺が水汲みできる! 聖女様! ありがとうございます!」
セト君は、王城に向かって、お礼の言葉を叫んでいる。聖女は王城でまだ生活していると思っているのだろう。まぁ、私も、自分が聖女だなんて名乗り出るつもりは毛頭ない。
「じゃあ、私がこっちで重石を井戸に降す役をするね」
セト君と私は協力しながら水汲みをすることにした。改良されたし、会話を楽しみながら作業をする余裕があるので、私はセト君から、コゼットさんのことや、スラム街での生活のことを聞いた。
「そういえば、さっき、ロバート兄さんって言っていたけど、その人も、コゼットさんのところに住んでいるの?」
「うん。だけど、いま、病気で倒れちゃって……。ロバート兄ちゃんが水汲み担当だったんだ。ロバート兄ちゃんの代わりに、俺が水汲みするって行ったんだけど、まだ危ないからって……コゼットさんが……。コゼットさんは、もう歳なのに自分がやるって」
セト君はまだ背が伸びていない。改良前の井戸だと、水を汲み上げるために、井戸の穴へと身をかなり乗り出さなければならない。穴への転落のリスクが高い危険な作業となる。
それに、コゼットさん……。私に差し出してくれたスープ。その手は皺だらけだった。背筋だって曲がっている。釣瓶式で楽になったとはいえ、井戸での水汲みが重労働であることにかわりない。
セト君は、健気だ。優しいのだろう。それに、私が井戸を改造した件も疑うことなく信じてくれた。素直で良い子ということだ。可愛い弟ができた、と考えると嬉しくなる。
「そういうことなら、これからは、水汲みは私がやるから大丈夫だよ。だから、セト君は、コゼットさんを助けてあげてね」
水汲みはこれから私がやる。コゼットさんの家に住まわせてもらうのなら、当然だろう。いや、もっと働かないといけない。
この世界では、前の世界のように児童労働が禁止されていない。子どもが労働するのが当たり前なようだけど、やっぱり子どもは遊んで伸び伸び育ったほうがよいのだろう。
「分かった。コゼットさん、俺たちには言わないけど、無理して働いているから……」
セト君はやっぱり優しい子だ。
「あ~。聖女様がまた来て、ロバート兄ちゃんたちの病気を治してくれたらいいのに」
セト君が空に向かってそう呟く。セト君の純粋な願いでもあるのだろう。
「ねぇ、もしかしたら、ロバートさんって人の助けになるかも知れないことがあるんだ。手伝ってくれる?」
「え?」
セト君の顔が一気に明るくなり、「ソフィーってお医者様だったの?」と言った。
「お医者さんではないんだけどね」
私は苦笑いをする。
当然私は、医者ではないし、現代医学の知識なんてない。
ペニシリンなど、抗生物質が感染症に対して極めて有効であるという知識はあっても、抗生物質を作るだけの知識がない。
ペニシリンは青カビが材料らしい、くらいしかしらない。
どうやって作るかなんて知る由もないし、どのカビが青カビなのかも判別できたりしない。
だけど、やれることはありそうだった。
答えは単純だ。
ロバートさんが病気から回復するかは分からない。でも、しないよりはマシだと思えることがある。
「俺、手伝うよ!」
「一緒に頑張ろう! その為には、井戸から水を、また後で、何度も汲む必要があるの」
「へ? 薬を買うとかじゃなくて?」
セト君は意外そうな顔をした。
「掃除をするのに、水は必要だからね」
「掃除?」
セト君はもっと驚いた顔をした。
「今から、コゼットさんの家や、その周辺を掃除するの。床をぜんぶ水で洗い流して綺麗にして、シーツとか全部、洗濯をしてみようと思うの」
衛生面の回復。病原菌の住み処となりそうなところを徹底的に洗い流して、できる限り清潔に保つ。シーツなどは一度、煮沸消毒をした方がよいだろう。
「そ、それって意味あるの?」
意味、というか効果があるのかないのか、やってみなければ分からない。ロバートさんって人が助かる保証なんてない。
病気を治療するわけでもない。というか、ロバートさんの病気が、エボラなのか、ペストなのか、インフルエンザなのか、赤痢なのか、癌なのか、糖尿病なのか、肺炎なのか……。
そんなことが分かるわけがない。診断することもできない。
治療なんて無理だ。薬を作るなんてことはできない。
脚気なら、ビタミンBの豊富な食べ物食べればいいのかなぁ~なんて何故か知っているけど、小麦を主食とするこの国で脚気はまずないだろう。米主食の国でもあるまいし。
掃除することは、意味がないことかも知れない。
私はセト君の着ている服を見つめる。ボロボロの服である。そして、それ以上に、泥などで汚れている服だ。
はっきり言って不潔だけど、そもそも『清潔』という概念がないのかもしれない。
「手伝ってくれるかな?」
私はセト君に聞いた。
「いいぜ! それに、コゼットさんが、もともと手伝えって言ってたし」
セト君は快諾してくれた。
「ありがとう! じゃあまず、この水樽を家まで運ぼう」
私はセト君にお礼を言う。
そして、さっそく動き出す。まずは、家の掃除だ。
どうやら私にはたくさん……この世界でやらなければいけないことがあるようだ。だからきっと、私は命を助けられた。そんな気がした。
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無表情のまま「危ないから、ここにいろ」と命令し続ける団長に、周囲はざわつく。「それ、溺愛ですよ」
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