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前編
「エレノア、そろそろ意地を張るのはやめなさい」
と、兄は苦笑した。
「いい加減見苦しいぞ。リリスにはそろそろ二人目の子供が生まれるんだ。お前はいつまでもそんなだから、レオンだって肩身が狭そうだ」
がつん、と殴られたような衝撃が頭に走る。
「お兄様……」
私は喘ぐようにひいひい息をして胸を抑えた。
「本気でそんなこと、言ってるの……? 姉の夫を寝取った妹を、許してやれですって?」
彼は黙ったまま肩をすくめ、クリスタルグラスから水を飲んだ。
東屋を渡る風は冷たく、日差しは暖かかった。
三年前のことだ。あの日のことを私は今だに夢に見る。灰色だった。空と空気と世界そのものが、一気に色を失った、あの日。
――三年前。私、エレノア・ヴァルディアが貴婦人たちのお茶会から家に戻ると、夫と妹が同じベッドの中にいた。私たちの寝室、私たちのベッドに。
扉を開いた姿勢のまま固まった私に、メイドはあちゃあ、と舌を出し、従僕はククッと肩を震わせ――夫と妹は、顔を見合わせてクスクス笑った。
彼らの関係を知らないのは家の中で私だけだった。私だけが、道化だったのだ。
その日の朝にメイドに指示して洗わせたばかりのリネンだけを身にまとい、リリスはうふんと笑いながら立ち上がった。
「お姉様、ごめんなさあい。……でも、アタシ、レオンのこと愛してしまったの」
ベッドの中から手が伸びてきて妹の身体に絡んだ。二人が抱きしめ合うのを私は声をなくして見つめた。
確かに愛情から始まった婚姻ではなかった。没落伯爵のヴァルディア家と、新興気鋭の商人の家の跡取り息子であるレオン。領地のことを思えば、悪くないと自分に言い聞かせて嫁いだ。夫に恋人が、それもたくさんいることは割り切っていた。でも。
「リリス……は、私の妹よ」
私は抑揚のない声で夫に言い、背後で複数人のメイドたちがプーッと吹き出した。彼女たちの雇い主は姑で、彼女は私を嫌いリリスを気に入り、また私も彼女を嫌っていた。
その瞬間、リリスのことも嫌いになった。憎んでしまった。夫レオンのことも、この大きく新しいばかりで歴史のない家のことも。
そうなってしまっては、もう同じ家にいることはできない。
実家に戻った私に父母は怒り狂った。これで支援が途切れたらどうすると罵り、早く婚家に戻れと怒鳴った。私のことを心配してはくれなかった。
そんなところへ、レオンとリリスは連れ立って現れた。しっかりと腕を組んだ二人。まるで似合いの若夫婦のような二人。リリスの白い手はレオンの逞しい腕にすがっていた。
夏だった。妹はぴったりしたドレスを着ていて、そうするとそのふくらみがよく見えた。――ふくらみ。
私は何も言えなかった。言葉が、出なかった。
ただ、頭の中で何度も同じ問いが繰り返されるだけ。――どうして? ――どうして、私なの? お姉ちゃんだから我慢しなさいと言われて育ってきた。言われた通り、我慢に我慢を重ねて生きてきたつもりだった。
そうすれば、いつか幸せになれると信じていた。
レオンは堂々と私に目を合わせ、胸を張った。
「エレノア。見ての通りだ。リリスは妊娠した。俺が守るべき人は今日からお前じゃなくてリリスと子供だ」
「レオンさまあ。リリス嬉しいっ」
「……そう」
私は下を向き、言えなかった。泣くことすらできなかった。
父母が応接室に飛び込んできた。
「なんですって? リリスが子供を授かったの!? なんて素晴らしいことかしら!」
母はくるくると踊り、リリスを抱きしめ口づける。
父も、満足げに頷いている。
「二つの家を完璧に結びつける子だ。喜ばしいことだな」
――私の夫の子供なのに?
叫び出したかった。父は私を見てフンと鼻を鳴らした。
「嫁いで三年もするのにいまだ身籠らん姉とは大違い……」
私は踵を返し、部屋から逃げ出した。実家のメイドたちは気の毒そうな顔をして、中には涙ぐんでいる者もいる。それは姑の手下の婚家のメイドたちに笑われるより、辛かった。
父母の愛情に差があることは理解していた。私は家のための政略結婚の駒であり、次女であるリリスは愛玩するための娘だ。でも、これほどとは。その愛情の差がこんなにもひどい目にあう理由になるとは、思ってもみなかった。
自室で泣き疲れて眠ってしまった。目覚めると枕元に兄がいた。
「エレノア、しばらく山の中の別荘に行かないか。人の噂も届かない、小さいが居心地のいい場所だよ」
と優しく提案してくれる。
その瞬間、張り詰めていたものが切れて私はまた泣き出す。
「お兄様、なんで? なんでお父様とお母様……どうして、リリス。どうしてこんなことに……」
兄は静かに私の肩に手を置いて、泣き言を聞いていてくれた。
それから三年。
結婚したときは十八歳。姑と使用人のいじめと夫や舅の無関心に耐えて離婚されたときは二十一歳。今は、二十四歳。そろそろ適齢期も過ぎる。二度と再婚できなくなるのは構わないが、このままこの山荘で朽ちていくのも怖い、そう思うようになっていたとき。
「そろそろ許してやりなさい」
遊びに来た兄が微笑んで言った。
お土産の都会のケーキの味が口の中で粘土になった。
私の中の何かが、完全に壊れた、気がした。
「リリスに人形を取られても、社交界のドレスに差をつけられても、文句なんて言ったことなかったわ、私」
口の中のものを飲み込んで、私は言う。涙目で兄を睨むと彼はグラスを掲げて私の視線を避けた。ああ、どうして気づかなかったんだろう。いつの間にか彼は父にそっくりになっていた。
「長女ですもの。ヴァルディア家のために生きようと決めて、頑張ってきたのに」
「だから、もういいよそういうの。いい加減大人になりなさい、エレノア」
「帰って、お兄様」
兄は大仰なため息をついて立ち上がった。やれやれ、だだっ子にも困ったものだ、と言いたげに。
おそらく三年のうちに彼の中でそういうことに結論づけられてしまったのだろう。何もかもエレノアが悪いのだと。思えば実家にはそういう空気が最初からあって、私はいつだってそういうことに、悪いことの原因にされてきたのだった。
数日後、私は山を下りた。行き先なんて決めていない。ただもう疲れてしまって、離婚から三年も経ったのにちっとも癒されていないことを突きつけられたのが悔しかった。この場所にいたくなかった。ヴァルディア家に関わるすべてのものを見たくなかった。
旅は孤独だったけれど楽しかった。辻馬車を乗り継ぎ、実家も婚家も名前さえ伝わらない土地まで果てしなく逃げる。知らない土地の知らない名前は面白く、知らない人たちはとても親切で、徐々に心は静かになった。
持ってきた路銀は早くに尽きてしまい、街で皿洗いや洗濯の日雇い仕事を探して安宿に泊まり、ときには街道を徒歩で行く。他の旅人の見様見真似で野宿を覚えた。身体が疲れると頭をカラッポにして眠れるのがよかった。家事から貴婦人の社交から何から何までやらされていたことを、感謝したのは初めてかもしれなかった。
そんなある日のこと。
「ん?」
左手の甲が鋭く痛んで、草の葉か何かで切ったのかしら? と掲げてみると、紋章が光っていた。
「えっ」
と叫んだきり、慌てて右手で覆って草むらに引っ込む。街道には案外、人が通りがかる。さっきも三十人くらいの大規模な隊商と行き会ったばかりだった。
さて、何度確かめても相違ない。
――赤くきらめく紋章が前触れもなく左手の甲に出現していた。
紋章は、【聖女】や【勇者】など特殊な立場にある者の手に現れるとされるもの。神様の寵愛の証であり、国の監視下に置かれるべき存在でもある。
「わあ」
――どうして、私なの?
何度も何度も思った言葉を、それまでとは違う意味で私は思う。
「どうして……?」
と囁いてみても、紋章は赤く光るばっかりで応えてくれなかった。蔓草が絡んだユニコーンのような模様は、角度によってきらきら表情を変える。とても綺麗だけれど危険だった。私は上着のポケットからハンカチを出して手に巻き、顔を上げると男がいた。
「どうしてはこっちのセリフだ」
呆れたようにその人はぼやく。がりがり頭をかいて、困り切った様子で溜息を吐いた。
「どうして、こんなところに【紋章持ち】がいるんだよ……」
「ええと、すみません、こっちも困っておりまして」
ぽろんと言葉が転げ出た。
「困惑しておりますのは私もですの」
「ああ、俺もだ」
私は立ち上がった。草むらの中でその人はひときわ異質である。背が高く、肩幅も立派で、腰には剣。といっても剣士ではなさそうである。
「一人なのか?」
「あっ、はい」
「名前は。俺はシュトラウスだ」
「エレノアと申します。はじめまして」
家名を名乗るのはやめておいた。
「この辺りを女一人で旅するなんて珍しい」
低く落ち着いた声で彼は言う。雷がゴロゴロいう音じみた低音だった。ざんばらの黒髪と伸び放題の髭。……あら? 思っていたより美形である、と思って、そんなことに気づく自分がおかしくて笑えた。
「呪いの匂いがするな」
「な、何ですって?」
「強い呪いだ。しかも、かなり特殊な類の」
男は――シュトラウスはじいっと私を見つめる。
「……私、呪われてなんかいません」
「いいや。呪われているよ。ひどいな、これじゃあ、誰も愛してくれなかったろ?」
言われた言葉に心臓が跳ね、一歩近づいてきた彼を気づけば突き飛ばしていた。
両手首がじんじん痛む。左手の紋章がぴかぴか光る。
「ごめん。失言だった」
シュトラウスは静かに頭を下げた。
「申し訳ない。初対面で、失礼をした」
ハアハアと間近に聞こえる息の音が自分のものだと理解するまで、しばらく間があった。冷や汗を拭い、胸をさすり、私は言う。
「こちらこそ、ごめんなさい」
そう言えたことにほっとした。家族にいつも謝っていたときとは違って、心からそう言えた。だっていきなり突き飛ばすなんて(彼はこゆるぎもしなかったけど)、私が悪い、当たり前でしょう?
シュトラウスは眉を寄せて苦笑した。
かわいそうに、と言ったらまた殴られそうだったんで自重した、とのちに彼は私に語った。
***
それから。
私は王都の神殿に連れていかれ、正式に【聖女】であると認定された。ほどなくして癒しの魔力が発現した。
【紋章持ち】は世俗との関連を一切断ち、神殿にて祈りの日々を送るならわしだ。修行の日々が始まった。私は私に与えられた運命と力を、コントロールしなければならない。
魔力の操作方法、呪文の暗記、それから実践。【聖女】の魔力は癒しの力なので、神殿を訪れる傷病者を癒すことが仕事である。私はまだ現場に出させてもらえない。ひたすら、基本的なことを覚えるのみ。
この過程で幾人もの【紋章持ち】が脱落し、神官たちの力で紋章を封印され俗世に戻るという。それでなんら問題はない。ただの民草の一人に戻ることができる。
でも私は頑張って、頑張って、頑張り切った。なにしろ戻れる場所もないのだもの。もう二度と、あんな思いはごめんだもの。
私はずっと――何者かになりたかったのかもしれなかった。【聖女】になれなかったら他の何かになるべく頑張ったのかもしれなかった。
そして頑張り切れたのは、シュトラウスがいてくれたおかげだった。
彼は神殿の護衛をする聖騎士の一人であり、といっても普通の騎士様とは違って、生涯を神殿に捧げる契約をした人なのだった。聖騎士団は規律と信仰に基づいて生活し、神殿を守る。その中にいる【巫女】や【聖女】を。そして【勇者】が現れれば、その人に稽古をつけ騎士団に迎え入れる。
私たち【紋章持ち】は神様がこの国を好いていてくれる証拠だ。大切にされる。
けれどシュトラウスは、たぶんそれ以外の理由もあって私によくしてくれていた。私はそれが嬉しかった。
「ほれ」
たまの休暇の際、彼がそっぽを向きながら蜂蜜の瓶をくれたのが始まりだった。
「まあ、ありがとう」
と言って受け取ったものの、正直言ってそれがどんな意味なのかわからなかった。私をここに連れてきたのは彼だから、気にかけてくれているのかも、と思っていた。
同輩の【巫女】ミモザに、
「あんたそれ絶対違うわよ」
って言われるまで気づかなかった。
「たぶん彼、あなたのことが個人的に気になっているのよ」
「ええ?」
幼い頃から神殿で育ったミモザは、そういう遠回しな物言いをする。すでに他の【聖女】たちと一緒に傷病者の看護をしているだけあって、肝が据わっている。私は曖昧に笑ったけれど、その晩寝床の中でゆっくり考えてみた。
護衛騎士たち。彼らの仕事は神殿の警護以外にも、各地で突然覚醒する【紋章持ち】を探し神殿に連れてくることがある。彼と私が出会ったのもそんな任務のうち――ではなくて、シュトラウスが年に一度の休暇で故郷に帰った戻り道で偶然、行き会ったのだった。
護衛騎士たちが所有する唯一の装飾品である鋼の指輪には、特殊な宝石が埋め込まれている。これが【紋章持ち】の左手の甲に反応して光るのだ。
――彼の指輪が光ったのは、私に対してが初めてだったという。
私は寝返りをうつ。左手の甲を眺めてみる。月明かりの下、それは赤くきらきら輝いた。心臓の鼓動が早くなると、輝きも一層蠢くのだった。
一年が経ち、二年が経った。人を癒すことに喜びを覚えるようになり、神殿のことを家と思うようになった。シュトラウスは訓練の合間に、私は修行の休憩時間に、待ち合わせて話し込むようになっていた。
二十六歳のとき。求婚を受けた。
「少し……考えさせて」
と言ったのは、また同じことになるかもしれない、という恐怖が本能的に頭をもたげたからだった。
もちろん、わかっている。シュトラウスはレオンとは違う。もっと誠実で、地に足のついた実直な男性である。背が高いとか身体が大きいとかじゃなくて、心が広いのだ。
少なくとも、彼は他の女の人を好きになったらそのときにちゃんと話してくれるだろう。
それを聞いた私が、どうなるか今の私にはわからないけれど……。
迷いに迷い、ミモザに話を聞いてもらい、あやされたり諭されたりしながら私は決めた。
「申し出を受けるわ。でも、過去のことを聞いてほしいの」
と言い、彼はわかったと頷いた。
神殿の中庭を一緒に散歩しながら、昔の話をした。十八歳から二十四歳までの話。それからもっと前の、幼少期のことを。そうして話してみると、私の人生の中心には常にリリスがいた、と気づくのだった。
あの美しい妹のため、私はどれほどのものを犠牲にしたのだろう。そしてそのことに気づかないでいたのだろう。
私は話し始めた。ゆっくり歩きながら、最初はたどたどしく、徐々に激しく。シュトラウスは最後まで私の話を遮らなかった。話し終えたとき、私は息が荒くなっていたし、彼の全身は細かく震えてさえいた。
心臓がトコトコ速くなり、けれど身体の反応とは真逆に心が軽くなっていることに気づいた。ずっと言わずにいたあれやこれ。憎しみや恨みといった汚い部分をやっと言葉にできた爽快感と、後悔がある。
「……以上よ」
花壇を見つめたまま私は言う。冷たい風が吹く。
――怖かった。シュトラウスに何を言われるのか。
軽蔑されるか、思っていたのと違うと怒り出すかも、あるいは――また「許してやれ」と言われるのかもしれない。そうだったらどうしよう。立ち直れない。
「ふざけてるな」
低い声が落ちた。
思わず顔を上げる。
シュトラウスは、今まで見たことのない顔をしていた。普段の無骨な優しさではなく、はっきりと怒りに歪んだ顔。
「全員だ」
「……え?」
「妹も元夫も、親も兄貴も。まとめてふざけてる」
言葉は乱暴だったが、その分彼の本心だと理解できた。胸の奥底に風が吹いた。
「お前がどれだけ耐えてきたかも、どれだけ奪われてきたかも、誰一人理解していない」
「……うん」
「許せ、だと?」
彼は吐き捨てるように言った。
「許す必要なんてない。お前はずっと憎んでいていいし、恨んでいていい」
「でも、」
かすれた声をどうにか絞り出す。
「許さないと、前に進めないって……言うわ。私もそれは、事実だと思うし……」
「誰が決めた」
彼はすぱんと私を遮った。初めて。怒りに満ちた目で中空を睨んで続ける。
「そんなものは綺麗事だ。怒るべきときに怒れなかった人間に、無理やり「許してやれ」だと? 許しはおのずから湧いて出てくるものであって、他人が押し付けるのは暴力に等しい」
彼の黒髪が風に揺れる。ぴょこんと耳の後ろで跳ねるひとふさが愛らしい。私はもう冷たさを感じなかった。シュトラウスの体温は高く、間近にいると温かい。
「お前は十分すぎるほど我慢した。これ以上、自分を抑える必要なんてない。許さなくていい」
私はほうっと、ため息をつく。鼻の奥に涙の味がした。でも泣きたくない。あんな人たちのことを思い出して、また恨んで泣くなんて。敗北だもの。
「私はずうっと、正しくあろうとしてきたの。人に言われた正しさを踏襲してた。優しい姉で、素直な娘で、文句を言わない妻で。怒らず口答えをせず、従順な……」
「怒ってよかったんだ」
「怒るのは辛いもの。憎むのも恨むのも、辛い……の」
「そりゃそうだ。しごく当然だ。でも、それが自然な心の動きだろう」
すっぱり断ち切るような明快な即答だった。
私は笑った。風はどんどん強くなり、髪の毛が翻ってしょうがない。髪を抑えるふりをしながら目の端の涙を振り払う。
「……私、あの人たちが嫌いだわ」
初めて、はっきり言えた。
「リリスも、レオンも、お父様もお母様も……お兄様も。みんな、頭がおかしいのよ」
声は震え喉がひしゃげた。でも言葉は止まらない。こんなことを、あのとき、あのとき、あるいはあのときに言えたらよかった。震えるばっかりで、言えなかった。今更言ったってしょうがない。でも。
「家族のこと、全員嫌い」
やっと言えた、と思った。
「それでいいさ」
シュトラウスが言った。
「憎しみごと俺んとこ来ればいい。真夜中に怒り狂って起きたら俺を叩き起こせ。聞いてやるよ」
「そんなことしたらすぐ離婚されそう」
私は泣き笑いする。涙を見られたくなかったが、大きな手が伸びてきて冷えた頬を包んでくれたので、隠しきれなかったのを知る。
「二度目は嫌よ」
「わかった。絶対ないよ」
「……嘘。絶対、はないわ」
「それでもだ。俺は神殿付きの聖騎士だぞ?」
片方の眉と肩を同時に上げるなんて器用な真似をするシュトラウス。彼の顔は綺麗だけれど、それ以上に表情が清らかだった。全部受け入れてくれるんだわ、と思った。本当に。
嘘をついていない人の目ってどうしてこんなに底深いんだろう?
私は陶然とする。こんな人と巡り会い、今こうして一緒に立っている。信じられない。
ヴァルディア家の一番冴えない娘がこんな幸運を手に入れていいのだろうか?――いいえ、きっと、いいのだわ。
「俺はお前と生きていきたいと思ってる」
彼は不器用に言った。飾りっ気のない実直な言葉。心の一番ささくれたところにそれが染みた。信頼、というものの意味を知った気がした。
「お前はどうだ?」
少し緊張した様子で彼は問う。握り拳と引き結ばれた顎の線が硬い。
――どうして私なの?
かつて何度も繰り返した疑問がふと胸に浮かんだ。今までとは違った意味で。
答えはまだわからないし、一生分からないままかもしれない。けれど私は頷いた。
「私も同じ……気持ち。シュトラウス、あなたと一緒に生きたい」
私たちは手を取り合った。神殿の真ん中で。新しい家の中で。
簡素だけれど心の籠った式を挙げ、みんなが祝福してくれた。
嬉しかった。最初の結婚式でレオンは挨拶回り中に酔っぱらってしまって、私は主賓席に一人取り残された。そんなのと比較できないくらい、思い出す暇もないくらい、忙しなく楽しく嬉しかった。
***
三年が経った。二十九歳。もう大人。
もう大人だ! 当たり前だけれど。けっこう前から大人の年齢だったけれど。
後輩たちの指導に当たるようになり、傷病者の手当もなんのその。救えた命と、そうではなかった命のため日々祈りを捧げ、神殿の奥深く――ではなく、シュトラウスが王都に用意してくれた家に住む。
そう、なんと【紋章持ち】でも申請すれば神殿の外で暮らせるのです。
「そりゃ、そんな前時代の奴隷みたいな扱いはしないよ。大事な大事な【聖女】なんだから」
と呆れた顔をするミモザは、今度の春に出世して聖女たちを束ねる神官になることが決まっている。
「そもそもあんたとシュトラウスの結婚だって、誰も文句言わなかったでしょ? 神殿は民草の安全と自由を守る精神の砦。みみっちいこと言いっこなしよ!」
「そっかあ。言われてみれば、そうだわねえ」
言われてみれば、護衛騎士と結婚してる【聖女】、けっこういっぱいる。逆に市井にお嫁さんがいる神官や【英雄】や【竜使い】も。
「気づかなかったわ」
「どんだけ浮かれてたのよ、あんた」
「あはは……面目ない」
なんて笑い合っていた冬。
春になった途端、国土のあちこちで自然災害が起き始めた。鉄砲水や土砂崩れ、地割れなど。ありうることではあるが、突然のことに人々は慌てふためく。【巫女】たちは神様に祈りを捧げ、私たち【聖女】は各地に救援に赴くこととなった。
シュトラウスと同じ隊だったのにほっとしながら、総勢四十名で向かう先――それが実家であるヴァルディア家のある土地であり、つまり元夫レオンと妹リリスがいるかもしれないと気づいた。
夫がすすっと近づいてきて、私を抱きしめ頭のてっぺんにキスをする。
「嫌なら戻らせてもらおう」
「ううん、嫌じゃないの。怖くもないわ」
私は彼を振り返って笑った。
「ほんとに、ちっとも。むしろ怪我をした人たちのことが心配でならないの。早くいかなきゃ!」
それならいいが、と彼は安堵した表情を見せる。私たちはずいぶんとお互いの感情を読むのがうまくなっていた。
やってきた土地は、河の急激な増水がようやく引いたばかりだった。畑も家も浸水してしまい、流された怪我人、泥水を呑んで病気になった者、泣く子供たちがたくさんいた。すでに軍隊が先入しており、彼らが複数のテントを張った簡易の診療所を整えてくれていた。私たちはありがたく、そこで魔法陣や薬の棚を広げ、患者を診ることにした。
さて、物語というのは常々そういうものだけれど、まだここに来て二日も経たないうちに私はその声を聞いた。
「なんですって!? うちは伯爵家なのよ! 伯爵夫人のアタシに地べたに座れってのぉ!?」
わめく声。キンキン頭のてっぺんに響く。
私はちらり、そっちを見る。リリスだった。妹である。……いかにも元気そうだ。足元には三人の幼い子供たちが座り込んだり、スカートの裾をいじくったりしている。
私はちょっぴり笑った。それから治療に戻った。
視線を向けることなく耳だけで、妹の声を聞く。懐かしいな、と思った。それだけだった。
それ以上のこともそれ以外のことも何も思わなかった。むしろ絡まれている若い下士官が気の毒である。
「はい、これでいいですよ。お大事に」
「ありがとうごぜえます、【聖女】様……」
私は微笑み、頭に包帯を巻いた老人を送り出す。次。子供連れの若い女で、どちらも脱水症状と疲労がひどかった。癒しの魔法をかける。
二人が立ち去って次の患者がやってくるまでの間に、騒ぎが大きくなり野太い声がするのに気づいた。元夫レオンの声だった。こんなに酒焼けした声だったかしら? 首を傾げつつ、私は治療を続行する。
大声で怒鳴るレオンとそれを擁護するリリスに、さすがの軍人たちも手を焼いているようだった。護衛騎士たちの声もちらほら混じった。彼らも暇ではない。協力して行列をさばいたり配食の鍋をかき混ぜたり瓦礫をどかしたり、することはいくらでもある。
(邪魔ばかりして……)
本当に、進歩しない。
むらむら黒い感情が沸き上がりつつあった。シュトラウスに許さなくていいと言われてから、逆にそんなものは忘れたのかと思ったのに。
と、兄は苦笑した。
「いい加減見苦しいぞ。リリスにはそろそろ二人目の子供が生まれるんだ。お前はいつまでもそんなだから、レオンだって肩身が狭そうだ」
がつん、と殴られたような衝撃が頭に走る。
「お兄様……」
私は喘ぐようにひいひい息をして胸を抑えた。
「本気でそんなこと、言ってるの……? 姉の夫を寝取った妹を、許してやれですって?」
彼は黙ったまま肩をすくめ、クリスタルグラスから水を飲んだ。
東屋を渡る風は冷たく、日差しは暖かかった。
三年前のことだ。あの日のことを私は今だに夢に見る。灰色だった。空と空気と世界そのものが、一気に色を失った、あの日。
――三年前。私、エレノア・ヴァルディアが貴婦人たちのお茶会から家に戻ると、夫と妹が同じベッドの中にいた。私たちの寝室、私たちのベッドに。
扉を開いた姿勢のまま固まった私に、メイドはあちゃあ、と舌を出し、従僕はククッと肩を震わせ――夫と妹は、顔を見合わせてクスクス笑った。
彼らの関係を知らないのは家の中で私だけだった。私だけが、道化だったのだ。
その日の朝にメイドに指示して洗わせたばかりのリネンだけを身にまとい、リリスはうふんと笑いながら立ち上がった。
「お姉様、ごめんなさあい。……でも、アタシ、レオンのこと愛してしまったの」
ベッドの中から手が伸びてきて妹の身体に絡んだ。二人が抱きしめ合うのを私は声をなくして見つめた。
確かに愛情から始まった婚姻ではなかった。没落伯爵のヴァルディア家と、新興気鋭の商人の家の跡取り息子であるレオン。領地のことを思えば、悪くないと自分に言い聞かせて嫁いだ。夫に恋人が、それもたくさんいることは割り切っていた。でも。
「リリス……は、私の妹よ」
私は抑揚のない声で夫に言い、背後で複数人のメイドたちがプーッと吹き出した。彼女たちの雇い主は姑で、彼女は私を嫌いリリスを気に入り、また私も彼女を嫌っていた。
その瞬間、リリスのことも嫌いになった。憎んでしまった。夫レオンのことも、この大きく新しいばかりで歴史のない家のことも。
そうなってしまっては、もう同じ家にいることはできない。
実家に戻った私に父母は怒り狂った。これで支援が途切れたらどうすると罵り、早く婚家に戻れと怒鳴った。私のことを心配してはくれなかった。
そんなところへ、レオンとリリスは連れ立って現れた。しっかりと腕を組んだ二人。まるで似合いの若夫婦のような二人。リリスの白い手はレオンの逞しい腕にすがっていた。
夏だった。妹はぴったりしたドレスを着ていて、そうするとそのふくらみがよく見えた。――ふくらみ。
私は何も言えなかった。言葉が、出なかった。
ただ、頭の中で何度も同じ問いが繰り返されるだけ。――どうして? ――どうして、私なの? お姉ちゃんだから我慢しなさいと言われて育ってきた。言われた通り、我慢に我慢を重ねて生きてきたつもりだった。
そうすれば、いつか幸せになれると信じていた。
レオンは堂々と私に目を合わせ、胸を張った。
「エレノア。見ての通りだ。リリスは妊娠した。俺が守るべき人は今日からお前じゃなくてリリスと子供だ」
「レオンさまあ。リリス嬉しいっ」
「……そう」
私は下を向き、言えなかった。泣くことすらできなかった。
父母が応接室に飛び込んできた。
「なんですって? リリスが子供を授かったの!? なんて素晴らしいことかしら!」
母はくるくると踊り、リリスを抱きしめ口づける。
父も、満足げに頷いている。
「二つの家を完璧に結びつける子だ。喜ばしいことだな」
――私の夫の子供なのに?
叫び出したかった。父は私を見てフンと鼻を鳴らした。
「嫁いで三年もするのにいまだ身籠らん姉とは大違い……」
私は踵を返し、部屋から逃げ出した。実家のメイドたちは気の毒そうな顔をして、中には涙ぐんでいる者もいる。それは姑の手下の婚家のメイドたちに笑われるより、辛かった。
父母の愛情に差があることは理解していた。私は家のための政略結婚の駒であり、次女であるリリスは愛玩するための娘だ。でも、これほどとは。その愛情の差がこんなにもひどい目にあう理由になるとは、思ってもみなかった。
自室で泣き疲れて眠ってしまった。目覚めると枕元に兄がいた。
「エレノア、しばらく山の中の別荘に行かないか。人の噂も届かない、小さいが居心地のいい場所だよ」
と優しく提案してくれる。
その瞬間、張り詰めていたものが切れて私はまた泣き出す。
「お兄様、なんで? なんでお父様とお母様……どうして、リリス。どうしてこんなことに……」
兄は静かに私の肩に手を置いて、泣き言を聞いていてくれた。
それから三年。
結婚したときは十八歳。姑と使用人のいじめと夫や舅の無関心に耐えて離婚されたときは二十一歳。今は、二十四歳。そろそろ適齢期も過ぎる。二度と再婚できなくなるのは構わないが、このままこの山荘で朽ちていくのも怖い、そう思うようになっていたとき。
「そろそろ許してやりなさい」
遊びに来た兄が微笑んで言った。
お土産の都会のケーキの味が口の中で粘土になった。
私の中の何かが、完全に壊れた、気がした。
「リリスに人形を取られても、社交界のドレスに差をつけられても、文句なんて言ったことなかったわ、私」
口の中のものを飲み込んで、私は言う。涙目で兄を睨むと彼はグラスを掲げて私の視線を避けた。ああ、どうして気づかなかったんだろう。いつの間にか彼は父にそっくりになっていた。
「長女ですもの。ヴァルディア家のために生きようと決めて、頑張ってきたのに」
「だから、もういいよそういうの。いい加減大人になりなさい、エレノア」
「帰って、お兄様」
兄は大仰なため息をついて立ち上がった。やれやれ、だだっ子にも困ったものだ、と言いたげに。
おそらく三年のうちに彼の中でそういうことに結論づけられてしまったのだろう。何もかもエレノアが悪いのだと。思えば実家にはそういう空気が最初からあって、私はいつだってそういうことに、悪いことの原因にされてきたのだった。
数日後、私は山を下りた。行き先なんて決めていない。ただもう疲れてしまって、離婚から三年も経ったのにちっとも癒されていないことを突きつけられたのが悔しかった。この場所にいたくなかった。ヴァルディア家に関わるすべてのものを見たくなかった。
旅は孤独だったけれど楽しかった。辻馬車を乗り継ぎ、実家も婚家も名前さえ伝わらない土地まで果てしなく逃げる。知らない土地の知らない名前は面白く、知らない人たちはとても親切で、徐々に心は静かになった。
持ってきた路銀は早くに尽きてしまい、街で皿洗いや洗濯の日雇い仕事を探して安宿に泊まり、ときには街道を徒歩で行く。他の旅人の見様見真似で野宿を覚えた。身体が疲れると頭をカラッポにして眠れるのがよかった。家事から貴婦人の社交から何から何までやらされていたことを、感謝したのは初めてかもしれなかった。
そんなある日のこと。
「ん?」
左手の甲が鋭く痛んで、草の葉か何かで切ったのかしら? と掲げてみると、紋章が光っていた。
「えっ」
と叫んだきり、慌てて右手で覆って草むらに引っ込む。街道には案外、人が通りがかる。さっきも三十人くらいの大規模な隊商と行き会ったばかりだった。
さて、何度確かめても相違ない。
――赤くきらめく紋章が前触れもなく左手の甲に出現していた。
紋章は、【聖女】や【勇者】など特殊な立場にある者の手に現れるとされるもの。神様の寵愛の証であり、国の監視下に置かれるべき存在でもある。
「わあ」
――どうして、私なの?
何度も何度も思った言葉を、それまでとは違う意味で私は思う。
「どうして……?」
と囁いてみても、紋章は赤く光るばっかりで応えてくれなかった。蔓草が絡んだユニコーンのような模様は、角度によってきらきら表情を変える。とても綺麗だけれど危険だった。私は上着のポケットからハンカチを出して手に巻き、顔を上げると男がいた。
「どうしてはこっちのセリフだ」
呆れたようにその人はぼやく。がりがり頭をかいて、困り切った様子で溜息を吐いた。
「どうして、こんなところに【紋章持ち】がいるんだよ……」
「ええと、すみません、こっちも困っておりまして」
ぽろんと言葉が転げ出た。
「困惑しておりますのは私もですの」
「ああ、俺もだ」
私は立ち上がった。草むらの中でその人はひときわ異質である。背が高く、肩幅も立派で、腰には剣。といっても剣士ではなさそうである。
「一人なのか?」
「あっ、はい」
「名前は。俺はシュトラウスだ」
「エレノアと申します。はじめまして」
家名を名乗るのはやめておいた。
「この辺りを女一人で旅するなんて珍しい」
低く落ち着いた声で彼は言う。雷がゴロゴロいう音じみた低音だった。ざんばらの黒髪と伸び放題の髭。……あら? 思っていたより美形である、と思って、そんなことに気づく自分がおかしくて笑えた。
「呪いの匂いがするな」
「な、何ですって?」
「強い呪いだ。しかも、かなり特殊な類の」
男は――シュトラウスはじいっと私を見つめる。
「……私、呪われてなんかいません」
「いいや。呪われているよ。ひどいな、これじゃあ、誰も愛してくれなかったろ?」
言われた言葉に心臓が跳ね、一歩近づいてきた彼を気づけば突き飛ばしていた。
両手首がじんじん痛む。左手の紋章がぴかぴか光る。
「ごめん。失言だった」
シュトラウスは静かに頭を下げた。
「申し訳ない。初対面で、失礼をした」
ハアハアと間近に聞こえる息の音が自分のものだと理解するまで、しばらく間があった。冷や汗を拭い、胸をさすり、私は言う。
「こちらこそ、ごめんなさい」
そう言えたことにほっとした。家族にいつも謝っていたときとは違って、心からそう言えた。だっていきなり突き飛ばすなんて(彼はこゆるぎもしなかったけど)、私が悪い、当たり前でしょう?
シュトラウスは眉を寄せて苦笑した。
かわいそうに、と言ったらまた殴られそうだったんで自重した、とのちに彼は私に語った。
***
それから。
私は王都の神殿に連れていかれ、正式に【聖女】であると認定された。ほどなくして癒しの魔力が発現した。
【紋章持ち】は世俗との関連を一切断ち、神殿にて祈りの日々を送るならわしだ。修行の日々が始まった。私は私に与えられた運命と力を、コントロールしなければならない。
魔力の操作方法、呪文の暗記、それから実践。【聖女】の魔力は癒しの力なので、神殿を訪れる傷病者を癒すことが仕事である。私はまだ現場に出させてもらえない。ひたすら、基本的なことを覚えるのみ。
この過程で幾人もの【紋章持ち】が脱落し、神官たちの力で紋章を封印され俗世に戻るという。それでなんら問題はない。ただの民草の一人に戻ることができる。
でも私は頑張って、頑張って、頑張り切った。なにしろ戻れる場所もないのだもの。もう二度と、あんな思いはごめんだもの。
私はずっと――何者かになりたかったのかもしれなかった。【聖女】になれなかったら他の何かになるべく頑張ったのかもしれなかった。
そして頑張り切れたのは、シュトラウスがいてくれたおかげだった。
彼は神殿の護衛をする聖騎士の一人であり、といっても普通の騎士様とは違って、生涯を神殿に捧げる契約をした人なのだった。聖騎士団は規律と信仰に基づいて生活し、神殿を守る。その中にいる【巫女】や【聖女】を。そして【勇者】が現れれば、その人に稽古をつけ騎士団に迎え入れる。
私たち【紋章持ち】は神様がこの国を好いていてくれる証拠だ。大切にされる。
けれどシュトラウスは、たぶんそれ以外の理由もあって私によくしてくれていた。私はそれが嬉しかった。
「ほれ」
たまの休暇の際、彼がそっぽを向きながら蜂蜜の瓶をくれたのが始まりだった。
「まあ、ありがとう」
と言って受け取ったものの、正直言ってそれがどんな意味なのかわからなかった。私をここに連れてきたのは彼だから、気にかけてくれているのかも、と思っていた。
同輩の【巫女】ミモザに、
「あんたそれ絶対違うわよ」
って言われるまで気づかなかった。
「たぶん彼、あなたのことが個人的に気になっているのよ」
「ええ?」
幼い頃から神殿で育ったミモザは、そういう遠回しな物言いをする。すでに他の【聖女】たちと一緒に傷病者の看護をしているだけあって、肝が据わっている。私は曖昧に笑ったけれど、その晩寝床の中でゆっくり考えてみた。
護衛騎士たち。彼らの仕事は神殿の警護以外にも、各地で突然覚醒する【紋章持ち】を探し神殿に連れてくることがある。彼と私が出会ったのもそんな任務のうち――ではなくて、シュトラウスが年に一度の休暇で故郷に帰った戻り道で偶然、行き会ったのだった。
護衛騎士たちが所有する唯一の装飾品である鋼の指輪には、特殊な宝石が埋め込まれている。これが【紋章持ち】の左手の甲に反応して光るのだ。
――彼の指輪が光ったのは、私に対してが初めてだったという。
私は寝返りをうつ。左手の甲を眺めてみる。月明かりの下、それは赤くきらきら輝いた。心臓の鼓動が早くなると、輝きも一層蠢くのだった。
一年が経ち、二年が経った。人を癒すことに喜びを覚えるようになり、神殿のことを家と思うようになった。シュトラウスは訓練の合間に、私は修行の休憩時間に、待ち合わせて話し込むようになっていた。
二十六歳のとき。求婚を受けた。
「少し……考えさせて」
と言ったのは、また同じことになるかもしれない、という恐怖が本能的に頭をもたげたからだった。
もちろん、わかっている。シュトラウスはレオンとは違う。もっと誠実で、地に足のついた実直な男性である。背が高いとか身体が大きいとかじゃなくて、心が広いのだ。
少なくとも、彼は他の女の人を好きになったらそのときにちゃんと話してくれるだろう。
それを聞いた私が、どうなるか今の私にはわからないけれど……。
迷いに迷い、ミモザに話を聞いてもらい、あやされたり諭されたりしながら私は決めた。
「申し出を受けるわ。でも、過去のことを聞いてほしいの」
と言い、彼はわかったと頷いた。
神殿の中庭を一緒に散歩しながら、昔の話をした。十八歳から二十四歳までの話。それからもっと前の、幼少期のことを。そうして話してみると、私の人生の中心には常にリリスがいた、と気づくのだった。
あの美しい妹のため、私はどれほどのものを犠牲にしたのだろう。そしてそのことに気づかないでいたのだろう。
私は話し始めた。ゆっくり歩きながら、最初はたどたどしく、徐々に激しく。シュトラウスは最後まで私の話を遮らなかった。話し終えたとき、私は息が荒くなっていたし、彼の全身は細かく震えてさえいた。
心臓がトコトコ速くなり、けれど身体の反応とは真逆に心が軽くなっていることに気づいた。ずっと言わずにいたあれやこれ。憎しみや恨みといった汚い部分をやっと言葉にできた爽快感と、後悔がある。
「……以上よ」
花壇を見つめたまま私は言う。冷たい風が吹く。
――怖かった。シュトラウスに何を言われるのか。
軽蔑されるか、思っていたのと違うと怒り出すかも、あるいは――また「許してやれ」と言われるのかもしれない。そうだったらどうしよう。立ち直れない。
「ふざけてるな」
低い声が落ちた。
思わず顔を上げる。
シュトラウスは、今まで見たことのない顔をしていた。普段の無骨な優しさではなく、はっきりと怒りに歪んだ顔。
「全員だ」
「……え?」
「妹も元夫も、親も兄貴も。まとめてふざけてる」
言葉は乱暴だったが、その分彼の本心だと理解できた。胸の奥底に風が吹いた。
「お前がどれだけ耐えてきたかも、どれだけ奪われてきたかも、誰一人理解していない」
「……うん」
「許せ、だと?」
彼は吐き捨てるように言った。
「許す必要なんてない。お前はずっと憎んでいていいし、恨んでいていい」
「でも、」
かすれた声をどうにか絞り出す。
「許さないと、前に進めないって……言うわ。私もそれは、事実だと思うし……」
「誰が決めた」
彼はすぱんと私を遮った。初めて。怒りに満ちた目で中空を睨んで続ける。
「そんなものは綺麗事だ。怒るべきときに怒れなかった人間に、無理やり「許してやれ」だと? 許しはおのずから湧いて出てくるものであって、他人が押し付けるのは暴力に等しい」
彼の黒髪が風に揺れる。ぴょこんと耳の後ろで跳ねるひとふさが愛らしい。私はもう冷たさを感じなかった。シュトラウスの体温は高く、間近にいると温かい。
「お前は十分すぎるほど我慢した。これ以上、自分を抑える必要なんてない。許さなくていい」
私はほうっと、ため息をつく。鼻の奥に涙の味がした。でも泣きたくない。あんな人たちのことを思い出して、また恨んで泣くなんて。敗北だもの。
「私はずうっと、正しくあろうとしてきたの。人に言われた正しさを踏襲してた。優しい姉で、素直な娘で、文句を言わない妻で。怒らず口答えをせず、従順な……」
「怒ってよかったんだ」
「怒るのは辛いもの。憎むのも恨むのも、辛い……の」
「そりゃそうだ。しごく当然だ。でも、それが自然な心の動きだろう」
すっぱり断ち切るような明快な即答だった。
私は笑った。風はどんどん強くなり、髪の毛が翻ってしょうがない。髪を抑えるふりをしながら目の端の涙を振り払う。
「……私、あの人たちが嫌いだわ」
初めて、はっきり言えた。
「リリスも、レオンも、お父様もお母様も……お兄様も。みんな、頭がおかしいのよ」
声は震え喉がひしゃげた。でも言葉は止まらない。こんなことを、あのとき、あのとき、あるいはあのときに言えたらよかった。震えるばっかりで、言えなかった。今更言ったってしょうがない。でも。
「家族のこと、全員嫌い」
やっと言えた、と思った。
「それでいいさ」
シュトラウスが言った。
「憎しみごと俺んとこ来ればいい。真夜中に怒り狂って起きたら俺を叩き起こせ。聞いてやるよ」
「そんなことしたらすぐ離婚されそう」
私は泣き笑いする。涙を見られたくなかったが、大きな手が伸びてきて冷えた頬を包んでくれたので、隠しきれなかったのを知る。
「二度目は嫌よ」
「わかった。絶対ないよ」
「……嘘。絶対、はないわ」
「それでもだ。俺は神殿付きの聖騎士だぞ?」
片方の眉と肩を同時に上げるなんて器用な真似をするシュトラウス。彼の顔は綺麗だけれど、それ以上に表情が清らかだった。全部受け入れてくれるんだわ、と思った。本当に。
嘘をついていない人の目ってどうしてこんなに底深いんだろう?
私は陶然とする。こんな人と巡り会い、今こうして一緒に立っている。信じられない。
ヴァルディア家の一番冴えない娘がこんな幸運を手に入れていいのだろうか?――いいえ、きっと、いいのだわ。
「俺はお前と生きていきたいと思ってる」
彼は不器用に言った。飾りっ気のない実直な言葉。心の一番ささくれたところにそれが染みた。信頼、というものの意味を知った気がした。
「お前はどうだ?」
少し緊張した様子で彼は問う。握り拳と引き結ばれた顎の線が硬い。
――どうして私なの?
かつて何度も繰り返した疑問がふと胸に浮かんだ。今までとは違った意味で。
答えはまだわからないし、一生分からないままかもしれない。けれど私は頷いた。
「私も同じ……気持ち。シュトラウス、あなたと一緒に生きたい」
私たちは手を取り合った。神殿の真ん中で。新しい家の中で。
簡素だけれど心の籠った式を挙げ、みんなが祝福してくれた。
嬉しかった。最初の結婚式でレオンは挨拶回り中に酔っぱらってしまって、私は主賓席に一人取り残された。そんなのと比較できないくらい、思い出す暇もないくらい、忙しなく楽しく嬉しかった。
***
三年が経った。二十九歳。もう大人。
もう大人だ! 当たり前だけれど。けっこう前から大人の年齢だったけれど。
後輩たちの指導に当たるようになり、傷病者の手当もなんのその。救えた命と、そうではなかった命のため日々祈りを捧げ、神殿の奥深く――ではなく、シュトラウスが王都に用意してくれた家に住む。
そう、なんと【紋章持ち】でも申請すれば神殿の外で暮らせるのです。
「そりゃ、そんな前時代の奴隷みたいな扱いはしないよ。大事な大事な【聖女】なんだから」
と呆れた顔をするミモザは、今度の春に出世して聖女たちを束ねる神官になることが決まっている。
「そもそもあんたとシュトラウスの結婚だって、誰も文句言わなかったでしょ? 神殿は民草の安全と自由を守る精神の砦。みみっちいこと言いっこなしよ!」
「そっかあ。言われてみれば、そうだわねえ」
言われてみれば、護衛騎士と結婚してる【聖女】、けっこういっぱいる。逆に市井にお嫁さんがいる神官や【英雄】や【竜使い】も。
「気づかなかったわ」
「どんだけ浮かれてたのよ、あんた」
「あはは……面目ない」
なんて笑い合っていた冬。
春になった途端、国土のあちこちで自然災害が起き始めた。鉄砲水や土砂崩れ、地割れなど。ありうることではあるが、突然のことに人々は慌てふためく。【巫女】たちは神様に祈りを捧げ、私たち【聖女】は各地に救援に赴くこととなった。
シュトラウスと同じ隊だったのにほっとしながら、総勢四十名で向かう先――それが実家であるヴァルディア家のある土地であり、つまり元夫レオンと妹リリスがいるかもしれないと気づいた。
夫がすすっと近づいてきて、私を抱きしめ頭のてっぺんにキスをする。
「嫌なら戻らせてもらおう」
「ううん、嫌じゃないの。怖くもないわ」
私は彼を振り返って笑った。
「ほんとに、ちっとも。むしろ怪我をした人たちのことが心配でならないの。早くいかなきゃ!」
それならいいが、と彼は安堵した表情を見せる。私たちはずいぶんとお互いの感情を読むのがうまくなっていた。
やってきた土地は、河の急激な増水がようやく引いたばかりだった。畑も家も浸水してしまい、流された怪我人、泥水を呑んで病気になった者、泣く子供たちがたくさんいた。すでに軍隊が先入しており、彼らが複数のテントを張った簡易の診療所を整えてくれていた。私たちはありがたく、そこで魔法陣や薬の棚を広げ、患者を診ることにした。
さて、物語というのは常々そういうものだけれど、まだここに来て二日も経たないうちに私はその声を聞いた。
「なんですって!? うちは伯爵家なのよ! 伯爵夫人のアタシに地べたに座れってのぉ!?」
わめく声。キンキン頭のてっぺんに響く。
私はちらり、そっちを見る。リリスだった。妹である。……いかにも元気そうだ。足元には三人の幼い子供たちが座り込んだり、スカートの裾をいじくったりしている。
私はちょっぴり笑った。それから治療に戻った。
視線を向けることなく耳だけで、妹の声を聞く。懐かしいな、と思った。それだけだった。
それ以上のこともそれ以外のことも何も思わなかった。むしろ絡まれている若い下士官が気の毒である。
「はい、これでいいですよ。お大事に」
「ありがとうごぜえます、【聖女】様……」
私は微笑み、頭に包帯を巻いた老人を送り出す。次。子供連れの若い女で、どちらも脱水症状と疲労がひどかった。癒しの魔法をかける。
二人が立ち去って次の患者がやってくるまでの間に、騒ぎが大きくなり野太い声がするのに気づいた。元夫レオンの声だった。こんなに酒焼けした声だったかしら? 首を傾げつつ、私は治療を続行する。
大声で怒鳴るレオンとそれを擁護するリリスに、さすがの軍人たちも手を焼いているようだった。護衛騎士たちの声もちらほら混じった。彼らも暇ではない。協力して行列をさばいたり配食の鍋をかき混ぜたり瓦礫をどかしたり、することはいくらでもある。
(邪魔ばかりして……)
本当に、進歩しない。
むらむら黒い感情が沸き上がりつつあった。シュトラウスに許さなくていいと言われてから、逆にそんなものは忘れたのかと思ったのに。
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