指輪と娘がつなぐもの

重田いの

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「マティアス様ァ!」
 ユリアナは叫んだ。

「あたし、こんなつもりじゃなかったんです!」
 何度も首を振り、胸の前で両手を組み合わせる。
 よろめく足取り、完璧な美貌、華奢な身体、はちみつ色の金髪。
 冤罪をかけられた少女が必死に命乞いをしていると勘違いしそうになるほど、彼女は美しい。

 だがそれだけだった。

「ただ悲しくてェ……気づいたら修道院にいたの。気づいたらあなたのお子さんが腕の中にいたの。あたしのせいじゃないんですう」
「言い訳をするな。お前は俺の娘を攫った」
 マティアスの低い声はエリーザベトでさえ足が震えるほど怒気に満ちている。

「あたしのせいじゃないよ! あたしのせいじゃないもん」
 少女はぷくっと頬を膨らませて腕を組み、挑発的に顎を突き出した。

「そりゃ悪かったけどさ。でもマティアス様、あたしに悪いことしてると思わないの? あたしをこんなに追い詰めて?」
 エリーザベトはソフィアの顔を胸に押し付けて、幼い娘に悪影響が出ないことを願った。
 ユリアナは本気だった。
 本気で、何もかも自分のせいではないと信じていた。

 ――本当にわからないのだろうか?
 たった二歳の娘が手元からいなくなった父母の絶望が、本気でわからないのか!

「ソフィア、あの人知ってる?」
「ううん」
 ソフィアが首を横に振ったので、エリーザベトは心から安堵した。
 一晩母親なしで過ごした小さな娘のかたわらにユリアナがいたなど、耐えられなかっただろう。

「あのね、ソフィアね、おにいちゃんといたの」
「おにいちゃん? どんなおにいちゃん?」
「ふつうのおにいちゃんだよ」

 ユリアナは不思議そうに母子を眺め、マティアスが揺らがないのに戸惑っていた。
 徐々に彼女の魔力が集まってきて、泉に波紋が立ったがエリーザベトは恐れなかった。

 マティアスは決して退かないのを知っているから。
 彼女とソフィアが後ろにいる限り、夫は絶対に退かない。

「なんで? なんで? あたしはただ、幸せになりたいだけなのに」
 クスンクスンと泣き声を立てながらユリアナは両腕を広げ、エリーザベトと娘に訴える。

「なんであたしの幸せを邪魔するの? 別れてよ! あたしの方が若いからもっとたくさん子供産めるのに」
 エリーザベトはソフィアの様子を伺うが、幼い娘は母親に抱かれていることに安心しきっているようで、ユリアナの声よりむしろ水面でたわむれるちょうちょに興味があるようだった。
 ユリアナはフラフラと母子の元へ歩き出そうとしたが、マティアスは腰の剣の柄に手を置いてそれを阻んだ。

「たとえ妻が罪人で、俺がそれを追う任務を受けた騎士だとしても俺は妻の味方になる。お前を選ぶことは終生ない。妻へのあらゆる攻撃は俺が許さない。娘にもだ。もしお前が俺の妻子に手を出すのなら、ここでお前を殺す」

「マティアス。ソフィアが聞いています」
 マティアスはエリーザベトに目を向け頷いた。
 そんな夫婦のやり取りの何もかもが気に入らなかったらしい、ユリアナは悪魔のように怒り狂った顔をした。
 はちみつ色の金髪がぶわりと逆立つ。

 ――ああ、この美しい少女は。もう、わからないのだ。
 理解に使う部分が、壊れている。

「なんでみんなあたしのこと悪者にするの?」
 ユリアナは震えながら呻いた。
 ぽろぽろと涙をこぼしながら。
 この涙は感情の高ぶりだけではなくて、ただ彼女は悔しがっているのだ。
 世界そのものに対して。

(この子とレオポルドを残して……ご両親は、死にたくなかっただろう……)
 エリーザベトはソフィアを抱きしめ、絶望に打ちひしがれた。

 やがてマティアスは警戒を解いた。
 ユリアナを取り巻く魔法の光は赤々と燃えるようだったが、へたり込んでしまった彼女にはそれ以上のことをする気はなく、攻撃欲も失せたようだった。

「我が子の誘拐について、そして俺に対して行った魔法による違法攻撃について、俺は正式に審査官に、そして法廷へ訴え出るつもりだ。レオポルドと共に大人しく沙汰を待て。法廷闘争に躊躇はないぞ」

「そんなっ、なんでっ。そんなことされたら組織から追い出されちゃうじゃん。……にゃあんでぇー。うみゅー、うみゅー」
 ユリアナは愛らしく唇を尖らせ、動物の鳴き声のような音を出した。
 顎を引き、大きな目をますます丸くし、人差し指を口にくわえ、一心にマティアスを見つめ、身体をくねらせる。
 指をしゃぶるチュパッという音が聞こえる。

 昔、誰かが彼女にこうしろと教えたのだ。
 そしてユリアナは言われた通りにした。
 親も兄も傍におらず誰も善悪を教えてくれない中で、この美しい少女を支えているのは間違って教わったことだけなのだろう。

 エリーザベトは目を伏せた。
 ソフィアは母親の肩越しにちょうちょに手を伸ばしていた。

 すべては一瞬のうちに起こった。
 ユリアナのみぞおちからぱっと白い光が立ち上った。
 あまりにも完璧なタイミングだった。
 おそらく監視されていたのだろう。

「あ!?」
 ユリアナが発光した、ように見えた。

 エリーザベトはソフィアの頭を胸に押し付け、泉の向こう側へ走って逃げた。
 マティアスがすぐにあとを追った。
 木の根元へ伏せた二人の頭に彼が覆いかぶさる。薬草と煙と土埃と、彼の匂いがした。

 エリーザベトが腕の中で固まったソフィアを抱きしめながら顔を上げたときには、すべてが終わっていた。

「見るな。ソフィアにも見せるんじゃない」
「ええ」
 マティアスの低い声に従って顔を伏せる。

 肉が――人の身体が焼けるにおいがした。
 レーレン修道院で何度か嗅いだことがある、戦争が一番激しかった頃、死者の埋葬が間に合わなくて川辺に集めて油をかけて、火で清めたのだ。
 ソフィアが何も知らなくてすむようにエリーザベトは小さな彼女に笑いかけ、あやした。

 次々と魔法使いたちが転移魔法で泉の周りに現れた。
 伏せた母子やその前に立つマティアスになど目もくれず、彼らは消し炭になったユリアナだったものを取り囲む。
 ひそひそと、状態を記録しているらしい声。ふむ、爆裂か。焼死ですか? いや、破裂して死んだ。あまりもちませんでしたね。せっかく魔道具で魔力を底上げしてやったのに。

 誰もユリアナの若すぎる死を悼んでいる様子ではなかった。
 ただ一人を除いて。

 ローブの人物たちをかき分けて、レオポルドが走り出てきた。

「ユリアナ!」
 彼の悲鳴はか細く、身体まで小さくなったようだった。
 妹の身体に駆け寄ると、がくがく揺さぶって死に顔を覗き込む。
 華奢な美少女は二度と目を覚まさない。

 レオポルドは嘆いている。それは嘘ではない――しかし、それが愛情からくる仕草ではないことを、この場にいる誰もが知っていた。
 彼は安堵していた。
 もうこの妹に煩わされないことに。

 あまりにも痛ましい結末に、エリーザベトはただソフィアを抱きしめる。
 一方の娘はまったく状況が把握できていないようで、もぞもぞエリーザベトの耳元まで這い上がり、耳打ちする。

「あのねあのね、ソフィアと昨日あのおにいちゃんたちとおねんねした」
「そうなの。あったかかった?」
「うん」

 レオポルドはぼんやりと頭を回してマティアスを見つけた。
 もはや彼には何を言う権利もなかった。
 彼は妹を抑えると言った。
 だが実際に起きたことは――見ての通りだった。

 ユリアナは自分の命で代償を支払ったが、レオポルドが贖罪できる機会はこの先永遠にない。
 償いをマティアスは拒絶するだろうし、償いきれない罪というものはこの世に存在する。
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