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リオネロペの訪問以来、変化の乏しい日々が二ヶ月ほど続いた。
その夜、イオは雑誌を読んでいた。夕食後の自由時間である。居間のお気に入りのソファでの読書が日課だ。
誌面には流行りの服を着た美しい女性や、美味しそうなお菓子をつまむ少女の写真が載っている。人気の小説の紹介だったり、最新鋭の機械の宣伝もあって、開くとあっという間に時が経ってしまう。
じっくり写真を見ていたら、横手から声がかかった。
「なにを読んでいる?」
「はい、ドクター」
「今は検査の時間ではない」
「あ、はい、ヨシカ。今は雑誌を読んでいます。先日街で買っていただいた雑誌です」
オフのドクター・シグニールは白衣を脱ぎ、ゆったりしたシャツにタイトすぎないパンツという、くつろいだ格好をしていた。
手には湯気を上げるカップを2つ。片方の中身は真っ黒で、もう片方は淡い茶色。
いつからか、彼はこうして夕食後にイオにもコーヒーを淹れてくれる。
カフェではカフェオレを注文すればこの品物が出てくると、イオは近頃学習した。ただ彼女は、ドクターのように砂糖もミルクも入ってないコーヒーが飲みたいのだ。そのほうが格好いい気がしている。何度も挑戦したが、今のところ、最後まで飲みきったことはない。
イオのカップの半分から減らない黒い液体を見るたび、ドクターは呆れ顔をしていた。出不精の彼は、コーヒー豆を買いに外出するのも面倒なようで、「豆を無駄にするな」と苦言を呈し続け(そのくせその日の気分で買う豆を変えるから、イオにおつかいを任せない)、ついには手ずからカフェオレを作るようになった。
イオは不本意ながらも、美味しいカフェオレを毎夜飲み干している。
「いつもありがとうございます」
「ついでだ。豆を無駄にされたくない」
膝に雑誌を広げたイオに、ドクターがカップを差し出した。受け取りながら、イオはドクターが座りやすいよう、少しだけ横にずれた。ドクターは背は高いものの細身なので、ソファの幅はゆったりしている。ただ、膝が急角度でなんだか窮屈そうだ。
「写真ばかりなのに、読んでいて物足りなくないのか?」
「そんなことないですよ。きれいな服やお化粧品を眺めていると、時間を忘れます。行ったことのない場所の写真は、どんなところなのかなと想像しているのが楽しくて、やっぱり時間が経ってしまいます」
「なるほど」
「ヨシカはどういう本が好きですか? どこか行ってみたいところとか、食べてみたいものはないんですか?」
ドクターが読んでいる本は、古い言語や外国の言葉で記されたものが多く、絵も写真もないものがほとんどだ。イオは読めない。
「本を好きと感じたことはないが、何も読まない日はないな。読まずにいると落ち着かない。思考が鈍るし、エネルギーが余るのか無駄なことを考える」
「無駄なこと?」
「たとえば、最適解がわかっている問の、解への過程を何通りも考える。無意味だ。最適解はそこに至るまで含めて最適であるわけだから」
「そう……なのですか?」
「君は? それだけ熱心に読んでいるのだ、行ってみたいところ、食べてみたいもの、ほしいものもあるんだろう?」
「ありますあります! この写真見てください。わたし、中央植物園に行きたいんです! きれいなお花と鳥たちを眺めたあとは、テラスでコーヒーを飲みたいです。ベリーがどっさり乗ったクリームサンドも食べたいですし、あ、この女の子みたいに日傘を差して中央の目抜き通りをお散歩してみたいです。楓の葉っぱがとってもきれいですよ」
ドクターは顎に長い指をあてて、かすかに考える素振りを見せた。
「行ってみるか? 明日なら行けるが」
「え、いいんですか?!」
イオは思わず立ち上がった。膝から雑誌が落ちる。
近頃、身寄りのない亜人の失踪事件が頻発しているからと、長時間の独り歩きは禁じられている。散歩が好きだから不服だった。だからこそ出掛けられるのはとても嬉しい。
「とはいえ、明後日の検査に影響が出ないよう、滞在は短時間になる」
「行きたいです! 行きたい!」
言った直後に、はっとする。はしゃぎすぎてしまった。慌てて、背筋を伸ばして、咳払いする。
「では、明日は朝食が済んだら出かけるから、そのつもりで支度するように。これは借りる。植物園への詳しい道を調べるとしよう」
「ヨシカこそ、今晩は早く休んでくださいね! 寝坊しないでください」
コーヒーと拾い上げた雑誌を持ったドクターは、自分の部屋に戻っていった。イオの呼びかけに苦笑交じりに肩をすくめたりして。
イオは、すぐに行動を開始した。明日の用意をしなければならない。先日買ってもらった新品のワンピースをおろそう。
実は、中央植物園を知ったのはさっきの雑誌がきっかけではない。別の雑誌に恋人同士での定番のデートスポットとして紹介されていて、美しい建物や植物に憧れたのだ。
いつか誰かと恋人になったら、絶対に中央植物園に行くと決めていた。
予期せぬきっかけで行くことになったが構わない。
なぜなら、シミュレーションを繰り返すとき、仮の相手はいつでもドクター・シグニールだった。彼とは恋人ではないが、想像のなかでのデートは、いつだって楽しかった。
不思議なことに。
雑誌に載っている男優をお相手にシミュレーションしてみても、気づくとドクターとすり替わっているのだ。見慣れた顔は想像しやすいのだろう。
その夜、イオは雑誌を読んでいた。夕食後の自由時間である。居間のお気に入りのソファでの読書が日課だ。
誌面には流行りの服を着た美しい女性や、美味しそうなお菓子をつまむ少女の写真が載っている。人気の小説の紹介だったり、最新鋭の機械の宣伝もあって、開くとあっという間に時が経ってしまう。
じっくり写真を見ていたら、横手から声がかかった。
「なにを読んでいる?」
「はい、ドクター」
「今は検査の時間ではない」
「あ、はい、ヨシカ。今は雑誌を読んでいます。先日街で買っていただいた雑誌です」
オフのドクター・シグニールは白衣を脱ぎ、ゆったりしたシャツにタイトすぎないパンツという、くつろいだ格好をしていた。
手には湯気を上げるカップを2つ。片方の中身は真っ黒で、もう片方は淡い茶色。
いつからか、彼はこうして夕食後にイオにもコーヒーを淹れてくれる。
カフェではカフェオレを注文すればこの品物が出てくると、イオは近頃学習した。ただ彼女は、ドクターのように砂糖もミルクも入ってないコーヒーが飲みたいのだ。そのほうが格好いい気がしている。何度も挑戦したが、今のところ、最後まで飲みきったことはない。
イオのカップの半分から減らない黒い液体を見るたび、ドクターは呆れ顔をしていた。出不精の彼は、コーヒー豆を買いに外出するのも面倒なようで、「豆を無駄にするな」と苦言を呈し続け(そのくせその日の気分で買う豆を変えるから、イオにおつかいを任せない)、ついには手ずからカフェオレを作るようになった。
イオは不本意ながらも、美味しいカフェオレを毎夜飲み干している。
「いつもありがとうございます」
「ついでだ。豆を無駄にされたくない」
膝に雑誌を広げたイオに、ドクターがカップを差し出した。受け取りながら、イオはドクターが座りやすいよう、少しだけ横にずれた。ドクターは背は高いものの細身なので、ソファの幅はゆったりしている。ただ、膝が急角度でなんだか窮屈そうだ。
「写真ばかりなのに、読んでいて物足りなくないのか?」
「そんなことないですよ。きれいな服やお化粧品を眺めていると、時間を忘れます。行ったことのない場所の写真は、どんなところなのかなと想像しているのが楽しくて、やっぱり時間が経ってしまいます」
「なるほど」
「ヨシカはどういう本が好きですか? どこか行ってみたいところとか、食べてみたいものはないんですか?」
ドクターが読んでいる本は、古い言語や外国の言葉で記されたものが多く、絵も写真もないものがほとんどだ。イオは読めない。
「本を好きと感じたことはないが、何も読まない日はないな。読まずにいると落ち着かない。思考が鈍るし、エネルギーが余るのか無駄なことを考える」
「無駄なこと?」
「たとえば、最適解がわかっている問の、解への過程を何通りも考える。無意味だ。最適解はそこに至るまで含めて最適であるわけだから」
「そう……なのですか?」
「君は? それだけ熱心に読んでいるのだ、行ってみたいところ、食べてみたいもの、ほしいものもあるんだろう?」
「ありますあります! この写真見てください。わたし、中央植物園に行きたいんです! きれいなお花と鳥たちを眺めたあとは、テラスでコーヒーを飲みたいです。ベリーがどっさり乗ったクリームサンドも食べたいですし、あ、この女の子みたいに日傘を差して中央の目抜き通りをお散歩してみたいです。楓の葉っぱがとってもきれいですよ」
ドクターは顎に長い指をあてて、かすかに考える素振りを見せた。
「行ってみるか? 明日なら行けるが」
「え、いいんですか?!」
イオは思わず立ち上がった。膝から雑誌が落ちる。
近頃、身寄りのない亜人の失踪事件が頻発しているからと、長時間の独り歩きは禁じられている。散歩が好きだから不服だった。だからこそ出掛けられるのはとても嬉しい。
「とはいえ、明後日の検査に影響が出ないよう、滞在は短時間になる」
「行きたいです! 行きたい!」
言った直後に、はっとする。はしゃぎすぎてしまった。慌てて、背筋を伸ばして、咳払いする。
「では、明日は朝食が済んだら出かけるから、そのつもりで支度するように。これは借りる。植物園への詳しい道を調べるとしよう」
「ヨシカこそ、今晩は早く休んでくださいね! 寝坊しないでください」
コーヒーと拾い上げた雑誌を持ったドクターは、自分の部屋に戻っていった。イオの呼びかけに苦笑交じりに肩をすくめたりして。
イオは、すぐに行動を開始した。明日の用意をしなければならない。先日買ってもらった新品のワンピースをおろそう。
実は、中央植物園を知ったのはさっきの雑誌がきっかけではない。別の雑誌に恋人同士での定番のデートスポットとして紹介されていて、美しい建物や植物に憧れたのだ。
いつか誰かと恋人になったら、絶対に中央植物園に行くと決めていた。
予期せぬきっかけで行くことになったが構わない。
なぜなら、シミュレーションを繰り返すとき、仮の相手はいつでもドクター・シグニールだった。彼とは恋人ではないが、想像のなかでのデートは、いつだって楽しかった。
不思議なことに。
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