初恋は、コーヒーより苦くてチョコより甘い。

薊野ざわり

文字の大きさ
4 / 23

しおりを挟む
 リオネロペの訪問以来、変化の乏しい日々が二ヶ月ほど続いた。

 その夜、イオは雑誌を読んでいた。夕食後の自由時間である。居間のお気に入りのソファでの読書が日課だ。
 誌面には流行りの服を着た美しい女性や、美味しそうなお菓子をつまむ少女の写真が載っている。人気の小説の紹介だったり、最新鋭の機械の宣伝もあって、開くとあっという間に時が経ってしまう。

 じっくり写真を見ていたら、横手から声がかかった。

「なにを読んでいる?」
「はい、ドクター」
「今は検査の時間ではない」
「あ、はい、ヨシカ。今は雑誌を読んでいます。先日街で買っていただいた雑誌です」

 オフのドクター・シグニールは白衣を脱ぎ、ゆったりしたシャツにタイトすぎないパンツという、くつろいだ格好をしていた。
 手には湯気を上げるカップを2つ。片方の中身は真っ黒で、もう片方は淡い茶色。
 いつからか、彼はこうして夕食後にイオにもコーヒーを淹れてくれる。

 カフェではカフェオレを注文すればこの品物が出てくると、イオは近頃学習した。ただ彼女は、ドクターのように砂糖もミルクも入ってないコーヒーが飲みたいのだ。そのほうが格好いい気がしている。何度も挑戦したが、今のところ、最後まで飲みきったことはない。

 イオのカップの半分から減らない黒い液体を見るたび、ドクターは呆れ顔をしていた。出不精の彼は、コーヒー豆を買いに外出するのも面倒なようで、「豆を無駄にするな」と苦言を呈し続け(そのくせその日の気分で買う豆を変えるから、イオにおつかいを任せない)、ついには手ずからカフェオレを作るようになった。

 イオは不本意ながらも、美味しいカフェオレを毎夜飲み干している。

「いつもありがとうございます」
「ついでだ。豆を無駄にされたくない」

 膝に雑誌を広げたイオに、ドクターがカップを差し出した。受け取りながら、イオはドクターが座りやすいよう、少しだけ横にずれた。ドクターは背は高いものの細身なので、ソファの幅はゆったりしている。ただ、膝が急角度でなんだか窮屈そうだ。

「写真ばかりなのに、読んでいて物足りなくないのか?」
「そんなことないですよ。きれいな服やお化粧品を眺めていると、時間を忘れます。行ったことのない場所の写真は、どんなところなのかなと想像しているのが楽しくて、やっぱり時間が経ってしまいます」
「なるほど」
「ヨシカはどういう本が好きですか? どこか行ってみたいところとか、食べてみたいものはないんですか?」

 ドクターが読んでいる本は、古い言語や外国の言葉で記されたものが多く、絵も写真もないものがほとんどだ。イオは読めない。

「本を好きと感じたことはないが、何も読まない日はないな。読まずにいると落ち着かない。思考が鈍るし、エネルギーが余るのか無駄なことを考える」
「無駄なこと?」
「たとえば、最適解がわかっている問の、解への過程を何通りも考える。無意味だ。最適解はそこに至るまで含めて最適であるわけだから」
「そう……なのですか?」
「君は? それだけ熱心に読んでいるのだ、行ってみたいところ、食べてみたいもの、ほしいものもあるんだろう?」
「ありますあります! この写真見てください。わたし、中央植物園に行きたいんです! きれいなお花と鳥たちを眺めたあとは、テラスでコーヒーを飲みたいです。ベリーがどっさり乗ったクリームサンドも食べたいですし、あ、この女の子みたいに日傘を差して中央の目抜き通りをお散歩してみたいです。楓の葉っぱがとってもきれいですよ」

 ドクターは顎に長い指をあてて、かすかに考える素振りを見せた。

「行ってみるか? 明日なら行けるが」
「え、いいんですか?!」

 イオは思わず立ち上がった。膝から雑誌が落ちる。
 近頃、身寄りのない亜人の失踪事件が頻発しているからと、長時間の独り歩きは禁じられている。散歩が好きだから不服だった。だからこそ出掛けられるのはとても嬉しい。

「とはいえ、明後日の検査に影響が出ないよう、滞在は短時間になる」
「行きたいです! 行きたい!」

 言った直後に、はっとする。はしゃぎすぎてしまった。慌てて、背筋を伸ばして、咳払いする。

「では、明日は朝食が済んだら出かけるから、そのつもりで支度するように。これは借りる。植物園への詳しい道を調べるとしよう」
「ヨシカこそ、今晩は早く休んでくださいね! 寝坊しないでください」

 コーヒーと拾い上げた雑誌を持ったドクターは、自分の部屋に戻っていった。イオの呼びかけに苦笑交じりに肩をすくめたりして。

 イオは、すぐに行動を開始した。明日の用意をしなければならない。先日買ってもらった新品のワンピースをおろそう。

 実は、中央植物園を知ったのはさっきの雑誌がきっかけではない。別の雑誌に恋人同士での定番のデートスポットとして紹介されていて、美しい建物や植物に憧れたのだ。

 いつか誰かと恋人になったら、絶対に中央植物園に行くと決めていた。
 予期せぬきっかけで行くことになったが構わない。
 なぜなら、シミュレーションを繰り返すとき、仮の相手はいつでもドクター・シグニールだった。彼とは恋人ではないが、想像のなかでのデートは、いつだって楽しかった。

 不思議なことに。
 雑誌に載っている男優をお相手にシミュレーションしてみても、気づくとドクターとすり替わっているのだ。見慣れた顔は想像しやすいのだろう。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

淫紋付きランジェリーパーティーへようこそ~麗人辺境伯、婿殿の逆襲の罠にハメられる

柿崎まつる
恋愛
ローテ辺境伯領から最重要機密を盗んだ男が潜んだ先は、ある紳士社交倶楽部の夜会会場。女辺境伯とその夫は夜会に潜入するが、なんとそこはランジェリーパーティーだった! ※辺境伯は女です ムーンライトノベルズに掲載済みです。

放課後の保健室

一条凛子
恋愛
はじめまして。 数ある中から、この保健室を見つけてくださって、本当にありがとうございます。 わたくし、ここの主(あるじ)であり、夜間専門のカウンセラー、**一条 凛子(いちじょう りんこ)**と申します。 ここは、昼間の喧騒から逃れてきた、頑張り屋の大人たちのためだけの秘密の聖域(サンクチュアリ)。 あなたが、ようやく重たい鎧を脱いで、ありのままの姿で羽を休めることができる——夜だけ開く、特別な保健室です。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております

紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。 二年後にはリリスと交代しなければならない。 そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。 普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

【魔法少女の性事情・1】恥ずかしがり屋の魔法少女16歳が肉欲に溺れる話

TEKKON
恋愛
きっとルンルンに怒られちゃうけど、頑張って大幹部を倒したんだもん。今日は変身したままHしても、良いよね?

処理中です...