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イオはなんとなく気分が優れず、夕食の席につくのも億劫だった。それでも、日課を崩すのもどうかと、重たい体を引きずって食堂へ来たのだが、同席者たるドクター・シグニールがいつになっても現れず、料理が冷めてきたころになって、ひとりで食事を始めたのだった。
まだイオがドクターとふたりの生活をはじめたばかりのころ、彼は食事にも同席しなかった。朝起きるのが遅く、ひどいときは昼ごろ起きてきたし、夜はいつになっても寝ないしよく食事を忘れた。見かねたイオが無理やり食堂に引っ張ってきたり、部屋に食事を届けるようになって、徐々に徐々に、規則正しい生活に馴染んできたのだ。
今回は忙しいのか寝ているのか。声をかけにいく気にもならなくて、イオは部屋に引っ込むことにし食事を終え、食器を洗浄機にセットした。
ふと、シンク横の棚の上に目が行った。
先日購入したチョコレートの箱がある。あまりに美味しくて、手の届くところに置いていたらあっという間に食べきってしまうと、自ら封印したのだ。
気持ちが落ち込んでいるいまこそ、甘いものの助けが必要だ。
椅子をダイニングから持ってきて足場にし、棚の上の箱を手にとった。瀟洒なロゴがデボス加工されている青い正方形の箱のなかには、同じく正方形の小さく薄いチョコレートの板がきっちり並べられている。
一枚、舌にのせる。さらりと蕩けた。幸せな甘みが口の中を満たす。
「やっぱり美味しい!」
このチョコレートには、紅茶があう。
お湯を少量沸かし、紅茶を淹れることにした。
沸騰を待つ間にも、ひょい、ひょい、とチョコレートの板は減っていく。次にあのお店に行ったときは、赤い箱のビターチョコレートも買ってみたい。白い箱の、ホワイトチョコレートもいい。白いのは、コーヒーにもあうかも知れない。
「むやみに熱量を摂取しすぎると、体に毒だ」
甘美な妄想に、低声が割り込んできた。
「うひゃああ!? ヨシカ! だからなんで背後から忍び寄ってくるんですかああっ、て、ああ!?」
驚いて、急に振り返ったせいで、手が当たってしまい、チョコレートの青い箱が床に落ちた。整列していた薄いチョコレートの板は、タイルの上に散らばる。
「うっ……ひどい……」
恨みがましく自分をにらみつける娘を見下ろし、ドクターが眉間にシワを寄せる。
「まるで俺が悪いような言い方はよしなさい。箱を落としたのは君だ、イオ」
「あなたが驚かすから、びっくりしたんです」
「二度声をかけたのに、君は反応しなかった」
「ケトルの蒸気の音で聞こえなかったんです」
むうっとむくれ、イオは首を横に振った。ここは許してあげるべきだと頭ではわかっている。なのに、いつも制御できない子供っぽい部分を、やはり押し止められない。
床に散らばってしまったチョコレートを拾いながら、なんだか涙まで出てきた。いくらなんでもセンシティブすぎる。自分でもわかるほど、過敏だ。
せっかく、買ってもらったのに。美味しいものが食べられなくなったのも悔しいが、なにより、楽しいお出かけの思い出のひとつが、ぐちゃぐちゃになってしまったことが悲しい。
「そう落ち込むな」
ぽふ、と頭になにか載せられた。受け取ってみるとクリーム色の薄い化粧箱だった。イオも知っている、よくいく市場で一番人気の菓子店の箱だ。目線の高さをあわせるようにしゃがみこんだドクターが、目で「開けなさい」と促してくる。
「わあ……! いいんですか、これ」
試食だけしたことのある、オレンジピールのチョコレートがけが、きれいに収まっていた。光沢のある黒の上に少しだけ散らされた金粉が、見た目を華やかにさせている。
「機嫌は直ったのか。だとしたらわざわざ買ってきたかいがあったな」
苦笑され、イオははっとする。あわてて顔を引き締めた。
「直ってません! だってこれは、せっかく、お出かけのお土産に買ったんです。思い出の品なんです」
反論するほど、幼稚だとわかっている。なのにムキになってしまった。
「思い出の品が食品とはな」
「なんで笑うんですか。いいじゃないですか、一緒に買った美味しいものが思い出だって」
「一緒に買っただけで、俺は一口も食べていない」
「お勧めしたってヨシカが甘いものはいらないって食べなかったんじゃないですか」
「君が食べているところを観察できれば、俺は満足だ」
「どうせ、わたしは研究対象ですもん」
改めて事実を口にすると気持ちが落ち込む。
唇を尖らせ、食べられなくなったチョコレートをさっさと回収することにした。
ぽん、と頭を軽く叩かれ、イオは顔をあげる。
「すべてが終わったら、また植物園に行くとしよう。そのときは、このチョコレートを買う。いいな」
この顔。
苦笑して、目を細めて。頑是ない子どもを見る目だ。
ぎゅっと胸が苦しくなって、イオはうつむいた。絞り出した「はい」という返事は、不明瞭だった。
検査が終わってから、一緒にいられるか。わからないことを約束する。
いつもドクター・シグニールは不毛で残酷なことを強いる。
まだイオがドクターとふたりの生活をはじめたばかりのころ、彼は食事にも同席しなかった。朝起きるのが遅く、ひどいときは昼ごろ起きてきたし、夜はいつになっても寝ないしよく食事を忘れた。見かねたイオが無理やり食堂に引っ張ってきたり、部屋に食事を届けるようになって、徐々に徐々に、規則正しい生活に馴染んできたのだ。
今回は忙しいのか寝ているのか。声をかけにいく気にもならなくて、イオは部屋に引っ込むことにし食事を終え、食器を洗浄機にセットした。
ふと、シンク横の棚の上に目が行った。
先日購入したチョコレートの箱がある。あまりに美味しくて、手の届くところに置いていたらあっという間に食べきってしまうと、自ら封印したのだ。
気持ちが落ち込んでいるいまこそ、甘いものの助けが必要だ。
椅子をダイニングから持ってきて足場にし、棚の上の箱を手にとった。瀟洒なロゴがデボス加工されている青い正方形の箱のなかには、同じく正方形の小さく薄いチョコレートの板がきっちり並べられている。
一枚、舌にのせる。さらりと蕩けた。幸せな甘みが口の中を満たす。
「やっぱり美味しい!」
このチョコレートには、紅茶があう。
お湯を少量沸かし、紅茶を淹れることにした。
沸騰を待つ間にも、ひょい、ひょい、とチョコレートの板は減っていく。次にあのお店に行ったときは、赤い箱のビターチョコレートも買ってみたい。白い箱の、ホワイトチョコレートもいい。白いのは、コーヒーにもあうかも知れない。
「むやみに熱量を摂取しすぎると、体に毒だ」
甘美な妄想に、低声が割り込んできた。
「うひゃああ!? ヨシカ! だからなんで背後から忍び寄ってくるんですかああっ、て、ああ!?」
驚いて、急に振り返ったせいで、手が当たってしまい、チョコレートの青い箱が床に落ちた。整列していた薄いチョコレートの板は、タイルの上に散らばる。
「うっ……ひどい……」
恨みがましく自分をにらみつける娘を見下ろし、ドクターが眉間にシワを寄せる。
「まるで俺が悪いような言い方はよしなさい。箱を落としたのは君だ、イオ」
「あなたが驚かすから、びっくりしたんです」
「二度声をかけたのに、君は反応しなかった」
「ケトルの蒸気の音で聞こえなかったんです」
むうっとむくれ、イオは首を横に振った。ここは許してあげるべきだと頭ではわかっている。なのに、いつも制御できない子供っぽい部分を、やはり押し止められない。
床に散らばってしまったチョコレートを拾いながら、なんだか涙まで出てきた。いくらなんでもセンシティブすぎる。自分でもわかるほど、過敏だ。
せっかく、買ってもらったのに。美味しいものが食べられなくなったのも悔しいが、なにより、楽しいお出かけの思い出のひとつが、ぐちゃぐちゃになってしまったことが悲しい。
「そう落ち込むな」
ぽふ、と頭になにか載せられた。受け取ってみるとクリーム色の薄い化粧箱だった。イオも知っている、よくいく市場で一番人気の菓子店の箱だ。目線の高さをあわせるようにしゃがみこんだドクターが、目で「開けなさい」と促してくる。
「わあ……! いいんですか、これ」
試食だけしたことのある、オレンジピールのチョコレートがけが、きれいに収まっていた。光沢のある黒の上に少しだけ散らされた金粉が、見た目を華やかにさせている。
「機嫌は直ったのか。だとしたらわざわざ買ってきたかいがあったな」
苦笑され、イオははっとする。あわてて顔を引き締めた。
「直ってません! だってこれは、せっかく、お出かけのお土産に買ったんです。思い出の品なんです」
反論するほど、幼稚だとわかっている。なのにムキになってしまった。
「思い出の品が食品とはな」
「なんで笑うんですか。いいじゃないですか、一緒に買った美味しいものが思い出だって」
「一緒に買っただけで、俺は一口も食べていない」
「お勧めしたってヨシカが甘いものはいらないって食べなかったんじゃないですか」
「君が食べているところを観察できれば、俺は満足だ」
「どうせ、わたしは研究対象ですもん」
改めて事実を口にすると気持ちが落ち込む。
唇を尖らせ、食べられなくなったチョコレートをさっさと回収することにした。
ぽん、と頭を軽く叩かれ、イオは顔をあげる。
「すべてが終わったら、また植物園に行くとしよう。そのときは、このチョコレートを買う。いいな」
この顔。
苦笑して、目を細めて。頑是ない子どもを見る目だ。
ぎゅっと胸が苦しくなって、イオはうつむいた。絞り出した「はい」という返事は、不明瞭だった。
検査が終わってから、一緒にいられるか。わからないことを約束する。
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