初恋は、コーヒーより苦くてチョコより甘い。

薊野ざわり

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 ガラスの壁の向こうから、オレンジ色の夕日が差し込んでくる。くっきり濃い己の影を見つめ、イオは大きなため息をついた。

「イーオ! どうしたの、ため息なんかついて。あ、もしかして恋煩い?」
「ああ、ピィナ。そんなんじゃないよ。夕食作るの億劫だなあって思っていただけ」

 頭に猫耳が生えた少女に返答すると、イオは持っていたブラシをごしごし床に擦り付けた。石を敷き詰めた通路の苔を落としているところである。そのままにしておくと滑って転ぶ客が出てくるかもしれないと指示されてのこと。高圧洗浄機の順番を待っていたら、明日になってしまうから、仕方なく人力での除去を試みているところである。

「じゃあさ、今晩みんな誘って一杯やらない? ここだけの話、設備部のローレントがあんたのこと気に入ってるみたいで、誘ってくれって頼まれてんの。設備部なんて出世頭じゃない? どうよ!」
「うーん、せっかくだけどお酒得意じゃないから。誘ってくれてありがとう」
「なんだったら、お酒飲まないでカフェでもいいんだと思うけど、……あ、そう彼に興味なしね。りょーかい。
 というかここにこんだけの美女がいるのに、やっぱり人間は人間がいいのかしらねえ」

 ピィナは「そんじゃ」と言って、猫の鼻をひくひくさせると、スカートを翻し、温室を出ていった。

 ひとりになり、イオは掃除を再開する。緑の匂いが立ち込めた温室は広い。とくにこの植物園のメインの温室は。

 以前、ドクターと来たときは人でごった返していたから、狭く感じたのに、人がいないとやけに広く感じる。

 閉園後の植物園の、この静かな時間は嫌いじゃない。ただ、たまに無性に寂しくなってしまうのが困りものだ。そういうときは無心になって仕事をこなすに限るのだ。

 ◆

 仕事をすべて終え、着替えを済ませ、植物園を出ると、オレンジ色の街灯が光る薄暗い夜道を歩く。ぎりぎり徒歩で通勤できる距離に部屋を借りているのだ。

 道のレンガを数えながら、ゆっくりと足を動かす。

 ドクター・シグニールがラボから消えた直後、イオは警察に保護された。詳しい説明はないままに、あちこち調べられて、連れ回されて、質問された。
 うんざりして、ドクターのことも心配で、癇癪を起こしそうになったころになってようやく、事の次第を教えられたのだ。

 かねてから政府が目をつけていたとある団体の、告発文書が届けられた。持ってきたのは一組の男女で、女は元職員、男は現職員。他にも文書には連名で数人の職員のサインがあった。

 団体は倫理的に禁じられた技術で、人造人間を生み出し、実験している。その証拠のデータが添えられ、被験者たちの保護を求めると文書にはしたためられていた。

 頻発していた亜人の失踪事件は、団体の一部署が主導して行っていたもので、そちらの被害者たちも保護してほしいとも添えられていた。団体は、サンプルを得るために、身寄りがなく経済的に困窮している亜人たちを、金銭で誘いだし、倫理的に許されない実験に使っていた可能性がある。そちらで得られたデータが、人造人間の完成に少なからず用いられた。

 告発された団体の名称は亜人研究所という。亜人の健康とよりよい生活をという標語をかかげ設立された団体だ。今は事実上解散した。

「せめて一言、書き置きしてくれてもいいじゃない」

 ため息をついて、イオは何度となくつぶやいた言葉をまたつぶやいた。

 二年前のあの日、たぶんドクター・シグニールはリオネロペと一緒に告発文書を出しに行ったのだ。告発者は一般にもイオにも明らかにはされなかったけれど、わかる。あの日、いつもは資料が無造作に置かれていた机のまわりは整頓されていて、誰が見てもわかるような重要文書やデバイスが放り出されていた。見つけてもらうためにそうしたのだ。警察はためらわずに資料と証拠品を押収していった。

 警察は捜査協力者でもあるドクター・シグニールの行方を知っているはずだが、様子を見に定期的に来てくれる当局の関係者に聞いても、なにも教えてはくれない。

 新聞では、亜人研究所の主導者たちはさまざまな犯罪に関与していたとして、名前と写真が公開されたが、その下で働いていた研究者たちの詳細は載っていなかった。その後も注意深く記事を探し続けたが、いつの間にか続報自体を見かけなくなってしまった。

 どうも、被検者になったイオをはじめとする人造人間たちの名誉の保護のために、研究者たちの詳細は伏せられたらしい。一緒に出歩いていた人たちが件の研究職員だとわかれば、芋づる式に正体がバレて、好奇の視線にさらされてしまう。しかも、人造人間を亜人とみなすか人とみなすかという議論が昨今白熱していて、一部の人間からの嫌悪の対象になっているので、身の危険にも直結する。

 それゆえ、人造人間たちはさまざまな人生をでっちあげコーディネートされて、ばらばらに社会に出され、今は天然の人間のふりをして生活しているのだ。もちろん、明言されてないだけで監視はついているようだが。

 イオは、欠員補充の求人があったのと熱心に希望したのもあって、あの中央植物園に働き口をもらえた。
 裕福ではないが、なんとか自立できている。

 ふと、顔を上げると、閉店の準備をしている菓子店が目についた。
 いつだか、ドクター・シグニールとチョコレートを買ったお店だ。また買ってあげると言っておきながら、彼は行方不明だ。

 ショーウィンドウに並ぶ、まるでアクセサリーのように可憐なデザインのチョコレートたちを、立ち止まって眺める。

 やっぱり守れない約束なんてしなければよかった。あれほど気に入ったというのに、あれから一度もこの店には入れないでいる。ドアをくぐろうとすると、足が止まってしまうのだ。
 検査が終わったら、植物園にまた連れてきてくれるという約束だって、守ってもらえなかった。もう二年も待ってるのに。

「ヨシカのばーか。変態。マッドドクター。怠け者。甲斐性なし。嘘つき……」

 出てきた悪口を、素直に舌に載せてみたが、すっきりしない。悲しくなってきて、頭を振って歩きだす。

「最後の『嘘つき』は否定させてもらう」

 三歩と進まぬうちに立ち止まり、振り返る。

「チョコレートに目がなかったのにあの店に立ち寄らないとは、好みが変わったのか? だとしたら、手土産をしくじったな」
「なんでいるんですか? 逮捕されたんじゃないんですか」
「人聞きの悪いことを、往来で言わないように。逮捕はされていない。
 ああ、だが意趣返しのつもりだったら成功だな」

 錫色の髪の毛は、街灯のオレンジに染まっている。その上記憶よりかなり短くなっていて別人のよう。けれども、声も、苦笑の仕方も全部、見覚えのある彼のものだ。

 最後まで聞かずに体当たりして抱きついた自分を、またこの人は挙動が幼いと言うだろうか。イオは、硬いコートの生地に包まれた冷たい胸に額を押し付ける。

 呆れたため息とともに、背中に腕が回されて、きゅっと抱きしめ返された。

「どこでなにをしてたか、一から十まで全部説明してください。それともわたしには権限がないんですか」
「いや。話すのはやぶさかではないが、ひとつ問題が」

 イオは、涙で曇った目を上げて、まばたきしてなんとか相手の顔を見ようとする。手伝うように、指で涙を拭われた。

「せっかく買ったチョコレートを、またぶちまけられた」

 足元のレンガの道には、ひっくり返った青い箱と、欠けたり折れたりしている薄いチョコレートの板が散らばっていた。

 また買ってきてくださいと、閉店の準備をしている店舗を指差して、イオは泣きながら笑ったのだった。
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