初恋は、コーヒーより苦くてチョコより甘い。

薊野ざわり

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 せっかくなら食事でも、と不文律のような誘い文句をきっかけに、イオとヨシカ・シグニールは、近くの食堂で特筆すべきことがなにひとつない夕食を摂った。そして、人のいる場所で亜人研究所の話をするわけにいかないからと、移動先を話し合った。

「さすがに俺が君の家に行くのはまずいだろう」
「……? どうしてです」

 またあの苦笑が見られたのはいいが、つまりそれは、イオの回答がまたドクターの……もうドクターではないからヨシカの、想定していたより幼いものだったというわけだ。

「じゃあ、ドクタ……いえ、ヨシカの家に行きます」
「それもどうかと思うが」
「だったらどうするんですか。あー、わかりました、話したくないからはぐらかそうとしているんですね」

 お見通しだと、胸を張ってにっこりするイオに、ヨシカはため息をつく。

「そういうわけじゃない。まあいい、散らかっていても構わないと言うならうちに来たまえ」

 そんなこんなで、隣駅まで汽車で移動して、ふたりはヨシカの家に到着したのだった。
 店舗を改築して建てられたというアパートは、広いのはいいが、天井が高くてちょっと冷える。窓が隣のアパートと近すぎて、光が入らなさそうでもある。

 端にキッチンとバスが、区切られて設置されている一部屋が、ヨシカの住処すべてだった。
 おしゃれな人がこだわって選べばいいのだが、ヨシカには不向きな物件だ。なぜなら――

「ひ、人が住むとこじゃない……」
「ゴミ捨て場が遠くて面倒くさい。だから本を捨てるのもつい億劫に」
「そういう問題じゃないですよ、これは」

 ゴミだけはかろうじて玄関口にまとめてあるが、ほかは衣類も筆記用具もその他雑貨も、床に乱雑に置かれている。
 壁際に寄せられたベッドの周辺には、寝転んでごろごろしながら読書したのだと、言われずともわかるように、うず高く本が積まれていた。
 あんなに積み上げて、寝返りで手がぶつかりでもしたら、本に埋もれて窒息死、もしくは頭蓋骨折で死ぬ。

 しゃがんで床に指を這わせると、ざらりとした感触だった。掃除もしてないに違いない。

「まずは掃除しましょう。お話はそれから」
「そんなことをしていたら夜中になる気がするが」
「ヨシカは夜型じゃないですか。夜ふかしは得意でしょう?」
「それは得意不得意の区分で語るものか?」

 てきぱき床のものをまとめはじめたイオに倣って、のろのろとヨシカも作業を開始する。

 掃除をしながら、イオはほっとため息をついた。今頃になってヨシカが自分の前に現れたのは、今生の別れを告げるつもりなのかと悪いことを思いついたから。でも、こうして住居を見せてくれて、しかもそこがこんな風に生活感あふれる場で、ほんの少し安堵した。ラボ兼住宅から行方をくらましたとき、ヨシカは身の回りを整頓していた。ここを去る予定はしばらくないのだろう。

 本の山はどかし、歩くたびにふわふわ埃の舞う床は拭き清めた。あとは後日でいいだろう。
 イオが床を拭いている間、モップがなくてやることもないヨシカはふたりぶんのコーヒーをいれてくれた。小さなテーブルを囲んで座る。椅子だけは二脚あって、一脚は座るために、先に座面に載せられていた服をどかす必要があった。

「悪いが、ミルクがない」
「あ、わたし、コーヒーに何も入れなくても飲めるようになりましたよ」

 ちょっと誇らしくなって胸を張ってみたら、ヨシカは「ほう」と感心したようにうなずいた。

「ところで、本題をお願いします。どうして、あの日何も言わずにいなくなってしまったんですか」

 じっと淡い茶色の目を見つめる。彼の銀色のまつげはよく見てみれば長くて真っ直ぐだ。

「新聞を覚えているか。女性研究者が失踪したという記事が載っていたものだ」
「ええ、覚えています」
「あの記事が書かれる前から、リオネロペに協力を呼びかけられていた。だから記事を読んだとき、ああ、と思った。
 彼女は随分早い段階で、亜人研究所のやり方に疑問を持ち、単独で調査をしていたようだ。君が初めて彼女に会った日、俺のラボに彼女が来たのは、その話をするためだ。自分はそのうち研究所を離れる。できる限りの資料を集めるが、ひとりではできないこともあるから、手伝ってほしいと」
「……ヨシカは、どう返事をしたんですか? はじめから協力するつもりだったんですか」
「まさか。興味があって着任した研究の担当者の地位を、そうやすやすと手放す気はなかった」
「それじゃあ、どうして」

 結果として、彼はリオネロペの告発に手を貸して、亜人研究所は事実上解散した。

 ヨシカはコーヒーを一口飲むと、カップをテーブルに置いて、胸の前で腕を組んだ。

「君の生殖能力の検査は、本来、対象がたとえ拒否してもそのまま実行しなければならなかったのだが、それができなかった。俺は、その程度の残酷な行為は眉ひとつ動かさずにできるという自己評価を改めなければならず、様々な苦痛を伴った。
 その時点で、自分が適任とは言えないということ、興味関心があってはじめた研究に、好奇心よりも別の感情が強く作用していると気づいたこと、そもそも規定の検査の内容と得られる結果の精度ややり方に疑問があったことなどがあって――端的に言って、嫌になった」

 ぐ、とイオはコーヒーを飲み込んだ。吹き出さずに済んだことはよかったが、鼻に入ったらしく苦しい。軽くむせる。

「嫌になったって、子供じゃないんですから」
「自分の興味が向かないものに時間を費やすことほど無意味なものはない。
 とはいえ、職を失う、下手をすれば罰される可能性もあったから、即断できなかったのは事実だ。俺が君を手放して、研究所を去ったあと、君がどうなるかも気がかりだったしな。慎重にすすめるしかないと結論づけて、リオネロペに協力した。
 研究所が解散になって、罰される者は罰され、解放される者は解放された」
「……ヨシカは、解放されたんですね。無事で良かった」

 ほっとして、イオが口の端を緩めると、ヨシカは首をゆっくり縦に振った。

「無事ではないが。俺の場合は財産の没収が課された。おかげでもう家政婦を雇う金もない。今では、政府の監視下で、研究のノウハウを用いて亜人の健康管理をするただの医師だ。担当区域に近いここに、四ヶ月前から暮らしている。何度か植物園付近で、君のことも見かけたよ」
「ええ?! 声をかけてくれたらよかったのに! あ、もしかして、接触を禁じられていた、とかでしょうか」
「禁じられていたわけではないが、俺にもわきまえる心はあるつもりだ。だが、四ヶ月経って、君が俺の行方を探していると当局の人間から聞いて、声をかけることにした。
 社会に溶け込んでいる君を見て、満足していたつもりだったのだが、同時に、昔の担当ドクターとして心配もしていたわけだ。脅すわけじゃないが、君たちは天然の人間とほぼ同じ構造をしているが、突発的に不調が出ないとも限らない。そうなったとき、最も速やかに対処できるのは俺だからな。付かず離れず見守るべきかとも思った」

 イオの眉間にシワが寄っていく。

「結局、わきまえるとか見守るとか、……わたしとあなたはドクターと被検者でしかないんですね」

 ヨシカはまばたきもせず、淡い茶色の目でイオを見つめる。

「それは、俺に君をくどけと言っているのか?」
「は、話が飛躍しすぎです! もう、からかってるんですか?」
「俺の行方を探していたり、こうして再会してみれば、平気で部屋まで着いてきたり。あんな検査をされて俺を嫌悪していてもおかしくないはずなのに、そんなことを言い出すとなれば、勘違いもする」
「あの検査は、……あなたにとってはどうってことなかったかもしれませんが、わたしにとっては一大事だったんですよ! それこそ、再会して一言文句を言ってやらなければ気がすまないくらいに」

 イオは立ち上がった。カップを洗うことを口実に、その場を逃げたかった。隠していた気持ちがこうも簡単にバレてしまうとは思わなかった。動揺している。
 しかし、カップの取っ手に触れる前に、天地が逆転した。
 背中が冷たい。床だ。目の前には、ヨシカの顔がある。真剣そのものだ。
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