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第二章 初夏

潮風 後

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 神前さんと顔を合わせるのは、あの晩以来だ。
 彼は、喫煙所ではなくてロビーに居た。難しい顔で端末を睨んでいる。ロビーはそこそこ混み合っているのに、彼の隣は席が空いていた。
 いつも通りのいい姿勢。すっと伸びた首の、カットソーの襟に消えるその部分が、涼しげに見えた。
 隣に座ると、彼は目を上げた。仕事の時と同じように、おはようございますと挨拶をくれる。

「おはようございます。わざわざ来てくれたんですね、ありがとうございます。でももう、午後退院だし、無理しなくてよかったのに」
「家に居ても暇だしな。退院の荷物もあるだろ、送ってやるよ」

 そのために来てくれたのだとしたら、断るのも申し訳ない。ありがたく厚意を受け取っておくことにした。

「それより調子はどうだ。痛みは?」
「薬も飲んでますしね。大丈夫です、無理さえしなければ。神前さんこそ、腕は」
「このとおりだ」

 彼の怪我をした左腕の前腕部は、ネットで保護されていた。動きを見ている限りでは不便はなさそう。
 あの晩、彼も病院に運ばれたが、処置を受けすぐに帰宅できたらしい。出血は派手だが、軽症だったとか。
 それでも規定により、彼もカウンセリングを受けることになったと聞く。
 私は朦朧としていたのでそのときのこともよく覚えていない。

「週明けから勤務再開だ。端末も戻ってきたぞ。出勤停止だからって、端末まで取り上げられるのは痛いな。状況が一切わからなくなるしよ」

 彼は苦笑し、私に自分の貸与端末を貸してくれた。
 開かれていたのは、駒田の供述調書ほか、ここ数日で明らかになった事実の報告書だった。
 覗き見防止加工で、他の人からは見えないようになっているとはいえ、落ち着かない。
 だから、部屋に戻ることにした。

 担ぎ込まれたとき、大部屋が空いていなかったという理由で、個室に押し込まれたのだが、これがとにかく狭い部屋なのだ。
 窓際にベッドが置かれ、その隣に小さな棚がある。棚の天板はスライドさせると、簡易のテーブルになる設計だ。そこに、神前さんが小さな袋を置いた。

「土産」
「わー、ありがとうございます! 人形焼だ」

 彼が、背もたれのない丸椅子に腰を降ろし、途中で購入したコーヒー缶に口をつけるのを見てから、私は端末を確認した。

× × × × ×
 
 駒田寿、二十三歳。住所は先日判明したとおり、埼玉県川口市。飲食店勤務。数日前から、出勤しなくなっていた。
 彼の一人暮らしのアパートからは、遺書や、犯行を匂わせるものは結局見つからなかった。むしろ、自分の死期を悟ったように、整然としていたことがある種のメッセージだったのかもしれない。

 一連の犯行の手口は、古典的でもあった。
 宅配業者を装い被害者宅を訪問した彼は、押し込み強盗のごとく室内に踏み込んで、被害者を殺害して遺体を飾り付けた。

 彼の動きについてもあとから明らかになったことがある。秦野のマンションに行く前、実は金田の自宅に行っていたのだ。だが、彼女が出張で長期に渡り不在だったため、後回しにし、秦野を先に殺すことにした。
 佐々木の殺害後、駒田が秦野のマンションに現れるまでわずかに間があったのは、そういう理由からだった。
 駒田はそこで反撃にあい、右足を負傷してしまった。外に逃げようとしたタイミングで、警察車両がエントランスに着いたのを見つけた。警察官が外にいるのも見えたのだろう。それで逃げ切れないと判断して、ゴミ捨て場の小屋の中に隠れた。
 あそこに隠れられたのは偶然で、住人の一人があの小屋を出るとき、彼もゴミを捨てに来た住人のひとりだと思ってドアを開けて「どうぞ」と言ったらしいのだった。暗かったので、その人は駒田の人相に気づかなかった。駒田は顔も怪我していたので、明るかったらすぐに異常を察したはずだ。

 駒田は、佐々木みつきの電話口での対応に腹を立て、犯行を決意したのではないかと推測されている。
 駒田の端末を調べたときに発見されたそのときの録音が、捜査官には公開されていた。
 酔って興奮した佐々木みつきが「死んじゃった人間は、なにも感じないわよ。あんたも死ねば悩まなくてすむんじゃない」と吐き棄てる。背後でせせら笑う湯沢と、佐々木をたしなめる金田の声も録音されていた。

 その金田が、佐々木と湯沢の死の報道直後に、弔問に行かなかったのは、前日まで海外に出張に行っており、動けなかったかららしい。駒田が来たとき不在だった彼女は、ある意味強運だった。

 これまでの捜査でわかったことは、すべて他の人物からの聞き取りあるいは、カメラ映像等の証拠資料によるもので、駒田は依然として口を開こうとしない。相当追い込まれた状況で潜伏していたようで、体のダメージも大きく、まずは回復を優先することになっている。

 いつか、彼がなにかを語る日が来るのだろうか。
 石川紗奈絵を守りきれなかったと悔やみ、今はきっと金田を殺し損ね、自分も死に損なったと思っている。石川の無念も晴らせなかったと。
 佐々木みつきの言うことにも一理あって、物言わぬ死者の残したなにかを解釈して意味をもたせようとしているのは、生者だ。死者ではない。
 私も志音も、そして駒田も、故人の置いていった言葉や仕草、あるいは感情を勝手に汲み取ろうとしてもがいている。最中は苦しいけど、時間の経過で嫌でも記憶が薄まっていく。そうしていつしかダメージがやわらいでいくのに、彼はそうならなかった。
 あるいは、そうなりかけていたのに、佐々木みつきと話すことで、かさぶたを無理に引き剥がされてしまった。そこから出てきたのが、膿混じりの血、そして殺意だったという話だ。

× × × × ×

 退院の手続きはスムーズに完了し、荷物を持ち病室を後にした。

 私の持つ荷物と言えば、通勤用のバッグぐらいなものだ。ほかは前を行く神前さんが持ってくれた。
 入院中の着替えは、オフィスの泊まり込み用にまとめた荷物でなんとかなったのでよかったが、自分の使用済みの下着とかが入っているバッグを彼に担がれていると思うと、今この瞬間にはなにがあっても死ぬわけにいかないと固く決意する。なにかあったらその荷物は燃やして頂きたい。
 
 車に乗ると、珍しく、自動運転システムにハンドルを任せて、神前さんも運転席でくつろいだ。

「腕の調子は? 固定外れて楽になったか」
「あ、はい。だいぶ自由がきくようになりました。着替えるときちょっと面倒ですけど、この通り……あいたた」
「ばーか」

 元気をアピールしようとして顔をしかめる羽目になった。おまけに呆れられた。
 挽回するために、賄賂を思いつく。

「あの、よければお菓子召し上がりませんか。お昼ごはんまだですよね? お腹減ってるでしょう。いろんな方から差し入れ頂いたんですけど、食べきれなくて。あんこ、好きですか?」
「生クリームより好きだ」

 私は、荷物からお菓子の箱を取り出した。
 鹿瀬さんからもらった最中が、美味しいけどとにかくあんこが重くて、食べきれそうにない。六個入りの箱にまだ五個残っている。品質保持期限は今日までだ。誰かに食べるのを手伝ってもらいたかった。
 差し出すと彼は「おー、うまそう」と嬉しそうにぱくつき始めた。子供みたいに。
 よければどうぞ、と二個目を差し出しても彼は飽きる様子もなく次を食べ始めた。

 車は法定速度を守って、静かに道を進む。

「神前さん」
「んー?」

 口にものが入っているからか、間の抜けた返事だった。彼の横顔を見ると、病院にいたときよりリラックスしている。頬のあたりとか。愛車の中という、自分の空間にいるからだろう。

「あのときは、助けてくれてありがとうございました。おかげで生還できました。……怪我させてしまって、すみません」

 頭を下げた。これでは座ったままだと、ようやく思い至った。病院で言うべきだった。ロビーでひと目を気にして、病室に戻ってからは端末を読み始めてしまったからうっかりしていた。だめだな。
 待っていたのは冷笑だった。

「そんなことより聞かせてもらおうか。お前あのとき、なに考えて駒田に飛びかかった。人質の分際で。ましてや三小田の分際で、まさか駒田を逮捕するためなら死んでもいいって思ったんじゃねえだろうなあ」
「えっ、なんですかその三小田の分際って! そんなこと考えてる余裕なんてなかったですよ。とにかく、必死で」

 あのとき、彼に死んでほしくなかったのはたしかだ。彼に自分と同じものを感じてしまったから。
 それが果たしていい結果を生んだかと聞かれると、わからない。
 駒田の過去に、三人の女性の過去、そして石川紗奈絵の過去。センセーショナルに報道される様子を病院で見て、私は駒田を生かすきっかけを作ってしまってよかったのかと、少し後悔していた。あのとき、彼はまったくそれを望んでいなかったはずだから。

「そもそもあの目があったとき、神前さんがやれって頷いたんじゃないですか。だから私、死にものぐるいで動いたのに」
「おい、んなこと指示するわけないだろ。簡単に人質にされるような奴に。あれは助けるから絶対に動くなって意味で頷いたんだよ、勝手に解釈するな」
「なんと……。で、でも、結果として犯人が逮捕できたんですよ」
「運が良かったからだ。十回同じことしたら、九回はしくじるぞ。いいか、二度と軽はずみな行動はするなよ」

 そうだとしても、十回とも彼は助けに来てくれるんだろうなと、私は確信していた。図々しくも。
 沈黙が降り、ロードノイズだけが聞こえてくる。
 私は、唇を一度きゅっと噛んでから開いた。

「神前さん、私ね、入院中、ずっと駒田のことを考えていたんです」

 ちょっと迷ったが、私はここ数日考えていたことを彼に話すことにした。聞いてほしかったのだ、誰かに。そして話せる相手はたぶん、彼だけだ。
 彼は、私の言葉を遮ることなく、じっとしている。

「あの人があんなことをしないで済むには、どうしたらよかったのか。彼を……生かしてよかったのか。悩んでいたんですけど、結論がでないんです」

 言葉が終わるなり、鼻で笑われた。

「でるわけねーだろ。事件で警察官として関わる以外に接点なんてないんだ。犯行前のあいつの人生になんて干渉できやしない。それに、職務上そして倫理上、人命を最優先しただけで、生かすの殺すのを判断する立場にないだろうが」
「あはは、即答ですか。その答えにたどり着くまで、もうずっと悩んでいたんですよ」

 きっと。この人もなにかをきっかけに同じようなことを考えたことがあるんだろうなあ。それも、何度も、何日も。
 私がくよくよ五日も考えていたことを、ばっさり切って捨てて、彼は肩をすくめてみせた。

「大体、おこがましいんだよ、お前。仕事覚えてる途中の新人のくせに、難しいこと考えたり。自分の身も守れないくせに、他人のこと考えたり。んなこと考えたところで一人で背負いきれるわけない。つーか、入れ込み過ぎるなって忠告、忘れてただろ」
「はい、だから、……これ以上考えません」

 それが分相応だ。私は自分の手の届く範囲の人の輪の中で生きていくしかないし、それ以上を考えると、きっと身を滅ぼす。だからこそ、その輪の中にいる人達を、大事にしなければならないに違いない。
 顔を上げると、隣に座った神前さんがじっと外を見ていた。なにか考え込んでいる様子で。

× × × × ×

 ちょっと寄り道していいかと聞かれたので、もちろんと返答すると、連れて行かれた先はいつか彼を追いかけて歩いてきた埠頭だった。

 四時を回っていたが日は高く、歩くたびに汗が滲む。梅雨明けも近い。
 懐かしいなあ、と頬を撫でる潮風に目を細めた。やや色が暗い海には白波が立ち、ちょっと生臭い独特の香りがする。

「うひゃっ」

 首筋に冷たいものを当てられて、私は慌てて振り返った。冷えたスポーツドリンクの缶を持って、にやにやしている神前さんがいた。
 子供か。むっとして眉間にしわを寄せるが、彼は取り合わずに、ベンチの方へ歩いて行ってしまった。ビルの影になって、日が当たらないところだ。

 腰をおろした彼の隣に、私も座る。ちょうど出発する船が、汽笛を上げているところだった。

 手に持った、冷たいドリンクの缶を開封だけして飲む様子もなく、彼はじっと波を見つめていた。
 なにか用事があるから来たのかと思ったが、どうなんだろう。
 周りを見回すと、オフィス街が近いからか、結構な数のスーツの人がいた。
 そういう人たちからは今の私たちはどう見えているんだろうか。

「ここに来てぼんやりするのが好きだ。余計なことを考えなくて済む」

 独り言と思うくらいに小さくぽつりともらして、彼はようやく飲料を口に含んだ。

「あー、じゃあ前にここに来たときも、……その、気分転換で」
「あのときはとにかくむしゃくしゃして、気分を変えたかったんだが。なんか知らんがお前もついてきて、ぬるいコーヒーを飲まされたな」
「あのときのあなたはあんまりにも可哀想な感じだったので見捨てておけなくて、つい。雨の日の捨て犬、しかも通行人に蹴られたあとみたいな」
「そこまで弱ってねーわ。お節介だよな、ほんと。会って間もなかったのに、ぐいぐい踏み込みやがって」
「よく言いますよ。あなただってお節介じゃないですか。ご飯連れていってくれたり、無理やり剣道させてみたり、……もしかしてここに連れてきてくれたのもそうですか。私がしょぼくれてるの見て、そうしてくれたんでしょう。違いますか」

 違ったら自意識過剰で恥ずかしい人間だな、私。けれど、彼はむっつりと黙り込み、否定はしなかった。不機嫌そうに見えるこの顔が、実は照れ隠しなんだろうな。この人、元の顔の作りが威圧感があるからわかりづらいけど、慣れてみると結構表情豊かだ。

「ありがとうございます」

 彼の手に触れてみると、応じるように、徐に手の甲を包み込まれた。

「三小田」

 私の名前を呼んで、彼はこちらを見た。
 目が合うと、ちょっとだけ照れくさそうな顔をして、何かを言おうとした彼は、戸惑ったように一度口を閉じ、もう一度口を開いた。

 その姿にいろんなものがこみ上げてきて。私は万感の思いを込めて声を発した。

「神前さん、私、あなたのことが好――」
「待てこら」

 がっと口を手で塞がれた。ちょっと痛い。
 彼は耳まで真っ赤にして怒っている。なんで怒るんだ。

「ここは雰囲気察して俺の言葉を待とうとか、思わないのかお前はっ!」
「そんな無茶言わないでください、アイコンタクトで意思を読み取るとか私に期待されても。命かかった状況でもできなかったのに」
「つくづく息があわねーな……」

 呆れ顔で深いため息をついたあと、彼はくつくつ笑いだした。
 変なスイッチ入ってしまったんだろうか。にわかに心配になった。

 ひとしきり笑って、彼はそのままの表情で。
「でも俺は、そういうお前が好きだ」

 じわりと胸に広がる温かいものに、握られた手が震えた。
 泣きたい気分だった。でも、笑いたい気分でもある。

「……ありがとうございます」

 彼が目を伏せて、唇を寄せてくる。
 磯の香りにまじる、かすかなタバコの香りを感じて、私は目を閉じた。
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