呪いは極上の恋の味

薊野ざわり

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前編

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 豪商ハイナッド氏の館の長い長い廊下を、マリヤは駆け抜けた。青いドレスはかぎ裂きだらけで見るも無残だ。靴は泥に汚れている。
 目当ての扉を開くと、そこには大勢の人がつめていた。医師や親戚、それに使用人まで。
 中心にあるのは、部屋の主、ハイナッド氏の一人息子ミハエルの寝台だ。寝台の上で、ミハエルは青白い瞼を閉じて弱弱しい呼吸を繰り返している。

「マリヤお前、どこへ行っていたの!」

 ミハエルの手を握り締めた奥方が、涙声で叫んだ。その膝元には、ミハエル愛用の弓矢が置かれている。
 一昨日、この弓でミハエルは一角獣を撃ち仕留め、まもなく人事不省に陥ったのだった。医師の言によれば、今宵が峠だという。

「奥様、これを。お薬です。これで坊ちゃまの呪いを解けます」
 マリヤは胸に抱えていた小瓶を差し出した。
「そんな得体の知れぬもの……!」

 奥方は差し出された手を振り払おうとしたが、もう後がないと知ってか、逡巡の後、それを受け取った。

 すぐに水が運ばれてきた。薬は無色透明だったが、水に落ちると黄緑色に変色した。
 奥方が匙で一滴だけ、ミハエルの色を失った唇にそれを流し込む。
 固唾を呑み見守る人々の沈黙が、室内を支配する。

「ミハエル!」

 奥方が声を上げた。若者の指が、かすかに、しかし確かに動いていた。
 歓声をあげる人々の中、マリヤはふっと微笑むと、誰にも気付かれぬようにそっと退室した。


☆★☆★☆★☆


「ほう……」
 ため息を漏らして、マリヤは本の頁を繰った。それも今は大仕事である。

 日の当たらないこの小部屋が、ミハエルの乳兄妹であるマリヤに与えられた私室だった。
 第一章を読み終えたところで、マリヤは机上に飾った小粒の紅玉の首飾りに目をやった。
「お母ちゃん、坊ちゃまはどんどん元気におなりだって」
 それは、あの夜の前日、長患いの末静かに息を引き取ったマリヤの母の形見だった。マリヤの母タリアは、ミハエルの乳母をしていたので、その恩恵でマリヤはこうしてこの屋敷に居場所を用意されている。

「早く、よくなってくださるといいよねえ」
 首飾りに話しかけて、再び本に向き直ろうとしたときだった。
「マーリーヤー! いるのは分かっているんだ、出て来い!」
 がんがんがんがんとすさまじい音を立てて、部屋の扉を叩かれた。あまりに驚いたものだから、マリヤは床に転がり落ちて、「ぶぺ」と間抜けな悲鳴をあげるはめになった。
 この声は、
「ぼ、ぼぼぼ、坊ちゃま?」
 まさかこんなに早くおとないがあろうとは。
 心の準備のないマリヤは、おろおろした。

「開けぬか! お前と来たら、いつになっても俺のところに顔も見せないで! ええい、忌々しい扉め、こうしてくれる」

 ばきんと派手な音がして、扉の蝶番がはじけとんだ。
 そこにはすっかり血色の良くなったミハエルがいた。しかしその美々しい顔はまるで仇敵を見つけたように怒りにゆがみ、扉を蹴り倒したらしい足は埃をまきあげて、どん、と扉ごと床に振り下ろされる。

 さながら、魔王の登場である。

 当然ながら、マリヤは震え上がった。
「マリヤ! 何を隠れる! 出て来い!」

 ミハエルはずかずかと部屋の中に踏み込んでくる。そして、ふと、日の当たらない窓際の机の上に目を止めた。彼の視線は、若干下を向き、そしてぴたりと歩を止めた。

「ひいいっ!」

 悲鳴を上げて、マリヤはその場を飛びのいた。驚くべき素早さで分厚い本をミハエルが振り下ろしてきたからである。

「な、何をなさいますぅ坊ちゃま!」
 抗議に、ミハエルが首筋に鳥肌を立てた。
「ね、ねね、鼠が喋ったっ!」

 頭を抱えて退避していたマリヤはおずおずと立ち上がった。
 その姿はどこからどう見ても――鼠である。
 素晴らしい速さで机から距離をとったミハエルは、指をさして叫んだ。
「こら! 悪しき鼠め! マリヤをどこへ隠した!」
「ですから坊ちゃま、これが私ですよう」
「馬鹿者! いくら根暗なマリヤとて、鼠ほどじめじめしてはおらん!」
「根暗……。坊ちゃま、あんまりですよう」
「ええい、マリヤのような話し方はやめろ、背中がむずむずする!」
「そう仰られましても本人ですから……」
「ならばマリヤを名乗る鼠よ。何故人間のマリヤがおまえみたいな灰色のケダモノに身を窶しているというのだ!」
「ひ、秘密です」
「やはりマリヤではないな。あいつは俺に秘密など作れぬ性質だ。ふん、一思いに叩き潰してくれる!」
「いーやーッ! 話します、話しますう! 魔女と取引したんです!」

 ミハエルの整った眉が寄せられる。
「気味の悪い魔女なんかと取引だと? 何故? どんな?」
「それは言えません……」

 すっと、ミハエルが本を手に取る。

「いいますいいます! お薬が欲しかったんですよう!」
 頭を抱えてびくびくしながら、マリヤは叫んだ。
「それはあの晩、俺が飲まされた薬か」
 マリヤが恐る恐るミハエルの顔を伺うと、彼の顔は真赤だった。――怒りで。

「ばか者ーっ!」

 ばちーんと強烈な衝撃が鼻先に走って、マリヤはもんどりうって転がった。指で弾かれたらしい。
「誰が頼んだ! ありがた迷惑だ!」
「申し訳ありません申し訳ありません~! ひぎゃあ!」
 ひたすらに恐縮していたマリヤは、急に視界が真っ白になって驚いた。そして、
「あいたたたたたあ!」
 頭に猛烈な痛みが走る。ハンカチで包まれた上に頭をつままれて持ち上げられているのだ。両手足をばたばたさせるが、意味がない。

「誰か虫かごを持て!」
 ミハエルが大声で命じ、やがて持ってこられた虫かごに、マリヤは放り込まれる羽目になったのだった。
 

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