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#11 アンデル 彼女の秘密
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続々と運び込まれる婚礼に使う品々を横目で見ながら、私は自宅のホールを抜け、学舎へ向かった。
クラウシフの卒業まで一月、結婚まで一月半。彼はもうほとんど学舎には顔を出さず、自分のこと、家のことをして過ごしている。卒業式典には出ると言っていたが、それ以外は学舎に出向くつもりはないそうだ。
私はもうじき第二学年に進級することが決まっていたが、級友の顔ぶれが変わるわけでもないし、別段楽しみにもしていなかった。
父は辛うじて生きている。半日も起きていられないのが続いていて、場合によってはクラウシフの結婚を見届けずに旅立つかもしれない。際どいところだ。だからというわけではないが、シェンケル家は浮足立った雰囲気がまったくなく、婚礼のための荷物だけがぞくぞく増えていくのだった。普通、長男の結婚が近づいているとあれば、もっと家の中が賑々しくなるものだろう。
増えたといえば、大きなものが一つある。敷地の外れに、昼間になると職人たちがやってきて工事をしている。温室を建設するのだという。ガラス張りの小屋で、中には水路をこしらえ、湿度と温度を保てる建物になる予定だ。それはイェシュカが希望したものだった。彼女は実家でも温室を持ち、年中、たくさんの草花を育てている。料理に使うハーブがほとんどらしい。
ガラスをふんだんにつかった温室は、かなりの贅沢ではあるが結婚の祝いということで、ケートリー氏がそれを建ててくれるそうだ。
私もその竣工を楽しみにしていた。生物クラブ員としての活動は静かに確実に続けていた。学舎にある花壇では、環境が合わず栽培できない草花も、温室の設備があれば生育できるのではないか。きっとイェシュカも、温室の隅っこを義理の弟に貸すことを渋るような人ではないだろうと、図々しく計算していた。
◆
私は久々にハイリーと顔を合わせた。図書館からの帰り道、彼女は颯爽と風を切るように歩いていた。こちらに気づくと、ぱっと笑顔になる。私の気持ちまで晴らすような。
新月祭のあとからその日まで、ハイリーとは学舎で二度ほど顔を合わせた。彼女は快活さを取り戻し、私と行き合うと笑顔で挨拶をしてくれたし、足を止めてとりとめのない話に応じてくれた。
新月祭のことは話題にしなかった。それに言及することを、私は慎重に避けた。本心は、彼女に「ハイリーの羽根は僕がもらったよ、ちゃんと今も大事にしているから」と告げたかった。しかしそれが、私の自尊心を満たすだけで、彼女の痛手に無遠慮に触れることになるとわかっていた。
その二度とも、ハイリーはひとりだった。それまではたいてい、クラウシフもしくはイェシュカと一緒にいたのに。彼女の表情に曇りはなかったし、偶然一人だった可能性も思い付いたものの、私は気になっていた。そしてやはり、今回もハイリーはひとりだったのだ。
「ハイリー、こんにちは」
「こんにちは、元気そうだね、アンデル。図書館に用事が? ……これまた随分難しい本を読んでいること」
私が抱えていたのは、遠国シスで書かれた畜産の本だ。近頃、生物クラブで育てている子ヤギの具合が悪く、何か手当ての方法がないかと、畜産が盛んなシスの文献を漁ってきたのだ。かなり古い本で役に立つか不明だが、藁にもすがる思いである。なついている子ヤギは可愛く、なんとしても元気になってほしかった。
「ちょっと必要で借りてきたんだ。もう帰るところだよ。
あなたはこれから講義?」
「いや、今日は手続きで来たんだ。私の使っていた剣や書籍を寄贈しようと思って。それも終わったから帰るところ」
そうやって卒業生が寄贈した備品は、優秀だが金銭的に困窮している生徒への大きな助けになるのだが、――ハイリーの私物であれば、むしろ彼女の支持者に言い値で売って新しく買ったほうが小遣いも増えるなあと、邪なことを思いついた私だった。彼女のことを流行りの劇団の花形役者のように持ち上げる女生徒の団体があることは有名だ。
「今日も忙しいの?」
そんな言葉が口を突いて出たのは、せっかく会えたのにもう終わりかという名残惜しさが形になったのだ。
ハイリーは肩に落ちた髪を払い、軽く首を横に振る。
「このあとの予定はないな。そうだ、アンデル、君は時間がある? たまにはふたりで遠がけに行かない?」
思いがけない僥倖だった。私は急に元気が出てきて、彼女と待ち合わせの約束をし、一度荷物をとりに教室に戻って、そのままユーバシャールの家に向かった。このところ、クラブ活動で帰宅が遅くなっても、クラウシフも父も私を叱ったりしない。だから特別、家に断りをいれることもなかった。
ユーバシャール家に訪れるのはいつ以来だろうかと、その門前でハイリーが出てくるのを待つ間、考えていた。ハイリーが大怪我をした日以来だ。
ハイリーは動きやすい格好に着替えて出てきて、私に鹿毛の牝馬を貸してくれた。彼女の芦毛の牡馬と並び、いつか行った場所とは反対方向の、林の先の丘を目指すことになった。あの事件があってからも私は乗馬の訓練をぼちぼち続けており、達者とはいえないものの一人で手綱を握ることに抵抗はなくなっていた。
茜色に変化しつつある陽光を浴びながら、木がまばらな林を駆け抜ける。ちらっとこちらを見たハイリーが感心したように口の端を上げ、馬の腹を蹴った。みるみるうちに三馬身離された。彼女の挑発に乗って、私も馬の腹を蹴る。鹿毛馬は私の言うことをよく聞き、追走してくれた。
風を切って走ることが爽快なのだと知った。このままハイリーと馬を駆ってどこまでも行けたら。そんなことを思った。
◆
丘に到着した我々は、馬を休憩させ、自分たちは草原に座り込み、ハイリーが持ってきてくれたレモン水を味わっていた。汗を掻いたあとのその酸味はとても心地よかった。
「すぐ帰らなければな。暗くなってしまう」
「夕日が沈むところを見たいよ」
「そうだなあ、でもこれだけはだめだぞアンデル。夜歩きは禁止だ。君が大人になるまではね」
「じゃあ、ハイリーはもういいんだね。保護者がいるんだから、僕も許されないかなあ」
保護者という自分で発した言葉で、胸が痛んだ。彼女はもうじき学舎を出ていき、大人の世界で生きていくのだ、自分とは文字通り住む世界が違ってしまうと。
「あっという間に君も大人さ。嫌だっていっても、時間は止まっちゃくれないんだよ」
茜色に染められたハイリーの横顔は、すっかり大人のそれだった。なにか複雑な内情を飲み込み、繊細な色合いに変えて皮膚に表現しているような――。
「クラウシフとイェシュカのこと聞いたよ。あいつ、イェシュカにだけ報告させて、手間を嫌って」
軽く肩をすくめ、おどける彼女は明るい声音だったが、こちらを見た途端眉根を寄せた。
「そんな顔をしないで、アンデル。私は大丈夫だよ。今日はそう伝えたくて誘ったんだ。君にはこの前、みっともないところを見せて、心配かけてしまったからね」
「……本当に? 本当にもう大丈夫なの?」
「本当に。まあ、少しは悲しいが、こうなる運命だったのさ」
運命。その抗いがたい、大いなる天の力のせいにして、彼女はなんとかその現実を飲み込もうとしているのか。
「本当? お願いハイリー、僕には嘘をつかないで」
なんの権限があって、私はそんなことを言ったのだか。あとから思えば、酷い話だ。彼女をひどく痛めつけた人間の弟、さほど似ているとはいえない容姿だったとしても、血の繋がりは感じ取れるくらいの類似点のある子どもからそんなことを言われたのだ。そこまで私は頭が回らなかった。このとき、必死に彼女を励まそうと――その前段階として、彼女の苦しい胸の内を分かち合いたいと思っていたのだ。そしてまた、私のずるいところで、彼女はきっとそうしてくれる、自分相手には真摯に向き合ってくれるのだと確信していた。お願いという言葉は彼女に対して、最大限の威力を発揮すると無意識ながら計算していた。
ハイリーはしばらく私を見つめていたが、ふっと相好を崩した。
「君はいつの間にか、随分、大きくなっていたんだなあ」
弟の成長を喜ぶ姉の顔だ。
それから、ハイリーは膝を抱え、風に戦ぐ草の波を見つめて、言葉を紡いだ。
「そうだなあ。あのこと……新月祭での出来事は、悲しかったが仕方のないことなんだよ。自分の思い通りにならないこともある」
ハイリーは瞬きして一度黙り込んだ。自分の言葉を再確認し、その内容を心に刷り込んでいるのか。
「あのことがあったからと言って、私たちはなにも変わらないんだろうな。私とクラウシフ、私とイェシュカは、友人同士のままなんだよ。クラウシフとは、子どものころ約束したとおり、お互い、国を背負って戦う同志だし、イェシュカとは苦楽をともにする仲のままだ。だから……大丈夫だよ、私は」
「大丈夫なんて嘘だ」
口を突いて出た攻撃的な言葉に一番驚いたのは、他ならぬ私だったろう。びっくりしたハイリーがなにか言うより先に、私はあとからあとから湧いてくる言葉を彼女にぶつけていた。一種の恐慌状態にあったのだろうか、常なら飲み込んでしまうような感情そのままの言葉がこみ上げてどうしようもなかったのだ。
「ハイリー、無理してるでしょう。本当は辛いのに。聞いてほしくて僕をここに連れてきたんだよね。なのに、どうして嘘つくの。僕にまで嘘つかないでよ、お願いだ。僕は、――僕はハイリーのナイトにはなれないの」
長い間ずっと彼女だけを見つめてきた私に、その笑みが虚勢だと見破るのはたやすいことだ。
彼女はしばらくじっとしていたかと思えば、小さくため息をつき、「本当に君は大きくなったんだなあ」と諦めたように言った。
「ごめんね、アンデル。君の言うとおりだよ。実は本音で話せる友人を最近失ったばかりでね、まだ気持ちの整理がついていない。ついつい、この前のように君に甘えさせてもらえるんじゃないかと期待してしまった」
「それは……、僕はあなたの友人だって言ってもらえて、嬉しいよ」
嘘偽りない気持ちを述べれば、彼女は小さく嘆息で返した。
「本当のことを言えば、今はまだ、辛いなあ。クラウシフと会うのは。ああ、イェシュカと会うのも。私はイェシュカの親友で……恥ずかしながらナイトのつもりだった。クラウシフとは一番の親友だった。いきなりそうではなくなってしまって、寂しいな」
彼女の手を掴んだ私はまだ、冷静になれてなかった。自分よりやや大きな彼女の手を、逃すまいと必死で握りしめる。
「母上が言ってた。女の子にはみんな必ず、自分を守ってくれるナイトがいるんだって。イェシュカのナイトが兄さんなら、ハイリーのナイトは僕だ。寂しがらないで」
思い返せば論点がずれた赤面もののセリフだ。だが私は大真面目に言った。きょとんとしていたハイリーの心中を、今なら察せる。話が飛躍しすぎだし、親友の年端もいかない弟からそんなことを言われて、どうやって傷つけないように話をまとめようかと悩んでいたのだろう。彼女は私を持ち上げて「友人」と言ってくれたが、本音はきっと別だ。この前の涙の言い訳か、私を安心させるための弁解に、ここへ私を誘ったのだろう。
ただ、私が必死だったことは伝わったと思う。埋められるはずもない、兄の開けた彼女の心の穴をどうにかしてあげたかった。
しばらく、ハイリーはじっと私の顔を見つめていた。それは、私を落ち着かせて、居心地の悪さを与えるには十分な長い時間だった。
「アンデル」
静かな声音は、ざわざわと草がなびく音にもかき消されず、耳まで届いた。
「私の秘密を、聞いてくれる?」
いつか正面から見てみたいと思っていた、剣技に集中したときの強い眼力。夕日で複雑な色合いに変化した緑色の双眸に惹きつけられておきながら首を横に振るなんて、できなかった。
「私は石女なんだ、アンデル。わかるかな、子どもが産めない女なんだよ」
意外な告白だった。それと直前の話がどうつながるかわからず、私はただ顎を引いた。
言葉自体は知っていた。はじめてはいつどこで聞いたかわからないが、あまりいい印象を受けなかった。冷たい言葉だなと思ったのだ。生物クラブの飼育している動物の中で、どういうわけか種付けがうまくいかないものもいて、そういう雌の個体を詰って先輩や友人がその呼称を使ったとき、胸が冷える。
「我がユーバシャールのギフトは、超回復だ。女子がその能力を強く継承した時、高い確率で石女になるそうだ。体が胎児を、異物とみなして殺してしまうらしい。
私は、力見の儀式で十指の爪を剥いだ時、兄弟の誰より早く再生した。歴代稀に見る能力の強さだと言われた。そのときに、わかったんだよ、きっと成長しても、私は他の女の子たちのように誰かの子を産むことができない。これまで我が家ではそういう娘は行き場もなく、行かず後家になったあげく、どこかの後妻に収まってきたが――私は兄上たちとともに訓練を積んで、軍人になることにしたんだ。女だって腕一本でやれるということを証明したくて」
彼女のギフトの制約にそんなものがあるとは思わなかった。どう反応していいかわからず凍りついてしまう。ハイリーは怒ったふうでもなく淡々と言葉を続ける。
「だから、クラウシフに結婚を申し込まれた時、受けるわけにはいかなかった」
新たに知った事実が、私の声を掠れされた。
「兄さんが?」
「ああ。……新月祭の前に、打ち明けられたよ。お父上の具合が悪く、早く身を固めなければならなかったんだろう。お父上には反対されたがなんとか説得するからと。私がその申し出を断ったんだ。シェンケルの次期当主には、絶対に子供が必要だろう? 彼の血を継いだ子供が」
「ハイリー……」
「だからいいんだよ、アンデル。あの日は私も取り乱して、みっともないところを見せたが、もとを正せば私が先に彼の申し出を断ったんだ、ああなって当然だったんだ。せめて思い出だけでも、と言った私に、クラウシフは、未来の妻になる人に捧げるべきものだからと、きっぱり言ったよ。それが正しいんだ。
あのとき、クラウシフは、イェシュカの心を得るために必死だったんだよ。毎日、窓際でイェシュカの手をとって、口説いて口説いて口説き落とそうとしてたんだ。ビットを覚えているか? イェシュカの恋人だった。彼と決闘までして彼女の心を掴んだ。私にはそんな熱心さ見せてくれなかったのにな」
冗談めかして彼女は言い、ふふ、と乾いた声で笑った。
「すまなかったね。私は、君が思うような可哀想な女ではないんだよ。自分勝手に君の兄上を裏切って、わが道を行こうとした人間だ。もしすべてを彼に渡していいと思っていたなら、その覚悟があったなら、クラウシフを信じて駆け落ちしていた。けれども私にはそれができなかった」
言い終えるころには、彼女の顔から迷いや悲痛な色は消えていた。もはや私の邪念など、入り込む余地はなさそうだ。
そう、白状すれば、私はまた邪なことを考えていた。ずるくて、自分だけが得をする、ひどい未来を思い描いていたのだ。
兄がイェシュカと後継ぎを作るのだから、次男の私はハイリーと結婚できる。子供がなくとも構わないではないかと。
思いつきは一瞬で、死にたいほどの落ち込みに変わった。あれほど自分を恥じることはそうないだろう。だから、その思いつきは封印することにしたのだ。
なにより、そうして結婚したら、ハイリーはことあるごとにクラウシフとイェシュカの顔を見なければならなくなる。それは彼女にとって拷問じゃないか。
やはり、叶わない願いなのだ。私が彼女のナイトになるなんて。
「さてアンデル、帰ろうか。……嫌な話をきかせて、すまなかったな。だが、ありがとう、なんだろうな……少し、すっきりしたよ」
彼女が差し出した手をとり、私は首を横に振った。
ハイリーのように笑顔を作るなんて、未熟な私にはとてもできなかった。
クラウシフの卒業まで一月、結婚まで一月半。彼はもうほとんど学舎には顔を出さず、自分のこと、家のことをして過ごしている。卒業式典には出ると言っていたが、それ以外は学舎に出向くつもりはないそうだ。
私はもうじき第二学年に進級することが決まっていたが、級友の顔ぶれが変わるわけでもないし、別段楽しみにもしていなかった。
父は辛うじて生きている。半日も起きていられないのが続いていて、場合によってはクラウシフの結婚を見届けずに旅立つかもしれない。際どいところだ。だからというわけではないが、シェンケル家は浮足立った雰囲気がまったくなく、婚礼のための荷物だけがぞくぞく増えていくのだった。普通、長男の結婚が近づいているとあれば、もっと家の中が賑々しくなるものだろう。
増えたといえば、大きなものが一つある。敷地の外れに、昼間になると職人たちがやってきて工事をしている。温室を建設するのだという。ガラス張りの小屋で、中には水路をこしらえ、湿度と温度を保てる建物になる予定だ。それはイェシュカが希望したものだった。彼女は実家でも温室を持ち、年中、たくさんの草花を育てている。料理に使うハーブがほとんどらしい。
ガラスをふんだんにつかった温室は、かなりの贅沢ではあるが結婚の祝いということで、ケートリー氏がそれを建ててくれるそうだ。
私もその竣工を楽しみにしていた。生物クラブ員としての活動は静かに確実に続けていた。学舎にある花壇では、環境が合わず栽培できない草花も、温室の設備があれば生育できるのではないか。きっとイェシュカも、温室の隅っこを義理の弟に貸すことを渋るような人ではないだろうと、図々しく計算していた。
◆
私は久々にハイリーと顔を合わせた。図書館からの帰り道、彼女は颯爽と風を切るように歩いていた。こちらに気づくと、ぱっと笑顔になる。私の気持ちまで晴らすような。
新月祭のあとからその日まで、ハイリーとは学舎で二度ほど顔を合わせた。彼女は快活さを取り戻し、私と行き合うと笑顔で挨拶をしてくれたし、足を止めてとりとめのない話に応じてくれた。
新月祭のことは話題にしなかった。それに言及することを、私は慎重に避けた。本心は、彼女に「ハイリーの羽根は僕がもらったよ、ちゃんと今も大事にしているから」と告げたかった。しかしそれが、私の自尊心を満たすだけで、彼女の痛手に無遠慮に触れることになるとわかっていた。
その二度とも、ハイリーはひとりだった。それまではたいてい、クラウシフもしくはイェシュカと一緒にいたのに。彼女の表情に曇りはなかったし、偶然一人だった可能性も思い付いたものの、私は気になっていた。そしてやはり、今回もハイリーはひとりだったのだ。
「ハイリー、こんにちは」
「こんにちは、元気そうだね、アンデル。図書館に用事が? ……これまた随分難しい本を読んでいること」
私が抱えていたのは、遠国シスで書かれた畜産の本だ。近頃、生物クラブで育てている子ヤギの具合が悪く、何か手当ての方法がないかと、畜産が盛んなシスの文献を漁ってきたのだ。かなり古い本で役に立つか不明だが、藁にもすがる思いである。なついている子ヤギは可愛く、なんとしても元気になってほしかった。
「ちょっと必要で借りてきたんだ。もう帰るところだよ。
あなたはこれから講義?」
「いや、今日は手続きで来たんだ。私の使っていた剣や書籍を寄贈しようと思って。それも終わったから帰るところ」
そうやって卒業生が寄贈した備品は、優秀だが金銭的に困窮している生徒への大きな助けになるのだが、――ハイリーの私物であれば、むしろ彼女の支持者に言い値で売って新しく買ったほうが小遣いも増えるなあと、邪なことを思いついた私だった。彼女のことを流行りの劇団の花形役者のように持ち上げる女生徒の団体があることは有名だ。
「今日も忙しいの?」
そんな言葉が口を突いて出たのは、せっかく会えたのにもう終わりかという名残惜しさが形になったのだ。
ハイリーは肩に落ちた髪を払い、軽く首を横に振る。
「このあとの予定はないな。そうだ、アンデル、君は時間がある? たまにはふたりで遠がけに行かない?」
思いがけない僥倖だった。私は急に元気が出てきて、彼女と待ち合わせの約束をし、一度荷物をとりに教室に戻って、そのままユーバシャールの家に向かった。このところ、クラブ活動で帰宅が遅くなっても、クラウシフも父も私を叱ったりしない。だから特別、家に断りをいれることもなかった。
ユーバシャール家に訪れるのはいつ以来だろうかと、その門前でハイリーが出てくるのを待つ間、考えていた。ハイリーが大怪我をした日以来だ。
ハイリーは動きやすい格好に着替えて出てきて、私に鹿毛の牝馬を貸してくれた。彼女の芦毛の牡馬と並び、いつか行った場所とは反対方向の、林の先の丘を目指すことになった。あの事件があってからも私は乗馬の訓練をぼちぼち続けており、達者とはいえないものの一人で手綱を握ることに抵抗はなくなっていた。
茜色に変化しつつある陽光を浴びながら、木がまばらな林を駆け抜ける。ちらっとこちらを見たハイリーが感心したように口の端を上げ、馬の腹を蹴った。みるみるうちに三馬身離された。彼女の挑発に乗って、私も馬の腹を蹴る。鹿毛馬は私の言うことをよく聞き、追走してくれた。
風を切って走ることが爽快なのだと知った。このままハイリーと馬を駆ってどこまでも行けたら。そんなことを思った。
◆
丘に到着した我々は、馬を休憩させ、自分たちは草原に座り込み、ハイリーが持ってきてくれたレモン水を味わっていた。汗を掻いたあとのその酸味はとても心地よかった。
「すぐ帰らなければな。暗くなってしまう」
「夕日が沈むところを見たいよ」
「そうだなあ、でもこれだけはだめだぞアンデル。夜歩きは禁止だ。君が大人になるまではね」
「じゃあ、ハイリーはもういいんだね。保護者がいるんだから、僕も許されないかなあ」
保護者という自分で発した言葉で、胸が痛んだ。彼女はもうじき学舎を出ていき、大人の世界で生きていくのだ、自分とは文字通り住む世界が違ってしまうと。
「あっという間に君も大人さ。嫌だっていっても、時間は止まっちゃくれないんだよ」
茜色に染められたハイリーの横顔は、すっかり大人のそれだった。なにか複雑な内情を飲み込み、繊細な色合いに変えて皮膚に表現しているような――。
「クラウシフとイェシュカのこと聞いたよ。あいつ、イェシュカにだけ報告させて、手間を嫌って」
軽く肩をすくめ、おどける彼女は明るい声音だったが、こちらを見た途端眉根を寄せた。
「そんな顔をしないで、アンデル。私は大丈夫だよ。今日はそう伝えたくて誘ったんだ。君にはこの前、みっともないところを見せて、心配かけてしまったからね」
「……本当に? 本当にもう大丈夫なの?」
「本当に。まあ、少しは悲しいが、こうなる運命だったのさ」
運命。その抗いがたい、大いなる天の力のせいにして、彼女はなんとかその現実を飲み込もうとしているのか。
「本当? お願いハイリー、僕には嘘をつかないで」
なんの権限があって、私はそんなことを言ったのだか。あとから思えば、酷い話だ。彼女をひどく痛めつけた人間の弟、さほど似ているとはいえない容姿だったとしても、血の繋がりは感じ取れるくらいの類似点のある子どもからそんなことを言われたのだ。そこまで私は頭が回らなかった。このとき、必死に彼女を励まそうと――その前段階として、彼女の苦しい胸の内を分かち合いたいと思っていたのだ。そしてまた、私のずるいところで、彼女はきっとそうしてくれる、自分相手には真摯に向き合ってくれるのだと確信していた。お願いという言葉は彼女に対して、最大限の威力を発揮すると無意識ながら計算していた。
ハイリーはしばらく私を見つめていたが、ふっと相好を崩した。
「君はいつの間にか、随分、大きくなっていたんだなあ」
弟の成長を喜ぶ姉の顔だ。
それから、ハイリーは膝を抱え、風に戦ぐ草の波を見つめて、言葉を紡いだ。
「そうだなあ。あのこと……新月祭での出来事は、悲しかったが仕方のないことなんだよ。自分の思い通りにならないこともある」
ハイリーは瞬きして一度黙り込んだ。自分の言葉を再確認し、その内容を心に刷り込んでいるのか。
「あのことがあったからと言って、私たちはなにも変わらないんだろうな。私とクラウシフ、私とイェシュカは、友人同士のままなんだよ。クラウシフとは、子どものころ約束したとおり、お互い、国を背負って戦う同志だし、イェシュカとは苦楽をともにする仲のままだ。だから……大丈夫だよ、私は」
「大丈夫なんて嘘だ」
口を突いて出た攻撃的な言葉に一番驚いたのは、他ならぬ私だったろう。びっくりしたハイリーがなにか言うより先に、私はあとからあとから湧いてくる言葉を彼女にぶつけていた。一種の恐慌状態にあったのだろうか、常なら飲み込んでしまうような感情そのままの言葉がこみ上げてどうしようもなかったのだ。
「ハイリー、無理してるでしょう。本当は辛いのに。聞いてほしくて僕をここに連れてきたんだよね。なのに、どうして嘘つくの。僕にまで嘘つかないでよ、お願いだ。僕は、――僕はハイリーのナイトにはなれないの」
長い間ずっと彼女だけを見つめてきた私に、その笑みが虚勢だと見破るのはたやすいことだ。
彼女はしばらくじっとしていたかと思えば、小さくため息をつき、「本当に君は大きくなったんだなあ」と諦めたように言った。
「ごめんね、アンデル。君の言うとおりだよ。実は本音で話せる友人を最近失ったばかりでね、まだ気持ちの整理がついていない。ついつい、この前のように君に甘えさせてもらえるんじゃないかと期待してしまった」
「それは……、僕はあなたの友人だって言ってもらえて、嬉しいよ」
嘘偽りない気持ちを述べれば、彼女は小さく嘆息で返した。
「本当のことを言えば、今はまだ、辛いなあ。クラウシフと会うのは。ああ、イェシュカと会うのも。私はイェシュカの親友で……恥ずかしながらナイトのつもりだった。クラウシフとは一番の親友だった。いきなりそうではなくなってしまって、寂しいな」
彼女の手を掴んだ私はまだ、冷静になれてなかった。自分よりやや大きな彼女の手を、逃すまいと必死で握りしめる。
「母上が言ってた。女の子にはみんな必ず、自分を守ってくれるナイトがいるんだって。イェシュカのナイトが兄さんなら、ハイリーのナイトは僕だ。寂しがらないで」
思い返せば論点がずれた赤面もののセリフだ。だが私は大真面目に言った。きょとんとしていたハイリーの心中を、今なら察せる。話が飛躍しすぎだし、親友の年端もいかない弟からそんなことを言われて、どうやって傷つけないように話をまとめようかと悩んでいたのだろう。彼女は私を持ち上げて「友人」と言ってくれたが、本音はきっと別だ。この前の涙の言い訳か、私を安心させるための弁解に、ここへ私を誘ったのだろう。
ただ、私が必死だったことは伝わったと思う。埋められるはずもない、兄の開けた彼女の心の穴をどうにかしてあげたかった。
しばらく、ハイリーはじっと私の顔を見つめていた。それは、私を落ち着かせて、居心地の悪さを与えるには十分な長い時間だった。
「アンデル」
静かな声音は、ざわざわと草がなびく音にもかき消されず、耳まで届いた。
「私の秘密を、聞いてくれる?」
いつか正面から見てみたいと思っていた、剣技に集中したときの強い眼力。夕日で複雑な色合いに変化した緑色の双眸に惹きつけられておきながら首を横に振るなんて、できなかった。
「私は石女なんだ、アンデル。わかるかな、子どもが産めない女なんだよ」
意外な告白だった。それと直前の話がどうつながるかわからず、私はただ顎を引いた。
言葉自体は知っていた。はじめてはいつどこで聞いたかわからないが、あまりいい印象を受けなかった。冷たい言葉だなと思ったのだ。生物クラブの飼育している動物の中で、どういうわけか種付けがうまくいかないものもいて、そういう雌の個体を詰って先輩や友人がその呼称を使ったとき、胸が冷える。
「我がユーバシャールのギフトは、超回復だ。女子がその能力を強く継承した時、高い確率で石女になるそうだ。体が胎児を、異物とみなして殺してしまうらしい。
私は、力見の儀式で十指の爪を剥いだ時、兄弟の誰より早く再生した。歴代稀に見る能力の強さだと言われた。そのときに、わかったんだよ、きっと成長しても、私は他の女の子たちのように誰かの子を産むことができない。これまで我が家ではそういう娘は行き場もなく、行かず後家になったあげく、どこかの後妻に収まってきたが――私は兄上たちとともに訓練を積んで、軍人になることにしたんだ。女だって腕一本でやれるということを証明したくて」
彼女のギフトの制約にそんなものがあるとは思わなかった。どう反応していいかわからず凍りついてしまう。ハイリーは怒ったふうでもなく淡々と言葉を続ける。
「だから、クラウシフに結婚を申し込まれた時、受けるわけにはいかなかった」
新たに知った事実が、私の声を掠れされた。
「兄さんが?」
「ああ。……新月祭の前に、打ち明けられたよ。お父上の具合が悪く、早く身を固めなければならなかったんだろう。お父上には反対されたがなんとか説得するからと。私がその申し出を断ったんだ。シェンケルの次期当主には、絶対に子供が必要だろう? 彼の血を継いだ子供が」
「ハイリー……」
「だからいいんだよ、アンデル。あの日は私も取り乱して、みっともないところを見せたが、もとを正せば私が先に彼の申し出を断ったんだ、ああなって当然だったんだ。せめて思い出だけでも、と言った私に、クラウシフは、未来の妻になる人に捧げるべきものだからと、きっぱり言ったよ。それが正しいんだ。
あのとき、クラウシフは、イェシュカの心を得るために必死だったんだよ。毎日、窓際でイェシュカの手をとって、口説いて口説いて口説き落とそうとしてたんだ。ビットを覚えているか? イェシュカの恋人だった。彼と決闘までして彼女の心を掴んだ。私にはそんな熱心さ見せてくれなかったのにな」
冗談めかして彼女は言い、ふふ、と乾いた声で笑った。
「すまなかったね。私は、君が思うような可哀想な女ではないんだよ。自分勝手に君の兄上を裏切って、わが道を行こうとした人間だ。もしすべてを彼に渡していいと思っていたなら、その覚悟があったなら、クラウシフを信じて駆け落ちしていた。けれども私にはそれができなかった」
言い終えるころには、彼女の顔から迷いや悲痛な色は消えていた。もはや私の邪念など、入り込む余地はなさそうだ。
そう、白状すれば、私はまた邪なことを考えていた。ずるくて、自分だけが得をする、ひどい未来を思い描いていたのだ。
兄がイェシュカと後継ぎを作るのだから、次男の私はハイリーと結婚できる。子供がなくとも構わないではないかと。
思いつきは一瞬で、死にたいほどの落ち込みに変わった。あれほど自分を恥じることはそうないだろう。だから、その思いつきは封印することにしたのだ。
なにより、そうして結婚したら、ハイリーはことあるごとにクラウシフとイェシュカの顔を見なければならなくなる。それは彼女にとって拷問じゃないか。
やはり、叶わない願いなのだ。私が彼女のナイトになるなんて。
「さてアンデル、帰ろうか。……嫌な話をきかせて、すまなかったな。だが、ありがとう、なんだろうな……少し、すっきりしたよ」
彼女が差し出した手をとり、私は首を横に振った。
ハイリーのように笑顔を作るなんて、未熟な私にはとてもできなかった。
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仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
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