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#19 アンデル イェシュカのこと
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イェシュカが亡くなった。
ハイリーとダンスをした夢のような夜から、三年。私は彼女と手紙のやりとりを続けていたが、彼女への訃報はクラウシフが送った。
そのころの記憶はあやふやで、バルデランに聞いたところ、私はイェシュカが亡くなったときのショックで数日口も聞けぬほど憔悴していたらしい。食事も摂れず、部屋から出ることもなく過ごした。怪我もしていたので、衰弱ぶりに周囲の気を揉ませたようだ。
イェシュカの死の瞬間、現場となった温室に居合わせたのは、他でもない私だった。
◆
三年のうちに、イェシュカの様子はすっかり悪くなっていた。あのパーティーのあと、イェシュカはハイリーと再会し、一日中話し続け、ハイリーを涙で送り出したのだが、その後ずるずると調子を崩してしまった。
錯乱したのだ。人が変わったように暗くなり、ぶつぶつと呪いの言葉を吐き、泣きわめき、徘徊し、子どもたちに当たり散らし、クラウシフを罵った。まるでなにかに取り憑かれたようだった。
とくにクラウシフには辛く当たり、強制的に薬で落ち着かせるまで、わめきながら彼の部屋の扉を殴り続けることもあった。手の骨が砕けても止まらなかった。
どうしてそうなってしまったのか。イェシュカはときに、ハイリーに謝罪の言葉を吐きながら、ビットにも謝罪し続けていた。私には、助けを求めた。
――この家から連れ出してアンデル、お願いよ、お願いだから。
髪を振り乱し泣きじゃくるイェシュカを見ているのは辛かった。
しかしながら理由を本人に尋ねても、はっきりしなかった。
――どうしたの、イェシュカ、どうしてそんなに辛いの。僕に話してごらん。
ぽかんとして、イェシュカは立ちすくむのだ。まるで言葉を忘れてしまったかのように。
医師は、育児の無理がたたったのかもしれないと、心の病に効くというハーブを主にした薬を勧めたが、どれも効果はいまいちだった。
一年前から、子どもたちはケートリーの家に預けられ、家を空けがちなクラウシフの代わりに、私がイェシュカの相手をすることが増えた。イェシュカが子どもたちに暴力を振るうことがあったので、距離を置くことになったのだ。
逆に子どもたちをシェンケルに残し、イェシュカをケートリーに帰してはどうかという医師の提案もあった。クラウシフがそれを拒否した。私には医師の提案のほうが良いように思えたのだが、イェシュカが「私を捨てるのねクラウシフ、捨てるんでしょう、どうせ私のことなんてあなたは愛してないのだから」と強く罵るのを聞くうちに、そうしたらイェシュカがさらに苦しむかと思い、クラウシフに従うことにした。
クラウシフが家にいて共に寝起きした翌朝、イェシュカの調子が良くなることも多かったので、夫といる安心感は大きいものなのだろうと推し量れた。それでもイェシュカはしばらく彼と離れていると、そのときの気持ちを忘れてしまったように「クラウシフとは一緒にいられない」と嘆きはじめ――やはり、精神の均衡が不安定なままだった。
私と一緒にいるときは、イェシュカは悲嘆にくれる。凶暴性は鳴りを潜めるので、相手をすることに恐怖心はなかった。ただただ、あの明るく優しいイェシュカがこのように変わり果てて苦しんでいる姿を見るのが辛かったのだ。だから、少しでも気持ちが安らぐようにと、泣きじゃくる彼女の背を撫で続ける日々が続いた。
――大丈夫、なんの心配もいらないよ、お願いだから少し休んで。
そう慰め続けると、泣き疲れたイェシュカは子供のように指をしゃぶって眠りにつくのだ、安心した顔をして。
私は高等部に進学していたが、事情が事情なので休学していた。
イェシュカが眠ったあと、温室の物言わぬ植物に話しかけながら研究の記録を残していくのと、ハイリーからちょっとだけ頻度があがって返信されるようになった手紙を読むことが何よりの楽しみだった。手紙には、イェシュカの病の詳細は記さなかった。イェシュカがハイリーに知られたくないかもしれないし、ハイリーに心配をかけたくないという私の気持ちもあったから。自分で決めたことなのに本音を打ち明けられないことは、小さな心の負荷になった。
クラウシフと一緒に城に出向くと、以前はあれだけ気詰まりだったのにほっとしてしまうくらいに、張り詰めた毎日だった。
休学に関しては、もどかしい気持ちもあった。ハイリーがくれた種子を育て、その記録を元に、残留魔力がもたらす植物の形質変化についての論文を学舎に提出したところ、思いの外評価され、なにがどうなってそうなったのか、ヨルク・メイズから直接褒賞を下賜された。学舎でも前代未聞だと褒められて、その道を進みたいと改めて強く思った、……矢先の休学である。
ケートリー家からもたくさんの援助を受けていたので、私がなんの手伝いもしなくとも、イェシュカは十全な看護を受けられただろうが、同じ家にいながら彼女を腫れ物扱いするのは嫌だった。彼女は子供がえりしたように、私のことを捜して泣くこともあり、それを無視するのも気が咎めた。クラウシフは医者に任せておけと言ったが――あんまりだろうと思ったのだ。もしかするとイェシュカに生母の面影を見ていたのかもしれない。弱っていく姿が、亡くなる前の母に重なって、捨て置けなかった。
そのことで、少し、クラウシフとは揉めた。
◆
ハイリーに心配をかけてはいけないと思いながらも、どうしても気持ちが落ち込んで、一度だけ、愚痴のようなものを手紙に書いてしまったことがある。クラウシフと口論になった直後だったと思う。
――本当は、イェシュカも子どもたちも、私なんかではなくクラウシフに会いたがっているのに。私のいる意味なんてない。
それをイェシュカの親友であるハイリー相手にしたのだから、いわゆる密告だ。
ハイリーの行動は早かった。手紙を出して三週間と経たぬうちに我が家に訪れた。二週間かけて到着した手紙を見るなり、休みをもぎとってきてくれたのだ。
私は、仰天した。
ほぼ不休で馬をとばしてきたというハイリーは、イェシュカの寝室で彼女の寝姿を確認し、彼女の寝顔に向かって優しく語りかけた。そのあと私と少し話して紅茶を二杯飲み、たった二時間で、実家にも寄らず前線にとんぼ返りしたのだった。たくさんの見舞いの品は、翌日追いかけるようにして届けられた。
もしそのときイェシュカの調子が良く、ハイリーと言葉を交わせたなら……。
彼女の来訪は、疲れ切っていた私の心も慰めてくれた。
二年ぶりに会ったハイリーは、直前の火竜討伐で焦げてしまったと髪をばっさり顎の線で切り落としていた。日焼けの薄い首筋が眩しく、視線がそちらに向いてしまう。彼女が家に入ってきただけで、雰囲気がぱっと明るくなったように錯覚したのは、定めし私の気持ちが弱っていた証拠だろう。
短い談笑の最中、ハイリーは優雅に脚を揃えて座り、背筋を伸ばしてカップに口をつけた。
「アンデル、君が家でイェシュカを助けてくれているから、クラウシフも安心して仕事に打ち込めているんだ。あいつは君に甘えてるんだよ。そして、信頼して任せている。……君がいてくれてよかった。イェシュカを守ってくれて、ありがとう」
ちょうどクラウシフは、マルート鋼の案件がまとまりかけ、忙しい時期だった。執務があることを言い訳に家に帰らない日が続いていた。国の命運をかけた大仕事だ、そのくらいのことはあっても仕方がなかっただろう。
しかし自分の息子達にも会いに行かない、病気の妻の様子を確認もしない。そのことに少なからず、私は腹を立てていた。イェシュカのことが好きだったし、私によくなついている子どもたちは可愛かった。だから、それらをないがしろにされていると感じた。
けれどももし、クラウシフが職務を投げ出し、イェシュカと子どもたちにかかりっきりになってしまったら、シェンケルの家は面目も丸つぶれになっていただろう。その上、マルート鋼の話がうまくまとまったとしたら、シェンケルなしでもじゅうぶんやれると、議会から締め出しを食らったかもしれない。古参にして若造が当主を務めるシェンケルが、ヨルク・メイズのお気に入りであることを気にいらない人たちがかなり多くいるということを、日頃のやりとりで実感していた。その可能性はかなり高かったと思う。
わかってはいたが、疲れは判断力を鈍らせる。不満や不安を強くする。
なにより、私は疲れていたのだ、出口が見えないことに。きっと、誰かに悩みを聞いてほしかったのだが、その相手が身近にいなかった。ハイリーに労われてそのことに気づいた。ハイリーに肘を力強く叩かれたときに。
もうそのときにはすっかりハイリーより背が高くなり、肩幅も広くなっていたのだが、見上げてくる彼女の視線に励まされた。みっともないことに、鼻の奥がつんとしてしまった。さらにどうしようもないが、彼女を力いっぱい抱きしめたいと思ったのだ。その首筋に鼻先を埋め、彼女の肌の匂いを嗅ぎたいと。そうしたらこの孤独感を埋められるような気がしていた。
当然だが、成人していなくとも、そこそこいい年になった私が、挨拶でもないのに、昔のように気軽に彼女と抱擁することはできない。禁じられてはいないが、泣きつくのが恥ずかしくもあった。だから、励ますように腕に添えられていた彼女の手の甲を、上からそっと押さえることでその代替とした。
手袋をしていないハイリーの手は、多少ごつごつしていたものの、すっぽり私の手の中に収まる大きさだった。そっと握ってみたら、驚かせてしまったのか、節のはっきりした指がぴくりと跳ねた。不思議なのは、傷一つないその手はちゃんと職務に適した形になり、剣や槍を持つときにできるたこがあったことだ。彼女の身体が判定する外傷とそうでない変化の線引きはどこなのだろう。つい、地が出てそんなことを考えてしまう。
きゅっと手を握り返され、我に返った。とたんに首筋が熱くなる。
ハイリーが頑是ない子供を見るような目をこちらに向けていた。揺れた茜色の髪から、なじみのあのシトロンの香りがただよっている。私がぎこちなく微笑むと、ハイリーも頬を緩め――しばらくぶりに私は深く息を吸うことができた。
できれば一秒でも長くこのときが続いてほしいと、心の底から願ったのだ。だからこそ別れのときは、身を裂かれるような心持ちだった。
お願いだからハイリー、手紙が届いたら返事を送ってほしい。そう言うのが精一杯だったが、本当は引き止めたかった。
後日、ハイリーの次兄が亡くなり、シェンケルの代表として私が葬儀に参列した。涙ひとつこぼさず胸を張って兄の戦没を名誉と振る舞うハイリーを抱きしめたい衝動に駆られたが、そのときもその願いは叶わなかった。
◆
その日、私は家の中をうろうろしていた。記憶は定かではないが姿を消したイェシュカを探していたんだと思う。彼女は徘徊することがあった。ともかく、私は温室のドアが開いていることに気づいてしまった。
どろりと蕩けた夕日から、赤みの強い黄色の光が照射された温室内は、むせ返るほどの青臭さが充満していた。嗅ぎ慣れているはずの植物のにおいが、どうしてか耐え難いほどきつく感じた。
ガラスのドアを閉めようとし、ぱっと顔をあげた先にイェシュカがいた。
温室には、幅の細い橋が高い位置に渡されていて、はしごを使えばその上に登れる造りになっている。手すりも備わっていたが、それは気休め程度で、大人がその気になれば簡単に乗り越えられるようなものだった。
イェシュカは橋の手すりに腰をおろし、白い綿の寝間着の裾がめくれることも気にせず、幼女のように脚をぱたぱたさせ、虚空を見つめていた。眼窩は落ち窪み、肌は青白くかさつき、頬はこけてやせ細ってしまった彼女は、もしいま強風が吹いたら紙のように飛ばされてしまうだろうと予感させるほど、生気が希薄だった。
「イェシュカ、危ないよ、迎えに行くからそこでじっとしていてね」
「あら、アンデル……」
彼女を刺激しないよう、私はなるべく落ち着いた声でそう呼びかけた。緊張して、心臓が痛いほど速く鼓動しているのに。
イェシュカは突然、くしゃりと顔を歪め泣き出した。
「……アンデル、怖いの、私。でもなにが怖いのかわからないの。言葉にしようとするとできない。話し方がわからなくなってしまうの。どうして? でも、だから、手紙を、……あのひとがいないときだったら、……あな、あなたがいないときだったら、書ける……書け、書ける……」
「イェシュカ! 危ないっ」
ずるりと手すりから滑り落ちてきた彼女を抱きとめようと、私は無我夢中で落下予測地点に滑り込んだ。
だが自分の腕を折っただけで、イェシュカのことは助けられなかった。
口をぽかんと開け、うつろな目をしたイェシュカは、頭部からおびただしい血を流していて、私が大慌てでそこを手で圧迫し止血しようとしても間に合わなかった。張り出して作られていた水路のタイルの壁に頭から激突したのだ。
私はわあわあ叫びつつ、まるで皮を剥いだザクロのようだと、どこか遠くで思い――次に意識がはっきりしたときには、すでにイェシュカの葬儀前日だった。
ハイリーとダンスをした夢のような夜から、三年。私は彼女と手紙のやりとりを続けていたが、彼女への訃報はクラウシフが送った。
そのころの記憶はあやふやで、バルデランに聞いたところ、私はイェシュカが亡くなったときのショックで数日口も聞けぬほど憔悴していたらしい。食事も摂れず、部屋から出ることもなく過ごした。怪我もしていたので、衰弱ぶりに周囲の気を揉ませたようだ。
イェシュカの死の瞬間、現場となった温室に居合わせたのは、他でもない私だった。
◆
三年のうちに、イェシュカの様子はすっかり悪くなっていた。あのパーティーのあと、イェシュカはハイリーと再会し、一日中話し続け、ハイリーを涙で送り出したのだが、その後ずるずると調子を崩してしまった。
錯乱したのだ。人が変わったように暗くなり、ぶつぶつと呪いの言葉を吐き、泣きわめき、徘徊し、子どもたちに当たり散らし、クラウシフを罵った。まるでなにかに取り憑かれたようだった。
とくにクラウシフには辛く当たり、強制的に薬で落ち着かせるまで、わめきながら彼の部屋の扉を殴り続けることもあった。手の骨が砕けても止まらなかった。
どうしてそうなってしまったのか。イェシュカはときに、ハイリーに謝罪の言葉を吐きながら、ビットにも謝罪し続けていた。私には、助けを求めた。
――この家から連れ出してアンデル、お願いよ、お願いだから。
髪を振り乱し泣きじゃくるイェシュカを見ているのは辛かった。
しかしながら理由を本人に尋ねても、はっきりしなかった。
――どうしたの、イェシュカ、どうしてそんなに辛いの。僕に話してごらん。
ぽかんとして、イェシュカは立ちすくむのだ。まるで言葉を忘れてしまったかのように。
医師は、育児の無理がたたったのかもしれないと、心の病に効くというハーブを主にした薬を勧めたが、どれも効果はいまいちだった。
一年前から、子どもたちはケートリーの家に預けられ、家を空けがちなクラウシフの代わりに、私がイェシュカの相手をすることが増えた。イェシュカが子どもたちに暴力を振るうことがあったので、距離を置くことになったのだ。
逆に子どもたちをシェンケルに残し、イェシュカをケートリーに帰してはどうかという医師の提案もあった。クラウシフがそれを拒否した。私には医師の提案のほうが良いように思えたのだが、イェシュカが「私を捨てるのねクラウシフ、捨てるんでしょう、どうせ私のことなんてあなたは愛してないのだから」と強く罵るのを聞くうちに、そうしたらイェシュカがさらに苦しむかと思い、クラウシフに従うことにした。
クラウシフが家にいて共に寝起きした翌朝、イェシュカの調子が良くなることも多かったので、夫といる安心感は大きいものなのだろうと推し量れた。それでもイェシュカはしばらく彼と離れていると、そのときの気持ちを忘れてしまったように「クラウシフとは一緒にいられない」と嘆きはじめ――やはり、精神の均衡が不安定なままだった。
私と一緒にいるときは、イェシュカは悲嘆にくれる。凶暴性は鳴りを潜めるので、相手をすることに恐怖心はなかった。ただただ、あの明るく優しいイェシュカがこのように変わり果てて苦しんでいる姿を見るのが辛かったのだ。だから、少しでも気持ちが安らぐようにと、泣きじゃくる彼女の背を撫で続ける日々が続いた。
――大丈夫、なんの心配もいらないよ、お願いだから少し休んで。
そう慰め続けると、泣き疲れたイェシュカは子供のように指をしゃぶって眠りにつくのだ、安心した顔をして。
私は高等部に進学していたが、事情が事情なので休学していた。
イェシュカが眠ったあと、温室の物言わぬ植物に話しかけながら研究の記録を残していくのと、ハイリーからちょっとだけ頻度があがって返信されるようになった手紙を読むことが何よりの楽しみだった。手紙には、イェシュカの病の詳細は記さなかった。イェシュカがハイリーに知られたくないかもしれないし、ハイリーに心配をかけたくないという私の気持ちもあったから。自分で決めたことなのに本音を打ち明けられないことは、小さな心の負荷になった。
クラウシフと一緒に城に出向くと、以前はあれだけ気詰まりだったのにほっとしてしまうくらいに、張り詰めた毎日だった。
休学に関しては、もどかしい気持ちもあった。ハイリーがくれた種子を育て、その記録を元に、残留魔力がもたらす植物の形質変化についての論文を学舎に提出したところ、思いの外評価され、なにがどうなってそうなったのか、ヨルク・メイズから直接褒賞を下賜された。学舎でも前代未聞だと褒められて、その道を進みたいと改めて強く思った、……矢先の休学である。
ケートリー家からもたくさんの援助を受けていたので、私がなんの手伝いもしなくとも、イェシュカは十全な看護を受けられただろうが、同じ家にいながら彼女を腫れ物扱いするのは嫌だった。彼女は子供がえりしたように、私のことを捜して泣くこともあり、それを無視するのも気が咎めた。クラウシフは医者に任せておけと言ったが――あんまりだろうと思ったのだ。もしかするとイェシュカに生母の面影を見ていたのかもしれない。弱っていく姿が、亡くなる前の母に重なって、捨て置けなかった。
そのことで、少し、クラウシフとは揉めた。
◆
ハイリーに心配をかけてはいけないと思いながらも、どうしても気持ちが落ち込んで、一度だけ、愚痴のようなものを手紙に書いてしまったことがある。クラウシフと口論になった直後だったと思う。
――本当は、イェシュカも子どもたちも、私なんかではなくクラウシフに会いたがっているのに。私のいる意味なんてない。
それをイェシュカの親友であるハイリー相手にしたのだから、いわゆる密告だ。
ハイリーの行動は早かった。手紙を出して三週間と経たぬうちに我が家に訪れた。二週間かけて到着した手紙を見るなり、休みをもぎとってきてくれたのだ。
私は、仰天した。
ほぼ不休で馬をとばしてきたというハイリーは、イェシュカの寝室で彼女の寝姿を確認し、彼女の寝顔に向かって優しく語りかけた。そのあと私と少し話して紅茶を二杯飲み、たった二時間で、実家にも寄らず前線にとんぼ返りしたのだった。たくさんの見舞いの品は、翌日追いかけるようにして届けられた。
もしそのときイェシュカの調子が良く、ハイリーと言葉を交わせたなら……。
彼女の来訪は、疲れ切っていた私の心も慰めてくれた。
二年ぶりに会ったハイリーは、直前の火竜討伐で焦げてしまったと髪をばっさり顎の線で切り落としていた。日焼けの薄い首筋が眩しく、視線がそちらに向いてしまう。彼女が家に入ってきただけで、雰囲気がぱっと明るくなったように錯覚したのは、定めし私の気持ちが弱っていた証拠だろう。
短い談笑の最中、ハイリーは優雅に脚を揃えて座り、背筋を伸ばしてカップに口をつけた。
「アンデル、君が家でイェシュカを助けてくれているから、クラウシフも安心して仕事に打ち込めているんだ。あいつは君に甘えてるんだよ。そして、信頼して任せている。……君がいてくれてよかった。イェシュカを守ってくれて、ありがとう」
ちょうどクラウシフは、マルート鋼の案件がまとまりかけ、忙しい時期だった。執務があることを言い訳に家に帰らない日が続いていた。国の命運をかけた大仕事だ、そのくらいのことはあっても仕方がなかっただろう。
しかし自分の息子達にも会いに行かない、病気の妻の様子を確認もしない。そのことに少なからず、私は腹を立てていた。イェシュカのことが好きだったし、私によくなついている子どもたちは可愛かった。だから、それらをないがしろにされていると感じた。
けれどももし、クラウシフが職務を投げ出し、イェシュカと子どもたちにかかりっきりになってしまったら、シェンケルの家は面目も丸つぶれになっていただろう。その上、マルート鋼の話がうまくまとまったとしたら、シェンケルなしでもじゅうぶんやれると、議会から締め出しを食らったかもしれない。古参にして若造が当主を務めるシェンケルが、ヨルク・メイズのお気に入りであることを気にいらない人たちがかなり多くいるということを、日頃のやりとりで実感していた。その可能性はかなり高かったと思う。
わかってはいたが、疲れは判断力を鈍らせる。不満や不安を強くする。
なにより、私は疲れていたのだ、出口が見えないことに。きっと、誰かに悩みを聞いてほしかったのだが、その相手が身近にいなかった。ハイリーに労われてそのことに気づいた。ハイリーに肘を力強く叩かれたときに。
もうそのときにはすっかりハイリーより背が高くなり、肩幅も広くなっていたのだが、見上げてくる彼女の視線に励まされた。みっともないことに、鼻の奥がつんとしてしまった。さらにどうしようもないが、彼女を力いっぱい抱きしめたいと思ったのだ。その首筋に鼻先を埋め、彼女の肌の匂いを嗅ぎたいと。そうしたらこの孤独感を埋められるような気がしていた。
当然だが、成人していなくとも、そこそこいい年になった私が、挨拶でもないのに、昔のように気軽に彼女と抱擁することはできない。禁じられてはいないが、泣きつくのが恥ずかしくもあった。だから、励ますように腕に添えられていた彼女の手の甲を、上からそっと押さえることでその代替とした。
手袋をしていないハイリーの手は、多少ごつごつしていたものの、すっぽり私の手の中に収まる大きさだった。そっと握ってみたら、驚かせてしまったのか、節のはっきりした指がぴくりと跳ねた。不思議なのは、傷一つないその手はちゃんと職務に適した形になり、剣や槍を持つときにできるたこがあったことだ。彼女の身体が判定する外傷とそうでない変化の線引きはどこなのだろう。つい、地が出てそんなことを考えてしまう。
きゅっと手を握り返され、我に返った。とたんに首筋が熱くなる。
ハイリーが頑是ない子供を見るような目をこちらに向けていた。揺れた茜色の髪から、なじみのあのシトロンの香りがただよっている。私がぎこちなく微笑むと、ハイリーも頬を緩め――しばらくぶりに私は深く息を吸うことができた。
できれば一秒でも長くこのときが続いてほしいと、心の底から願ったのだ。だからこそ別れのときは、身を裂かれるような心持ちだった。
お願いだからハイリー、手紙が届いたら返事を送ってほしい。そう言うのが精一杯だったが、本当は引き止めたかった。
後日、ハイリーの次兄が亡くなり、シェンケルの代表として私が葬儀に参列した。涙ひとつこぼさず胸を張って兄の戦没を名誉と振る舞うハイリーを抱きしめたい衝動に駆られたが、そのときもその願いは叶わなかった。
◆
その日、私は家の中をうろうろしていた。記憶は定かではないが姿を消したイェシュカを探していたんだと思う。彼女は徘徊することがあった。ともかく、私は温室のドアが開いていることに気づいてしまった。
どろりと蕩けた夕日から、赤みの強い黄色の光が照射された温室内は、むせ返るほどの青臭さが充満していた。嗅ぎ慣れているはずの植物のにおいが、どうしてか耐え難いほどきつく感じた。
ガラスのドアを閉めようとし、ぱっと顔をあげた先にイェシュカがいた。
温室には、幅の細い橋が高い位置に渡されていて、はしごを使えばその上に登れる造りになっている。手すりも備わっていたが、それは気休め程度で、大人がその気になれば簡単に乗り越えられるようなものだった。
イェシュカは橋の手すりに腰をおろし、白い綿の寝間着の裾がめくれることも気にせず、幼女のように脚をぱたぱたさせ、虚空を見つめていた。眼窩は落ち窪み、肌は青白くかさつき、頬はこけてやせ細ってしまった彼女は、もしいま強風が吹いたら紙のように飛ばされてしまうだろうと予感させるほど、生気が希薄だった。
「イェシュカ、危ないよ、迎えに行くからそこでじっとしていてね」
「あら、アンデル……」
彼女を刺激しないよう、私はなるべく落ち着いた声でそう呼びかけた。緊張して、心臓が痛いほど速く鼓動しているのに。
イェシュカは突然、くしゃりと顔を歪め泣き出した。
「……アンデル、怖いの、私。でもなにが怖いのかわからないの。言葉にしようとするとできない。話し方がわからなくなってしまうの。どうして? でも、だから、手紙を、……あのひとがいないときだったら、……あな、あなたがいないときだったら、書ける……書け、書ける……」
「イェシュカ! 危ないっ」
ずるりと手すりから滑り落ちてきた彼女を抱きとめようと、私は無我夢中で落下予測地点に滑り込んだ。
だが自分の腕を折っただけで、イェシュカのことは助けられなかった。
口をぽかんと開け、うつろな目をしたイェシュカは、頭部からおびただしい血を流していて、私が大慌てでそこを手で圧迫し止血しようとしても間に合わなかった。張り出して作られていた水路のタイルの壁に頭から激突したのだ。
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