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#29 ハイリー 望まぬ変化
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アンデルが中等部にあがってきて、学舎での楽しみが一つ増えた。
身の丈に合わない制服の裾と袖を折り曲げて、とことこ歩いているアンデルを見かけると、必ず声をかけた。すると彼はそれまでぼんやりしていた目をぱっと明るくして、真っ白な頬を赤くしてかけよってくるのだ。彼はこの可愛らしさで、高学年の女子生徒の人気を集めている。
黒くて柔らかなくせのある髪、真っ白な肌に赤い唇。どこか物憂げで中性的な顔立ちは、まだ男臭さがなくて単純に愛らしい。髪を撫でるとウサギの被毛のようにふわふわである。
「ハイリー、次はいつみんなとうちに来るの?」
アンデルがこちらをじっと見詰めて首を傾げた。そよ風に、周囲の丈の高い草がなびく。
近道になるからと通った研究棟と本棟に繋がる裏庭で行きあったのだ。いつもひとりでいる彼が、少し心配である。同じ年頃の他の子と話題が合わないのだろうか。
アンデルの言うみんなは、それぞれの卒業後の進路の調整でなかなか時間がとれない。それを察しているからか、アンデルはしつこくねだったりはしなかった。彼が胸に抱える分厚い図鑑は、私の学年の人間でもめったに手に取らないようなかなり本格的なものだ。この子は賢い。勉学ができるだけではなくて、それとなく人の心の機微を読むのだ。クラウシフも鈍くはないだろうが、わかっていながらあえて自分の主張を押し通してくる図々しさがある。この子は逆に、相手の顔色をよく見ていて、加減しているところがあった。わがままを押し通せなくて、期待しているけれど言えないともじもじしているところをさっと推し量ってあげると、顔を輝かせてぴょんぴょん跳ねるような足取りになるところが本当に可愛いのだ。
しばらく予定が詰まっているなと頭のなかで確認していたら、アンデルが期待しているような寂しそうな複雑な顔で私のことをじっと見詰めてきた。この黒くてきらきらした星空みたいな目で見られると弱い。ついつい先回りして彼の要望を拾いあげたくなる。
「わかった、来週はまだ予定が空いているからうちにおいで。なにかしたい遊びをしよう」
「いいの?」
ぱあっと頬に朱が差して、アンデルの頬にえくぼができる。
「お話を聞かせてほしい……ううん、やっぱり、乗馬を教えて」
「いいとも。しかし、馬だったらクラウシフの方が得意なのでは?」
「ハイリーのほうが教えるの上手だから……」
「そうだろうな」
クラウシフは自分ができる人間だから、説明が雑だ。みんながそれで分かると思っている。組んで成果物を提出するような講義のとき、まわりが振り回される傾向がある。だから私は彼と班を組みたくない。あっちが気安いからか私を組み入れようとしてくるので、毎回攻防になってしまうのだが、女子で固まってしまえば崩せない防壁になることを近頃学習したのだ。
ふと、イェシュカのいうクラウシフと私の噂というものが頭に浮かんで、瞬時に脳内から追い出した。自然と口がへの字になる。
「ハイリー?」
「いや、なんでもないよ。ではアンデル、来週な」
「うんっ」
私が小指を差し出すと、アンデルはますます笑みを深くして、細くて白い指を絡めてきた。
翌日、アンデルが遊びに来ることを聞きつけたクラウシフに、どうしてか長兄に取り次ぎを頼まれた。用件を聞いても「男同士の秘密だ」なんて気持ちの悪い言葉ではぐらかされてしまった。忙しい長兄に予定を調整してもらった私に感謝してほしい。
◆
――私、どうしたんだろう。
目を開けたときに最初に追いついた感覚は痛覚で、それはもはやおなじみのものだった。数回まばたきをし、頭が動き出す。
たしか、クラウシフやアンデルと遠がけに来て、それで――死霊に切られたのだ。胸骨まで到達する深い傷に、どうにもならず意識を手放し、これは流石に死ぬなと安堵と諦めを持ったところまでは覚えている。
はっとなり周囲を見回すが死霊はもういなかった。
体を起こせば、シェンケル兄弟が化物を見るような目をしていた。そういえば、実際に私のギフトを見せるのは、長い付き合いの中でも初めか。ああ、テリウスの首が落ちたところをはじめて見た私も、きっとこんな顔だったのだろう。
「ハイリー! よかったぁ……っ」
「アンデル……、大丈夫だよ、大丈夫」
アンデルが飛びついてきた。その衝撃で、激痛が脳髄を焼いて身をこわばらせた。すぐに和らいでくる。
まだまだ子供の温かな体が気持ちいい。ああよかった、気持ち悪いとか怖いと思われなくて。彼を死霊の毒牙から守れたことがなにより嬉しかった。ただ、立ち回りは及第点ではないなと自らを戒める。テリウスに稽古を増やしてもらうべきか?
アンデルの柔らかで滑らかな愛玩用のうさぎの被毛のような髪を櫛った。慰めるために。
「この通り私は元気だ、泣くのをお止め」
アンデルは泣き止まない。白い頬に擦り傷があったが、他に怪我はなさそうだ。日なたの干し草の香りがする柔らかな髪の毛に顎を埋め、私は彼をぎゅっと抱きしめた。
ところが、その抱擁を邪魔する者がいた。アンデルとの間に太い腕をねじ込んで私を背後に引き寄せたのはクラウシフだ。服が裂けてしまった私を気遣ったか、草の上に広げていた敷布で隠すように、背中から抱き込まれた。
珍しく気が利くじゃないかと軽口を叩こうとしたのだが――いつになっても解放されない。先程血を撒き散らしてベタついている私の肩口に熱いものが押し当てられ、それがクラウシフの鼻先だと、首を傾けようやく察した。
最前、一瞬ほど止まっていた心臓が大きく跳ねた。まだ動ける、と主張するような強さで血を全身に送り出し、の指先まで熱くさせる。
クラウシフの腕は私のものとは全然違った。力の強さも熱さも。テリウスとも違う。組み合って殴り合いになったときに痛みだけを与えてくる、冷えていて剛力を宿す強い腕とは。温かで、テリウスのものより細いのに、安堵する。なのに落ち着かない。脅威を感じているわけではなくて、……とにかく落ち着かない。でも逃げ出したいわけではない。きっとこの腕は私を傷つけたりしない、と思う。
理解の範疇を越えた感情に硬直した私を、さらに一度きつく抱きしめたあと、クラウシフは身を離し、こちらを見ないで言った。
「帰るぞ」
クラウシフは私の背に手を添え自分の馬にいざなった。拘束力などないに等しいその手をなぜか振りほどけない。
君の席はあっちだと、たどたどしい動きでひとり手綱を引いているアンデルの方を指し示しても、クラウシフはそれを無視した。
今のお前はアンデル以下だと言われたようでなんだか腹立たしい。アンデルには失礼だが。
ところが彼のその判断は正しかったのだ。めまいがひどくて一人で鞍に乗るのも辛かった。
心臓は血液が足りないからか、まだ早鐘のように鳴っていて、クラウシフにそれを勘づかれたくない一心で預けた背中が密着しないように心がけていたのに、彼がそれを許さなかった。体が浮くと、ネコの親が子の襟首を噛んで引き寄せるように、私の肩を掴んで強制的に自分の体に寄りかからせるのだ。
たしかに貧血特有のだるさがある。大きな負傷のあとはいつもこうだ。
いつの間にか私は、馬上にもかかわらずうとうとしてしまった。クラウシフの巧みな馬術のおかげか。その間ずっと、彼が私を馬の背から落ちないように捕捉してくれていたのだと知って、鞍を降りる時に非常に気まずく――そわそわしてしまった。こともあろうか腰を掴まれて支えられての着地。これではまるでただの令嬢だ。軽々持ち上げられたことも私の矜持を傷つけた。
別れ際、アンデルを宥めた。随分思いつめている様子だったが、結果的に誰も犠牲にならずに済んだのだ。次から気をつけてくれればいい。むしろ私はアンデルが無事でよかった。そう言ったのだが、ちゃんと伝わっただろうか。
体を清め、早々にベッドに入ったものの、体調が万全でもないくせに寝付けず、朝まで輾転反側することになってしまった。ついクラウシフの呼吸や腕の強さを思い出してしまう。忘れようとしても気づけばその事ばかり考えてしまって、誰にも胸の内などわからないのに、気恥ずかしくてたまらなくなる。
朝日がカーテンの隙間から差し込んだので起床したのだが、母から今日は学舎を休んで体をいたわりなさいと叱られ、また部屋に逆戻りすることとなった。
◆
講義の後の講堂、ほかの学生はみんな捌けてしまって私とイェシュカだけがぽつんと残っている。
文学の、男子も女子も関係なく受講する講義の間、私は上の空だった。このところずっとそうだ。ついついもう十日も前のあの日のことを思い返しぼうっとしてしまう。講師に指名されたときはうまく返答できず、体調を心配される始末だ。
チュリカを真似てつくられたプーリッサの教育制度は形骸であって意味がないと批判もされるらしいが、私の態度はそんな意見を体現してしまっているのだろうか。
本筋の勉学に集中できずそのようなよけいなことを考えていたら、長机の反対側の椅子に腰を下ろしたイェシュカが私の顔を覗き込んできたのだ。とてもうれしそうに。
彼女は鳶色の髪をゆるく巻いて結い上げ、制服の紺色のスカートを花弁のように広げて椅子に座っている。
「あなたずっとため息ばかりね。……クラウシフとなにかあった?」
ほらきた。
あの裏庭でビットとのキスを目撃した日から、ことあるごとにイェシュカはその話題を持ち出す。それで変に意識させられているのだ。
「とくには」
「本当に? クラウシフも様子がおかしいから、あなた達の間でなにかあったんだと思っていたわ」
「クラウシフが?」
「そうよ。……とっつきにくいというか、ぴりぴりしてるでしょう。気づいてない? あなたたち、もしかしてけんかでもした?」
「彼と言い争うなんて珍しくもないよ」
私の苦笑に、イェシュカはぷうっと頬を膨らませた。
「そういうんじゃないわ。もっと思いつめているというか……。みんな心配しているのよ」
「面白がってる、の間違いではないか」
彼女がなにか言葉を発しようと口を開けたタイミングで、それより早く声がかかった。
「ハイリー、今いいか」
振り返る前に、誰かわかる。
背後の、講堂の入り口に立っていたのはやはりクラウシフで、いつものにやにやをひっこめて、しかつめらしい顔をしている。
ああ、もしかしたら先日の謝罪かもしれない。私は立ち上がった。
「ごめんイェシュカ、また明日」
イェシュカは私たちの顔を交互に見たあと、朗らかに手を振ってくれた。
◆
講堂を出て図書館棟へ向かった。その三階の廊下の先の階段にたどり着く。ともに無言だ。私はクラウシフの広い背中を追いかけ、螺旋状になっている階段を一段一段上り、青空の下の屋上へ顔をだした。
雲がちぎれながら流れていく。下を見れば、低木に囲まれた学舎の敷地の半分が見渡せた。学生たちが歩いている姿も見える。その先に広がる首都プレザの街並みもわずかに見え、気持ちのいい景色だった。反対側は、背の高い物見塔――有事の際に使用される鐘が屋上にあり、五階建て――の苔むした石の外壁が邪魔で他に何も見えない。
大きめの石が敷き詰められている屋上の灰色の床には、私とクラウシフの濃い影が落ちている。ほかに人はなく、風の音がよく聞こえた。
クラウシフはぐるりと周囲を確認すると、かすかに笑みらしいものを作ったがまたすぐ真顔になった。
「先日は、本当にすまなかった。きちんと謝らねばと思いつつ、なかなか言い出せなくて」
「君の父上から正式に我が家に詫び状とその品が届けられたよ。私も父も、もちろん兄たちも、ただの事故だと納得しているから、そんなに気にしないでいい」
本当は、兄は相当腹を立てていたし、父も付き合いがあるからと無理矢理溜飲を下げたようだ。シェンケルは子供の教育をどうしているのだ、と。たしかに、死霊に斬られたのが私でなければ最悪の結末に至っただろうが、そうならなかったんだからいいじゃないか。子供一人を助けられたことを誉れに思えばいい。
「そうであれば、ありがたいんだが」
「それより、アンデルは元気になった? 気にしているようだったから心配で」
「まあ……いずれ立ち直るさ。こちらの監督不行き届きだった、今後は気をつける」
「そうしてくれ。あの子はきちんとわかっていると思うが、もしまた同じことがあったら、あの子自身が怪我をすることになる」
「お前はアンデルのことばかり心配するんだなあ」
こらえきれないというように破顔したクラウシフは、いつもの彼だった。
私も肩の力が抜けた。
「そりゃあ心配にもなるさ。君や私と違ってあの子は繊細だし。私にとっては可愛い弟のようなものだ」
「本人に言うなよ、ショックを受ける」
「なんで」
なぜ好意を向けられてショックを受けるのか。いつだってアンデルは私の抱擁を喜んで受け入れてくれていたように思うのに。
クラウシフは理由を語らず肩をすくめた。
「それより、今日は別件で呼んだんだ」
「そうなのか? てっきり今の謝罪が用件かと思っていた。……ははあ、さては君、また兄上への取り次ぎか。残念ながら兄上は一昨日前線に向かったよ、だが父上が入れ替わりで――」
「違う、用があるのはお前……あなただ」
急に改まった呼び方をされ、私は目を白黒させた。
その私の手を掴んでクラウシフは跪く。目がそれを追いかけ、剣の打ち合いをしているときと同じ真剣な眼差しとつい視線を合わせた。
「ハイリー・ユーバシャール、俺と結婚してくれ」
風の音や衣擦れの音、自分の呼吸音のすべてが一瞬遠のいて頭の中がぽんと空白になった。
その先の言葉を発する許可を待つように、クラウシフは跪いている。ゆるい手の拘束から抜け出そうと思いながらも、私は金縛りにあったように動けずにいた。
身の丈に合わない制服の裾と袖を折り曲げて、とことこ歩いているアンデルを見かけると、必ず声をかけた。すると彼はそれまでぼんやりしていた目をぱっと明るくして、真っ白な頬を赤くしてかけよってくるのだ。彼はこの可愛らしさで、高学年の女子生徒の人気を集めている。
黒くて柔らかなくせのある髪、真っ白な肌に赤い唇。どこか物憂げで中性的な顔立ちは、まだ男臭さがなくて単純に愛らしい。髪を撫でるとウサギの被毛のようにふわふわである。
「ハイリー、次はいつみんなとうちに来るの?」
アンデルがこちらをじっと見詰めて首を傾げた。そよ風に、周囲の丈の高い草がなびく。
近道になるからと通った研究棟と本棟に繋がる裏庭で行きあったのだ。いつもひとりでいる彼が、少し心配である。同じ年頃の他の子と話題が合わないのだろうか。
アンデルの言うみんなは、それぞれの卒業後の進路の調整でなかなか時間がとれない。それを察しているからか、アンデルはしつこくねだったりはしなかった。彼が胸に抱える分厚い図鑑は、私の学年の人間でもめったに手に取らないようなかなり本格的なものだ。この子は賢い。勉学ができるだけではなくて、それとなく人の心の機微を読むのだ。クラウシフも鈍くはないだろうが、わかっていながらあえて自分の主張を押し通してくる図々しさがある。この子は逆に、相手の顔色をよく見ていて、加減しているところがあった。わがままを押し通せなくて、期待しているけれど言えないともじもじしているところをさっと推し量ってあげると、顔を輝かせてぴょんぴょん跳ねるような足取りになるところが本当に可愛いのだ。
しばらく予定が詰まっているなと頭のなかで確認していたら、アンデルが期待しているような寂しそうな複雑な顔で私のことをじっと見詰めてきた。この黒くてきらきらした星空みたいな目で見られると弱い。ついつい先回りして彼の要望を拾いあげたくなる。
「わかった、来週はまだ予定が空いているからうちにおいで。なにかしたい遊びをしよう」
「いいの?」
ぱあっと頬に朱が差して、アンデルの頬にえくぼができる。
「お話を聞かせてほしい……ううん、やっぱり、乗馬を教えて」
「いいとも。しかし、馬だったらクラウシフの方が得意なのでは?」
「ハイリーのほうが教えるの上手だから……」
「そうだろうな」
クラウシフは自分ができる人間だから、説明が雑だ。みんながそれで分かると思っている。組んで成果物を提出するような講義のとき、まわりが振り回される傾向がある。だから私は彼と班を組みたくない。あっちが気安いからか私を組み入れようとしてくるので、毎回攻防になってしまうのだが、女子で固まってしまえば崩せない防壁になることを近頃学習したのだ。
ふと、イェシュカのいうクラウシフと私の噂というものが頭に浮かんで、瞬時に脳内から追い出した。自然と口がへの字になる。
「ハイリー?」
「いや、なんでもないよ。ではアンデル、来週な」
「うんっ」
私が小指を差し出すと、アンデルはますます笑みを深くして、細くて白い指を絡めてきた。
翌日、アンデルが遊びに来ることを聞きつけたクラウシフに、どうしてか長兄に取り次ぎを頼まれた。用件を聞いても「男同士の秘密だ」なんて気持ちの悪い言葉ではぐらかされてしまった。忙しい長兄に予定を調整してもらった私に感謝してほしい。
◆
――私、どうしたんだろう。
目を開けたときに最初に追いついた感覚は痛覚で、それはもはやおなじみのものだった。数回まばたきをし、頭が動き出す。
たしか、クラウシフやアンデルと遠がけに来て、それで――死霊に切られたのだ。胸骨まで到達する深い傷に、どうにもならず意識を手放し、これは流石に死ぬなと安堵と諦めを持ったところまでは覚えている。
はっとなり周囲を見回すが死霊はもういなかった。
体を起こせば、シェンケル兄弟が化物を見るような目をしていた。そういえば、実際に私のギフトを見せるのは、長い付き合いの中でも初めか。ああ、テリウスの首が落ちたところをはじめて見た私も、きっとこんな顔だったのだろう。
「ハイリー! よかったぁ……っ」
「アンデル……、大丈夫だよ、大丈夫」
アンデルが飛びついてきた。その衝撃で、激痛が脳髄を焼いて身をこわばらせた。すぐに和らいでくる。
まだまだ子供の温かな体が気持ちいい。ああよかった、気持ち悪いとか怖いと思われなくて。彼を死霊の毒牙から守れたことがなにより嬉しかった。ただ、立ち回りは及第点ではないなと自らを戒める。テリウスに稽古を増やしてもらうべきか?
アンデルの柔らかで滑らかな愛玩用のうさぎの被毛のような髪を櫛った。慰めるために。
「この通り私は元気だ、泣くのをお止め」
アンデルは泣き止まない。白い頬に擦り傷があったが、他に怪我はなさそうだ。日なたの干し草の香りがする柔らかな髪の毛に顎を埋め、私は彼をぎゅっと抱きしめた。
ところが、その抱擁を邪魔する者がいた。アンデルとの間に太い腕をねじ込んで私を背後に引き寄せたのはクラウシフだ。服が裂けてしまった私を気遣ったか、草の上に広げていた敷布で隠すように、背中から抱き込まれた。
珍しく気が利くじゃないかと軽口を叩こうとしたのだが――いつになっても解放されない。先程血を撒き散らしてベタついている私の肩口に熱いものが押し当てられ、それがクラウシフの鼻先だと、首を傾けようやく察した。
最前、一瞬ほど止まっていた心臓が大きく跳ねた。まだ動ける、と主張するような強さで血を全身に送り出し、の指先まで熱くさせる。
クラウシフの腕は私のものとは全然違った。力の強さも熱さも。テリウスとも違う。組み合って殴り合いになったときに痛みだけを与えてくる、冷えていて剛力を宿す強い腕とは。温かで、テリウスのものより細いのに、安堵する。なのに落ち着かない。脅威を感じているわけではなくて、……とにかく落ち着かない。でも逃げ出したいわけではない。きっとこの腕は私を傷つけたりしない、と思う。
理解の範疇を越えた感情に硬直した私を、さらに一度きつく抱きしめたあと、クラウシフは身を離し、こちらを見ないで言った。
「帰るぞ」
クラウシフは私の背に手を添え自分の馬にいざなった。拘束力などないに等しいその手をなぜか振りほどけない。
君の席はあっちだと、たどたどしい動きでひとり手綱を引いているアンデルの方を指し示しても、クラウシフはそれを無視した。
今のお前はアンデル以下だと言われたようでなんだか腹立たしい。アンデルには失礼だが。
ところが彼のその判断は正しかったのだ。めまいがひどくて一人で鞍に乗るのも辛かった。
心臓は血液が足りないからか、まだ早鐘のように鳴っていて、クラウシフにそれを勘づかれたくない一心で預けた背中が密着しないように心がけていたのに、彼がそれを許さなかった。体が浮くと、ネコの親が子の襟首を噛んで引き寄せるように、私の肩を掴んで強制的に自分の体に寄りかからせるのだ。
たしかに貧血特有のだるさがある。大きな負傷のあとはいつもこうだ。
いつの間にか私は、馬上にもかかわらずうとうとしてしまった。クラウシフの巧みな馬術のおかげか。その間ずっと、彼が私を馬の背から落ちないように捕捉してくれていたのだと知って、鞍を降りる時に非常に気まずく――そわそわしてしまった。こともあろうか腰を掴まれて支えられての着地。これではまるでただの令嬢だ。軽々持ち上げられたことも私の矜持を傷つけた。
別れ際、アンデルを宥めた。随分思いつめている様子だったが、結果的に誰も犠牲にならずに済んだのだ。次から気をつけてくれればいい。むしろ私はアンデルが無事でよかった。そう言ったのだが、ちゃんと伝わっただろうか。
体を清め、早々にベッドに入ったものの、体調が万全でもないくせに寝付けず、朝まで輾転反側することになってしまった。ついクラウシフの呼吸や腕の強さを思い出してしまう。忘れようとしても気づけばその事ばかり考えてしまって、誰にも胸の内などわからないのに、気恥ずかしくてたまらなくなる。
朝日がカーテンの隙間から差し込んだので起床したのだが、母から今日は学舎を休んで体をいたわりなさいと叱られ、また部屋に逆戻りすることとなった。
◆
講義の後の講堂、ほかの学生はみんな捌けてしまって私とイェシュカだけがぽつんと残っている。
文学の、男子も女子も関係なく受講する講義の間、私は上の空だった。このところずっとそうだ。ついついもう十日も前のあの日のことを思い返しぼうっとしてしまう。講師に指名されたときはうまく返答できず、体調を心配される始末だ。
チュリカを真似てつくられたプーリッサの教育制度は形骸であって意味がないと批判もされるらしいが、私の態度はそんな意見を体現してしまっているのだろうか。
本筋の勉学に集中できずそのようなよけいなことを考えていたら、長机の反対側の椅子に腰を下ろしたイェシュカが私の顔を覗き込んできたのだ。とてもうれしそうに。
彼女は鳶色の髪をゆるく巻いて結い上げ、制服の紺色のスカートを花弁のように広げて椅子に座っている。
「あなたずっとため息ばかりね。……クラウシフとなにかあった?」
ほらきた。
あの裏庭でビットとのキスを目撃した日から、ことあるごとにイェシュカはその話題を持ち出す。それで変に意識させられているのだ。
「とくには」
「本当に? クラウシフも様子がおかしいから、あなた達の間でなにかあったんだと思っていたわ」
「クラウシフが?」
「そうよ。……とっつきにくいというか、ぴりぴりしてるでしょう。気づいてない? あなたたち、もしかしてけんかでもした?」
「彼と言い争うなんて珍しくもないよ」
私の苦笑に、イェシュカはぷうっと頬を膨らませた。
「そういうんじゃないわ。もっと思いつめているというか……。みんな心配しているのよ」
「面白がってる、の間違いではないか」
彼女がなにか言葉を発しようと口を開けたタイミングで、それより早く声がかかった。
「ハイリー、今いいか」
振り返る前に、誰かわかる。
背後の、講堂の入り口に立っていたのはやはりクラウシフで、いつものにやにやをひっこめて、しかつめらしい顔をしている。
ああ、もしかしたら先日の謝罪かもしれない。私は立ち上がった。
「ごめんイェシュカ、また明日」
イェシュカは私たちの顔を交互に見たあと、朗らかに手を振ってくれた。
◆
講堂を出て図書館棟へ向かった。その三階の廊下の先の階段にたどり着く。ともに無言だ。私はクラウシフの広い背中を追いかけ、螺旋状になっている階段を一段一段上り、青空の下の屋上へ顔をだした。
雲がちぎれながら流れていく。下を見れば、低木に囲まれた学舎の敷地の半分が見渡せた。学生たちが歩いている姿も見える。その先に広がる首都プレザの街並みもわずかに見え、気持ちのいい景色だった。反対側は、背の高い物見塔――有事の際に使用される鐘が屋上にあり、五階建て――の苔むした石の外壁が邪魔で他に何も見えない。
大きめの石が敷き詰められている屋上の灰色の床には、私とクラウシフの濃い影が落ちている。ほかに人はなく、風の音がよく聞こえた。
クラウシフはぐるりと周囲を確認すると、かすかに笑みらしいものを作ったがまたすぐ真顔になった。
「先日は、本当にすまなかった。きちんと謝らねばと思いつつ、なかなか言い出せなくて」
「君の父上から正式に我が家に詫び状とその品が届けられたよ。私も父も、もちろん兄たちも、ただの事故だと納得しているから、そんなに気にしないでいい」
本当は、兄は相当腹を立てていたし、父も付き合いがあるからと無理矢理溜飲を下げたようだ。シェンケルは子供の教育をどうしているのだ、と。たしかに、死霊に斬られたのが私でなければ最悪の結末に至っただろうが、そうならなかったんだからいいじゃないか。子供一人を助けられたことを誉れに思えばいい。
「そうであれば、ありがたいんだが」
「それより、アンデルは元気になった? 気にしているようだったから心配で」
「まあ……いずれ立ち直るさ。こちらの監督不行き届きだった、今後は気をつける」
「そうしてくれ。あの子はきちんとわかっていると思うが、もしまた同じことがあったら、あの子自身が怪我をすることになる」
「お前はアンデルのことばかり心配するんだなあ」
こらえきれないというように破顔したクラウシフは、いつもの彼だった。
私も肩の力が抜けた。
「そりゃあ心配にもなるさ。君や私と違ってあの子は繊細だし。私にとっては可愛い弟のようなものだ」
「本人に言うなよ、ショックを受ける」
「なんで」
なぜ好意を向けられてショックを受けるのか。いつだってアンデルは私の抱擁を喜んで受け入れてくれていたように思うのに。
クラウシフは理由を語らず肩をすくめた。
「それより、今日は別件で呼んだんだ」
「そうなのか? てっきり今の謝罪が用件かと思っていた。……ははあ、さては君、また兄上への取り次ぎか。残念ながら兄上は一昨日前線に向かったよ、だが父上が入れ替わりで――」
「違う、用があるのはお前……あなただ」
急に改まった呼び方をされ、私は目を白黒させた。
その私の手を掴んでクラウシフは跪く。目がそれを追いかけ、剣の打ち合いをしているときと同じ真剣な眼差しとつい視線を合わせた。
「ハイリー・ユーバシャール、俺と結婚してくれ」
風の音や衣擦れの音、自分の呼吸音のすべてが一瞬遠のいて頭の中がぽんと空白になった。
その先の言葉を発する許可を待つように、クラウシフは跪いている。ゆるい手の拘束から抜け出そうと思いながらも、私は金縛りにあったように動けずにいた。
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