上 下
65 / 122

#63 クラウシフ 追い打ち

しおりを挟む
 私、ちゃんとできるかしら。

 泣き腫らした目をして、うつむいてぽつりつぶやくイェシュカに、深く口づけてきつく抱きしめた理由は、その悲しみに寄り添って励ますためだけじゃなかった。

 彼女に俺が自分の手で、あの首飾りをつけてやった。赤く輝く石をぼんやり見下ろしたあと、イェシュカは目をつぶって落ち着こうと深呼吸を繰り返していた。

 ビットのことを聞いて動揺したイェシュカは、それをはじめ俺には隠そうとしていた。だが、気づかないわけがない。

 彼女は、ビットに未練があるわけじゃないの、と一生懸命弁解していた。それはどうでもいい。もしそうだったとして、俺にイェシュカを責める権利はない。まったくない。

 俺が心配していたのは、そんな精神的に参っているイェシュカを城に連れて行かなければならないことだった。
 妻の調子が悪いので、と本当の理由で断りをいれたのだが、当日朝、ヨルク・メイズからの迎えがやってきた。丁寧に、なにかあったときのためにと医師まで車に同乗させてだ。何が何でも来いというつもりか。

 それを見て、イェシュカは、もし自分が断ったら俺がなにか不利益を被るのかもしれないと思ったらしい。自ら支度をはじめた。そうしておきながらも、不安を口にした。実際、よく眠れてなかったはずだ。ベッドで声を殺して泣いているのには気づいていた。

 ヨルク・メイズとの面会は、短時間で終わった。

 あれほどしつこく面会をねだったくせに、ヨルク・メイズはほとんどイェシュカに興味を示さなかった。当たり障りのない挨拶に、俺へのお世辞を少しだけ。
 イェシュカについてはただ一言「その美しい首飾りにふさわしい可憐さだな」と含み笑いで褒めてみせるにとどめた。それでおしまい。

 イェシュカの顔はこわばっていたし、明らかに調子が悪そうだったのに、それはまったく気づかなかったような素振りだ。むしろそれを面白がっているように見えたのは、俺の被害妄想か?

 退去時に、ヨルク・メイズと握手をした。その際に「学友の件は、残念だったな。だがハイリーが仇とばかりに手柄をあげたぞ」と馴れ馴れしく肩を叩かれた。イェシュカの前でビットの話はしないように気をつけていたのに。彼女は息を呑んで、身を硬くしていた。

 あの事件翌日の魔族討伐で、俺達の友人のビットが戦没したという情報を、どういうつもりで入手したのだろうか、この男は。前から目をつけていた? 俺にそうしたように。

 どちらが先だったのだろうか。事件に関連した死者に、俺の友人――ビットからしたら俺は元友人だろう――でイェシュカの元恋人が含まれていることを知ったのと、事件を起こそうとしたのと。
 いや、絶対に後者が先のはず。ビットが巻き込まれて死んだのは偶然だろう。さすがにそんなまわりくどい脅しをかけてくるほど、暇を持て余してはいない。そう思いたい。まさかどの部隊の人間が魔族の攻め手が厳しい場所に向かうかまで把握し操作できるわけもない。いくら国主でもだ。

 そうわかっているのに、さらに不安が強くなる。事件の後始末に向かったのが東軍だってことも織り込み済みだったのか、とか。それは前線基地周辺の結界だって緩めてやるという脅しなのではないかとか。こうやって、俺の妻に打撃を与えることなんて、間接的にだって簡単にできることなんだぞという証明なのか、とか。

 自分の思考に囚われて苦しくなるなんて、馬鹿げている。どれも俺が勝手に不安を増幅させているに過ぎない。おそらくは。そうわかっているのに、傷ついて涙を流しているイェシュカのやつれた姿を見ると、それがただの杞憂ではないような気になってしまう。俺の采配の失敗なのだと突きつけられた気になる。くそったれが。

 帰宅し、よそ行きのドレスのまま力なく座り込むイェシュカを、後ろから抱きしめて慰めながら、深く口づけた。彼女のドレスを丁寧に脱がしていく。

「クラウシフ……だめ……」

 弱々しく言うだけで、顔を手で覆ってそれ以上の拒絶をしないイェシュカを抱いて、少しだけ、彼女の記憶を操作した。ビットとの記憶を一部、隠蔽する。彼女自身からみつからないように。
 本来は、俺が踏み込んではいけない聖域。それを踏みにじるのは初めてではない。だからか、心的な抵抗は少なかった。俺も、イェシュカも。

 翌日に執り行われたビットの葬儀に、俺達は弔辞を送るにとどめた。イェシュカは悲しげな顔をして、適当な言葉を黙々と選んで書に認めていた。



 イェシュカは年の瀬には元気な男の子を出産し、体調の回復も順調だった。長男の名前は、ユージーンにした。イェシュカの希望だ。

 ユージーンの誕生を誰より喜んだのはアンデルかもしれない。なんだかこそこそユージーンの前で書き物しているので、気になってそろっと覗き込んだあいつの帳面には、細かな成長記録が付けられていた。

 ウマ、ウシ、イヌ、ネコ、それどころかムシまで、小さい頃から興味津々で観察対象にしていて、植物もその範疇内なのは知っていたが、意外にもニンゲンは観察したことなかったのな。予想以上にびっしり書き込まれたデータに、「えー……なにこいつ、ちょっと気持ち悪いんだが……」と引いた。
 まあ、なになにされるとユージーンは喜ぶとか、最近はこれがお気に入り、とかそんな記録は育児の参考にさせてもらったが、あまりに熱心に毎日相手をしている姿を見て、ほかに興味の対象はないのかと不安になったのだ。

 もう十三歳だし、異性とか。

 俺とはまったく性格の違うアンデルは、友達を家に呼んで大騒ぎすることもなければ、逆に友人に呼び出されて遠出したりもしない。一人でいることを好んでいる。人が嫌い、というわけではないようだが、女の子との浮ついた話は一切聞かない。
 
 ただし、想い人がいない……わけじゃないのはわかっている。アンデルが小遣いをやりくりして、無駄に高価な便箋と封筒を買い集め、せっせと手紙を書いて出しているのも把握している。

 イェシュカが、アンデルの誕生日に贈ったのが、珍しい発色のインクと、美しい便箋で、なぜその選択かと問うたら「恋文ってものは、中身だけじゃなくて見た目にもこだわってこそでしょう」とにっこりされたのだ。それで気になってアンデルの動向を見ていたら、あいつ、こそこそ手紙を誰かに出している。返信はある。喜びを隠しきれない様子で、バルデランが仕分けた手紙を胸に抱えて部屋に駆け込んでいくから。
 一度、封筒の宛名書きを見て、差出人を見るまでもなく、見覚えのある伸びやかな筆跡で、誰からの返信かすぐにわかった。

 そういえば、新月祭のときアンデルはハイリーと踊ったんだったか。年上の幼馴染に憧れての背伸び、あるいはハイリーへの慰めかと思っていたが、そんな遠慮だったり一過性の気持ちの暴走ではないのかもしれない。ハイリーがそれをどう受け取っているかはわからない。でも、憎からず思っているはずだ。クソ忙しいはずなのに、返信を寄越してるんだから。

 ハイリーの活躍は笑っちまうほどだ。快進撃という言葉がふさわしい。初陣で手柄をあげ、部隊を任されたあともトントン拍子に名を上げて、今じゃ街であいつの寸劇が演じられているほど。
 派手だからな、他の軍人の活躍に比べて。女で、ユーバシャールで、しかも若く美人だ。客寄せにはもってこい。
 だが、それだけで、街の劇団の演目に追加されたわけじゃない。

 ヨルク・メイズが言ったらしい。
 春の恒例行事で、劇団の建国の英雄譚の演目が終わった後、「なにか新しい演目が観たいな。勢いのある者のがいい……そうだ、ハイリー・ユーバシャールがいい」と。その直後に、ハイリーに騎士位が授与された。翼猫を少数精鋭で倒した大手柄を褒め称えるためにだったか? もはやなんの手柄だったかわからないくらい、あいつは魔族殺しに精通している。

 それでそのヨルク・メイズお気に入りの歴史ある劇団は、その年の秋口には『騎士姫剣勇譚』とかいう、殺陣を中心にした演目を完成させてヨルク・メイズの前で演じた。いたく気に入ったヨルク・メイズから劇団に褒章が届いて、その評判を聞きつけた劇場の主たちから特別に一般公開もしてほしいという声が相次ぎ、別の劇団もその公演を求めた。今じゃ人気の演目になっちまった。ハイリーのところにいくらくらい金が入ったんだろうか、と下世話なことを考えちまうくらいには、あちこちでその旗を見る。
 
 お前すごいやつだったんだな。俺がお前を守ろうだなんて、身の程知らず、不要な気遣いだった。背中にプーリッサ国民数十万の期待を背負って、魔族共を蹴散らしていく。その姿を想像すると、せいせいする。
 やっかみとくだらないしがらみを忘れさせてくれる。
 暗々裏に人の搦手をとろうとしてくるクソッタレども――味方のような顔をして、もっと目を向けるべきものにも気づかずに、合力すべきときにも足を引っ張ることに躍起になってるバカどもだ――に蓄積させられた俺の鬱憤を晴らしてくれる。
 血の匂いや苦痛の叫びの聞こえない安全地帯からそんなことを思うのは卑怯の極みだろうが、もっともっとお前の活躍を見せてくれと願ってしまう。

 そんな相手に恋をしているらしい弟が、想いを成就することがあるんだろうか。
 それを陰ながら応援しているらしい妻も、アンデルと二人でハイリーの話をしているときは、楽しそうだ。ただ、赤ん坊相手にする寝かしつけの物語にしては、刺激が強すぎる気もする。言葉がわからない今ならまだ情操教育には影響ないか?

 平和的なその二人の時間が、この先も続けばいいと願う。そして、もし、もしもだ。この先、アンデルの隣にハイリーがいてくれたら。もう随分前に失った、懐かしいあの時間が蘇る。尊くて、思い起こそうとすると頭の端が痺れるあの時間たち。

 だが、そこにはもうビットの姿はない。それが俺に現実をつきつける。

 ヨルク・メイズのいたずらが、イェシュカをはじめとして俺の大事なものを傷つける危険は高くなった。子供が産まれて単純に俺の守るものが増えたのと、俺自身がちょっとした昇進をしたから――それはつまり負う責任が増えたということで、素直に喜べない事態だ――、さらにはハイリーが目立ちすぎているから。

 アンデルの大好きなハイリーが、突き抜けて偉くなっちまえばいいんだが、今の中途半端に目立った状態は逆に危険だ。担ぎ上げられて死地に送られたりしないか、ヒヤヒヤさせられる。いつヨルク・メイズが思いつきで「それならハイリーを出せばいい」と前線の布陣に注文をつけるかわからない。そうなったとき、どこまで軍が「自分たちの仕事に口をだすな」とはっきり言えるかが問題だ。国主が頭ではない組織だが、結界の存続が直接的に影響する軍との利害関係は微妙なところである。そして、ちょいちょいヨルク・メイズがハイリーの話題をあげるということは、あの男、ハイリーのことを忘れてない。

 ヨルク・メイズとの楽しいお食事の最中にハイリーの話題がでると、つい俺への牽制か? と自意識過剰に警戒する。ビットのことがあったからこそ。

 理想は、軍がヨルク・メイズの影響下から抜け出てやっていけるように持っていくことだ。というか、それが強い国への第一歩だと感じる。

 属人的なギフトに国防を頼っている。奇跡だなんだと、求心力を国主に集めるのは、国としてまとまるのにある程度は許容されるべきだが、ヨルク・メイズが急に死んだら? メイズ家が全員奇病にでもかかっておっ死んだら(それはただの俺の願望だが)、この国は丸裸になるってんなら問題だろう。
 
 マルート鋼の輸入量が増えれば、軍は結界に頼らず魔族を捌ききれるようになるのではないか。それは近頃、軍事研究家たちがこそこそささやきあっていることだ。おおっぴらに発表したら差し障りがあると遠慮してるようだが、俺たち文官からしたらそういう情報こそ回してほしいもんだ。それを後ろ盾にしたら、あちこちとの交渉がやりやすくなる。

 宰相のじいさんなんかは、そんな分析が耳に入る前から、マルート鋼の輸入に注目してきたんだから、先見の明があるんだろうな。

 俺は全面的に、マルートとの国交を深めることに賛成だったし、この数年それだけに心血を注いできた。マルート鋼が入手しやすくなってメイズに頼らずにやっていけるようになったら、俺たちもくだらない過去のしがらみから逃れられる。

 あのおっさんが最低最悪の邪道でちょっかいかけてくるなら、俺は、外交担当の文官として職務を全うした上であいつを蹴落としてやると決めた。ビットのことがきっかけになったのは、言うまでもない。ねこそぎ権力を奪ってやる。結界がいらなくなったら、メイズなんてただのお飾りだ。

 成就まで時間がかかるのは承知の上。
 クソッタレメイズの排除と、強い国の形成のため、俺はマルートとの関係改善のために朝から晩まで走り回っていた。

 それは、大変だったが、どこか充実した日々でもあったんだ。
しおりを挟む

処理中です...