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#64 クラウシフ 雲隠れ
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条件のすり合わせ、交渉に次ぐ交渉、さらに交渉。持ち帰っての検討・精査・会議、会議、会議、決裁、差し戻し、決裁、差し戻し差し戻し差し戻し、決裁……。
年単位の気の遠くなるような下準備と手続きを経て、ようやくマルート鋼の部分的な輸入制限緩和の条約の締結までこぎつけた俺は、慢性的になってしまった疲労を供に、そして期待を胸にたくさん詰め込んでその日城に参じていた。
呼び出されたのは、マルート側の使者たちで、外交を受け持つ大臣たち。十五名。要人がずらり居並ぶ部屋は、普段とは内装を異にして、歓迎を示す赤い幕を壁に飾り、しかし粛々とこの大いなる歴史の転換点を見守ろうというように、ゆったりした椅子と机の配置になっている。
同じ大きさ、同じ意匠の立派な椅子が一組用意され、部屋の最奥に、でんと並べ置かれている。片割れに座るのは白い髭を短く刈り込み、日に焼けた顔をしかめた老人で、節くれだったその指を飾る指輪には、車輪を咥えた有翼熊の彫り込みが施されている。マルートの国旗にも描かれている熊だ。彼が使節の長にして、マルートの大臣のひとり、モーシティ。
大臣の隣の椅子は、もちろんヨルク・メイズのために用意されている。本来こちらが出向くべき案件であるが、城を出られないヨルク・メイズのためにあちら側に来てもらったという感謝と、それだけこの条約締結に重きをおいているのだという気持ちの表れでこういう配置になった。
そして、本来だったら事前にヨルク・メイズはその椅子に座っていて、大臣の入場と同時に立ち上がって歓迎の意を示すはずだった。
いつもはレクト・メイズに煩雑なものすべてを押し付けているヨルク・メイズが、頼まれる前から自分で調印すると言ったとき、さすがにこの男もマルート鋼が我が国に及ぼす影響は薄々感じ取っているのだろうなと安堵して、こうなることを予見しなかった俺が悪いのか。
調印の段になってすでに二時間、ヨルク・メイズは一向に姿を表さない。
マルートの大臣が、寛容さをアピールするための時間をとっくに使い果たし、目に見えて不機嫌になっている。短い間に連発する鋭いため息がその証拠だ。
――あいつ、どこへいった?!
冷や汗を流して、部下に城内の捜索を命じているのは宰相の爺さんだけではないはずだ。同じ部屋にいる連中はみな愛嬌振りまいて、近くに座るマルート側の使者に時間稼ぎの話を振り、その話の盛り上がらなさにさらに冷や汗をながしている。もう限界だ。
こんな行為が許されるわけないだろう。大事な調印式を、ホストである国主がすっぽかすなんて、この条約にこちら側が満足してないように思われてもおかしくない。国を上げた侮辱にほかならない。
「シェンケル殿、あまりよくない状況です。父はいったんここは仕切り直し、後日対応を考えたいと言い出しています」
こそこそ耳打ちしてきたのは、大臣の息子、アネト・モーシティだ。四十年配の、たくさん女を泣かせたろうなと思わせる顔立ちの、優男。急に耳元で囁かれ、俺は反射的に身を引きそうになった。生温い吐息が耳に掛かって寒気を催したからだ。失礼にならないよう、ゆっくりと顔をそちらに向ける。
こいつ、親切なのはいいんだが妙に距離が近くて苦手だ。今日も席次を変えて隣に座られたときは、うげ、と思った。だが今はそれがありがたい。
「こんなことをお願いできた立場ではありませんがモーシティ殿、お父上をあと少しだけ、引き止めてくださいませんか。きっとなにか理由があるのだと思うのです、確認してまいりますから」
「ええ、できるだけのことはしてみますが……」
なにか言いたげに秀麗な眉を寄せた男をその場に残し、俺は席を立つ。廊下に出た途端駆け足だ。運動不足? 知るか。
――あんのクソッタレ! どこほっつき歩いてやがる! 自由すぎるだろうが! 重要式典すっぽかすなんて、喜劇でしか許されねえからなっ!
口の中で罵詈雑言を吐きながら向かった先は、地下の神殿だ。案の定、いつものレクト・メイズの不景気面がそこにあった。
「陛下はこちらですか?! もうマルートの大臣が待てぬと」
「わからん。中から鍵は掛かっているが、返事はない。明け方陛下はこちらにこもられ、その後誰も出てきたところを見ていない」
「それはここにこもったままってことでしょうが」
不敬だろうがなんだろうがかまわない。あの男にやる敬意はとっくに品切れだ。
俺は神殿の分厚いドアを蹴っ飛ばした。レクト・メイズが顔をしかめたってかまうもんか。いつもどおり、代理で調印しちまえという宰相の言葉を遮って「それは道義に悖る」とかなんとか、自分で責任をとりたくないと部屋から出ていった男のことなんか知らん。あとで契約者が不適格だったとごねられたらそのときはそのとき、急場しのぎでもいいから気を利かせろよ。唐変木。ここにこぎつけるのがどれだけ大変だったか、あんたはわかってるだろうが弱腰かよ、と罵詈雑言が喉まで出かかっているんだ。
慌ててるときの正論ほど癇に障るものはない。
「陛下! ヨルク陛下っ! ご無事ですよね?! 開けてください、調印式の時間はとっくに過ぎてるんですよ、まさか溺れ死んでるんですか!」
せわしなくドアを叩いて大声を出しても、梨の礫。しんとした沈黙だけが返ってきた。
叩きつける拳が痛くなって、声が枯れて俺はようやく諦めた。
「クラウシフ・シェンケル。もうよせ。明日、仕切り直すことになった」
使いから伝言を受けたレクト・メイズが淡々とそう告げたから。
歯噛みする。今日、歴史が変わると期待に胸膨らませていた朝には、まさかこんな顛末になるとは予想もしなかった。がっくり肩を落とし、レクト・メイズと螺旋階段を登って地上に戻った。
俺が部屋に戻ったときには、マルートの大臣はすでに退室していて、マルート側ではアネトだけが残っていた。その彼も、俺に目礼すると何も言わずに退室した。
年単位の気の遠くなるような下準備と手続きを経て、ようやくマルート鋼の部分的な輸入制限緩和の条約の締結までこぎつけた俺は、慢性的になってしまった疲労を供に、そして期待を胸にたくさん詰め込んでその日城に参じていた。
呼び出されたのは、マルート側の使者たちで、外交を受け持つ大臣たち。十五名。要人がずらり居並ぶ部屋は、普段とは内装を異にして、歓迎を示す赤い幕を壁に飾り、しかし粛々とこの大いなる歴史の転換点を見守ろうというように、ゆったりした椅子と机の配置になっている。
同じ大きさ、同じ意匠の立派な椅子が一組用意され、部屋の最奥に、でんと並べ置かれている。片割れに座るのは白い髭を短く刈り込み、日に焼けた顔をしかめた老人で、節くれだったその指を飾る指輪には、車輪を咥えた有翼熊の彫り込みが施されている。マルートの国旗にも描かれている熊だ。彼が使節の長にして、マルートの大臣のひとり、モーシティ。
大臣の隣の椅子は、もちろんヨルク・メイズのために用意されている。本来こちらが出向くべき案件であるが、城を出られないヨルク・メイズのためにあちら側に来てもらったという感謝と、それだけこの条約締結に重きをおいているのだという気持ちの表れでこういう配置になった。
そして、本来だったら事前にヨルク・メイズはその椅子に座っていて、大臣の入場と同時に立ち上がって歓迎の意を示すはずだった。
いつもはレクト・メイズに煩雑なものすべてを押し付けているヨルク・メイズが、頼まれる前から自分で調印すると言ったとき、さすがにこの男もマルート鋼が我が国に及ぼす影響は薄々感じ取っているのだろうなと安堵して、こうなることを予見しなかった俺が悪いのか。
調印の段になってすでに二時間、ヨルク・メイズは一向に姿を表さない。
マルートの大臣が、寛容さをアピールするための時間をとっくに使い果たし、目に見えて不機嫌になっている。短い間に連発する鋭いため息がその証拠だ。
――あいつ、どこへいった?!
冷や汗を流して、部下に城内の捜索を命じているのは宰相の爺さんだけではないはずだ。同じ部屋にいる連中はみな愛嬌振りまいて、近くに座るマルート側の使者に時間稼ぎの話を振り、その話の盛り上がらなさにさらに冷や汗をながしている。もう限界だ。
こんな行為が許されるわけないだろう。大事な調印式を、ホストである国主がすっぽかすなんて、この条約にこちら側が満足してないように思われてもおかしくない。国を上げた侮辱にほかならない。
「シェンケル殿、あまりよくない状況です。父はいったんここは仕切り直し、後日対応を考えたいと言い出しています」
こそこそ耳打ちしてきたのは、大臣の息子、アネト・モーシティだ。四十年配の、たくさん女を泣かせたろうなと思わせる顔立ちの、優男。急に耳元で囁かれ、俺は反射的に身を引きそうになった。生温い吐息が耳に掛かって寒気を催したからだ。失礼にならないよう、ゆっくりと顔をそちらに向ける。
こいつ、親切なのはいいんだが妙に距離が近くて苦手だ。今日も席次を変えて隣に座られたときは、うげ、と思った。だが今はそれがありがたい。
「こんなことをお願いできた立場ではありませんがモーシティ殿、お父上をあと少しだけ、引き止めてくださいませんか。きっとなにか理由があるのだと思うのです、確認してまいりますから」
「ええ、できるだけのことはしてみますが……」
なにか言いたげに秀麗な眉を寄せた男をその場に残し、俺は席を立つ。廊下に出た途端駆け足だ。運動不足? 知るか。
――あんのクソッタレ! どこほっつき歩いてやがる! 自由すぎるだろうが! 重要式典すっぽかすなんて、喜劇でしか許されねえからなっ!
口の中で罵詈雑言を吐きながら向かった先は、地下の神殿だ。案の定、いつものレクト・メイズの不景気面がそこにあった。
「陛下はこちらですか?! もうマルートの大臣が待てぬと」
「わからん。中から鍵は掛かっているが、返事はない。明け方陛下はこちらにこもられ、その後誰も出てきたところを見ていない」
「それはここにこもったままってことでしょうが」
不敬だろうがなんだろうがかまわない。あの男にやる敬意はとっくに品切れだ。
俺は神殿の分厚いドアを蹴っ飛ばした。レクト・メイズが顔をしかめたってかまうもんか。いつもどおり、代理で調印しちまえという宰相の言葉を遮って「それは道義に悖る」とかなんとか、自分で責任をとりたくないと部屋から出ていった男のことなんか知らん。あとで契約者が不適格だったとごねられたらそのときはそのとき、急場しのぎでもいいから気を利かせろよ。唐変木。ここにこぎつけるのがどれだけ大変だったか、あんたはわかってるだろうが弱腰かよ、と罵詈雑言が喉まで出かかっているんだ。
慌ててるときの正論ほど癇に障るものはない。
「陛下! ヨルク陛下っ! ご無事ですよね?! 開けてください、調印式の時間はとっくに過ぎてるんですよ、まさか溺れ死んでるんですか!」
せわしなくドアを叩いて大声を出しても、梨の礫。しんとした沈黙だけが返ってきた。
叩きつける拳が痛くなって、声が枯れて俺はようやく諦めた。
「クラウシフ・シェンケル。もうよせ。明日、仕切り直すことになった」
使いから伝言を受けたレクト・メイズが淡々とそう告げたから。
歯噛みする。今日、歴史が変わると期待に胸膨らませていた朝には、まさかこんな顛末になるとは予想もしなかった。がっくり肩を落とし、レクト・メイズと螺旋階段を登って地上に戻った。
俺が部屋に戻ったときには、マルートの大臣はすでに退室していて、マルート側ではアネトだけが残っていた。その彼も、俺に目礼すると何も言わずに退室した。
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