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#92 サフィール 解呪のとき
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今となっては、祖国にあるのは苦くて辛い記憶ばかりだ。
それでも、自分の犯した罪を償わなければならない。
兄のように人を動かす仕事は無理だし、軍人だったハイリーのように国を守ることもできない。
私にできるのは、ひたすら、植物と向き合うことだけ。
ルジットに来た大きな理由。
ひとつは、兄が死ぬ前に、私と息子たちになにかあったら頼むと連絡してくれていたドニーに会うため。
もうひとつは、かつてプーリッサと同じように魔族の襲来に悩まされていたのに、もう百年ほど、魔族が目撃されていないここルジットで、その原因を突き止めるため。
ルジットの海岸沿いの次元のゆらぎがあったあたりを調べて、なにかわかれば、プーリッサがさらされている魔族の脅威を、緩和することもできるのではないか。私が殺してしまった男は、プーリッサの結界の要だった。だからこそ、それは私がやらなければ。
――後悔しているのか?
鮮血を髪から滴らせた、青い肌の男の冷ややかな問いに、私はなんて答えたか。
――今はまだわからない。
あの国にかけられた三英雄の呪いは、その末裔である私が解かねばならない。
◆
目的にあう場所を見つけるまでは、転居を繰り返すことになった。どの住居にも、いても五ヶ月だった。ある程度、標本を集め見切りをつけたら、引っ越しの時期だ。
私は、地図で目星をつけた場所に次の住処を決め、移動した。
子どもたちとは、三年、会ってない。いつも手紙には会いたいとか、会いに来てほしいとかそういった言葉が添えられていた。気持ちがゆらぎそうになるから、手紙を読むのには覚悟が必要だった。
手紙を運んできてくれるのは、ハイリーだ。引っ越しのたびに彼女は私の新居を見に来ては、子どもたちの手紙を置いていってくれる。そして私の書いた手紙を子どもたちに運んでくれるのだ。
彼女はドニーの家を出て、用心棒稼業で生活しているという。そういう職業を選ばないでほしいというのは、私のわがままであり、もちろん彼女に言ったことはないが、それで生傷をつくって訪問されたりすると、過剰に不安になってしまうのだった。
次々住処を替えて、十四軒目、その家はこれまでのものよりさらに古くて、ここ二十年、人が住んでいなかった。崖っぷちに建っているのだが、潮風や雨ににやられて、外壁の木はぼろぼろで、床も思い切り踏んだら抜けてしまいそうだった。街からも距離があるから、不便である。屋根があるだけまし――もし地震でも来たらおそらくはその屋根が私の墓標になるだろう――という造りだった。
灯台守の家族が暮らしていた小屋で、その灯台自体が移転したため、長年空き家だった。数年前に釣りのためにその家屋を買ったという持ち主に挨拶に行ったら「変わった趣味だねえ」と呆れられてしまった。すっかり変人扱いだ。否定はできない。
引っ越しを決めてすぐ、新しい家の場所をドニーに連絡したから、きっと数日でハイリーが来てくれるだろう。
問題は、どんどんドニーの家と距離が開いてきていることだ。今や、あそこから日帰りはできない。街までもかなり距離があるので、もし彼女が来てくれるなら泊まりになる可能性がある。
……いくら幼馴染とはいえ、未婚の女性を泊めるのはまずいのではないか? 街で待ち合わせして、近況報告をするのがよいのではないか。
あとから思いついて、急ぎの便でドニーの家に手紙を出したが、一足遅かった。
◆
新居への荷運びが完了した日。
太陽が傾きはじめ、掃除と荷解きが済んで、夕食のことを考えはじめたころ、ドアを叩く人がいた。
来客の予定など、もちろんない。
びっくりして玄関に走ってみれば、ルジットでは一般的な麦わらを編んだ帽子をかぶり、つま先のないサンダルを履いたハイリーが立っていた。柔らかそうな生地の生成りのワンピースは、色彩豊かな彼女によく似合っている。彼女は肩に、繊細なレース編みのショールを羽織って前を金細工のブローチで留めていた。
「やあサフィール。引っ越しお疲れ様。これ、ドニーからの引っ越し祝いと、子どもたちからの手紙だよ。あとは、街で美味しそうだったものを、いくつか」
「ありがとう、何度目の引越し祝いかなあ。毎回豪華になっていってる気がする。申し訳ない。
……それと、ハイリーごめんね、行き違いになってしまったんだね。手紙で、この家は遠いから街で落ち合おうって送ったんだけれども」
「そうなの? 失敗したなあ、私はどうもせっかちでいけないね」
彼女が背中にしょってきた荷物を受け取って、粗末な食卓の、やけにきしむ椅子の片割れを勧めた。そして彼女が持参してくれた果実酒の封を切る。
生水を飲むには、まず井戸を手入れしなければ。
到着して半日の、二部屋しかない新居をざっと見回して、ハイリーは感心したように言う。
「引っ越し慣れしたね、サフィール。もう荷解きも掃除もほとんど終わったんだね」
「どんどん持ち物が増えているから、荷解きは時間がかかるようになったよ。移動も大変で」
「成果はどう?」
「……わからないな。なかなかまだ手応えまではね」
苦笑してしまう。そう簡単に結果がでるはずがないとわかっていながら、こうやってハイリーとたまに会うと、弟たちとも会いたくなってしまうし、人里で暮らしたいという欲求も湧いてくる。
「そうだ、悪いんだが、今日はもう街まで戻っても夜遅くなってしまうから泊めてくれる?」
私は言葉に詰まった。
「ああ、恋人と間違われて困るというなら、大丈夫、ちゃんと帰るよ。夜道だって心配することはないさ、なにせ私は名うての用心棒だから」
「からかわないでよ……」
ため息が出てしまう。ごめんごめんとからから笑う彼女は、私が本気で傷ついているなんてこと、想像もつかないんだろう。
こうやって、転居のたびに様子を見にに来てくれるのだって、弟の面倒を見ている姉のつもりなんだと思う。
もしかしたら彼女も自分に好意をもってくれているのかと、都合の良いことを妄想することもあるが、いつも、私にはそんな資格もない、こうやって誰かが会いに来てくれることすら奇跡なのだと自分を戒めるのだ。
それでいて、何度もその妄想を繰り返すのだから、恋というものは厄介だ。彼女から、別の男の名前を聞くだけで、胸を掻きむしりたくなるような不安に苛まれる。会いたいといつも願っているのに、いざ会ってみると、いつ恋人や夫の話が彼女の口から飛び出るかと、不安でたまらない。
ただありがたいことに、私が恋をしている相手はハイリーで、こうして他に人のいない廃屋で一夜を共にすることが決まっても、間違いは起こらないだろうと断言できる。私が不埒な思いに負けて行動を起こしても、彼女ならそこの食卓に無造作に転がされたフォーク一本で、私を殺せる。そんな道具すらいらないかもしれない。
「私は庭の井戸の様子を見てくるから、くつろいでいて。夕食は、あなたが持ってきてくれたものを食べよう」
「一緒に行く。海が見たいんだ」
ハイリーは、私が転居するたびに海を見に行っていた。憧れていたという。プーリッサは海のない国だから、物語を聞いてどんなものかと想像を膨らませていて、実際に見たらその茫洋とした様に強く惹きつけられたと。
庭の裏手にある井戸はあらかじめ整備を依頼していたおかげで、思っていたよりも状態がよく、少しの手入れですぐに使えるようになった。ただし、家からちょっと離れているので移動が面倒だ。家の前に瓶でも置いて、雨水を貯め、飲水以外はそこから汲むようにしよう。
「サフィール、あれはなに。崖下に降りられるのかな」
海を見ていたハイリーが、ふと指さした。夕焼けが逆光になっていて気づきにくかったが、たしかにそこに縄梯子があって、崖下に続いていた。
「家主が、下で釣りをするためのはしごがあるって言っていたから、それだと思う」
「降りてみる? 宝物が隠されているかもしれない」
……目をキラキラさせて、子どもみたいなことを言う。彼女の子ども時代はきっとおてんばだったに違いない。今だってその片鱗が見え隠れしている。
「宝物……。そんな素敵なものがあるとは思えないな。
家主によると、このあたりは魔力が濃く満ちていて、獲れる魚も畸形が多くて、食べないほうがいいとか。貴金属の類も純金はともかく、ほかは腐食している可能性が高い。そもそも潮気が強いし」
だからこそ、私が仮の住処に選んだのだが。有用な標本を期待して。
「畸形魚かあ。それはそれで見てみたい」
「縄の具合を見てみる。結構古そうだね、大丈夫かな」
引っ張ったり片足をかけてみたりして、縄と、それを地面につなぐ金属の強度を確かめる。縄は古そうに見えたが丈夫で、私が乗ってもちぎれたりする様子はなかった。
「じゃあ、先に行くよ」
「待った。ハイリー、あなた、……その腕でそんな危険なことさせられないよ」
「大丈夫だよ、こういうのはちゃんと訓練を受けている」
「だめ。そういうことを言う人は結構な確率で失敗する。そもそも訓練を受けたのはいつの話? 同じ作業を定期的に確かめている? ここは潮風に煽られるし、高さがあるから途中で身動きが取れなくなったら登れもしないし降りられもしないなんてことになりかねない」
腕のことを指摘するのは、失礼かと思ったが、避けられないと判断した。ハイリーは下から睨むような視線を私に投げかけてくる。ただ、これに関しては譲る気はなかった。私は黙って彼女を見下ろす。
「わかった、わかった。諦めるよ。……もう」
拗ねさせてしまった。
彼女はつまらなさそうに踵を返し、家に戻ろうとする。
「じゃあ、私が様子を見てくる。自分の家がどうなっているかは興味もあるし、もしかすると先住者の忘れ物があるかもしれない」
「サフィール、大丈夫なの? 結構高さがあるよ。腕がしびれても自力で降りるか昇るかしないといけないんだよ」
「ハイリーって時々かなり無神経だ。私だってこのくらい、大丈夫だよ」
頼りなく見えることだろう。わかっていても、悲しくなる。これでも、長旅や一人暮らしで少しは鍛えられたと思う。
慎重に縄梯子を降りる。風が予想通り強く、強烈な夕日で作られた自分の影が、岸壁にくっきり投射されている。きつい。半分くらいまで降りて、ちょっと後悔した。だが、いずれは確かめなければならないことだ。標本を作るならば、行けるところにはすべて足を運ばないことには。
縄梯子を降りきると、同じ筋肉を連続で使い続けたせいで、腕がこわばっていた。
ごつごつした岩の上を、滑らないように気をつけて進みながら、周辺を探索する。
海藻以外の植物や動物の存在は確認できない。波は今、さほど高くない。こういう時を狙って、海中の状態も確認できるだろう。
ハイリーの期待の宝物はなかった。私の期待したものも。戻ろうか。
踵を返すそのときに、視界の隅に洞窟がうつった。私は身を屈めその中を覗き込んだ。明かりがなければ中は入れないだろうと思ったのだが、その考えは覆った。
洞窟内はぼんやりと明るい。蓄光するコケの存在は聞いたことがあるが、そういうものが壁に張り付いているんだろうか。
興味を惹かれて踏み込む。ここで、人食いの化物なんかが出てきたら、私は終わりだ。そんな子どもじみた妄想は、いつだか誰かから聞かされた冒険譚が元になっているんだろう。あれは誰から聞いた話だっただろう。とてもわくわくして、次が聞きたくて仕方なかった。
内部は天井も高く、私でも立って歩けるほどだった。左右に歩ける程度の幅の道があって、その真中には海に流れ込む小さな川がある。地下水か。天井にはつららのように岩が突き出ている。
進むにつれ、明かりはますます強くなって、目がちかちかしだした。コケではない。岩自体が発光しているように見える。青白い、不思議な光。これに近いのは、祝福の光、あるいは……魔石の。
「これは……」
ひときわ拓けた場所に出て、私は足を止めた。見渡す限り、花、花、花、花。日も当たらない、潮気の強いこの場所に、群生している。青白く光って、これは魔力の証?
ひざまずく前に、その花の種類には見当がついていた。
星霊花。
心臓がぐっと圧迫された。興奮しているのだ。私は、今とても興奮している。
星霊花がこれほど発光しているなんて。私が調べた数少ない例では、眩しいほど発光している個体はなかった。それがこんな群生して。ここはかなり強い魔力の吹き溜まりになっている場所なのだろう。
地図上では、このあたりが過去、魔族の出現位置として申告されていた、旧危険地帯に指定されている。魔族がでなくなって灯台ができたが、密入国の手引きをする灯台守が現れ断罪され、灯台はもっと国が管理のしやすい場所に移された。
来るのは物好きな釣り師くらいなもので、その釣り師も曰く有りげな洞窟には近寄らなかったのかもしれない。あるいは、珍しい花だな、くらいにしか思わなかったのかも。
私はひざまずいて、その花に触れた。
それでも、自分の犯した罪を償わなければならない。
兄のように人を動かす仕事は無理だし、軍人だったハイリーのように国を守ることもできない。
私にできるのは、ひたすら、植物と向き合うことだけ。
ルジットに来た大きな理由。
ひとつは、兄が死ぬ前に、私と息子たちになにかあったら頼むと連絡してくれていたドニーに会うため。
もうひとつは、かつてプーリッサと同じように魔族の襲来に悩まされていたのに、もう百年ほど、魔族が目撃されていないここルジットで、その原因を突き止めるため。
ルジットの海岸沿いの次元のゆらぎがあったあたりを調べて、なにかわかれば、プーリッサがさらされている魔族の脅威を、緩和することもできるのではないか。私が殺してしまった男は、プーリッサの結界の要だった。だからこそ、それは私がやらなければ。
――後悔しているのか?
鮮血を髪から滴らせた、青い肌の男の冷ややかな問いに、私はなんて答えたか。
――今はまだわからない。
あの国にかけられた三英雄の呪いは、その末裔である私が解かねばならない。
◆
目的にあう場所を見つけるまでは、転居を繰り返すことになった。どの住居にも、いても五ヶ月だった。ある程度、標本を集め見切りをつけたら、引っ越しの時期だ。
私は、地図で目星をつけた場所に次の住処を決め、移動した。
子どもたちとは、三年、会ってない。いつも手紙には会いたいとか、会いに来てほしいとかそういった言葉が添えられていた。気持ちがゆらぎそうになるから、手紙を読むのには覚悟が必要だった。
手紙を運んできてくれるのは、ハイリーだ。引っ越しのたびに彼女は私の新居を見に来ては、子どもたちの手紙を置いていってくれる。そして私の書いた手紙を子どもたちに運んでくれるのだ。
彼女はドニーの家を出て、用心棒稼業で生活しているという。そういう職業を選ばないでほしいというのは、私のわがままであり、もちろん彼女に言ったことはないが、それで生傷をつくって訪問されたりすると、過剰に不安になってしまうのだった。
次々住処を替えて、十四軒目、その家はこれまでのものよりさらに古くて、ここ二十年、人が住んでいなかった。崖っぷちに建っているのだが、潮風や雨ににやられて、外壁の木はぼろぼろで、床も思い切り踏んだら抜けてしまいそうだった。街からも距離があるから、不便である。屋根があるだけまし――もし地震でも来たらおそらくはその屋根が私の墓標になるだろう――という造りだった。
灯台守の家族が暮らしていた小屋で、その灯台自体が移転したため、長年空き家だった。数年前に釣りのためにその家屋を買ったという持ち主に挨拶に行ったら「変わった趣味だねえ」と呆れられてしまった。すっかり変人扱いだ。否定はできない。
引っ越しを決めてすぐ、新しい家の場所をドニーに連絡したから、きっと数日でハイリーが来てくれるだろう。
問題は、どんどんドニーの家と距離が開いてきていることだ。今や、あそこから日帰りはできない。街までもかなり距離があるので、もし彼女が来てくれるなら泊まりになる可能性がある。
……いくら幼馴染とはいえ、未婚の女性を泊めるのはまずいのではないか? 街で待ち合わせして、近況報告をするのがよいのではないか。
あとから思いついて、急ぎの便でドニーの家に手紙を出したが、一足遅かった。
◆
新居への荷運びが完了した日。
太陽が傾きはじめ、掃除と荷解きが済んで、夕食のことを考えはじめたころ、ドアを叩く人がいた。
来客の予定など、もちろんない。
びっくりして玄関に走ってみれば、ルジットでは一般的な麦わらを編んだ帽子をかぶり、つま先のないサンダルを履いたハイリーが立っていた。柔らかそうな生地の生成りのワンピースは、色彩豊かな彼女によく似合っている。彼女は肩に、繊細なレース編みのショールを羽織って前を金細工のブローチで留めていた。
「やあサフィール。引っ越しお疲れ様。これ、ドニーからの引っ越し祝いと、子どもたちからの手紙だよ。あとは、街で美味しそうだったものを、いくつか」
「ありがとう、何度目の引越し祝いかなあ。毎回豪華になっていってる気がする。申し訳ない。
……それと、ハイリーごめんね、行き違いになってしまったんだね。手紙で、この家は遠いから街で落ち合おうって送ったんだけれども」
「そうなの? 失敗したなあ、私はどうもせっかちでいけないね」
彼女が背中にしょってきた荷物を受け取って、粗末な食卓の、やけにきしむ椅子の片割れを勧めた。そして彼女が持参してくれた果実酒の封を切る。
生水を飲むには、まず井戸を手入れしなければ。
到着して半日の、二部屋しかない新居をざっと見回して、ハイリーは感心したように言う。
「引っ越し慣れしたね、サフィール。もう荷解きも掃除もほとんど終わったんだね」
「どんどん持ち物が増えているから、荷解きは時間がかかるようになったよ。移動も大変で」
「成果はどう?」
「……わからないな。なかなかまだ手応えまではね」
苦笑してしまう。そう簡単に結果がでるはずがないとわかっていながら、こうやってハイリーとたまに会うと、弟たちとも会いたくなってしまうし、人里で暮らしたいという欲求も湧いてくる。
「そうだ、悪いんだが、今日はもう街まで戻っても夜遅くなってしまうから泊めてくれる?」
私は言葉に詰まった。
「ああ、恋人と間違われて困るというなら、大丈夫、ちゃんと帰るよ。夜道だって心配することはないさ、なにせ私は名うての用心棒だから」
「からかわないでよ……」
ため息が出てしまう。ごめんごめんとからから笑う彼女は、私が本気で傷ついているなんてこと、想像もつかないんだろう。
こうやって、転居のたびに様子を見にに来てくれるのだって、弟の面倒を見ている姉のつもりなんだと思う。
もしかしたら彼女も自分に好意をもってくれているのかと、都合の良いことを妄想することもあるが、いつも、私にはそんな資格もない、こうやって誰かが会いに来てくれることすら奇跡なのだと自分を戒めるのだ。
それでいて、何度もその妄想を繰り返すのだから、恋というものは厄介だ。彼女から、別の男の名前を聞くだけで、胸を掻きむしりたくなるような不安に苛まれる。会いたいといつも願っているのに、いざ会ってみると、いつ恋人や夫の話が彼女の口から飛び出るかと、不安でたまらない。
ただありがたいことに、私が恋をしている相手はハイリーで、こうして他に人のいない廃屋で一夜を共にすることが決まっても、間違いは起こらないだろうと断言できる。私が不埒な思いに負けて行動を起こしても、彼女ならそこの食卓に無造作に転がされたフォーク一本で、私を殺せる。そんな道具すらいらないかもしれない。
「私は庭の井戸の様子を見てくるから、くつろいでいて。夕食は、あなたが持ってきてくれたものを食べよう」
「一緒に行く。海が見たいんだ」
ハイリーは、私が転居するたびに海を見に行っていた。憧れていたという。プーリッサは海のない国だから、物語を聞いてどんなものかと想像を膨らませていて、実際に見たらその茫洋とした様に強く惹きつけられたと。
庭の裏手にある井戸はあらかじめ整備を依頼していたおかげで、思っていたよりも状態がよく、少しの手入れですぐに使えるようになった。ただし、家からちょっと離れているので移動が面倒だ。家の前に瓶でも置いて、雨水を貯め、飲水以外はそこから汲むようにしよう。
「サフィール、あれはなに。崖下に降りられるのかな」
海を見ていたハイリーが、ふと指さした。夕焼けが逆光になっていて気づきにくかったが、たしかにそこに縄梯子があって、崖下に続いていた。
「家主が、下で釣りをするためのはしごがあるって言っていたから、それだと思う」
「降りてみる? 宝物が隠されているかもしれない」
……目をキラキラさせて、子どもみたいなことを言う。彼女の子ども時代はきっとおてんばだったに違いない。今だってその片鱗が見え隠れしている。
「宝物……。そんな素敵なものがあるとは思えないな。
家主によると、このあたりは魔力が濃く満ちていて、獲れる魚も畸形が多くて、食べないほうがいいとか。貴金属の類も純金はともかく、ほかは腐食している可能性が高い。そもそも潮気が強いし」
だからこそ、私が仮の住処に選んだのだが。有用な標本を期待して。
「畸形魚かあ。それはそれで見てみたい」
「縄の具合を見てみる。結構古そうだね、大丈夫かな」
引っ張ったり片足をかけてみたりして、縄と、それを地面につなぐ金属の強度を確かめる。縄は古そうに見えたが丈夫で、私が乗ってもちぎれたりする様子はなかった。
「じゃあ、先に行くよ」
「待った。ハイリー、あなた、……その腕でそんな危険なことさせられないよ」
「大丈夫だよ、こういうのはちゃんと訓練を受けている」
「だめ。そういうことを言う人は結構な確率で失敗する。そもそも訓練を受けたのはいつの話? 同じ作業を定期的に確かめている? ここは潮風に煽られるし、高さがあるから途中で身動きが取れなくなったら登れもしないし降りられもしないなんてことになりかねない」
腕のことを指摘するのは、失礼かと思ったが、避けられないと判断した。ハイリーは下から睨むような視線を私に投げかけてくる。ただ、これに関しては譲る気はなかった。私は黙って彼女を見下ろす。
「わかった、わかった。諦めるよ。……もう」
拗ねさせてしまった。
彼女はつまらなさそうに踵を返し、家に戻ろうとする。
「じゃあ、私が様子を見てくる。自分の家がどうなっているかは興味もあるし、もしかすると先住者の忘れ物があるかもしれない」
「サフィール、大丈夫なの? 結構高さがあるよ。腕がしびれても自力で降りるか昇るかしないといけないんだよ」
「ハイリーって時々かなり無神経だ。私だってこのくらい、大丈夫だよ」
頼りなく見えることだろう。わかっていても、悲しくなる。これでも、長旅や一人暮らしで少しは鍛えられたと思う。
慎重に縄梯子を降りる。風が予想通り強く、強烈な夕日で作られた自分の影が、岸壁にくっきり投射されている。きつい。半分くらいまで降りて、ちょっと後悔した。だが、いずれは確かめなければならないことだ。標本を作るならば、行けるところにはすべて足を運ばないことには。
縄梯子を降りきると、同じ筋肉を連続で使い続けたせいで、腕がこわばっていた。
ごつごつした岩の上を、滑らないように気をつけて進みながら、周辺を探索する。
海藻以外の植物や動物の存在は確認できない。波は今、さほど高くない。こういう時を狙って、海中の状態も確認できるだろう。
ハイリーの期待の宝物はなかった。私の期待したものも。戻ろうか。
踵を返すそのときに、視界の隅に洞窟がうつった。私は身を屈めその中を覗き込んだ。明かりがなければ中は入れないだろうと思ったのだが、その考えは覆った。
洞窟内はぼんやりと明るい。蓄光するコケの存在は聞いたことがあるが、そういうものが壁に張り付いているんだろうか。
興味を惹かれて踏み込む。ここで、人食いの化物なんかが出てきたら、私は終わりだ。そんな子どもじみた妄想は、いつだか誰かから聞かされた冒険譚が元になっているんだろう。あれは誰から聞いた話だっただろう。とてもわくわくして、次が聞きたくて仕方なかった。
内部は天井も高く、私でも立って歩けるほどだった。左右に歩ける程度の幅の道があって、その真中には海に流れ込む小さな川がある。地下水か。天井にはつららのように岩が突き出ている。
進むにつれ、明かりはますます強くなって、目がちかちかしだした。コケではない。岩自体が発光しているように見える。青白い、不思議な光。これに近いのは、祝福の光、あるいは……魔石の。
「これは……」
ひときわ拓けた場所に出て、私は足を止めた。見渡す限り、花、花、花、花。日も当たらない、潮気の強いこの場所に、群生している。青白く光って、これは魔力の証?
ひざまずく前に、その花の種類には見当がついていた。
星霊花。
心臓がぐっと圧迫された。興奮しているのだ。私は、今とても興奮している。
星霊花がこれほど発光しているなんて。私が調べた数少ない例では、眩しいほど発光している個体はなかった。それがこんな群生して。ここはかなり強い魔力の吹き溜まりになっている場所なのだろう。
地図上では、このあたりが過去、魔族の出現位置として申告されていた、旧危険地帯に指定されている。魔族がでなくなって灯台ができたが、密入国の手引きをする灯台守が現れ断罪され、灯台はもっと国が管理のしやすい場所に移された。
来るのは物好きな釣り師くらいなもので、その釣り師も曰く有りげな洞窟には近寄らなかったのかもしれない。あるいは、珍しい花だな、くらいにしか思わなかったのかも。
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