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#94 アンデル 過去に墜落する
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全身を、抵抗できない強い水流に揉まれるような感覚。
クラウシフの腕を掴んで意識を同調させた私は、その情報量に、そしてその内容に圧倒された。
暴こうしたクラウシフの記憶は、きらめく隧道のように見えた。ところどころ、派手な色に輝く目に鮮やかなそれ。自分から目を凝らさなければその輝きの意味を理解することができないはずなのに、突然、それは敵意を剥き出しにしたように私に襲いかかってくる。
暴力的なまでの勢いで私の意識に潜り込んでくる記憶たち。そのどれもが、私に苦痛を訴えかけてくる。
イェシュカのこと、仕事のこと、ハイリーとのことに、ヨルク・メイズとのこと――。
これはすべて現実に起こったこと?
そう問いただしたかったのに、意識を現実に向ければ、私の口は兄の大きな手で塞がれ、言葉を発することができない。
兄の、冷酷な目がこちらを見つめている。誰にも助けを求められず傷ついた獣のような、それでも活路を探し続けている男。
――待って兄さん、僕の話を聞いて。
口内に、かすかな血の味がしている。飲み込んではいけないとわかっている。それなのに生理的な反射で、喉がゴクリと動いてしまう。
「アンデル。ハイリーが来るまでお前はゆっくり休んでいていい。英気を養え。眠るんだ」
猛烈な眠気が、私の意志を無視して意識の支配権を奪い取る。
――だめだクラウシフ、そんなことをしたら……。
最後まで、兄を止めることもできず、私はそのまま目を閉じた。
◆
目を開けてまばたきを数度。自室のベッドに横になっているのだと知った私は、飛び起きた。体が悲鳴をあげる。自分のものだとは思えないほど、脚が動かない。転がるようにして床に降り、曇り空のせいで暗い部屋を横切って廊下に出た。廊下も暗い。明かりは最低限しかない。メイドたちはなにをしてるんだろう。
壁伝いに歩いて、クラウシフの部屋にたどり着いた。ドアが閉まっているのでノックする。返事がない。またノックするがやはり返事はない。
「兄さん、入るよ」
室内は、カーテンが閉められさらに暗い。ドアを大きく開け、ベッドのあたりまで明かりを取り入れた。それでもやはり暗いままだが、無人なのはわかった。きちんと整えられた寝台に触れてみるが、使われた形跡がない。部屋がどうしてか寒々しい。変わったところといえば、ベッド横のナイトテーブルにある花瓶くらいだ。白い大輪のユリの花が重たげに首をもたげている。私の好きな花だった。ハイリーの騎士服を想起させる尖った優美な花弁は、神々しくもある。
「アンデル様、……こちらにいらしたのですね。お加減は? 医師から無理をせぬようにと」
慌てた様子のバルデランが部屋に入ってきた。腕にリネンを抱えているから、私の様子を見に部屋に行って無人だったので捜しにきたのかもしれなかった。
「バルデラン、兄さんは? もう城へ?」
問うておきながら、違うとわかっていた。バルデランは口ごもり、首を横に振った。
「すでに、葬儀が終わり、今はもう」
「……ハイリーは?」
「現在、イスマウルから侵攻を受けているのです。お嬢様は招集があって、そちらへ」
「僕は、何日くらい眠っていたんだ」
「半月ほど」
体の不調は、単純に自分でギフトを行使したときの反動だけではないのだろう。半月も寝たきりだったらあちこちに歪がでるはずだ。
しかし、半月。
ぐっと手を握りしめる。爪が手の平に食い込んだ。
「バルデラン、まずは話を聞かせてほしい。僕が寝込んでいる間のできごとを」
カーテンを開け、私は息を呑んだ。バルデランはいっきに十も二十も老け込んだようで、今にも儚くなってしまいそうだったのだ。身なりだけはいつもどおりだったが、だからこそそれが際立っていた。とっさに、肘を掴んで支えてしまう。
その老執事の弱々しさが逆に私を落ち着かせた。どっと襲いかかってくる後悔だとか恐怖だとかは頭の隅に追いやる。苦労したが、なんとかそうできた。失敗したらその場にくずおれて咽び泣いていたはず。泣いている場合じゃない、泣いている場合じゃないのだと、自分に言い聞かせたことが功を奏したのだろか。繰り返しつづけていると意味消失し、その言葉を口の中で唱えることだけに集中できたから。
ベッドに座るようバルデランを誘導し、自分もその隣に腰を下ろした。窓の外は、今にも雨が降り出しそうな暗さだ。朝方なのか、昼なのかもわからない。
バルデランは、目を伏せ、小さな声で話し始めた。それを聞き取ることに意識を向ける。
「アンデル様とクラウシフ様がお倒れになり、ハイリーお嬢様に指示され医師を呼びました。アンデル様の処置をさせるためです。医師の話では、アンデル様がいつ目覚めるかわからないとのことでした。そのとき、クラウシフ様の余命がもう幾ばくもない、呪いが急速に進行したのだとお聞きし、皆、動揺しました」
彼に心的な苦痛を与えているのを重々承知の上、私は耳を傾ける。励ますようにシワの寄った手を握りしめて、その拷問を続けた。
「クラウシフ様は、ご自身の後始末だと、様々なことを手配され……ハイリーお嬢様も連日こちらにいらして、手続きの手伝いや相談相手を引き受けてくださいました。三日目に、お嬢様は軍装でいらして、招集がかかったので前線基地に戻ると。最後にクラウシフ様にご挨拶に来てくださったのです」
一度大きく息を吸って、バルデランは声を絞り出す。
「ハイリーお嬢様に看取られて、クラウシフ様はお亡くなりになりました。私が階下から駆けつける一瞬前に、息を引き取ったとお嬢様はおっしゃっていました。苦しまずに亡くなったのだと」
声が不明瞭になって、老人が何度も深呼吸を繰り返す。ハイリーの優しい嘘は、私の胸に鈍痛を呼び起こした。
彼女が私たち兄弟にされた仕打ちを考えると、今すぐこの喉を割いて死んで償いたい気持ちになる。それなのに、彼女はバルデランを気遣って、そして彼から話を聞くだろう他の人間の気持ちやクラウシフの名誉を気遣ってくれたのだろう。
今このとき、彼女のところへ駆けつけて、床に額を擦り付けて詫びたかった。だがそんなこと、私の自己満足に過ぎず、彼女が望んだことはきっと別にある。でなければ、あんな目にあった彼女が、クラウシフのことを何度も見舞うなんてありえない。
先を急かしたい気持ちを抑え、私はバルデランの背を撫でた。落ち着くまで何度も。
「それから、クラウシフ様の訃報を出して、葬儀が執り行われることになりました。ケートリー家の皆さまのご意見や、イスマウルの侵攻のこともあって、小規模になりましたが、無事葬儀は終わりました。宰相閣下をはじめ、たくさんの方から、……陛下からも、弔事をいただきました。そちらをご覧になりますか」
「それはあとでいいよ。もう埋葬も済んだんだね」
「ええ。ユージーン様たちはまたも立派にお役目をこなしました」
「あの子たちは?」
「今は、ケートリー家に。……クラウシフ様から命じられていたことがあります。アンデル様がお目覚めになったら、すぐに、お子様をお迎えにあがるように。ハイリーお嬢様がお子様たちの後見人になってくださるとのことで、手続きが進んでいます。そのハイリーお嬢様の指示でもあるからと、申請書を用いて正式に引き取りに行くようにと申し付けられています」
ケートリーと、子どもたちの養育で揉めていることは知っている。クラウシフの記憶を読んでしまったから。いよいよ、法を盾に権利を行使するのだ、子どもたちの祖父母に対して。嫌な気分にはなるが、……あの家に子どもたちを預けておきたくない。
「わかった。それじゃあすぐにケートリーに行くから、身支度を手伝ってほしい。それから車の手配を」
「アンデル様、そのほかにもいろいろあるのです。連日、城からは陛下の使いが来て、新当主の挨拶をと。それからハイリーお嬢様から、目覚めたらまずこちらをと渡されたお手紙と、クラウシフ様からは必ず読むようにと別のお手紙を」
腰を浮かしたバルデランに、私は口の端を持ち上げてみせた。
「ありがたいね、やることがある方が気が紛れる」
イェシュカの死後、すぐに仕事に復帰していたクラウシフを思い出した。あれは心身ともに屈強だったからじゃないのかもしれない。
「であれば、まずは手紙を。城に関しては最後にしよう、今日ももし使いが来たら、後日改めてとお伝えして」
「もしよろしければ、私がケートリー家に伺いましょうか。申請書があれば、代理の者が私でも構いますまい」
「大丈夫? 無理をしないで」
「そうしたいのです、アンデル様」
泣き笑いの表情で、バルデランは立ち上がった。それを止めないだけの気遣いは、私にもできることだった。
◆
――我が親愛なる弟アンデルへ。
お前、今、「ふざけるななにが親愛なるだクソ兄貴」って思っただろう。
とりあえず、残された時間が少ないから書けるだけのことを書くことにする。大方の事情は、俺の記憶を読んだお前ならわかっているだろう。もしわかってなかったらとりあえず、指示に従え。
まず。お前たちの将来を助ける金は、ルジットにいるドニーに預けている。あいつが運用してくれるから、もしお前の体調が優れず、金銭的に困窮しそうなときは連絡をとって寄越してもらえ。大丈夫、ドニーは信頼できる。
子どもたちの後見人は、ハイリーに任せている。書類を役所に提出しているところだ。何事もなければ承認されるだろう。今後、子どもたちのことでなにか困ったことがあったら、あいつを頼れ。とはいえ、前線基地とは距離があるから、急ぎの判断はお前がしてくれ。
ちなみに、ハイリーのことだが、俺が責任をとって殴られておいた。お前のことは怒ってないそうだ。当たり前だろうと思ったか? とりあえず、ハイリーはお前のことを心配しているようだから、目が覚めたら一報入れてやれ。心配しすぎて注意を欠いて前線で斃死されたかないだろ。
子どもたちのことは他にもある。バルデランにも頼んだが、ケートリーからは必ず引き取ってきてくれ。それから、もし、あいつらにギフトが発現する兆候があったら、お前がどうするか判断してくれ。そのときにきっと役立つだろうから、家宝の首飾りだけはなにがあっても手放すな。
この先は万が一のときのために手配したものだ。念の為、読んでおけ。使わずに済むことを祈ってるが、俺は悪い予感だけは当たると自負している。
イスマウルとの戦が本格的にはじまって、半月してまだ終結していないようだったら、亡命を検討しておけ。プーリッサには持久力がない。その段階で援軍が来てないなら先の展望は絶望的だ。
お前たちの旅券を用意してある。お前の分は偽名でだ。お前はそれなりに城にも顔をだしていたし、あの論文のせいで名前だけでも知っているやつもいるだろう。子どもたちは自分たちの名前を変えるなんて言われてもわからんかもしれないからボロが出ないようそのままだ。顔も知られてないしな。姓だけは変えた。俺の母親の旧姓だ。お前たちは一応、兄弟という体になっている。
ドニーにはメイズとの確執を伝えてある。ギフトの真実は話していないが、いざこざの経緯は話している。なにかあったら受け入れてもらえるように、前述の金とは別に必要な金を預けている。「我らの友情の星に祝福を」と一報送れ。それでわかってくれる。
最後になったが、子どもたちのことを、よろしく頼む。
ごめんな、アンデル。
◆
手紙に添えられていた、サフィール・エクネスの旅券。私の敬愛する昔の植物学者、サフィール・ボットから名前を拝借したのだろうか。とりあえず、その人は女性なのだが、それはもう墓の下の兄の知ることじゃないだろう。
詳しい戦況はわからないが、まだ戦が続いていることはたしかだ。であればこれの世話になることを考えなければならないのだろうか。
「兄さん、記名くらいしてよ」
自分の名前を残したくなかったのか。それともそれを書くだけの体力も気力もなかったのか。ところどころ字が乱れているから、苦痛に耐えながら書いたのかもしれない。紙を握る手に力がこもる。
深呼吸をひとつ。
もう一通の、ハイリーの手紙を開いた。それにはクラウシフの行方をバルデランに尋ねるのと同等の勇気が必要だった。
彼女になんと罵られても、私はどんな言い訳もできない。クラウシフを止められなかった。イェシュカを助けられなかった。ハイリーにあんなひどいことをしてしまった。いつも夢想していた神聖な体を実際に暴くのが、あんな方法になるなんて。自分に都合の良い妄想で夢見た甘い時間も甘い言葉も欠片もなく、泣かせてしまった。いや、罵られたって構わない。それでハイリーの心が少しでも救われるなら、罵倒されたっていい。
覚悟を決めて便箋の上にある綴りを目で追った。
◆
――親愛なるアンデル。
目が覚めてクラウシフの言うように国を出るつもりなら、イズベル・ユーバシャールの家に向かって。そこにいる男が、君たちの力になってくれる。本当は君たちの護衛は私がしたいけれど、行かなきゃいけない。ちゃんと務めを果たして、必ず帰る。守るべきレディがいなければナイトの方だって恰好がつかないだろう?
クラウシフの阿呆に余計なことをされて、私は激怒している。怒り心頭だ。うっかり君の兄を殺すところだった。
あんなのが君との最後の思い出になるなんて絶対にない。
君のところへ帰ったらたくさん話したいことがあるんだ。お願いだから、目覚めたら、一言でいい、手紙を送って。待ってる。
ハイリー・ユーバシャール――
◆
手紙を書かなければ。まずはちゃんと目が覚めたこと。落ち着いたら、もう一通、今後の身の振り方をどうするかについて。
つんとしてしまった鼻の奥を、何度か深く息を吸ってなだめる。情けないことに、私は成人してなお、亡き兄とその友人にして恋い慕う女性に守られていた。泣いている場合ではない。彼らが開いてくれた道を、ちゃんと活かさなければ。私のためだけではなくて、彼らは甥たちのためにもそうしてくれた。甥たちを守り抜くのが私に課せられた使命に違いない。
走り書きのような手紙に急ぎ封蝋をして、凝固を待つ間に身支度を整えた。バルデランに手紙を頼もうと思ったが、彼は先程ケートリーの家に向かったのだと思い出す。頼んでおいたことをしっかりこなしてくれた。私が玄関先に行くと、車が用意されていた。
帰りがけに自分で送付の手配をしようと封筒を持ったまま、車に乗り込んだ。
目指すは、イズベル・ユーバシャールの家だ。
クラウシフの腕を掴んで意識を同調させた私は、その情報量に、そしてその内容に圧倒された。
暴こうしたクラウシフの記憶は、きらめく隧道のように見えた。ところどころ、派手な色に輝く目に鮮やかなそれ。自分から目を凝らさなければその輝きの意味を理解することができないはずなのに、突然、それは敵意を剥き出しにしたように私に襲いかかってくる。
暴力的なまでの勢いで私の意識に潜り込んでくる記憶たち。そのどれもが、私に苦痛を訴えかけてくる。
イェシュカのこと、仕事のこと、ハイリーとのことに、ヨルク・メイズとのこと――。
これはすべて現実に起こったこと?
そう問いただしたかったのに、意識を現実に向ければ、私の口は兄の大きな手で塞がれ、言葉を発することができない。
兄の、冷酷な目がこちらを見つめている。誰にも助けを求められず傷ついた獣のような、それでも活路を探し続けている男。
――待って兄さん、僕の話を聞いて。
口内に、かすかな血の味がしている。飲み込んではいけないとわかっている。それなのに生理的な反射で、喉がゴクリと動いてしまう。
「アンデル。ハイリーが来るまでお前はゆっくり休んでいていい。英気を養え。眠るんだ」
猛烈な眠気が、私の意志を無視して意識の支配権を奪い取る。
――だめだクラウシフ、そんなことをしたら……。
最後まで、兄を止めることもできず、私はそのまま目を閉じた。
◆
目を開けてまばたきを数度。自室のベッドに横になっているのだと知った私は、飛び起きた。体が悲鳴をあげる。自分のものだとは思えないほど、脚が動かない。転がるようにして床に降り、曇り空のせいで暗い部屋を横切って廊下に出た。廊下も暗い。明かりは最低限しかない。メイドたちはなにをしてるんだろう。
壁伝いに歩いて、クラウシフの部屋にたどり着いた。ドアが閉まっているのでノックする。返事がない。またノックするがやはり返事はない。
「兄さん、入るよ」
室内は、カーテンが閉められさらに暗い。ドアを大きく開け、ベッドのあたりまで明かりを取り入れた。それでもやはり暗いままだが、無人なのはわかった。きちんと整えられた寝台に触れてみるが、使われた形跡がない。部屋がどうしてか寒々しい。変わったところといえば、ベッド横のナイトテーブルにある花瓶くらいだ。白い大輪のユリの花が重たげに首をもたげている。私の好きな花だった。ハイリーの騎士服を想起させる尖った優美な花弁は、神々しくもある。
「アンデル様、……こちらにいらしたのですね。お加減は? 医師から無理をせぬようにと」
慌てた様子のバルデランが部屋に入ってきた。腕にリネンを抱えているから、私の様子を見に部屋に行って無人だったので捜しにきたのかもしれなかった。
「バルデラン、兄さんは? もう城へ?」
問うておきながら、違うとわかっていた。バルデランは口ごもり、首を横に振った。
「すでに、葬儀が終わり、今はもう」
「……ハイリーは?」
「現在、イスマウルから侵攻を受けているのです。お嬢様は招集があって、そちらへ」
「僕は、何日くらい眠っていたんだ」
「半月ほど」
体の不調は、単純に自分でギフトを行使したときの反動だけではないのだろう。半月も寝たきりだったらあちこちに歪がでるはずだ。
しかし、半月。
ぐっと手を握りしめる。爪が手の平に食い込んだ。
「バルデラン、まずは話を聞かせてほしい。僕が寝込んでいる間のできごとを」
カーテンを開け、私は息を呑んだ。バルデランはいっきに十も二十も老け込んだようで、今にも儚くなってしまいそうだったのだ。身なりだけはいつもどおりだったが、だからこそそれが際立っていた。とっさに、肘を掴んで支えてしまう。
その老執事の弱々しさが逆に私を落ち着かせた。どっと襲いかかってくる後悔だとか恐怖だとかは頭の隅に追いやる。苦労したが、なんとかそうできた。失敗したらその場にくずおれて咽び泣いていたはず。泣いている場合じゃない、泣いている場合じゃないのだと、自分に言い聞かせたことが功を奏したのだろか。繰り返しつづけていると意味消失し、その言葉を口の中で唱えることだけに集中できたから。
ベッドに座るようバルデランを誘導し、自分もその隣に腰を下ろした。窓の外は、今にも雨が降り出しそうな暗さだ。朝方なのか、昼なのかもわからない。
バルデランは、目を伏せ、小さな声で話し始めた。それを聞き取ることに意識を向ける。
「アンデル様とクラウシフ様がお倒れになり、ハイリーお嬢様に指示され医師を呼びました。アンデル様の処置をさせるためです。医師の話では、アンデル様がいつ目覚めるかわからないとのことでした。そのとき、クラウシフ様の余命がもう幾ばくもない、呪いが急速に進行したのだとお聞きし、皆、動揺しました」
彼に心的な苦痛を与えているのを重々承知の上、私は耳を傾ける。励ますようにシワの寄った手を握りしめて、その拷問を続けた。
「クラウシフ様は、ご自身の後始末だと、様々なことを手配され……ハイリーお嬢様も連日こちらにいらして、手続きの手伝いや相談相手を引き受けてくださいました。三日目に、お嬢様は軍装でいらして、招集がかかったので前線基地に戻ると。最後にクラウシフ様にご挨拶に来てくださったのです」
一度大きく息を吸って、バルデランは声を絞り出す。
「ハイリーお嬢様に看取られて、クラウシフ様はお亡くなりになりました。私が階下から駆けつける一瞬前に、息を引き取ったとお嬢様はおっしゃっていました。苦しまずに亡くなったのだと」
声が不明瞭になって、老人が何度も深呼吸を繰り返す。ハイリーの優しい嘘は、私の胸に鈍痛を呼び起こした。
彼女が私たち兄弟にされた仕打ちを考えると、今すぐこの喉を割いて死んで償いたい気持ちになる。それなのに、彼女はバルデランを気遣って、そして彼から話を聞くだろう他の人間の気持ちやクラウシフの名誉を気遣ってくれたのだろう。
今このとき、彼女のところへ駆けつけて、床に額を擦り付けて詫びたかった。だがそんなこと、私の自己満足に過ぎず、彼女が望んだことはきっと別にある。でなければ、あんな目にあった彼女が、クラウシフのことを何度も見舞うなんてありえない。
先を急かしたい気持ちを抑え、私はバルデランの背を撫でた。落ち着くまで何度も。
「それから、クラウシフ様の訃報を出して、葬儀が執り行われることになりました。ケートリー家の皆さまのご意見や、イスマウルの侵攻のこともあって、小規模になりましたが、無事葬儀は終わりました。宰相閣下をはじめ、たくさんの方から、……陛下からも、弔事をいただきました。そちらをご覧になりますか」
「それはあとでいいよ。もう埋葬も済んだんだね」
「ええ。ユージーン様たちはまたも立派にお役目をこなしました」
「あの子たちは?」
「今は、ケートリー家に。……クラウシフ様から命じられていたことがあります。アンデル様がお目覚めになったら、すぐに、お子様をお迎えにあがるように。ハイリーお嬢様がお子様たちの後見人になってくださるとのことで、手続きが進んでいます。そのハイリーお嬢様の指示でもあるからと、申請書を用いて正式に引き取りに行くようにと申し付けられています」
ケートリーと、子どもたちの養育で揉めていることは知っている。クラウシフの記憶を読んでしまったから。いよいよ、法を盾に権利を行使するのだ、子どもたちの祖父母に対して。嫌な気分にはなるが、……あの家に子どもたちを預けておきたくない。
「わかった。それじゃあすぐにケートリーに行くから、身支度を手伝ってほしい。それから車の手配を」
「アンデル様、そのほかにもいろいろあるのです。連日、城からは陛下の使いが来て、新当主の挨拶をと。それからハイリーお嬢様から、目覚めたらまずこちらをと渡されたお手紙と、クラウシフ様からは必ず読むようにと別のお手紙を」
腰を浮かしたバルデランに、私は口の端を持ち上げてみせた。
「ありがたいね、やることがある方が気が紛れる」
イェシュカの死後、すぐに仕事に復帰していたクラウシフを思い出した。あれは心身ともに屈強だったからじゃないのかもしれない。
「であれば、まずは手紙を。城に関しては最後にしよう、今日ももし使いが来たら、後日改めてとお伝えして」
「もしよろしければ、私がケートリー家に伺いましょうか。申請書があれば、代理の者が私でも構いますまい」
「大丈夫? 無理をしないで」
「そうしたいのです、アンデル様」
泣き笑いの表情で、バルデランは立ち上がった。それを止めないだけの気遣いは、私にもできることだった。
◆
――我が親愛なる弟アンデルへ。
お前、今、「ふざけるななにが親愛なるだクソ兄貴」って思っただろう。
とりあえず、残された時間が少ないから書けるだけのことを書くことにする。大方の事情は、俺の記憶を読んだお前ならわかっているだろう。もしわかってなかったらとりあえず、指示に従え。
まず。お前たちの将来を助ける金は、ルジットにいるドニーに預けている。あいつが運用してくれるから、もしお前の体調が優れず、金銭的に困窮しそうなときは連絡をとって寄越してもらえ。大丈夫、ドニーは信頼できる。
子どもたちの後見人は、ハイリーに任せている。書類を役所に提出しているところだ。何事もなければ承認されるだろう。今後、子どもたちのことでなにか困ったことがあったら、あいつを頼れ。とはいえ、前線基地とは距離があるから、急ぎの判断はお前がしてくれ。
ちなみに、ハイリーのことだが、俺が責任をとって殴られておいた。お前のことは怒ってないそうだ。当たり前だろうと思ったか? とりあえず、ハイリーはお前のことを心配しているようだから、目が覚めたら一報入れてやれ。心配しすぎて注意を欠いて前線で斃死されたかないだろ。
子どもたちのことは他にもある。バルデランにも頼んだが、ケートリーからは必ず引き取ってきてくれ。それから、もし、あいつらにギフトが発現する兆候があったら、お前がどうするか判断してくれ。そのときにきっと役立つだろうから、家宝の首飾りだけはなにがあっても手放すな。
この先は万が一のときのために手配したものだ。念の為、読んでおけ。使わずに済むことを祈ってるが、俺は悪い予感だけは当たると自負している。
イスマウルとの戦が本格的にはじまって、半月してまだ終結していないようだったら、亡命を検討しておけ。プーリッサには持久力がない。その段階で援軍が来てないなら先の展望は絶望的だ。
お前たちの旅券を用意してある。お前の分は偽名でだ。お前はそれなりに城にも顔をだしていたし、あの論文のせいで名前だけでも知っているやつもいるだろう。子どもたちは自分たちの名前を変えるなんて言われてもわからんかもしれないからボロが出ないようそのままだ。顔も知られてないしな。姓だけは変えた。俺の母親の旧姓だ。お前たちは一応、兄弟という体になっている。
ドニーにはメイズとの確執を伝えてある。ギフトの真実は話していないが、いざこざの経緯は話している。なにかあったら受け入れてもらえるように、前述の金とは別に必要な金を預けている。「我らの友情の星に祝福を」と一報送れ。それでわかってくれる。
最後になったが、子どもたちのことを、よろしく頼む。
ごめんな、アンデル。
◆
手紙に添えられていた、サフィール・エクネスの旅券。私の敬愛する昔の植物学者、サフィール・ボットから名前を拝借したのだろうか。とりあえず、その人は女性なのだが、それはもう墓の下の兄の知ることじゃないだろう。
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「兄さん、記名くらいしてよ」
自分の名前を残したくなかったのか。それともそれを書くだけの体力も気力もなかったのか。ところどころ字が乱れているから、苦痛に耐えながら書いたのかもしれない。紙を握る手に力がこもる。
深呼吸をひとつ。
もう一通の、ハイリーの手紙を開いた。それにはクラウシフの行方をバルデランに尋ねるのと同等の勇気が必要だった。
彼女になんと罵られても、私はどんな言い訳もできない。クラウシフを止められなかった。イェシュカを助けられなかった。ハイリーにあんなひどいことをしてしまった。いつも夢想していた神聖な体を実際に暴くのが、あんな方法になるなんて。自分に都合の良い妄想で夢見た甘い時間も甘い言葉も欠片もなく、泣かせてしまった。いや、罵られたって構わない。それでハイリーの心が少しでも救われるなら、罵倒されたっていい。
覚悟を決めて便箋の上にある綴りを目で追った。
◆
――親愛なるアンデル。
目が覚めてクラウシフの言うように国を出るつもりなら、イズベル・ユーバシャールの家に向かって。そこにいる男が、君たちの力になってくれる。本当は君たちの護衛は私がしたいけれど、行かなきゃいけない。ちゃんと務めを果たして、必ず帰る。守るべきレディがいなければナイトの方だって恰好がつかないだろう?
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あんなのが君との最後の思い出になるなんて絶対にない。
君のところへ帰ったらたくさん話したいことがあるんだ。お願いだから、目覚めたら、一言でいい、手紙を送って。待ってる。
ハイリー・ユーバシャール――
◆
手紙を書かなければ。まずはちゃんと目が覚めたこと。落ち着いたら、もう一通、今後の身の振り方をどうするかについて。
つんとしてしまった鼻の奥を、何度か深く息を吸ってなだめる。情けないことに、私は成人してなお、亡き兄とその友人にして恋い慕う女性に守られていた。泣いている場合ではない。彼らが開いてくれた道を、ちゃんと活かさなければ。私のためだけではなくて、彼らは甥たちのためにもそうしてくれた。甥たちを守り抜くのが私に課せられた使命に違いない。
走り書きのような手紙に急ぎ封蝋をして、凝固を待つ間に身支度を整えた。バルデランに手紙を頼もうと思ったが、彼は先程ケートリーの家に向かったのだと思い出す。頼んでおいたことをしっかりこなしてくれた。私が玄関先に行くと、車が用意されていた。
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目指すは、イズベル・ユーバシャールの家だ。
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