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二十節

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そこは郊外にある、ひっそりとした小さな武家屋敷だった。

簡素な作りに、長い間使用されていたような形跡はない。

「月星丸が徳川公の娘とはどういうことだ」

ようやく布団に寝かされた月星丸の枕元で、俺は葉山に尋ねる。

「そういうことだ。他にはない」

「ならばお前は何者だ」

葉山からの返事はなかった。俺は一つ鼻をならす。

「ふん、さしずめ御広敷番といったところか」

大奥に勤める男の役人だ。

主に外との連絡や管理、護衛役を勤める。

「家斉公の娘だというのなら、なぜこうも危害を加えられるのだ」

「奥には奥の始末というものがある。俺たちには踏み込めない世界だ」

「だからお前は手出しをしないのか」

葉山は黙ったまま動かなかった。

ため息を漏らす。

「役人どもめ」

俺は立ち上がる。

「どこへ行く」

「コイツの護衛はお前に任せた。俺の仕事じゃねぇ」

「そうか。ちょうどよい、俺の勤務時間も、いま終わった」

葉山も立ち上がった。

「俺も帰る」

葉山は俺を押しのけて先に廊下に出ると、すたすたと歩き出した。

「おい、ちょっと待て! こいつの護衛がお前の役目ではないのか!」

「勤務時間が終わったのだから仕方がないだろう。交代ももう来ている」

玄関先にはその言葉どおり、馬小屋の近くで月星丸を取り逃がした男が立っていた。

「では頼んだぞ」

出て行こうとする葉山の背中に、その男は深々と頭を下げた。

「おい!」

すぐに葉山の姿は、玄関先から見えなくなる。

後を託された男は、俺を見上げた。

「お前か、あの方のお守りを続けているというのは」

男はあくびをしながら、尻を掻く。

「まぁ、よろしく頼むよ」

男は家に上がり込むと、すぐ横の部屋に襖を閉めて姿を消した。

開け放されたままの玄関からは、すっかり日の暮れた外の様子が丸見えだ。

くそ、あの野郎ワザとだな。

俺はイライラとしながら戸を立て玄関を閉めると、月星丸の眠る部屋へと戻った。

襖を開けて、そっと中をのぞき込む。

それが本当の話だというのなら、俺はここに居てもいいのだろうか。

全身がもぞもぞとして落ち着かない。

俺は立ち上がると、すぐ隣の部屋に移動した。

襖を閉め、灯りをつけてやっと一息がつける。

すぐに頭の中で、今までの月星丸との出来事を、必死で思い返していた。

「何にも……、悪いことは、してねぇよなぁ……」

口のきき方や態度が悪かったことは認める。

だがそれは正体を知らなかったのだから、仕方がない。

変なものを食わせたりはしていないし、もてなすといっても長屋暮らしでは限界があるし……。

そういえば、笠を編んで売りにも行かせたし、その時に殴りもしたな。

罪悪感とはまた違う焦燥に襲われる。

まずい、俺は首をはねられても仕方ないぞ。

やっかいな物件とは理解していたが、ここまでとは思いもしなかった。

俺は深くため息をつく。

どうりで葉山のような男が、ぴったりとくっついているわけだ。

どこかの大名屋敷から抜け出したものだろうとは思っていたが、これでは話しが違いすぎる。

襖の向こうで、衣擦れの音が聞こえた。

それだけでビクリとなる。

女は元々苦手だが、これはもう、そういう問題ではない。

朝が来て、葉山が連れてきたらしい女中が土間で食事の支度を始めている。

俺はほぼ一睡もできぬまま、一晩を過ごしていた。

「あ、あれ? 千さん? 千さん!」

その声に、俺はガラリと襖を開けた。

その前には、ちゃんと衝立が立ててある。

何か言葉を発しなければならないと分かってはいるが、何をどう言っていいのかが分からない。

『ここに控えております』、『ここに』、それとも『お目覚めになりましたか?』の、どれかだ。

「そこにいるの?」

衝立の向こうにいて、こちらからは姿が見えない。

月星丸にも、俺の姿は見えていないだろう。

「うむ」

「なんだ、びっくりした」

ごそごそと動いている。

起き上がったのであろうか、きっと辺りを見回しているに違いない。

「ここって、どうしたの?」

「葉山が」

「……。あぁ、そうか」

月星丸は、きっと葉山が最初から奥の役人であることに気づいていたのだろう。

知らなかったのは、俺だけということか。

目を閉じる。

何かしなければならないことがあったような気がするが、それが何なのか、今はよく分からない。

「ねぇ、腕の怪我はどう? そっちに行ってもいい?」

ごそりと衣擦れの音が聞こえる。

俺は反射的に、開かれた襖を半分閉めた。

「大事ない。……。体は?」

「うん、平気みたい」

月星丸の表情が全く見えないので、そう言った時にどういう顔をしていたのか、俺には分からない。

言いたい事は山ほどあったが、それをどう伝えていいのかも、思いつかない。

「あのさ、千さん」

月星丸がそう言った瞬間、ガラリと月星丸の横の襖が開いた。

「朝餉の用意ができました」

女中が二人、食事の世話を始めている。

俺は立ち上がった。

衝立の向こうに、ようやく月星丸の姿が見えた。

「俺は向こうで休む。お前も早く体を治せ」

控えていた部屋から移る。

俺は用意されていた布団にもぐり込むと、目だけを閉じた。

目を閉じて、姿は見えずとも、音と声だけは聞こえてくる。

やがて葉山もやって来た。

医者を連れてきたのであろう。

関の声のような気もするが、よく分からなかった。

診察をすませるとさっさと出て行ってしまう。

やがて一人にされた月星丸のところに、昼飯が運ばれてきた。

俺はその食事の用意される音を聞きながら、いつの間にか眠っていた。

「ねぇ、起きて。いつまで寝てるの」

その声に起こされる。

いつの間にか、月星丸が横に座っていた。

「千さん。なんか、ここは嫌だ。長屋に帰りたい」

俺は寝返りを打って、月星丸に背を向ける。

「帰るったって、どこに帰るんだよ。お前のせいで家はめちゃくちゃだ」

少し間があった。

月星丸は両手で俺を揺り動かす。

「なら萬平さんのところか、関さんのところに移ろうよ。ここだとほ……」

「わがままを言うな」

俺は月星丸を見上げた。

「自分のせいで迷惑がかかるからと、関の家を抜け出したのはお前自身であろう。ここは葉山の用意した家だ。なんの遠慮もいらぬ」

俺は起き上がった。

「お前の今の一番の仕事は、その体を治すことだ。大人しく言うことを聞け。俺はここから動かん」

月星丸は両手をひっこめると、うつむいたままじっと動かなくなった。

俺は月星丸の乱れた髪と、すり切れたような着物を見下ろす。

「風呂に入れないのなら、せめて着物だけはもう少し清潔なものに着替えろ。傷に障る」

俺は布団から出ると、月星丸から離れた位置に座った。

「早く。着替えてこい」

その言葉に、月星丸はしぶしぶと立ち上がる。

隣の部屋に移った。

俺はそれを見届けると、縁側に腰を下ろす。

女中たちのくすくすと笑う声が、どこからともなく漏れ聞こえてくる。

女どもの噂話に耳を傾けるのは趣味ではないが、ここでの俺の扱いはなんだ? 

さしずめ『姫の男』といったところか。

隣に葉山がやって来る。

「随分と手厚い保護をして下さるじゃねぇか、どういう風の吹き回しだ」

「風向きが変わった。お前の言う通りだ。何の問題もない」

俺はもう、何もかも諦めて、ため息を漏らす。

「そりゃ一体、どういう意味だ?」

背後の部屋で、騒ぎが始まった。

俺と葉山が振り返ると、髪を下ろし、女の格好をさせられた月星丸が飛び出した。

「なんだ、これは! こんな着物なんか、俺は着ないぞ!」

「月星丸さま」

その姿に、葉山は床に両手をついた。

「今後は、お名前を月子さまと呼ばせていただきます。ご承知おき下さいませ」

葉山が頭を下げる。

その様子に月星丸はビクリとして、おそるおそる視線を俺に向けた。

「似合うじゃねぇか」

月星丸は鮮やかな山吹色の小袖を、白い襦袢の上に引っかけている。

「早く着替えて来い」

俺はにっこりと笑ってみせた。

月星丸は急に赤くなって、もじもじと後ろの部屋に戻っていく。

「月子さまには、女子として身につけなければならない作法を、ここで覚えていただく」

葉山はそう言い切った。

「あぁ、そうかい。いいんじゃねぇの?」

これで守役が終わるなら、万々歳だ。

「ならばいよいよ、俺の役目もお終いだな」

島田に結い上げた髪に、小さなかんざしを一つ。

ひらひらと舞う蝶と赤い撫子の花の小袖が、まだ幼さの残る元服前の月星丸らしい。

「着替えて、来たよ」

月星丸はちょこんと座ると、俺を見上げた。

「変じゃない?」

「あぁ」

今の俺は、こんな姿になった月星丸の姿を間近に見ても、心臓が騒がない。

「月子さまには、これから手習いに励んでもらいます。早速一番に書の先生をお呼びいたしました。あまり文字を書くのは得意でないとお聞きしておりましたので」

月星丸の顔が、また赤くなる。

「だ、だけど、俺はさ……」

「さっさと勉強しろ」

言い分けを始めようとする月星丸を、俺は遮る。

「さっさと勉強しろ」

「千さんはさ」

月星丸は、おどおどとした目で俺を見上げた。

「あの、あの病気は、治ったの?」

葉山の視線がちらりと動く。

俺はため息をついた。

「いいから勉強してこい」

そう言われて、渋々と立ち上がった月星丸の背中を見送る。

その姿が見えなくなった後で、葉山がぼそりと俺につぶやいた。

「あの病とは何だ?」

「誰が教えるかよ」

俺は立ち上がる。

「どこへ行く気だ」

「帰る」

だけど、家は帰れる状態ではなかったな。

ではどこへ行こうか。

「月子さまを置いていってよいのか?」

「俺が預かったのは月星丸だ」

歩き出す。

「もう月星丸はいない」

珍しく玄関まで葉山が見送りに出てきた。

俺は振り返りもせず草履を履く。

なにも告げずに、そこを出た。
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