36 / 36
第36話
しおりを挟む
「これだから、人間相手の仕事はやっかいだ」
ヴォウェンは、俺の後ろに隠れたルーシーに声をかけた。
「ルーシー、戻ってこい。今戻ってくれば、こいつらもお前も、俺が何とかしてやる。この俺がそう言ってるんだ。分かるだろ?」
彼女は、俺の右腕のシャツをぎゅっと握った。泣きそうな顔で、頭を左右に振る。
「お前の名前は、ヘラルドとか言ったな、なんだこれは、法令違反ごっこか」
「違います。そんなつもりじゃなかったんです」
「じゃあなんだ」
その答えは、俺にだって分からない。
「……成り行き、かな」
「その割りには、ずいぶんと高い代償を払うことになったな」
「俺は、そうは思いません」
彼は手袋を締め直しながら、ゆっくりと近づいてくる。
このまま、距離を縮められたら、マズイ気がする。
「動くな」
後ろに下がろうとした俺を、彼は牽制する。
俺は必死で、頭を回転させ言い分けを考える。
「理由なんて、ありません。ただ、そうなっただけです。誰かが文句を言って、不満があって、それをどうにかしたくて、方法が分からなくて」
逃げようと反射的に背を向けた瞬間、俺の足がなぎ払われる。
地面に倒れこんだ背中に、ヴォウェンの片足が乗った。
「ルーシー、こっちに来なさい」
ヴォウェンの声に、彼女は固く握りしめた拳を、胸の前で振るわせている。
「ルーシー、君はとても賢くて勇敢な女の子だ。私は君のそういうところを高く買っている」
背にかかる足の重みが、ぐっと重力を増した。
「君がちゃんとカプセルに入ったら、他のみんなも入ってくれるかな?」
彼女は助けを求めるように、地面に伏せられた俺を見る。
「カプセルに入るのは、絶対にダメだ、ルーシー」
「そんな教育を、どこで受けた。お前たちに、そんな選択をする権利はない。俺もクローンだ。何度も再生をくり返している。記憶を見たければ見ればいい。人は個人の歴史からも学ぶことが出来る」
彼は一つ、息を吐いた。
「今や、オリジナルの人間といえるのは約2千人。そこから絶滅の危機を乗り越えるために、しなければならないことはなんだ。血統管理と手厚い保護。そこから生まれてくるはずの、新しい可能性を、潰さないこと」
もう一度、息を吐く。
「俺たちは、その希望であり、無限にあるはずの可能性なんだ。だから、俺たちは限りなく増殖し、再生をくり返す。新しい、この先の未来のために」
「そんなこと、ルーシーには関係ないだろ」
俺はなんとか立ち上がろうと、腕を突っ張る。
「あんたのそんな、もっともなご高説なんか、俺たちには関係ない」
ふいに背中の重みが取れたと思ったその瞬間、脇腹に激痛が走った。
痛みにうずくまる俺の体に、なんども固い靴底が打ち付ける。
口の中から血の味がして、俺はつばを吐き出した。
地面を駆けてくる足音が聞こえる。
頭上で何かが、激しくぶつかり合う音が響く。
ヴォウェンに殴りかかったジャンが、彼から返り討ちにされていた。
「ジャン!」
俺はそこから抜け出す。
「いいから、さっさと行け! どこまでいけるか知らねぇけど、どっかにはきっと行けるだろ」
ジャンの左頬に強烈な拳が入り、彼の体は、再び地面に投げ出される。
俺は、ルーシーを見上げた。
彼女の方が先に、俺の手を引く。
「ジャン!」
悲痛な叫びが、空に響く。
ヴォウェンの放った弾丸が、彼の体を貫通した。
「いいから、俺たちの分まで、いってくれ」
「止まれ、止まらないと、こいつは死ぬ」
俺は彼女を振り返る。
彼女も俺を振り返った。
走り出した俺たちを、止めるものはもうなにもなかった。
銃声が響く。
ジャンの体から拭きだした血液が、みるまに草地に赤い血だまりを作る。
追いかけようと動き出した蜘蛛を、制止したのはヴォウェンだった。
「放っておけ。追いかけたところで、どうせ止まらない」
彼は走り出した俺たちに向かって、そっとつぶやく。
「俺の判断に、間違いはあっても迷いはないからな」
彼が背を向ける。
俺たちは、走り出した。
走って走って、やがて息が切れてくる。
西に傾き始めた陽の光が、とてもまぶしい。
俺たちの目の前には、底の見えない断崖絶壁、その向こうは広大に広がる、荒れた海だ。
「ルーシー!」
「ヘラルド!」
迷いなんて、何一つない。
俺はそこに飛び込んだ。
彼女も同時に飛び上がる。
俺は笑っていて、彼女も笑っていた。
新しい物語が、はじまった。
【完】
ヴォウェンは、俺の後ろに隠れたルーシーに声をかけた。
「ルーシー、戻ってこい。今戻ってくれば、こいつらもお前も、俺が何とかしてやる。この俺がそう言ってるんだ。分かるだろ?」
彼女は、俺の右腕のシャツをぎゅっと握った。泣きそうな顔で、頭を左右に振る。
「お前の名前は、ヘラルドとか言ったな、なんだこれは、法令違反ごっこか」
「違います。そんなつもりじゃなかったんです」
「じゃあなんだ」
その答えは、俺にだって分からない。
「……成り行き、かな」
「その割りには、ずいぶんと高い代償を払うことになったな」
「俺は、そうは思いません」
彼は手袋を締め直しながら、ゆっくりと近づいてくる。
このまま、距離を縮められたら、マズイ気がする。
「動くな」
後ろに下がろうとした俺を、彼は牽制する。
俺は必死で、頭を回転させ言い分けを考える。
「理由なんて、ありません。ただ、そうなっただけです。誰かが文句を言って、不満があって、それをどうにかしたくて、方法が分からなくて」
逃げようと反射的に背を向けた瞬間、俺の足がなぎ払われる。
地面に倒れこんだ背中に、ヴォウェンの片足が乗った。
「ルーシー、こっちに来なさい」
ヴォウェンの声に、彼女は固く握りしめた拳を、胸の前で振るわせている。
「ルーシー、君はとても賢くて勇敢な女の子だ。私は君のそういうところを高く買っている」
背にかかる足の重みが、ぐっと重力を増した。
「君がちゃんとカプセルに入ったら、他のみんなも入ってくれるかな?」
彼女は助けを求めるように、地面に伏せられた俺を見る。
「カプセルに入るのは、絶対にダメだ、ルーシー」
「そんな教育を、どこで受けた。お前たちに、そんな選択をする権利はない。俺もクローンだ。何度も再生をくり返している。記憶を見たければ見ればいい。人は個人の歴史からも学ぶことが出来る」
彼は一つ、息を吐いた。
「今や、オリジナルの人間といえるのは約2千人。そこから絶滅の危機を乗り越えるために、しなければならないことはなんだ。血統管理と手厚い保護。そこから生まれてくるはずの、新しい可能性を、潰さないこと」
もう一度、息を吐く。
「俺たちは、その希望であり、無限にあるはずの可能性なんだ。だから、俺たちは限りなく増殖し、再生をくり返す。新しい、この先の未来のために」
「そんなこと、ルーシーには関係ないだろ」
俺はなんとか立ち上がろうと、腕を突っ張る。
「あんたのそんな、もっともなご高説なんか、俺たちには関係ない」
ふいに背中の重みが取れたと思ったその瞬間、脇腹に激痛が走った。
痛みにうずくまる俺の体に、なんども固い靴底が打ち付ける。
口の中から血の味がして、俺はつばを吐き出した。
地面を駆けてくる足音が聞こえる。
頭上で何かが、激しくぶつかり合う音が響く。
ヴォウェンに殴りかかったジャンが、彼から返り討ちにされていた。
「ジャン!」
俺はそこから抜け出す。
「いいから、さっさと行け! どこまでいけるか知らねぇけど、どっかにはきっと行けるだろ」
ジャンの左頬に強烈な拳が入り、彼の体は、再び地面に投げ出される。
俺は、ルーシーを見上げた。
彼女の方が先に、俺の手を引く。
「ジャン!」
悲痛な叫びが、空に響く。
ヴォウェンの放った弾丸が、彼の体を貫通した。
「いいから、俺たちの分まで、いってくれ」
「止まれ、止まらないと、こいつは死ぬ」
俺は彼女を振り返る。
彼女も俺を振り返った。
走り出した俺たちを、止めるものはもうなにもなかった。
銃声が響く。
ジャンの体から拭きだした血液が、みるまに草地に赤い血だまりを作る。
追いかけようと動き出した蜘蛛を、制止したのはヴォウェンだった。
「放っておけ。追いかけたところで、どうせ止まらない」
彼は走り出した俺たちに向かって、そっとつぶやく。
「俺の判断に、間違いはあっても迷いはないからな」
彼が背を向ける。
俺たちは、走り出した。
走って走って、やがて息が切れてくる。
西に傾き始めた陽の光が、とてもまぶしい。
俺たちの目の前には、底の見えない断崖絶壁、その向こうは広大に広がる、荒れた海だ。
「ルーシー!」
「ヘラルド!」
迷いなんて、何一つない。
俺はそこに飛び込んだ。
彼女も同時に飛び上がる。
俺は笑っていて、彼女も笑っていた。
新しい物語が、はじまった。
【完】
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる