8 / 9
第8話
しおりを挟む
お菊さまの腹はいよいよ大きくなり、産み月が近づいていた。
気が立つのも分からなくはないが、とにかく気分が落ち着かない。
暑い暑いと泣きわめくのを、うちわで煽いでいた。
「そのように苛つかれては、お腹の子に障ります」
間髪入れず、濡れ布巾を投げつけられる。
「お前の顔を見ているのが、一番気に障る!」
わんわんと泣き始めたお菊さまをどうしていいのか、もう何も分からない。
苦労など何一つ知らない人だ。
あたしと歳は一つしか違わないのに、裁縫と琴しかしたことのないような体は、むくむくと白く太りたおし、もはや饅頭か大福のよう。
廊下へ出ると、若旦那と鉢合わせた。
ビクリと体を震わせ、今までにないほど余所余所しい態度をなさる。
「あぁ。お多津か」
もじもじと言葉を濁らせ、あたしから距離を取るように離れた。
「こないだのことは済まなかった。忘れてくれ」
若旦那はそう言うと、閉じられたばかりの襖を開く。
「お菊。約束通り、多津とはケリをつけてきたぞ」
廊下にあたしを残し、ぐじぐじと泣いている大福の待つ部屋へ消えてゆく。
その時は何を言われたのか、さっぱり分からなかった。
土間へ戻り、投げつけられた手ぬぐいを干したところで、ようやく気づく。
「あぁ、お菊さまに知れたのか」
それでこのザマだ。
旦那さまに呼び出され、座敷に上がった。
そこにお菊さまと若旦那はいなかった。
酷く得意げに興奮した奥さまにわめき散らされ、それに旦那さまはますます腹を立てた。
又吉と八代、お富まで呼び出され、それぞれに勝手な話しを持ち上げる。
「へぇ。コイツは実にいい加減な奴でごぜぇまして……」
「私といたしましても、旦那さまや奥さまに対し、誤解を招くようなことをしていたのは確かでございます。しかし、私とお多津との間にはなにも……」
「この人はいつだって無精で怠けてばかりでごぜぇます! 面倒なことはいつも、わっしに押しつけて……」
ガザガザと枯れ草を踏む足音が聞こえる。
それは遠くから迫ってきていた。
やかましく鳴いていた虫たちが、急に静まりかえる。
縛り上げろと言われた時、真っ先にあたしの腕を掴んだ又吉の、あの気持ち悪い顔。
八代の取り澄ましたような、他人行儀の能面づらと、お富の勝ち誇り、興奮したしゃべり方。
若旦那と交わした夜と、何も知らぬお菊さまの、美しく艶やかな佇まい……。
気がつけば取り囲まれていた。
荒い息遣いと、よだれをすする舌なめずりまで聞こえる。
一匹? いや、もっとだ。
ヤバい、逃げなくちゃ。
逃げたいけど、逃げられない。
恐怖で体が震える。
衣紋掛けに干された、美しい花嫁衣装を思い出す。
塩焼きの鯛をまぶした握り飯の旨さ。
あたしもいつかあんな綺麗な着物を着て、お嫁に行くんだと思っていた。
幸せな結婚をして、静かに暮らす。
どうしてそれだけのことが叶わないのだろう。
縛り付けられ、身動きのとれないあたしには、どうしようもない。
鼻息荒く、じっとこちらを窺っている。
ぎゅっと目を閉じ、ガチガチと震える歯を食いしばった。
怖い。
全身が震える。
冷たい鼻先が、まだ感覚の残る肌に触れた。
ビクリと震えたあたしに、驚き飛び退く。
どうしてこうなった? あたしの何が悪かった?
なんで? 何がいけなかった?
真っ白な衣装を着て、想い想われた人のところへ嫁ぐ。
奉公人に意地悪なんて、絶対にしない。
優しい夫とその家族に囲まれて、まもなく生まれる子供のために産着を縫う。
鋭い牙が肉に食い込んだ。
引きちぎる勢いで血まみれの着物が破ける。
叫び声を上げた。
あぁ。それとも前に一度見た、旅芸人の仲間になるのもいいな。
美しい衣装を着て、お囃子に合わせて舞を舞う。
風のように駆け抜けて、どこまでも気の向くままに流れてゆく。
牙が喉元に喰らいついた。
明日、もしも明日、朝日を迎えることが出来たなら、あたしはきっと……。
気が立つのも分からなくはないが、とにかく気分が落ち着かない。
暑い暑いと泣きわめくのを、うちわで煽いでいた。
「そのように苛つかれては、お腹の子に障ります」
間髪入れず、濡れ布巾を投げつけられる。
「お前の顔を見ているのが、一番気に障る!」
わんわんと泣き始めたお菊さまをどうしていいのか、もう何も分からない。
苦労など何一つ知らない人だ。
あたしと歳は一つしか違わないのに、裁縫と琴しかしたことのないような体は、むくむくと白く太りたおし、もはや饅頭か大福のよう。
廊下へ出ると、若旦那と鉢合わせた。
ビクリと体を震わせ、今までにないほど余所余所しい態度をなさる。
「あぁ。お多津か」
もじもじと言葉を濁らせ、あたしから距離を取るように離れた。
「こないだのことは済まなかった。忘れてくれ」
若旦那はそう言うと、閉じられたばかりの襖を開く。
「お菊。約束通り、多津とはケリをつけてきたぞ」
廊下にあたしを残し、ぐじぐじと泣いている大福の待つ部屋へ消えてゆく。
その時は何を言われたのか、さっぱり分からなかった。
土間へ戻り、投げつけられた手ぬぐいを干したところで、ようやく気づく。
「あぁ、お菊さまに知れたのか」
それでこのザマだ。
旦那さまに呼び出され、座敷に上がった。
そこにお菊さまと若旦那はいなかった。
酷く得意げに興奮した奥さまにわめき散らされ、それに旦那さまはますます腹を立てた。
又吉と八代、お富まで呼び出され、それぞれに勝手な話しを持ち上げる。
「へぇ。コイツは実にいい加減な奴でごぜぇまして……」
「私といたしましても、旦那さまや奥さまに対し、誤解を招くようなことをしていたのは確かでございます。しかし、私とお多津との間にはなにも……」
「この人はいつだって無精で怠けてばかりでごぜぇます! 面倒なことはいつも、わっしに押しつけて……」
ガザガザと枯れ草を踏む足音が聞こえる。
それは遠くから迫ってきていた。
やかましく鳴いていた虫たちが、急に静まりかえる。
縛り上げろと言われた時、真っ先にあたしの腕を掴んだ又吉の、あの気持ち悪い顔。
八代の取り澄ましたような、他人行儀の能面づらと、お富の勝ち誇り、興奮したしゃべり方。
若旦那と交わした夜と、何も知らぬお菊さまの、美しく艶やかな佇まい……。
気がつけば取り囲まれていた。
荒い息遣いと、よだれをすする舌なめずりまで聞こえる。
一匹? いや、もっとだ。
ヤバい、逃げなくちゃ。
逃げたいけど、逃げられない。
恐怖で体が震える。
衣紋掛けに干された、美しい花嫁衣装を思い出す。
塩焼きの鯛をまぶした握り飯の旨さ。
あたしもいつかあんな綺麗な着物を着て、お嫁に行くんだと思っていた。
幸せな結婚をして、静かに暮らす。
どうしてそれだけのことが叶わないのだろう。
縛り付けられ、身動きのとれないあたしには、どうしようもない。
鼻息荒く、じっとこちらを窺っている。
ぎゅっと目を閉じ、ガチガチと震える歯を食いしばった。
怖い。
全身が震える。
冷たい鼻先が、まだ感覚の残る肌に触れた。
ビクリと震えたあたしに、驚き飛び退く。
どうしてこうなった? あたしの何が悪かった?
なんで? 何がいけなかった?
真っ白な衣装を着て、想い想われた人のところへ嫁ぐ。
奉公人に意地悪なんて、絶対にしない。
優しい夫とその家族に囲まれて、まもなく生まれる子供のために産着を縫う。
鋭い牙が肉に食い込んだ。
引きちぎる勢いで血まみれの着物が破ける。
叫び声を上げた。
あぁ。それとも前に一度見た、旅芸人の仲間になるのもいいな。
美しい衣装を着て、お囃子に合わせて舞を舞う。
風のように駆け抜けて、どこまでも気の向くままに流れてゆく。
牙が喉元に喰らいついた。
明日、もしも明日、朝日を迎えることが出来たなら、あたしはきっと……。
0
あなたにおすすめの小説
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる