蓬莱皇国物語Ⅰ〜学院都市紫霄

翡翠

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プロローグ

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 蓬莱ほうらい皇国……太平洋に浮かぶ皇帝を元首として戴く小さな国である。この国はかつて日本国に属していたが、第二次世界大戦の日本敗戦を契機に独立をした。ゆえにこの国の文化風習は日本に非常に似通っている。人の姓名のあり方や貴族の有り様、生活風習もまた、似通っている。ただ、日本が廃止した貴族制度(日本に於いては華族)が継続現存している。
 
 皇立紫霄ししょう学院は幼稚部からの一貫校で、小等部には集団で生活する寄宿舎があるが、通学する生徒がほとんどである。この幼稚部と小等部と大学の一部は都市に隣接した地域にあるが、中等部からは都市部から車で二時間ほど離れた場所に存在し、完全に隔離された学院都市と呼ばれる場所であった。学力は蓬莱皇国屈指と言われ、主に貴族階級もしくは富裕層の子息が生徒の中心である。創立は戦前、日本では明治と呼ばれた頃である。

 ……同時にここはこの国の暗部の一部でもあった。


 宮殿か迎賓館のような仰々しい門を抜けて、黒塗りの高級車が高級ホテルのエントランスのような場所に横付けされた。制服を着た運転手が恭しく後部座席のドアを開けると、明らかに戸惑っている華奢きゃしゃな少年が降りてきた。すると中から白い制服を着た学生が姿を現した。少年から青年への成長期を感じさせる長身の彼は、流れるような身のこなしで歩み寄って来て立ち止まった。 

御園生 武みそのうたける君ですね」 

「あ…はい」
 
 車から降りた少年は170㎝あるかないかの小柄で細身な姿で、見とれていたのか赤くなりながら声を掛けて来た上級生らしい少年を見上げるようにして応えた。 

「御園生 武です」 

「ようこそ、紫霄学院高等部へ。高等部生徒会長、六条 夕磨ろくじょうゆうまです」

 柔らかな声で名乗った彼は、武の背後で恭しく頭を下げる運転手に軽く手を挙げ、まだ戸惑っている武を誘うように建物に向かって歩き出した。慌てて武も運転手に軽く頭を下げ、六条 夕磨の後を追って歩き出した。
 
 建物の中は白い大理石を基調とした廊下があり4つに別れている。彼は迷うことなくその一つを進んで行く。しばらくするとゲートがあり、警備員らしき男性が立っていた。彼らは夕磨に気付くと深々と礼をしてゲートを開いた。彼はそれを別段気に留める様子もなく、武を伴って通り抜ける。その先は大きな扉になっており、別の警備員が外側にゆっくりと扉を開いた。すると新緑の香りをのせた風が、柔らかに二人を包んだ。

 武は目の前の光景に驚いて声をあげた。

「え~!?今の建物は校舎じゃないんですか?」

 武は母子家庭で育った庶民である。何の因果か母が皇国屈指の大財閥の総師、御園生 有人ありひとと数ヶ月前に結婚。子供のいない有人氏は即刻、武を養子に迎えて時期総師としての英才教育を受けさせる為に、紫霄学院高等部への編入試験を受験させたのである。彼はその期待に応えるように全試験満点という優秀な成績を取り、中学も優等生で通っていた為もあって難なく編入資格が与えられた。高等部入学者は皆、中等部からの持ち上がりで、入学式を明後日に控えて武のみが本日の入寮となったのである。

 だがまさか、出迎えが生徒会長だとは思っていなかったので、正直、少々ビクビクあたふたしていた。 

「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ、御園生君」

 夕磨は柔らかに笑みを浮かべて武を振り返った。

「先程の建物は関係者以外が学院や学院都市に不用意に入り込まないようにあります。都市側には荷物の搬入の為のゲートがあります。当学院は海側にある都市によって基本的に自給自足になっています」 

「自給自足?」

「ここで作られるものには、一切、農薬や化学肥料などは使われていません。皇家などの食料と同じです。とは言っても自給自足出来ないものもたくさんありますから、それらは外部から搬入されるというわけです」 

「へえ…」 

「自給自足する理由の一つに、毒物などが混入される事を防ぐ理由もあるのです」 

「毒物混入って…」

 それはどこの世界の話だと呆れる武に、夕磨はまた穏やかに微笑んだ。

「さあ、急ぎましょう」

「あ、はい」

  再び二人は歩き出だした。

 美しく刈り取られた芝生に彩られた小径を行くと、木立の向こうから校舎らしい建物が見えて来た。イギリスの古い館のような、左右対象のコの字型になっていて、前庭には花々が咲き乱れる花壇があった。

 中へ足を踏み入れて武は絶句した。天井が高いのだ。 

「あの…校舎は何階まであるんですか?」 

「古い建物ですから、2階までしかありません」

 外部から眺めた高さは4階建てくらいだった。つまり天井を高くしてある…という事になる。空調などを考えると、通常の学校よりもコストがかかる計算になる。だが良く見ると窓は全て二重になっており、それなりの改築が行われている様子だった。

 夕磨はさらに武を誘って入り口から左手に曲がり、角にある扉を内側に開いて、校舎の裏手へと武を導いた再び芝生の中の小径を進んで行く。フェンスを張り巡らした向こうは運動場らしいが、あまりにも広過ぎて一部しか伺えない。

 見ると左側には校舎とは別の建物があった。 

「ここは、特進特待生の教室と生徒会室がある特別棟です。向こうに見える煉瓦れんが造りの建物は高等部の図書館。この二つの間を抜ける道を行くと寮に出る道があります」

 彼の言葉通りにしばらく進んでいくと、近年建設されたらしい真新しいマンションと呼んでもよい外観の建物が二棟見えて来る。 

「北側の大きい方が、一般の生徒用の寮。やや小さい方が、特進特待生用の寮。君の部屋はこちらです」

 夕磨が指差したのは、特進特待生用の寮だった。 

「え、俺、特進特待生なんですか?」 

「編入試験は満点だと聞いています。特待生は成績を重視します。従って君はその資格をえました」

「はあ……」

 何だか面倒くさい事になったと思った途端、武のお腹が大きな音をたてた。夕磨がクスクスと笑う。

「ああ、もう昼食の時間ですね。取り敢えず入寮手続きだけして、食事に行きましょう」 

「………スミマセン…」

 恥ずかしくて穴があったら入りたい。武のその様子に夕磨はなおも笑いながら、制服から生徒手帳を取り出した。 中から黒いカードを取り出し、ドアの横にある機械に差し込む。

〔ルームナンバーを入力下さい〕 

 液晶画面に0~9までの数字が浮かび、夕磨がなれた手付きでルームナンバーをタッチした。

〔静脈認証を致します。パネルに掌を当てて下さい〕

 液晶画面に掌の形が浮かび、夕磨が手を当てた。 

〔確認終了。お帰りなさいませ、六条 夕磨さま〕

 続いてドアのロックが外れる音がした。

 カードキィに静脈認証……オートロック。学院の敷地内にある寮だというのに、この厳重さは何だろうか。武は自分まで疑われているような気がした。 

「本日入寮の御園生 武 君です。入寮手続きをお願いします」

 ここにも警備員が配置されており静脈認証の登録の後、黒地にゴールドの校章、シルバーで名前が彫り込まれたICカードを手渡された。

「カードは鍵と生徒証明及び学院都市内でのクレジットカードになりますので、無くされないようにお願いします。万が一紛失に気付かれましたら、担任か生徒会員まで速やかにお知らせ下さい」 

「わかりました」 

「あとは…スクール・リングですね」 

「こちらに届いております」

 恭しく差し出されたケースを見ると、銀色のリングが入っていた。 

「スクール・リング?」 

「イギリスの由緒ある学校では、生徒証としてスクール・リングを採用しています。我が校はイギリスの寄宿舎学校を手本に創設されたから、カード…当時は紙の生徒証ですが…とリングの二つの生徒証明が採用されています。

 さあ、着けてみてください。 サイズが合わなけれれば、別のものの用意を命じます」

 恐る恐る手を伸ばし、リングを左手の中指に着けてみる。驚いた事にぴったりだ。 

「大丈夫なようですね。ここに荷物を預けて、食堂に行きましょう。

 彼の部屋へ運ばせておいてください」

「承知いたしました」

 奥へ続く廊下はやがて一つのドアを抜けて、隣の一般寮と繋がる渡り廊下になっていた。エントランス・ホールという感じの場所を抜けて、良い匂いのする高級レストランとしか言えない食堂になった。見ると食堂はビュッフェ形式になっていて、カードをリーダーに通してから、好きなものを取る形式になっているようだった。 

「ふむ、今日は日本食ですか」

 多彩な料理が並べられているが、武が想像するような豪華絢爛なものではなかった。よくよく考えてみると、皇家の普段の食事は意外と質素だと聞いた事がある。野菜などは無農薬有機栽培だというから、大変な手間暇がかけられたものだろう。そう思うと、見た目の豪華さは本当の贅沢ではないのかもしれないと思った。 

 武は何だか嬉しくなって、全品を少しずつ皿に取った。全体的に薄味だったが、母の手料理と同じで違和感がなくて安心した。どれも素材の味を生かしたものだった。

 旨い を連発して料理を平らげた武は、食堂中の視線が自分に集まっている事にようやく気付いて箸を止めた。とは言ってもそこは良家の子息。ジロジロとあからさまにに見たりはしない。相手をそんな風に見るのは恥ずべき事だと、武士道的な考え方で立ち振る舞いを学ぶ彼らは理解している。それでも好奇心と生徒会長の横にいるという事への嫉妬心から、こちらに顔を向けて目の端に入れている。
 
 武は、本年度入学生ただ独りの外部からの編入生である事と、高等部への外部編入生が珍しいという事実があったが、来たばかりの彼がそれを知る筈はない。



 紫霄学院高等部は一学年4クラス25人制である。それ以外に特進特待生が新入生1人を含めて11人いる。特待生は一応一般クラスに所属するが、特別棟で行われている特進授業、つまり、高等学校の一般カリキュラムを超えた授業を受ける事が出来る。ただ、一般生徒との交流も重視される為、日毎に1~2限の一般授業に出席する事が義務付けられている。どの授業に出席するかは本人の選択に任されており、特待生は毎週土曜日に所属クラスの担任に、出席表を提出する規則になっている。

 特待生は専用のノートパソコンを持ち、特別棟や図書館の特待生用デスク及び、寮にはインターネット回線に接続可能になっている。 特進授業はノートパソコンを利用して行われ、レポートなどはメールで送信する。

 寮は一人部屋で、一般生徒は1LDK、特待生は2LDKになっている。LDKはオール電化システムで、食洗機、冷蔵庫、オーブン、レンジが完備されており、一般生徒寮にある売店で食料品や日常品をカードで購入出来る。また、通常販売されていないものも、注文に応じて入荷してくれる。

 食堂は寮と校舎と2ヶ所あり、平日の昼食は校舎側を、それ以外は寮側を利用する。

 この学院都市には温泉が豊富に沸いており、その高温を利用して都市全体の電力をまかなう発電所が設置されている。また、入浴可能な温度に下げる為に、張り巡らせたパイプの水で冷却する為、温められた水、つまり湯は都市中に供給されており、校舎でも寮でもふんだんに湯が使用可能である。

 それぞれの寮には温泉の引かれた浴室があるし、校舎側には温泉を利用した温水プールや温室もある。食堂で前日に予約をしておくと、温泉玉子も食べる事が出来る。寮側の食堂はビュッフェ形式になっており、校舎側の食堂は数種類のメニューやコースから選択出来るようになっている。

 一般生徒と特進特待生は制服で分けられている。一般生徒は濃紺の詰め襟。特進特待生は白い詰め襟と色が分けられている。

 特待生は生徒会入りが義務付けられている。生徒会は1・2年生で構成されており、3年生は受験に専念する為、白鳳会はくほうかいと呼ばれるグループに所属する。

 基本的に学期中は学院都市から出る事は禁じられている。また校風は質素堅実をモットーとする。

 上級生が下級生との交流を図る目的で、brother partnerブラザーパートナー制を奨励する。 




「brother partner……? 何だそれ?」

 寮の自室のソファの上で、武は寝転がって渡された学院の案内書を読んでいた。貴族の子息が集まる学校と言っても一般の公立校とさほどの差はないだろうと思っていたのだが、どうやら根本的な感覚の違いが存在しているように感じて戸惑いを感じる。武が今まで考えていた『金持ち』や『貴族』は、もっと派手で豪華で煌びやかなものだった。

 確かに高価なものがそこここにあるのは確かだ。今寝転がっているソファは、高級品の知識のない武でも輸入品だろうと思える。寝室のクローゼットには、白い詰め襟の制服が夏用・冬用・春秋用がそれぞれ3着ずつ入っているし、中に着るシャツはシルクで何枚あるのかわからない。キングサイズのベッドに掛けられているシーツも、直接肌に触れるものはシルクを使用してある。シルクは人間の肌に一番優しい繊維である。病気治療の副作用で肌のトラブルを抱えた人などは、欧米ではシルクを身に付ける。実際に綿や化繊のような、着ている…という感覚がシルクにはない。まるで肌と同化するように感じられる。人間の肌に最も近い繊維、それがシルクなのである。

 敏感肌の武への配慮なのだろうか? 

「何も必要ないから、身一つで行きなさい」

 養父にそう言われてわずかな身の周り品だけバックに詰めて来たが、家具は備え付けでそれ以外はきちんと買い揃えられていた。 真新しいブランドもののカジュアルウェアより、安い量販店の方が馴染み深いけれど養父有人の対面もある。 恐らく母と相談しながら揃えてくれただろう数々のものを、蔑ろにするほど武は愚かでもない。

 それにしても広い室内に一人というのは、どうも居心地が悪い。つい数ヶ月前まで、母一人子一人で小さなアパートに住んでいたというのに、寮の自室はそれより広いのだ。学院中に知り合いは今のところは出迎えてくれた、生徒会長 六条 夕磨一人しかいない。その彼は入学式の準備とかでこの部屋に案内してくれた後、夕食を一緒にする約束だけして行ってしまった。あまりにも手持ち無沙汰で仕方なくテレビをつけた。有線放送が入っており、様々な番組が自由に観れる。余りテレビを観ない武にはちょっと贅沢な気がした。

 不意に携帯が鳴った。養父 有人からだった。 

『何か足らないものはないかね?』

「ありません。むしろこんなにしていただいて…ありがとうございます」 

『父親になった実感をする事が出来て、逆に私が感謝しているよ。学長や理事長に不慣れな事をちゃんと説明してあるけど、困った事があったら一人で悩まないで私に話してくれたまえ』

 大財閥の総帥にしては、穏やかな人だと武は思っていた。

 母の事をお願いして携帯を切ると、武はカードを手に立ち上がった。 食堂の横にあった売店(とは言っても、ちょっとしたスーパー程の大きさがあった)へ、買い物に出てみる気になったのだ。

 一般生徒寮に入ると、チラチラと見る視線を感じる。 そこここでかたまって、ひそひそと何やら話をしていた。問題は話をしている彼らの視線だった。

 ああ、またか…と武は思った。武は実の父を知らない。母は一人で武を産んで育てた。母には既に両親がなく、遺された遺産とパート勤めで武を育ててくれた。だが、母の懸命の努力と愛情など、世間は理解しないし興味も持たない。

 未婚の母、私生児。それだけで区別し、見下し、差別する。学校でも近所でも表立って陰湿なイジメに合ったが、武自身もよそよそしく冷たい表面だけの接触しかして来なかった。母が再婚しても、その家に養子になっても、事実は消えない。 素行調査や家柄調査をする学校だ。 個人情報と言っても、御園生家をある程度知っている者の一人や二人はいる筈で、この手の噂はあっという間に広がる。優しく案内してくれた生徒会長も、事実を知れば離れて行くだろう。上辺だけの付き合いの日々を過ごすのはもうなれている。

 何も望まなければいい。これまでと何も変わらないのだから。武は目を伏せて売店に入って、欲しいものを選んで購入した。

 視線はずっとまとわりついて来た。閉鎖的な学校の視線は、もっと冷たいように感じた。 




 夜、明かりをつけないままリビングで座っているとドアベルが鳴った。慌て時計を見ると、夕磨と約束した夕食の時間になっていた。約束は約束。武は明かりをつけてからドアを開いた。 

「待たせしてしまいましたね」 

「いえ、大丈夫です。行きましょう」

 笑顔で答える武に、夕磨は違和感を覚えた。 

「何かあったのですか」 

「え?いえ、何もありませんけど……」

 再び笑顔で答える武に夕磨は戸惑いながらも、本人が言わない事に踏み込まないのが、上流階級の暗黙のルールだ。噂は好きな癖に、面と向かって踏み込むのは礼を欠く。何か事情があるらしいと、おもんばかって黙って引き下がるのがこの国の貴族的な礼儀である。

 夕磨は武に笑顔を返して、食堂へと誘った。

 食堂では夕磨が一緒にいる為、先程のような視線は来なかった。



 入学式はあっさりしていた。

 武以外は中等部からの進級者という事もあり学長の祝辞も簡素であった。式に出席する保護者もいない。生徒側の代表者挨拶は本来ならばトップ成績の武がするものだが、外部編入生というのを理由に事前に辞退してある。

 武は1ーA所属になっていたが、入学式での席は特進特待生用だった。

 壇上に六条 夕磨が上がると生徒会長挨拶が始まった。普通ならばヤジや声援が飛びそうだが、この学院の生徒は武からすれば気持ち悪いくらいお行儀が良い。「良家の子息たるもの…」という教育が徹底されているのであろう。彼らはその家柄や立場から立ち振る舞いから人となりまで、多くの人々に注目され観察される。自分の感情の制御を人前できちんとできなければ、侮られ、足元を掬われかねない。

 昨今アメリカン・セレブの令嬢が問題を起こしてマスコミを賑わせているが、皇国や欧州の良家や貴族といった上流階級では、その立場にいる者の義務や責任といった上流意識を問われる恥ずべき行為である。自らの責任において全うしなければならない事であるならば、最後まで貫き通すのが当たり前なのである。

 上流階級やセレブというと金にあかせて、好きな事をしたり何でも融通がきくように考える人が多い。だが財閥・企業トップ・貴族・王族や皇族は、自分達が勝手な振る舞いをした場合のリスクを、きちんと理解し熟知している。むしろ庶民よりも制約が多く窮屈な生活をしている者が多いのが現実である。

 例えば日本の天皇家では「NO」を教えない。これは「NO」を言うと、かつてはそれを言わせてしまった人間を罰しなければならなかったからである。無闇に誰かを傷付けない為の配慮なのだ。これがどれほど難しい事か、一日で良いから、試してみると良い。ちょっとやそっとでは出来ない大変さだとすぐに思い知る事になる。

 本物の伝統を受け継ぐセレブは、良いものを吟味して購入する。金にあかせて買うのは、品位のない成り上がり者の行為として、一線をひくのである。我慢は楽しくはない筈…と思う人もいるだろう。だが、それが当たり前の家に生まれ育てば、苦痛にはならないのである。

 これが人間という存在なのだ。
 


 入学式が終了すると、武は特進特待生用の特別棟へ案内された。公立校の教室の倍程ある特待生用の教室は、企業の重役用の広さがある机が個々に用意されており、当然ながらインターネットに接続出来るようになっている。入学式の日もここでは自由参加ではあるが、授業が行われているデイトレードなどを行って、株取引などや予想を行う。その為には上場企業の情報収集などが必要であり、それは経営戦略の研究となる。財閥や大手企業系の子息ではなくても、経営術と帝王学は必要とされる。名家や良家の維持運営もまた、経営術と帝王学なのである。

 かつては身分の高い者は金勘定をしないルールだった。それは身分の低い者の仕事であった。少なくても日本と蓬莱ではそうであった。故に江戸幕府は滅んだと言っても良い。

 戦後、日本国では華族制度の廃止、財閥解体などがGHQ政策で進められ、蓬莱国も一時はその危機にさらされた。しかし独立を果たす事でかろうじて制度を温存でき、彼らは多くの事を学び生き残りをかけて奔走した。そういう意味では生き残った財閥や財産を保持している貴族は、学ぶべきものを学んで生き残って来たしたたかさを持っている。もちろん、個人的な差は存在する。財力と力を持てない弱い者は環境の中で、少しずつ疎外され脱落していく。有力で地位の高い貴族であってもすべては自己責任なのだ。

 武は金銭的な不自由さを余り感じた事はないが庶民の感覚でしかない。ゆえにこの学院に来てから戸惑う事ばかりに遭遇する。想像していた金持ち像は、テレビや漫画の作り出した幻でしかなかった。ノートPCを開いても、違和感しか湧いて来ない。

 確かに通常の高校以上のレベルの授業が、受けられるのは嬉しいと思う。だが公立の中学にいた時よりも冷え冷えとした雰囲気が、武を取り巻くのに心が凍り付く。それでも泣き言は言えない。言う訳にはいかないと決意して、今し方渡された高等部一般授業の教科書と特進授業用の教科書を、順番に開いてみた。一般授業用とは言っても、かなりレベルが高い。見た限り一応は理解出来る。それでもある程度は一般授業に出席してみなければ、わからないだろう……

 思わず一般授業の時間割と、特進授業の時間割を見比べる。どの授業に出席するか…そう思って時間割を睨んでいると、不意に肩を叩かれ振り向くと夕磨が立っていた。

「早々に時間割のチェックですか?」

「えっと…その、よくわからないので…」

「他校にはないシステムだと聞いていますから、戸惑うのは無理もない事だと思います。いつでも相談して下さい。

 それより、そろそろ昼食の時間です。食堂に行きませんか?」

「はい、ありがとうございます」

 この日、校舎の食堂を利用するのは、授業がある特待生と白鳳会だけである。武と夕磨が食堂に入ると、先に来ていた白鳳会のメンバーが振り返った。白鳳会には一部紺色の制服の一般生徒もいる。成績優秀で世界ランキングで上位にある大学に、留学する生徒が選抜されて参加する事が出来るのだ皇国一の学力を誇る皇国大学は年々、その世界的ランクを下げている。グローバル的に活動するならば、世界に出て行くのが常識とも言えた。

 自分に食堂中の眼差しが集中するが、武は無言で彼らに向かって頭を下げた。

 礼儀を尽くす。母が厳しく武に教えた事であった。相手がどんな態度をとろうとも、礼儀を尽くす事は必要であり人として大切な事であると。だから、絶対に挨拶や感謝も欠かさない。如何なる場合でも、これだけは守る。武は改めて決意したのだった。実の母である小夜子にも、高額の学費をだしてくれている義父にも、決して恥をかかせない優秀な生徒であろうという誓いでもあった。

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