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   敵対者

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 誕生日パーティーは何事もなく無事に終了した。少々拍子抜けはしたが、集まった懐かしい顔に武も夕麿も幸せな時間を過ごした。 



 その後は7月末の決算を控えて、社内全体が慌ただしい空気に包まれた。武と夕麿も一応はロサンゼルスで経験はしているが、何と言っても規模が違う。上がって来る報告書や決算書に、一日中振り回される日々をやっと抜けた。武もさすがに週4日を返上していたがやっと普通に戻った水曜日。 

 夕麿も疲れが溜まっているのか、うっかりとオフィスに忘れ物をして榊が取りに戻った。車が来るまでの時間、珍しく夕麿はロビーに一人だ。武が見たら不用心だと怒ったかもしれない。 出入り口などの警備は増やされているが、ここは外に一番近い場所なのだ。 

「あれ?六条さま?」 

「え?」 

 武と結婚して六条姓から離れて久しい。社の人間は夕麿を御園生姓でしか知らない。だから社内で呼ばれて驚いて振り返った。 

「立見…立見 美聖たちみびせいさん?」 

「ちゃんと名前を覚えてくださってたんだ。お久し振りです。私の卒業以来だから、10年振りくらい?」 

「そうなりますね。でもどうしてここに?」 

「御園生の海外プロジェクトに、うちの社が共同する事になりまして、私が出向に」 

「そうですか、では今後、顔を合わす事もあるかもしれませんね」 

「その時はよろしくお願いします。 

 では」 

「それでは」 

 ほんの少しすれ違っただけの昔の知り合い。夕麿にはただそれだけだった。COOとして仕事を続けている限り、このような再開はあるだろうと漠然と考えてはいたが、それがさほど重要だとは思わなかった。 

 立見 美聖は夕麿にとって彼はそれくらいの感覚の知り合いでしかなかった。 



 8月になり他社と共同海外プロジェクトの関係者の顔合わせを兼ねた、レセプションが行われる事になった。プロジェクト内容は地下資源開発事業で場所はアフリカの小国。 国際援助の一つとして国から費用の一部が出る。 

 また武と夕麿が秋に皇家として非公式公務が予定されていた。紫霞宮としての公務が国内では公表されない状態で、始まろうとしていたのである。当然ながら立見 美聖も出席していた。 

「六条さま」 

 武と共に会場を回っていて、当然ながら彼に声をかけられた。夕麿を六条姓で呼ぶ彼に、武が不快そうに顔をしかめた。 

「武、彼は立見 美聖さんといって、周さんの時の生徒会書記だった人です」 

「藤堂先輩以外の人に会ったのは初めてだな。確かみんな海外に留学して、国内に残ったのは周さんだけだって聞いてたけど」 

「ドイツに留学していました」 

「ドイツか…」 

 夕麿を六条姓で呼ぶ事から判断して彼は武を知らないらしい。御園生で顔を合わせるのも夕麿たちが社員だからとでも考えているのだろう。 

「夕麿さま、武君、お義父さまがお呼びです」 

 雅久が駆け寄って来た。有人が少し遅れてた為、パーティーが先に始まっていたのだ。互いの経営陣の挨拶がようやく始められるらしい。 

戸次へつぎ君?」 

 呼ばれて振り返った雅久には、美聖の記憶は存在しない。 

「あれ?」 

 その反応に眉をひそめた美聖に、夕麿が事故に遭って記憶を失ったと説明した。 

「ああ…だったら、私の事は覚えてないよね?」 

「申し訳ありません」 

 古い知り合いと再会する度に、過去の記憶が失われていると実感する。それ以外は普通に生活して感じる事はないというのに。 

「夕麿、兄さん、行くよ?」 

 悲しげに目を伏せた雅久を庇うように、武が二人を連れて行った。壇上で有人が武を紹介した。それを美聖が壁際に立って聞いている。 

「ね、あの背の高い人、カッコイイね?」 

「御曹司な訳よね? 狙おうかな~」 

 女の子たちが夕麿を見て、下心たっぷりの会話をしていた。すると年配の上司らしき男が口を開いた。 

「やめとくんだな。夕麿さまは財界では有名な女嫌いで横にいる武さんと夫婦だ。まして室町時代から続く摂関貴族出身の彼が、一介のOLに目を向けたりしない」 

「夫婦!?」 

「男同士で!?」 

「声が大きい。慎みたまえ、君たち。共同とは言っても、御園生のプロジェクトに参加させてもらってるのが真実だ。御曹司たちの不興を勝うような事がないように」 

 夕麿が武と夫婦。 

 美聖にはそれは驚きだった。

 誰も振り向かない。

 誰も愛さない。

 孤高の貴人。 

 難攻不落の氷壁。 

 そう呼ばれた彼が御園生へ養子に入り結婚した?だが観察していると確かに二人はさり気なく、視線を交わして微笑み合い、周囲を気にする事なく触れ合う。優しく微笑む夕麿の表情は、昔の彼を知る美聖から見れば、デレデレとしか表現出来ない有り様だった。 

 記憶を失ったという雅久が美しい面差しに笑みを浮かべて、二人のそんな様子を見詰めている。武が雅久を兄と呼んだ。何も知らない美聖はこの時、その事だけで武の身分を判断した。 

 プロジェクト・チームは御園生側で組まれ、そこに美聖が所属する企業からの出向物が加わる形になった。担当部署の仕事なので、武や夕麿は報告を受けるだけになる。ところが知り合いだという事で美聖が、彼の企業と御園生との橋渡し役になる事になった。彼は当然のように最上階に出入りする。 

 部外者がビルに出入りしている状態ゆえ、特務室から警護が一人常駐しているのだが…貴之が来ている時に美聖がやって来た。 

 相手企業との連絡事項などを交わした後、ちょっとした雑談から昔話になる。初めは笑って聞いていた武も、知らない話が並べられて居所がなくなって来た。雅久のその頃の事も話題になっている為、武は通宗に合図してそっと奥へ入った。 

 美聖は武をずっといない者扱いしている。腕時計を見て武は通宗に言った。 

「隣から俺の荷物を取って来てくれ」 

「お帰りになられますか?」 

「ああ、そうする。今日の予定は一応終わったし……ちょっと疲れた」 

「わかりました。あの、夕麿さまには…」 

「言わなくてもわかるさ。特務室には俺が連絡を入れる」 

「わかりました」 

 通宗が隣へ戻ったのを見て、武は深々と溜息を吐いた。 

 プロジェクト・チームといる時には、最小限の対応はしているのではあるが。そのプロジェクト・チームにしても、出向して来ている企業の者は武に素っ気ない。夕麿には丁寧に敬意を払って対応しているのに。その違いを夕麿たちに気付かせないように、美聖が巧妙に取り繕っていた。 

 武は紫霄の高等部に編入した頃を思い出していた。学院内で最も高き貴き身分の人間。夕麿はそういう立場にいて、武は彼に親切にしてもらうだけで嫌がらせを受けた。 

 御園生の養子。 

 どこの誰が父親だとわからない私生児。 

 それはあの学院では最も卑しき者。だから夕麿の側に寄るなどと罪深き行為だと。美聖がもし武の表向きの身元調査をしたならば、同じ結果になる筈である。武の本当の身分や立場を教えるには、彼は今のところ差し障りがあると判断されるだろう。彼の行為を夕麿たちは気付いていないし、通宗には口止めしてある。 

 今回のプロジェクトは外交的な意味合いも絡んでいる。秋の公務としての訪問が決まっている以上、紫霞宮という立場からも失敗は絶対に出来ないのだ。 

 自分が我慢すれば良い事だった。紫霞宮としての立場から見れば、美聖の行為は些細な嫌がらせに過ぎない。彼は事実を知らないのだから。優先されるべきは、国際援助としてのプロジェクトの成功だ。 

 9月には現地で建設中のプラントが、稼働を始める予定になっている。貴重な金属を含む地層を掘り出し、現地で金属のみを取り出し、皇国が優先的にが輸入する。 

 金属資源は今、国際的に取り合いになっている。中でも中国との競争は熾烈しれつになりつつある。皇国は日本と同じでは地下資源が少ない。工業製品の輸出で外貨を得るのが中心で、資源が得られなくなればそれだけで行き詰まってしまう。 

 プロジェクトと紫霞宮の訪問は、セットになっているのだ。失敗すれば数種類の金属資源を得るチャンスが失われる。 

 今のところは美聖の嫌がらせと多分、それに派生している出向者の態度だけで、プロジェクト自体は順調に進行している。 

 帰宅して部屋に戻って、再び深々と溜息を吐いた。 

「お疲れであらしゃりますか?」 

 絹子が上着を脱がせてくれながら心配そうに訊いて来た。 

「少しね」 

「周さまをお呼びいたしますか?」 

「いや…少し横になる。夕食には起こして、絹子さん」 

「承知いたしました」 

 周の顔を見れば美聖の事を訊きたくなる。情報を得れば逆にイライラが増えるような気がしていた。自分のこの手の感が外れないのを知っている。今この時点で美聖とこじれればプロジェクトに影響が出る。夕麿に何か害がある訳でもない。自分だけの問題なのだ。ならば敢えて波風は立ててはいけないと武は判断した。 




「武、大丈夫ですか?」 

 夕麿が帰宅した時、ちょうど絹子が武を起こしたところだった。 

「寝たから大丈夫」 

 笑顔を向けて答えると夕麿はホッとした顔をした。 

「その…今日はすみません」 

「何が?」 

「あなたを仲間外れにしたようなので…」 

「ああ。気にすんな。雅久兄さんの為には必要だろ?」 

「そうかもしれませんが、立見さんがあなたを蔑ろにしているように感じるのです」 

 夕麿とて彼の巧妙なやり口に騙され続けている筈はない。見るべき所は見ている。 

「仕方ないだろ?俺の事は表向きの事しかわからない筈だから。紫霄に編入した時と同じだ。気にしてない」 

「武……」 

「今、最も大事なのはプロジェクトの成功だ。あの人の言動はさほど重要じゃない」 

 笑顔で答えると夕麿は目を伏せた。

「そんな顔をするな」

「でも、私はあなたが軽んじられるのは我慢がなりません」

 武がその身分に合わない扱いを受けている。しかも最も低い位置に置かれているのだ。これ以上の侮辱はない。夕麿にとって自分が侮辱されるよりいたたまれなく、悲しさと憤りを感じる事だった。

 武はそんな夕麿をしっかりと抱き締めた。

「ありがとうな、夕麿。でも俺は大丈夫だ。頑張ってプロジェクトを成功させよう」

「はい」

 更にのし掛かる重圧から逃げる術すべはない。

 それは夕麿もわかっている。わかっているから心配なのだ。最近になってやっと回復していた武の食欲が、再び減り始めている。昔ならば発熱などの症状を心配した。しかし今はあの症状を再び引き起こす原因にならないか。ストレスが原因と言う診断が下っているだけに心配でならなかった。

 武の身体への負担と自身の恐怖が夕麿を苦しめる。武にしても平気な振りをしているに過ぎない。武の身分を公に出来ない以上、このような事は幾らでもあるだろう。

 紫霞宮の名前がある限り、公務は責任や義務として絶対に失敗は許されない。外交的問題になってしまう。 

 本当は嫌だった。武が公務に行くという事は、必然的に妃として夕麿も同行する。通常、王家や皇家は同性愛者がいても公式には隠すものである。夕麿を晒し者にしたくない。そう思ったのだが許可されなかった。 夕麿も如何に周囲が一緒だと言っても、武だけを行かせるのを嫌がった。自分たちの結び付きを恥じてはいない。けれども未だ偏見と差別が強い世の中で、夕麿が侮辱されるのが耐えられないのだ 彼を愛すると共に尊敬しているから。 

 武の想いは政治には通じない。個人的な感情で公的な事を左右させてはならない。わかっているからこそ受け入れたのだ。本来は担当者に全面的に任せるプロジェクトに、武と夕麿が関わらざるを得ないのは公務が関与しているからだ。 

 美聖の存在は武の身分や立場を知らないにしてもプロジェクト進行に今後、何だかの問題をもたらすかもしれない…と夕麿は考えていた。彼は夕麿の伴侶としての武を、貶める事しか考えていないのではないだろうか。国益や国際援助を考えなければならないプロジェクト……いや、そもそも仕事であるという感覚を失っているのではないか。 そう思ってしまう。 

 紫霞宮という身分を除いても、武は御園生の次期総帥なのだ。他社の人間にこうまで軽んじられては、御園生全体の体面にも影響する。武が先に帰った後、夕麿はこれについて有人に相談に行ったのだ。その結果、有人が向こうの企業の経営者に直接、美聖の事で話し合いをしてくれると約束してくれた。向こうの経営者は武の身分を知っているらしい。

 美聖が武に対する態度をどうしても改めないならば、排除する事も視野に入れなくてはならなかった。否が応でも紫霞宮としての責務を背負う武が、少しでも楽になるように。妃としての役目であると同時に深い愛情から、考えを巡らせて出来得る限りの手を尽くすつもりだった。



 最近、夕麿が外に出る事が増えた。武はデスクワークを全面的に引き受けて、朝から晩までPCと書類に格闘している。

 その中で通宗が休暇を取った。彼の従兄 赤佐 実彦あかささねひこが帰国し、国内では初めて出演するコンサートがあるのだ。仕事だからと遠慮する通宗の為に、武がチケットを手に入れて休暇を与えた。コンサートは夕方からだが、出社すると雑事に振り回されて行けなくなる可能性がある。実彦は通宗にはたった一人の身内だ。ちゃんとコンサートへ行かせたかったのだ。

 広い執務室に一人、時折、智恭が手伝いに来てくれるが、午後の休憩の後は少し仕事も落ち着いた。今日は雅久も不在だ 欧州の王族が今、蓬莱皇国を訪問中で、晩餐会の前に雅久の舞をと打診があった。今上直々に武に話が来たので、雅久の気持ちを確認した上で承諾したのだ。準備などに朝から義勝や絹子と一緒に迎賓館へ行っている。 

 仕事に区切りがついたので、一休みしようと椅子から立ち上がった。昼休みの前から身体が熱っぽく怠い。ずっと座っていた所為か、全身に力が入らない。 

「夏風邪でもひいたかなあ…この忙しい時に」 

 自分の不注意さに溜息を吐きながら、急須にポットの湯を注いだ。お茶菓子も用意されているが何となく手が伸びない。湯呑みだけをトレイに乗せて戻り椅子に身を投げ出した。帰宅時に周に連絡して診察してもらおう。お茶を飲みながらそう決めた。通宗がいたら頼む事だが、今日は自分でやらなければならない。

 お茶を飲み干してトレイに湯呑みを戻した時だった。セキュリティーが解除される音がした。室内の人間が解除しなくても入れる人間は限定されている。今、社内にいる人間では智恭くらいしかいない筈だ。だが彼ならば連絡を入れてから来る。夕麿たちがこんなに早く帰って来る筈がない。武は椅子から身を起こした。携帯で雫の番号に2度コールして切った。 

 ロサンゼルスにいた時からのSOSのやり方だ。 

 セキュリティーは最上階へのパスと暗証番号で解除する。ここのところの多忙さで、暗証番号を変更していなかった。 

 ドアが開いた。美聖が残忍な笑みを浮かべて入って来た。美聖からは殺気とも取れる気配が漂っていた。とっさに気合い弾を放ったが、体調が悪い為に集中に欠けて威力がない。 

「ふうん、護身術?効かないけど?」 

 嘲笑いながら踏み出して来る。武が一歩下がると、彼はいきなり駆け寄って来た。拳が振り上げられる。手を上げてガードしたが、勢いと武自身の不安定さで、机に叩き付けられた。 床に崩れ落ちると、襟元を掴まれて引きずり起こされる。 

「最低だよね、君は。夕麿さまが学院に閉じ込められるのを、金で買って自分のものにしたんだから」 

 人間というのは困ったもので、知り得た情報を自分の都合で、勝手に歪曲してしまう時がある。一度歪曲してすると、それ以外は見えないのだ。 

 武が金で夕麿を手に入れた。紫霄時代の夕麿を知っているなら、彼が極度の接触障害を持っていたのを知っている筈なのだ。金で買ったならば、夫婦睦まじくいれる筈がない。夕麿が武を受け入れてデレデレ状態であるならば、それは本人が愛情を持っている証拠。 

 だが美聖は自分の視点の歪みがわからない。自分が間違った答えを出した事に気付かずに、一方的に武を悪者にしてしまったのだ。 

「浅ましいね!私が夕麿さまに近付くのが気に入らない?上司に言って私を排除しようなんてやる事が汚いよね。汚いって…認めなよ!?」 

 彼が口にする事は武には身に覚えがない。 

「君みたいな最低な奴は、制裁して痛い目に合わせないと、絶対に悟らないんだよね!」 

 言葉を発しながら武の頬を連続して平手打ちする。武は渾身の力を振り絞って、自分より大柄な美聖を突き飛ばした。這いながら逃げて身を起こす。起き上がった美聖に再び殴られ、壁に造り付けの棚に叩き付けられる。飾ってあった金属製の像が武の頭を直撃した。 

 一瞬、意識が飛んだ。だがすぐに美聖に馬乗りになられた。もがき足掻く武のネクタイを引き抜いて、両手を縛り上げる。 

「放せ!」 

 睨み付けて叫ぶと殴られた。頭を打った事と殴打の両方で、意識が朦朧もうろうとして抵抗する力を失う。それを見て美聖は武のシャツのボタンを引き千切った。 

「!?」 

 シャツの下の白い肌には昨夜、夕麿が付けた痕が花びらのように無数に散っていた。それが美聖の更なる怒りを煽った。両手が細い首に絡み付く。ギリギリと締まる指に、武は僅かに身じろきしたが抵抗にはならなかった。 


「夕麿!」 

 出先から帰る途中で立ち寄ったレストランで、夕麿は周に声をかけられた。 

「珍しいですね、周さん」 

「ちょっと近くに用があって来たんだ。珍しいのはお前だろう?こんな所で何をしてるんだ?」 

「少し気に生る事がありまして……」

 周の問いに夕麿は美聖の事を話した。みるみるうちに周の顔から血の気が引いた。 

「武さまに警護は?」 

「特務室に仕事が入ったとかで、今日は不在の筈です」 

「武さまが危険かもしれない…あのな、立見 美聖はお前が好きだったんだ。お前が告白して来る奴をこっぴどく振るんで立見は告白はしなかった。だが、お前と少なからず付き合いがあった奴の中には、立見に嫌がらせや暴力を振るわれたのがいるんだ」 

「そんな…」 

 初めて聞く話だった。その通りならば仕事をそっち除けで、武の嫌がらせに熱心な意味がわかる。 

「武は…今、一人です…」 

 周と一緒にレストランを飛び出して互いの車に乗った。雫に電話をかけようとスマホを取り出した途端、彼からのコールが来た。武からSOSコールが来たと言う。貴之たちが向かったと聞いて、周から聞いた美聖の話を伝えて今、彼も一緒に帰社するところだと答えた。 

 逸る気持ちだけではどうにもならない。車がビルに到着して警護の千種 康孝ちぐさやすたかが、安全確認する暇も考えずに飛び出した。エレベーターが上昇する時間すら無限に感じる。ドアが開いて駆け出すと彼らのオフィスのドアは開けっ放しになっていた。 

 中へ入ると貴之が美聖を床に押し付けて、手錠を後ろ手に掛けているところだった。武は清方が抱き起こして、懸命に名前を呼んでいる。 顔が腫れ上がり血まみれだった。カッと怒りで目の前が真っ赤に染まった。踏み出そうとした夕麿を背後から周が抱き止めた。 

「落ち着け、夕麿!どうしてお前は武さまの事になると見境がなくなるんだ!」 

 過去に軽い気持ちでからかって、夕麿に殴られた記憶がある周は、必死になって止めに入った。 

 貴之が立ち上がる。 

「夕麿さま、代わりに俺が殴っておきました」 

 足で蹴り転がされた美聖には意識がなかった。 

「武…武!」 

 周の手を振り払って武に駆け寄った。 

「何て…酷い事を…」 

 清方から武の身体を受け取り、泣きながら抱き締めた。 

「応急処置をして救急車を呼びました 周、一緒にお願いします」 

 清方の言葉に周が無言で頷いた。 

 病院へ搬送された結果、頭部裂傷で3針の縫合。右頬骨にひびが入り、顔や背中に酷い打撲傷と診断された。ネクタイで縛られていた手首は、武の抵抗を物語るように無残な傷になっていた。かなりの重傷である。 意識がないのは頭を打った事で、脳震盪のうしんとうを起こしたものと判断された。数時間後に意識を回復したが、武は発作状態に陥っていた。 

「恐らくは立見が暴行する前に、初期症状が出られていたと思われます」 

 美聖一人が相手ならば体格差があっても、現在の武ならば合気道で対抗出来る力がある。貴之は清方の電話での問い合わせにそう答えた。初期症状で集中力に欠き体調も崩していた。 そう考えなければ、武が体格の差があっても狭い室内でここまでになる理由がつかない。相手が一人で室内ならば壁などへのバウンドを利用して、もう少し相手にダメージを与えられるくらいには実力を身につけている。必死に抵抗したらしいのは、室内の荒れようからも判断でいるからこそだ。 

 目覚めた武は発作状態でも恐怖は記憶しているらしく、身動きすると痛む傷も相俟あいまって夕麿の手を弱々しく握って放さない。時々、涙を溢れさせる。幻覚を見るような状態にはなっていなかったが、以前に増して幼子のようになっていた。頭も顔も包帯に包まれた姿に、夕麿まで涙ぐんでしまう程、痛々しい状態だった。 

 知らせを聞いた小夜子が絹子を伴って駆け付けた。母の顔を見て武は本格的に泣き出してしまった。 



 警察庁の中へと連行され取り調べの中で美聖は、武の身分を知らされて茫然となった。まるで悪夢から目覚めたかのように自分の罪に驚愕して震えた。 

 皇家への絶対的忠誠心。紫霄学院では徹底的に受ける教育である。彼は知らなかったとはいえ浅はかな執着から来る嫉妬で、皇家の人間に暴力を振るって全治1ヶ月の重傷を負わせてしまったのだ。もし貴之が駆け付けるのが遅れていれば、あのまま絞め殺していたかもしれなかった。 

「わかっているだろうが、ただの傷害ではすまないからな」 

 皇家を害する事は国家叛逆と等しい。警察官を殺傷した時に通常よりも重い罪に問われるように、美聖も同じかそれ以上の罪に問われるだろう。 

 雫は取り調べを終えた後、夕麿が必要以上に罪の意識を抱かないかが心配になった。過去の彼の言動は極度の接触恐怖症から出ている。それでも前に進もうと必死になり、余計に傷付き症状が悪化した。犯罪心理学とはいえ専門分野を学んだ雫には、夕麿のその頃の状態がわかる気がしていた。

 

 武は3日程入院して御園生邸に帰った。入院中は夕麿が付きっきりだった。だが盆休みが迫っている。武の世話を絹子に任せて、後ろ髪を引かれる想いで出社した。 

「夕麿さま!武さまは如何ですか?」 

 智恭を始めとする経営ルームスタッフが、エレベーター前で駆け寄って来た。 

「顔の腫れはかなり引きました。熱ももうありませんから、後は時間が癒してくれるでしょう。 

 心配をかけましたね」 

 夕麿の穏やかな笑みを見て、全員から安堵の溜息が漏れた。 

「申し訳ございません。私が相良君の代わりにお側にいるべきでした」 

 深々と頭を下げて謝罪する智恭に、夕麿は首を振って答えた。 

「あなたには責任はありません。今回は間が悪かったのです。本当はあってはならないのかもしれませんが、時々神々の悪戯のようにこのような事が起こるものです。誰かを責めても何もなりません。私たち一人ひとりが省みて、正しく学ぶ事が大切ではないでしょうか」 

 逢魔が時。それはロサンゼルスでも経験した事だった。いや、振り返れば紫霄でも同じように逢魔が時があり事件が起こった。多々良 正恒たたらまさつねが特別室に侵入したあの事件も、今から思えば逢魔が時だった気がする。 

 思い出したくない記憶。けれど何かの折に鮮やかにはっきりと蘇ってしまう。今回、武が負った怪我はあの時の自分のようで、見ているだけで痛みを感じてしまう。 

「夕麿さま…?」 

 笑顔が消えて立ち竦む夕麿を、心配した智恭が声をかけた。 

「あ…」 

 ハッと我に帰った。 

「兎に角、君には何の責任もありませんから」 

「ほう、寛大な事だな、お貴族さまは」 

 振り返ると専務が部下を連れて立っていた。 

「おはようございます、専務。挨拶ものうてそれは、あんましにも失礼やあらしませんか?」 

 横に控えていた榊が、夕麿を庇うように進み出て言う。 

「朝っぱらからエレベーター前で、御高説を垂れる程ではないと思うが?」 

「御高説や言わはりますか?それはあんじょう堪忍です。どこぞ、お耳に痛いようなとこ、おましたやろか?」 

 榊は一歩も退くつもりはない様子だ。 

「榊、やめなさい。確かにエレベーター前で邪魔をしていたのは確かです。エレベーターも来ましたから行きましょう。 

 持明院君、後で執務室へ来てください」 

「承知いたしました」 

 胸に手を当てて頭を垂れて返事をする。その様子を専務は鼻で笑う。夕麿をエレベーターに乗せてから榊が振り返った。 

「ほな、あんたさんのエレベーター前を邪魔して、えろうすんまへんでした。どうぞごゆっくり」 

 旧都独特の嫌みを言って、自分もエレベーターに乗ってドアを閉めた。 

 夕麿が後ろで笑い声をあげた。 

「面白い言い方ですね」 

「はあ…」 

 武がよくツッコミを入れる気持ちが、この時に榊にもよくわかった。夕麿のツボがよくわからない。 



 プロジェクトそのものは順調に進行していた。相手企業のトップが病院に見舞いに来たが、周が面会の許可を出さなかったので、夕麿だけが会った。 

 今回の事件は美聖の個人的私怨として取り扱う。夕麿はそれが武の意志だと答えた。出向しているプロジェクトの関係者も、それまでとは違う雰囲気になっていた。ひとまずはプロジェクトに関する問題はなくなったと判断した。 

 出社しても出来るだけ早く帰宅する。武の状態を改善するには夕麿が側にいる必要がある。清方の指示に今は従うしかなかった。 

 武の症状は盆休みにはかなり回復し、意識はほとんど普段の状態にまでになった。声も掠れながらも、会話出来るくらいになった。ただ今回は四肢の麻痺が強く、ほとんど寝た切り状態になっていた。食欲は相変わらず低く、自分で食べられないのも原因と見られた。 

 傷は頭と頬以外はほぼ回復した。頭に巻かれた包帯と、左頬のガーゼが未だ痛々しかった。
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