上 下
29 / 29

   春の夢~おまけ

しおりを挟む
あの船旅から何年過ぎたのだろう……いつの間にかカレンダーを見なくなった。邸の中から一歩だって外に出る事が許されなくなった俺は、今日が何年の何月何日なのか…既にわからなくなってしまっている。 

 結局……夕麿は俺とも接触出来なくなって、帰宅しても尚、邸内での別居が続いた。 

 だから俺は決意した。あのまま夕麿を俺の側に留め置いても、誰も救われず誰も幸せにはならない。夕麿には憎まれてしまうのを覚悟で、俺は彼と別れる手続きを取った。当然ながら周囲は猛反対したが最終的に受け入れてくれた。 

 夕麿は俺の命に従い六条家に戻った。 

 そして……周囲の薦めに従って音大に入学、欧州で行われたコンテストで優勝。今では人気のピアニストになっているらしい。誰かの言葉が真実ならば。 

 何しろ今の俺にはは、TVも新聞も与えられる事はない。PCはネットと接続されてはいないし、携帯もスマホも持っていない。 

 夕麿を失った俺はこの御園生邸に閉じ込められる事になった。当然、紫霞宮の名も返上した。ただ組紐と織物の製作は許されたので、決して姿を現さない作家として『蓮華》の名はそれなりに知られている。 

 御園生は藤堂 影暁とうどうかげあき先輩を養子に迎えて、雅久兄さん、義勝兄さんの3人で協力して俺と夕麿がいなくなった穴を埋めた。 

 特務室は警護の任を解かれ、今ではプロファイル専門の部署になった。 

 周さんは今も変わらずに俺の主治医でいてくれる。 

 御厨と貴之先輩、それに影暁さんと麗先輩は同じ邸内に住んでいる。 

 彼らは時々、俺と話しに来てくれる。今回の事で一番縁遠くなってしまったのは……貴之先輩以外の特務室のみんな。雫さんと遠くなって必然的に清方先生とも遠くなった。仕方がないと思う。 

 物思いに耽りながら手を動かしていると、背後でドアを叩く音がした。 

「開いてるよ~」 

 手を止めないで言うとドアが背後で開いた。 

「武さま、|昼餉《ひるげ』のお時間でございます。余り根を詰められるといけません」 

 絹子さんだった。彼女は夕麿の要請で此処に残り俺の面倒を見てくれている。 

「もうそんな時間?わかった、すぐに行くよ」 

 行くとは言っても今の俺には、家族と食卓を囲む…なんて事は出来ない。一人住まいになった離れの1階で、彼女の給仕を受けながら一人で食べる。いつの間にかこれも当たり前の日常になった。 

 ダイニングテーブルの上にあったのは鍋焼うどん。多分、母さんの手作り。 

「母さん、帰って来てるの?」 

「昨夜遅くに戻られたみたいです」 

「そっか…」 

 実の母親で同じ邸内にいても今は顔を合わすのは稀だ。別に許可がないと会えない訳じゃない。ただ母さんは夕麿を六条家に返す事に、一番最後まで反対してたんだ。俺の処遇がどうなるのか、あの時点ではわからなかった…というのも原因の一つだった。俺の説得で渋々承諾したっけ。だから滅多に顔を合わさなくなった。 

 気まずいんだよな、お互いに。 

 もっとも母さんだけじゃない。義勝兄さんもここには来ない。たまに麗先輩がスイーツ持ってきてくれたりするけど、大抵は絹子さんとだけってのが普通。俺もこの離れから滅多に出ないからな。 

 希に至っては声すら聞いていない。ここには近付かないようにでも言われてるかな? 

 発作は相変わらずだ。もっとも頻度は減って忘れた頃にやって来る。入院も出来なくなったから、周さんが此処で対応出来ない病気とか症状を起こしたら、俺はそれで終わりなのだと思っている。夕麿を解放した時点で、その覚悟は出来てるから構わない。ただ…夕麿が自分の自由に対して罪の意識を持たないように、俺は此処で生き続けると決めたんだ。 

「絹子さん、糸が足りなくなりそうなんだ。後でお願い出来る?」 

「承知いたしました」 

 自分で糸を染められないので、専門の業者から購入している。結構品揃えが良いんだ。御厨と貴之先輩が探してくれた。 

「他に何か御入り用の物は、あられませんか?」 

「ん…これと言ってないかな」 

 うん。欲しいものはもうこの手では掴めないんだ。だから何もいらない。 

 時間は俺の周りをただ流れて行く。今日は何日で、季節は何か…なんて今の俺には何の意味も持たない。空気の入れ換えとか掃除以外で窓を開ける事もない。離れで季節を感じるとしたら、旬の食べ物が食卓に上がる事と…雅久兄さんが活けてくれる花。そして、麗先輩のスイーツくらいかな?それすら気が付かない時もある。 

 変化は何処かにあるのかもしれないけど、俺にはそれがわからない。わかりたくない。過ぎ去る時間の傍観者で良い。俺は此処で生きているけど…活きてはいないのだから。 

 組紐や織物に使用する糸の色はわかる。でもそれ以外の色はあってもなくても、困らないし必要だと思わない。音も日常の作業や生活で出る以外はいらない。 

 いや…最も必要がないのは感情だろう。今更、喜怒哀楽はいらないと思わないか?何の為に笑って泣いて怒る?誰に向かってそんな感情を表す必要があるんだ? 

 俺は毎日の大半を製作に費やしている。一人の作業は淡々と続けるだけだ。 

 食事だと言われるから食べる。もう寝る時間だと言われ、朝だと起こされるから起きる。 

 呼吸をして動いていられれば良いんだろう?俺はそう思っている。 

 滔々と流れる大河のように、今の心は穏やかで静寂だ。波風が立たない夕凪のような状態の分…情熱も歓喜もない。かつてあった筈の感情の起伏は起こらない。 

 夕麿への愛情は存在してる。だからこそ俺は此処で生きている。彼が自分のやりたい事に羽搏き続けているのを、俺はそう嬉しく思うし幸せに感じている。二度とこの腕に抱く締める事も…彼に抱き締められる事もないけれど。 

 それでも俺は…夕麿だけを愛している。願わくは彼に俺に変わる誰かを見付けて欲しい。今よりももっともっと幸せになって欲しい。 

 俺はそれだけは毎日忘れずに祈ってる。俺が出来なくなった事が出来て…夕麿に与えられなかったものをあげて欲しい。そんな相手は必ず存在すると信じている。 

 夕麿…… 

 夕麿…… 

 幸せになってくれ。その為に俺は生きているのだから。 

 神さま、俺の何と引き換えても良いから、夕麿に幸せをください。 

 俺は…生命だって差し出せる!! 何もいらないから…何も必要じゃないから。全てあなたに捧げるから。どうか…どうかどうかどうか…夕麿が幸せでありますように。俺は…幸せにはしてあげられなかったから。 い想いや悲しい想いばかりさせたから。祈る事しか出来ないから。 

 ごめんな…夕麿。そしてありがとう。俺はお前と過ごせて、愛してもらえて幸せだった。 



「武さま…お客さまです」 

 変わらない…何の変化もないある日、珍しく離れに顔を見せた文月が言った。 

「客?」 

 誰だろう…今更誰が俺に会いたいと言うのか?物好きもいたものだ。取り敢えず…追い返す理由はないから会う事にした。 

 彼が案内して来た人物を見て俺は言葉を失った。 

「お久し振りです、武さま」 

 記憶にあるよりも少し…低く響く声。時間の経過を示すのはそれだけのような気がする。 

「夕麿……元気そうだな…」 

 振り絞った声は掠れていた。胸が痛い…苦しい…でも…愛しい…… 失った筈の感情が一気に俺の胸を吹き荒れた。 

「何か…あったのか?」 

 そうだ。夕麿は俺を憎んで恨んでいる筈だ。突然に別れを告げて御園生から追い出したのだから。 

「これをお渡ししたくて」 

 差し出されたのは1枚のCDだった。 

「私の最後のCDです」 

「最後?ピアニスト…辞めるのか?」 

「はい。他に叶えたい事がありますので」 

「そうか」 

 もったいないとは思うけれど、夕麿が望むならば良いと思う。 

「再婚…しようかと思っています」 

 ああ…とうとうその時が来たのだ。祈り続けた願いが叶う日が。 

「それは…おめでとう…」 

 これで俺の役目も終わる。 

「ですが…私の想いを受け入れていただけるかわからないのです」 

 夕麿は澄んだ瞳で俺を見てそう言った。 

「じゃあ、こんな所にいないで早く相手に求婚して来い」 

 大丈夫だ、お前がその人と無事再婚するまで…いや、幸せを見届けるまでは生きているから。 

「では…そういたします」 

 夕麿が立ち上がるのを見て俯いて唇を噛み締めた。 

 笑顔になれ、俺。一番望んでいた事だろう……笑顔で祝福して送り出してやるんだ。自分を叱咤して顔を上げると夕麿が俺の側に来て跪いた。 

「此処から出てから…片時もあなたを忘れた事はありません。誰に出会ってもあなたと比べてしまう…私にはあなたしかいません。

 あなたが必要なのです。どうか…もう一度、あなたのお側にいさせてください」

 言葉なんか出ない。目の前の光景が信じられなかった。視界が歪む。

「俺は…俺は…お前を…捨てたのだぞ…」

「あなたに触れる事が出来なくなった私を解放して、好きな事をさせてくださる為だった。

 違いますか?」

 そうだ…そうだけど……夕麿は傷付いた筈だ。

「俺が憎くないのか?恨んでいるだろう?」

「恨まなかったと言ったら嘘になります。でも…あなたが邸に閉じ込められたと訊いて、やっと理由がわかりました。だから音大に行って…コンテストに出ました。優勝してピアニストになりました。きっとあなたは此処で生きて、私を見ていてくださるとわかっていましたから。此処に帰って来る為に、今日を願ってひたすらに生きて来ました」

 夕麿が俺の手を取った。

「やっとあなたに触れる事が出来るようになりました。だから帰って来ました」

「夕麿…夕麿…」

 手を握り返して泣く事しか出来なかった。

「もう一度、私と結婚してください、武」

 しっかりと抱き締められて、俺はただ泣きじゃくりながら頷くしか出来なかった……



「……という夢を見た」

 どうやら夢を見て俺は泣いていたらしい。夕麿に揺り起こされて夢だった事がわかった。

「よりによって…何と言う夢を見るんですか、あなたは。縁起でもない」

 柳眉を逆立てて不満一杯という顔をする。

「でもちゃんと帰って来てくれたんだ…夢でも嬉しかった」

「当たり前です。私の居場所はあなたの側以外にはありません。そんな不吉な夢は忘れてください」

「ん…じゃあ、忘れさせて」

「良いですよ、望むところです。容赦しませんからね」

 俺は答える代わりに夕麿に両腕を差し出した。しっかりと抱き締められて、胸が一杯になって熱い。

 そうだ。夢の中の俺は本当は夕麿を待っていた。自分で追い出しておいて、憎まれているかもしれないのに。戻っては来ないんだと想いながら、それでも待っていたんだ。悲しくて…辛くて…事実を受け入れられなくて、感情を心の奥に押し込めて封じても……待っていた。

「夕麿…夕麿…」

 縋ればその温もりと匂いが俺を包む。愛しくて…哀しかった。

「私は何処にも行きません。ずっとあなたの側にいます。この魂の続く限り」

「うん…お前と離れたくない…」

 あの船旅から半年余り。夕麿が俺にも触れられなくなって…俺はあの時、夢の中と同じ事を考えていた。再び俺に触れられなくなった夕麿が、俺の為に苦しむ姿を見たくはなかったから。殺されても良いから夕麿を俺という鳥籠から、広大な大空へと解き放ちたいと思った。だからあれは何処か別の世界の俺だったのかもしれない。だって紙一重だったのではないかと思う。

「まさか…あの時にあなたは…」

 縋り付いたまま唇を噛み締めたのい気付いて、夕麿は身体を放して俺を見た。

「そこまであなたを苦しめてしまったのですね」

 出来れば夕麿にはあの時の俺の想いを知らせたくはなかった。それなのにどうして今更…夢を見たのだろう。夢の中身だって話したくなかったけど、夕麿の名前を呼んで泣いていたらしいから、納得させるには話すしかなかった。

 本当は何処にも行かせたくなかった。でも苦しむ原因が俺にあるなら他にどんな方法がある?

「愛しています、あなただけを。いつも私の事を一番に考えてくださる事を感謝しています。ですが…あなたの側以外に私の居るべき場所はありません」

 その言葉と表情が夢と重なる。

「欲しい…夕麿が欲しい」

 確かな熱と脈動を感じたい。まだ気持ちは半分、夢の中の俺とシンクロしている。夕麿と一つになりたい。俺の気持ちがわかったのか、たっぷりとジェルが塗られてすぐに夕麿が挿って来た。

「ああッ…ン…」

 中を一杯に拡げて充たす熱と質量感…俺のものとは別の脈動…… 夢の中の俺は一体どれだけ待っていたのだろうか。

 眼が熱い……涙が溢れて来た。

「夕麿…夕麿…夕麿…」

 寝る前にも抱き合った筈なのに、胸が痛い程切なくて…歓びと愛しさで一杯になる。

 夕麿が微笑んだ。

「愛しています、武」

 大好きな声でもっと言って欲しい。

「動きますよ」

 甘い囁きに頬が熱い。

「あッ!!…ああッ…」

 心の歓びに与えられる身体の悦びが重なる。

「夕麿…イイ…もっと…ンぁ…」

 甘くて…熱い。ドロドロに溶けてしまいそうだ。

「もっと感じてください…」

 夕麿の声にエコーがかかって聞こえる。感覚だけが脳を一杯にする。

「あッああッ…ダメぇ…そこ…ンン…イイ…」

 風船が膨らむ様に、快感が増大して膨らんでいく。

「ぅあッ…あン…イく…ああああぁぁぁ…!!!」

 弾けた感覚に全身が震える。 次いで夕麿が中に熱を放つ。 深い満足が幸福感となって、俺は覆い被さって来た夕麿の背に腕を回した。

 夕麿を愛してると言える幸せ。

 こうして肌を重ねる幸福。

「ああ…そうか…」

 想い至った事に胸が詰まる。鼻の奧がツンとして涙が溢れて来た。

「武?」

 俺の様子に驚いた夕麿が身を起こした。

「どうしたのですか?」

「司さんたちの気持ちが今わかった」

「え?」

 俺は今、二人で死を選んだ彼らの気持ちがわかった気がした。引き裂かれるという事が、逢う事も触れ合う事も出来なくなるが、 わかっているつもりだった。

 でもそれは違う。わかったつもりになっていただけだ。誰かが死んでしまう事でいなくなるのを、ただ寂しく感じていたに過ぎなかった。

 俺はそう夕麿に言った。

「でもあなたは私を待っていてくださいました。あの時も、夢の中でも」

「だって…約束しただろう?お前と生きる明日を信じるって」

 そうだ。俺はロサンジェルスへ向かう飛行機の中で、夕麿にそう言って約束した。夢の中の俺もその約束を心の何処かで忘れていなかったんだ。

 でも慈園院 司さんと星合 清治さんには、そんな約束は出来る筈がなかったんだ。そう思ったら清方先生と雫さんは凄いと思う。離れ離れになっても、逢えなくても…愛は消えない。

 夕麿は俺の側にいて、愛してると言ってくれる。抱き締めてくれる。その愛を信じなくてどうする?

 そして…自分自身の胸をしめるこの想いも信じている。

「夕麿」

「はい」

「ずっと俺の側にいてくれ。何処にも行くな」

「はい、我が君」

「ん…ありがとう…」

 夕麿が幸せそうに笑った。

 俺が見たかったもの。守りたかったもの。それが今目の前にある。

 歩いて行こう。

「もう少し寝る」

「はい」

 甘えたくて夕麿に抱き付いて、胸に頬を当てて眼を閉じた。

 今度はきっと良い夢を見たい……


しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...