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春の夢~おまけ
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あの船旅から何年過ぎたのだろう……いつの間にかカレンダーを見なくなった。邸の中から一歩だって外に出る事が許されなくなった俺は、今日が何年の何月何日なのか…既にわからなくなってしまっている。
結局……夕麿は俺とも接触出来なくなって、帰宅しても尚、邸内での別居が続いた。
だから俺は決意した。あのまま夕麿を俺の側に留め置いても、誰も救われず誰も幸せにはならない。夕麿には憎まれてしまうのを覚悟で、俺は彼と別れる手続きを取った。当然ながら周囲は猛反対したが最終的に受け入れてくれた。
夕麿は俺の命に従い六条家に戻った。
そして……周囲の薦めに従って音大に入学、欧州で行われたコンテストで優勝。今では人気のピアニストになっているらしい。誰かの言葉が真実ならば。
何しろ今の俺にはは、TVも新聞も与えられる事はない。PCはネットと接続されてはいないし、携帯もスマホも持っていない。
夕麿を失った俺はこの御園生邸に閉じ込められる事になった。当然、紫霞宮の名も返上した。ただ組紐と織物の製作は許されたので、決して姿を現さない作家として『蓮華》の名はそれなりに知られている。
御園生は藤堂 影暁先輩を養子に迎えて、雅久兄さん、義勝兄さんの3人で協力して俺と夕麿がいなくなった穴を埋めた。
特務室は警護の任を解かれ、今ではプロファイル専門の部署になった。
周さんは今も変わらずに俺の主治医でいてくれる。
御厨と貴之先輩、それに影暁さんと麗先輩は同じ邸内に住んでいる。
彼らは時々、俺と話しに来てくれる。今回の事で一番縁遠くなってしまったのは……貴之先輩以外の特務室のみんな。雫さんと遠くなって必然的に清方先生とも遠くなった。仕方がないと思う。
物思いに耽りながら手を動かしていると、背後でドアを叩く音がした。
「開いてるよ~」
手を止めないで言うとドアが背後で開いた。
「武さま、|昼餉《ひるげ』のお時間でございます。余り根を詰められるといけません」
絹子さんだった。彼女は夕麿の要請で此処に残り俺の面倒を見てくれている。
「もうそんな時間?わかった、すぐに行くよ」
行くとは言っても今の俺には、家族と食卓を囲む…なんて事は出来ない。一人住まいになった離れの1階で、彼女の給仕を受けながら一人で食べる。いつの間にかこれも当たり前の日常になった。
ダイニングテーブルの上にあったのは鍋焼うどん。多分、母さんの手作り。
「母さん、帰って来てるの?」
「昨夜遅くに戻られたみたいです」
「そっか…」
実の母親で同じ邸内にいても今は顔を合わすのは稀だ。別に許可がないと会えない訳じゃない。ただ母さんは夕麿を六条家に返す事に、一番最後まで反対してたんだ。俺の処遇がどうなるのか、あの時点ではわからなかった…というのも原因の一つだった。俺の説得で渋々承諾したっけ。だから滅多に顔を合わさなくなった。
気まずいんだよな、お互いに。
もっとも母さんだけじゃない。義勝兄さんもここには来ない。たまに麗先輩がスイーツ持ってきてくれたりするけど、大抵は絹子さんとだけってのが普通。俺もこの離れから滅多に出ないからな。
希に至っては声すら聞いていない。ここには近付かないようにでも言われてるかな?
発作は相変わらずだ。もっとも頻度は減って忘れた頃にやって来る。入院も出来なくなったから、周さんが此処で対応出来ない病気とか症状を起こしたら、俺はそれで終わりなのだと思っている。夕麿を解放した時点で、その覚悟は出来てるから構わない。ただ…夕麿が自分の自由に対して罪の意識を持たないように、俺は此処で生き続けると決めたんだ。
「絹子さん、糸が足りなくなりそうなんだ。後でお願い出来る?」
「承知いたしました」
自分で糸を染められないので、専門の業者から購入している。結構品揃えが良いんだ。御厨と貴之先輩が探してくれた。
「他に何か御入り用の物は、あられませんか?」
「ん…これと言ってないかな」
うん。欲しいものはもうこの手では掴めないんだ。だから何もいらない。
時間は俺の周りをただ流れて行く。今日は何日で、季節は何か…なんて今の俺には何の意味も持たない。空気の入れ換えとか掃除以外で窓を開ける事もない。離れで季節を感じるとしたら、旬の食べ物が食卓に上がる事と…雅久兄さんが活けてくれる花。そして、麗先輩のスイーツくらいかな?それすら気が付かない時もある。
変化は何処かにあるのかもしれないけど、俺にはそれがわからない。わかりたくない。過ぎ去る時間の傍観者で良い。俺は此処で生きているけど…活きてはいないのだから。
組紐や織物に使用する糸の色はわかる。でもそれ以外の色はあってもなくても、困らないし必要だと思わない。音も日常の作業や生活で出る以外はいらない。
いや…最も必要がないのは感情だろう。今更、喜怒哀楽はいらないと思わないか?何の為に笑って泣いて怒る?誰に向かってそんな感情を表す必要があるんだ?
俺は毎日の大半を製作に費やしている。一人の作業は淡々と続けるだけだ。
食事だと言われるから食べる。もう寝る時間だと言われ、朝だと起こされるから起きる。
呼吸をして動いていられれば良いんだろう?俺はそう思っている。
滔々と流れる大河のように、今の心は穏やかで静寂だ。波風が立たない夕凪のような状態の分…情熱も歓喜もない。かつてあった筈の感情の起伏は起こらない。
夕麿への愛情は存在してる。だからこそ俺は此処で生きている。彼が自分のやりたい事に羽搏き続けているのを、俺はそう嬉しく思うし幸せに感じている。二度とこの腕に抱く締める事も…彼に抱き締められる事もないけれど。
それでも俺は…夕麿だけを愛している。願わくは彼に俺に変わる誰かを見付けて欲しい。今よりももっともっと幸せになって欲しい。
俺はそれだけは毎日忘れずに祈ってる。俺が出来なくなった事が出来て…夕麿に与えられなかったものをあげて欲しい。そんな相手は必ず存在すると信じている。
夕麿……
夕麿……
幸せになってくれ。その為に俺は生きているのだから。
神さま、俺の何と引き換えても良いから、夕麿に幸せをください。
俺は…生命だって差し出せる!! 何もいらないから…何も必要じゃないから。全てあなたに捧げるから。どうか…どうかどうかどうか…夕麿が幸せでありますように。俺は…幸せにはしてあげられなかったから。 い想いや悲しい想いばかりさせたから。祈る事しか出来ないから。
ごめんな…夕麿。そしてありがとう。俺はお前と過ごせて、愛してもらえて幸せだった。
「武さま…お客さまです」
変わらない…何の変化もないある日、珍しく離れに顔を見せた文月が言った。
「客?」
誰だろう…今更誰が俺に会いたいと言うのか?物好きもいたものだ。取り敢えず…追い返す理由はないから会う事にした。
彼が案内して来た人物を見て俺は言葉を失った。
「お久し振りです、武さま」
記憶にあるよりも少し…低く響く声。時間の経過を示すのはそれだけのような気がする。
「夕麿……元気そうだな…」
振り絞った声は掠れていた。胸が痛い…苦しい…でも…愛しい…… 失った筈の感情が一気に俺の胸を吹き荒れた。
「何か…あったのか?」
そうだ。夕麿は俺を憎んで恨んでいる筈だ。突然に別れを告げて御園生から追い出したのだから。
「これをお渡ししたくて」
差し出されたのは1枚のCDだった。
「私の最後のCDです」
「最後?ピアニスト…辞めるのか?」
「はい。他に叶えたい事がありますので」
「そうか」
もったいないとは思うけれど、夕麿が望むならば良いと思う。
「再婚…しようかと思っています」
ああ…とうとうその時が来たのだ。祈り続けた願いが叶う日が。
「それは…おめでとう…」
これで俺の役目も終わる。
「ですが…私の想いを受け入れていただけるかわからないのです」
夕麿は澄んだ瞳で俺を見てそう言った。
「じゃあ、こんな所にいないで早く相手に求婚して来い」
大丈夫だ、お前がその人と無事再婚するまで…いや、幸せを見届けるまでは生きているから。
「では…そういたします」
夕麿が立ち上がるのを見て俯いて唇を噛み締めた。
笑顔になれ、俺。一番望んでいた事だろう……笑顔で祝福して送り出してやるんだ。自分を叱咤して顔を上げると夕麿が俺の側に来て跪いた。
「此処から出てから…片時もあなたを忘れた事はありません。誰に出会ってもあなたと比べてしまう…私にはあなたしかいません。
あなたが必要なのです。どうか…もう一度、あなたのお側にいさせてください」
言葉なんか出ない。目の前の光景が信じられなかった。視界が歪む。
「俺は…俺は…お前を…捨てたのだぞ…」
「あなたに触れる事が出来なくなった私を解放して、好きな事をさせてくださる為だった。
違いますか?」
そうだ…そうだけど……夕麿は傷付いた筈だ。
「俺が憎くないのか?恨んでいるだろう?」
「恨まなかったと言ったら嘘になります。でも…あなたが邸に閉じ込められたと訊いて、やっと理由がわかりました。だから音大に行って…コンテストに出ました。優勝してピアニストになりました。きっとあなたは此処で生きて、私を見ていてくださるとわかっていましたから。此処に帰って来る為に、今日を願ってひたすらに生きて来ました」
夕麿が俺の手を取った。
「やっとあなたに触れる事が出来るようになりました。だから帰って来ました」
「夕麿…夕麿…」
手を握り返して泣く事しか出来なかった。
「もう一度、私と結婚してください、武」
しっかりと抱き締められて、俺はただ泣きじゃくりながら頷くしか出来なかった……
「……という夢を見た」
どうやら夢を見て俺は泣いていたらしい。夕麿に揺り起こされて夢だった事がわかった。
「よりによって…何と言う夢を見るんですか、あなたは。縁起でもない」
柳眉を逆立てて不満一杯という顔をする。
「でもちゃんと帰って来てくれたんだ…夢でも嬉しかった」
「当たり前です。私の居場所はあなたの側以外にはありません。そんな不吉な夢は忘れてください」
「ん…じゃあ、忘れさせて」
「良いですよ、望むところです。容赦しませんからね」
俺は答える代わりに夕麿に両腕を差し出した。しっかりと抱き締められて、胸が一杯になって熱い。
そうだ。夢の中の俺は本当は夕麿を待っていた。自分で追い出しておいて、憎まれているかもしれないのに。戻っては来ないんだと想いながら、それでも待っていたんだ。悲しくて…辛くて…事実を受け入れられなくて、感情を心の奥に押し込めて封じても……待っていた。
「夕麿…夕麿…」
縋ればその温もりと匂いが俺を包む。愛しくて…哀しかった。
「私は何処にも行きません。ずっとあなたの側にいます。この魂の続く限り」
「うん…お前と離れたくない…」
あの船旅から半年余り。夕麿が俺にも触れられなくなって…俺はあの時、夢の中と同じ事を考えていた。再び俺に触れられなくなった夕麿が、俺の為に苦しむ姿を見たくはなかったから。殺されても良いから夕麿を俺という鳥籠から、広大な大空へと解き放ちたいと思った。だからあれは何処か別の世界の俺だったのかもしれない。だって紙一重だったのではないかと思う。
「まさか…あの時にあなたは…」
縋り付いたまま唇を噛み締めたのい気付いて、夕麿は身体を放して俺を見た。
「そこまであなたを苦しめてしまったのですね」
出来れば夕麿にはあの時の俺の想いを知らせたくはなかった。それなのにどうして今更…夢を見たのだろう。夢の中身だって話したくなかったけど、夕麿の名前を呼んで泣いていたらしいから、納得させるには話すしかなかった。
本当は何処にも行かせたくなかった。でも苦しむ原因が俺にあるなら他にどんな方法がある?
「愛しています、あなただけを。いつも私の事を一番に考えてくださる事を感謝しています。ですが…あなたの側以外に私の居るべき場所はありません」
その言葉と表情が夢と重なる。
「欲しい…夕麿が欲しい」
確かな熱と脈動を感じたい。まだ気持ちは半分、夢の中の俺とシンクロしている。夕麿と一つになりたい。俺の気持ちがわかったのか、たっぷりとジェルが塗られてすぐに夕麿が挿って来た。
「ああッ…ン…」
中を一杯に拡げて充たす熱と質量感…俺のものとは別の脈動…… 夢の中の俺は一体どれだけ待っていたのだろうか。
眼が熱い……涙が溢れて来た。
「夕麿…夕麿…夕麿…」
寝る前にも抱き合った筈なのに、胸が痛い程切なくて…歓びと愛しさで一杯になる。
夕麿が微笑んだ。
「愛しています、武」
大好きな声でもっと言って欲しい。
「動きますよ」
甘い囁きに頬が熱い。
「あッ!!…ああッ…」
心の歓びに与えられる身体の悦びが重なる。
「夕麿…イイ…もっと…ンぁ…」
甘くて…熱い。ドロドロに溶けてしまいそうだ。
「もっと感じてください…」
夕麿の声にエコーがかかって聞こえる。感覚だけが脳を一杯にする。
「あッああッ…ダメぇ…そこ…ンン…イイ…」
風船が膨らむ様に、快感が増大して膨らんでいく。
「ぅあッ…あン…イく…ああああぁぁぁ…!!!」
弾けた感覚に全身が震える。 次いで夕麿が中に熱を放つ。 深い満足が幸福感となって、俺は覆い被さって来た夕麿の背に腕を回した。
夕麿を愛してると言える幸せ。
こうして肌を重ねる幸福。
「ああ…そうか…」
想い至った事に胸が詰まる。鼻の奧がツンとして涙が溢れて来た。
「武?」
俺の様子に驚いた夕麿が身を起こした。
「どうしたのですか?」
「司さんたちの気持ちが今わかった」
「え?」
俺は今、二人で死を選んだ彼らの気持ちがわかった気がした。引き裂かれるという事が、逢う事も触れ合う事も出来なくなるが、 わかっているつもりだった。
でもそれは違う。わかったつもりになっていただけだ。誰かが死んでしまう事でいなくなるのを、ただ寂しく感じていたに過ぎなかった。
俺はそう夕麿に言った。
「でもあなたは私を待っていてくださいました。あの時も、夢の中でも」
「だって…約束しただろう?お前と生きる明日を信じるって」
そうだ。俺はロサンジェルスへ向かう飛行機の中で、夕麿にそう言って約束した。夢の中の俺もその約束を心の何処かで忘れていなかったんだ。
でも慈園院 司さんと星合 清治さんには、そんな約束は出来る筈がなかったんだ。そう思ったら清方先生と雫さんは凄いと思う。離れ離れになっても、逢えなくても…愛は消えない。
夕麿は俺の側にいて、愛してると言ってくれる。抱き締めてくれる。その愛を信じなくてどうする?
そして…自分自身の胸をしめるこの想いも信じている。
「夕麿」
「はい」
「ずっと俺の側にいてくれ。何処にも行くな」
「はい、我が君」
「ん…ありがとう…」
夕麿が幸せそうに笑った。
俺が見たかったもの。守りたかったもの。それが今目の前にある。
歩いて行こう。
「もう少し寝る」
「はい」
甘えたくて夕麿に抱き付いて、胸に頬を当てて眼を閉じた。
今度はきっと良い夢を見たい……
結局……夕麿は俺とも接触出来なくなって、帰宅しても尚、邸内での別居が続いた。
だから俺は決意した。あのまま夕麿を俺の側に留め置いても、誰も救われず誰も幸せにはならない。夕麿には憎まれてしまうのを覚悟で、俺は彼と別れる手続きを取った。当然ながら周囲は猛反対したが最終的に受け入れてくれた。
夕麿は俺の命に従い六条家に戻った。
そして……周囲の薦めに従って音大に入学、欧州で行われたコンテストで優勝。今では人気のピアニストになっているらしい。誰かの言葉が真実ならば。
何しろ今の俺にはは、TVも新聞も与えられる事はない。PCはネットと接続されてはいないし、携帯もスマホも持っていない。
夕麿を失った俺はこの御園生邸に閉じ込められる事になった。当然、紫霞宮の名も返上した。ただ組紐と織物の製作は許されたので、決して姿を現さない作家として『蓮華》の名はそれなりに知られている。
御園生は藤堂 影暁先輩を養子に迎えて、雅久兄さん、義勝兄さんの3人で協力して俺と夕麿がいなくなった穴を埋めた。
特務室は警護の任を解かれ、今ではプロファイル専門の部署になった。
周さんは今も変わらずに俺の主治医でいてくれる。
御厨と貴之先輩、それに影暁さんと麗先輩は同じ邸内に住んでいる。
彼らは時々、俺と話しに来てくれる。今回の事で一番縁遠くなってしまったのは……貴之先輩以外の特務室のみんな。雫さんと遠くなって必然的に清方先生とも遠くなった。仕方がないと思う。
物思いに耽りながら手を動かしていると、背後でドアを叩く音がした。
「開いてるよ~」
手を止めないで言うとドアが背後で開いた。
「武さま、|昼餉《ひるげ』のお時間でございます。余り根を詰められるといけません」
絹子さんだった。彼女は夕麿の要請で此処に残り俺の面倒を見てくれている。
「もうそんな時間?わかった、すぐに行くよ」
行くとは言っても今の俺には、家族と食卓を囲む…なんて事は出来ない。一人住まいになった離れの1階で、彼女の給仕を受けながら一人で食べる。いつの間にかこれも当たり前の日常になった。
ダイニングテーブルの上にあったのは鍋焼うどん。多分、母さんの手作り。
「母さん、帰って来てるの?」
「昨夜遅くに戻られたみたいです」
「そっか…」
実の母親で同じ邸内にいても今は顔を合わすのは稀だ。別に許可がないと会えない訳じゃない。ただ母さんは夕麿を六条家に返す事に、一番最後まで反対してたんだ。俺の処遇がどうなるのか、あの時点ではわからなかった…というのも原因の一つだった。俺の説得で渋々承諾したっけ。だから滅多に顔を合わさなくなった。
気まずいんだよな、お互いに。
もっとも母さんだけじゃない。義勝兄さんもここには来ない。たまに麗先輩がスイーツ持ってきてくれたりするけど、大抵は絹子さんとだけってのが普通。俺もこの離れから滅多に出ないからな。
希に至っては声すら聞いていない。ここには近付かないようにでも言われてるかな?
発作は相変わらずだ。もっとも頻度は減って忘れた頃にやって来る。入院も出来なくなったから、周さんが此処で対応出来ない病気とか症状を起こしたら、俺はそれで終わりなのだと思っている。夕麿を解放した時点で、その覚悟は出来てるから構わない。ただ…夕麿が自分の自由に対して罪の意識を持たないように、俺は此処で生き続けると決めたんだ。
「絹子さん、糸が足りなくなりそうなんだ。後でお願い出来る?」
「承知いたしました」
自分で糸を染められないので、専門の業者から購入している。結構品揃えが良いんだ。御厨と貴之先輩が探してくれた。
「他に何か御入り用の物は、あられませんか?」
「ん…これと言ってないかな」
うん。欲しいものはもうこの手では掴めないんだ。だから何もいらない。
時間は俺の周りをただ流れて行く。今日は何日で、季節は何か…なんて今の俺には何の意味も持たない。空気の入れ換えとか掃除以外で窓を開ける事もない。離れで季節を感じるとしたら、旬の食べ物が食卓に上がる事と…雅久兄さんが活けてくれる花。そして、麗先輩のスイーツくらいかな?それすら気が付かない時もある。
変化は何処かにあるのかもしれないけど、俺にはそれがわからない。わかりたくない。過ぎ去る時間の傍観者で良い。俺は此処で生きているけど…活きてはいないのだから。
組紐や織物に使用する糸の色はわかる。でもそれ以外の色はあってもなくても、困らないし必要だと思わない。音も日常の作業や生活で出る以外はいらない。
いや…最も必要がないのは感情だろう。今更、喜怒哀楽はいらないと思わないか?何の為に笑って泣いて怒る?誰に向かってそんな感情を表す必要があるんだ?
俺は毎日の大半を製作に費やしている。一人の作業は淡々と続けるだけだ。
食事だと言われるから食べる。もう寝る時間だと言われ、朝だと起こされるから起きる。
呼吸をして動いていられれば良いんだろう?俺はそう思っている。
滔々と流れる大河のように、今の心は穏やかで静寂だ。波風が立たない夕凪のような状態の分…情熱も歓喜もない。かつてあった筈の感情の起伏は起こらない。
夕麿への愛情は存在してる。だからこそ俺は此処で生きている。彼が自分のやりたい事に羽搏き続けているのを、俺はそう嬉しく思うし幸せに感じている。二度とこの腕に抱く締める事も…彼に抱き締められる事もないけれど。
それでも俺は…夕麿だけを愛している。願わくは彼に俺に変わる誰かを見付けて欲しい。今よりももっともっと幸せになって欲しい。
俺はそれだけは毎日忘れずに祈ってる。俺が出来なくなった事が出来て…夕麿に与えられなかったものをあげて欲しい。そんな相手は必ず存在すると信じている。
夕麿……
夕麿……
幸せになってくれ。その為に俺は生きているのだから。
神さま、俺の何と引き換えても良いから、夕麿に幸せをください。
俺は…生命だって差し出せる!! 何もいらないから…何も必要じゃないから。全てあなたに捧げるから。どうか…どうかどうかどうか…夕麿が幸せでありますように。俺は…幸せにはしてあげられなかったから。 い想いや悲しい想いばかりさせたから。祈る事しか出来ないから。
ごめんな…夕麿。そしてありがとう。俺はお前と過ごせて、愛してもらえて幸せだった。
「武さま…お客さまです」
変わらない…何の変化もないある日、珍しく離れに顔を見せた文月が言った。
「客?」
誰だろう…今更誰が俺に会いたいと言うのか?物好きもいたものだ。取り敢えず…追い返す理由はないから会う事にした。
彼が案内して来た人物を見て俺は言葉を失った。
「お久し振りです、武さま」
記憶にあるよりも少し…低く響く声。時間の経過を示すのはそれだけのような気がする。
「夕麿……元気そうだな…」
振り絞った声は掠れていた。胸が痛い…苦しい…でも…愛しい…… 失った筈の感情が一気に俺の胸を吹き荒れた。
「何か…あったのか?」
そうだ。夕麿は俺を憎んで恨んでいる筈だ。突然に別れを告げて御園生から追い出したのだから。
「これをお渡ししたくて」
差し出されたのは1枚のCDだった。
「私の最後のCDです」
「最後?ピアニスト…辞めるのか?」
「はい。他に叶えたい事がありますので」
「そうか」
もったいないとは思うけれど、夕麿が望むならば良いと思う。
「再婚…しようかと思っています」
ああ…とうとうその時が来たのだ。祈り続けた願いが叶う日が。
「それは…おめでとう…」
これで俺の役目も終わる。
「ですが…私の想いを受け入れていただけるかわからないのです」
夕麿は澄んだ瞳で俺を見てそう言った。
「じゃあ、こんな所にいないで早く相手に求婚して来い」
大丈夫だ、お前がその人と無事再婚するまで…いや、幸せを見届けるまでは生きているから。
「では…そういたします」
夕麿が立ち上がるのを見て俯いて唇を噛み締めた。
笑顔になれ、俺。一番望んでいた事だろう……笑顔で祝福して送り出してやるんだ。自分を叱咤して顔を上げると夕麿が俺の側に来て跪いた。
「此処から出てから…片時もあなたを忘れた事はありません。誰に出会ってもあなたと比べてしまう…私にはあなたしかいません。
あなたが必要なのです。どうか…もう一度、あなたのお側にいさせてください」
言葉なんか出ない。目の前の光景が信じられなかった。視界が歪む。
「俺は…俺は…お前を…捨てたのだぞ…」
「あなたに触れる事が出来なくなった私を解放して、好きな事をさせてくださる為だった。
違いますか?」
そうだ…そうだけど……夕麿は傷付いた筈だ。
「俺が憎くないのか?恨んでいるだろう?」
「恨まなかったと言ったら嘘になります。でも…あなたが邸に閉じ込められたと訊いて、やっと理由がわかりました。だから音大に行って…コンテストに出ました。優勝してピアニストになりました。きっとあなたは此処で生きて、私を見ていてくださるとわかっていましたから。此処に帰って来る為に、今日を願ってひたすらに生きて来ました」
夕麿が俺の手を取った。
「やっとあなたに触れる事が出来るようになりました。だから帰って来ました」
「夕麿…夕麿…」
手を握り返して泣く事しか出来なかった。
「もう一度、私と結婚してください、武」
しっかりと抱き締められて、俺はただ泣きじゃくりながら頷くしか出来なかった……
「……という夢を見た」
どうやら夢を見て俺は泣いていたらしい。夕麿に揺り起こされて夢だった事がわかった。
「よりによって…何と言う夢を見るんですか、あなたは。縁起でもない」
柳眉を逆立てて不満一杯という顔をする。
「でもちゃんと帰って来てくれたんだ…夢でも嬉しかった」
「当たり前です。私の居場所はあなたの側以外にはありません。そんな不吉な夢は忘れてください」
「ん…じゃあ、忘れさせて」
「良いですよ、望むところです。容赦しませんからね」
俺は答える代わりに夕麿に両腕を差し出した。しっかりと抱き締められて、胸が一杯になって熱い。
そうだ。夢の中の俺は本当は夕麿を待っていた。自分で追い出しておいて、憎まれているかもしれないのに。戻っては来ないんだと想いながら、それでも待っていたんだ。悲しくて…辛くて…事実を受け入れられなくて、感情を心の奥に押し込めて封じても……待っていた。
「夕麿…夕麿…」
縋ればその温もりと匂いが俺を包む。愛しくて…哀しかった。
「私は何処にも行きません。ずっとあなたの側にいます。この魂の続く限り」
「うん…お前と離れたくない…」
あの船旅から半年余り。夕麿が俺にも触れられなくなって…俺はあの時、夢の中と同じ事を考えていた。再び俺に触れられなくなった夕麿が、俺の為に苦しむ姿を見たくはなかったから。殺されても良いから夕麿を俺という鳥籠から、広大な大空へと解き放ちたいと思った。だからあれは何処か別の世界の俺だったのかもしれない。だって紙一重だったのではないかと思う。
「まさか…あの時にあなたは…」
縋り付いたまま唇を噛み締めたのい気付いて、夕麿は身体を放して俺を見た。
「そこまであなたを苦しめてしまったのですね」
出来れば夕麿にはあの時の俺の想いを知らせたくはなかった。それなのにどうして今更…夢を見たのだろう。夢の中身だって話したくなかったけど、夕麿の名前を呼んで泣いていたらしいから、納得させるには話すしかなかった。
本当は何処にも行かせたくなかった。でも苦しむ原因が俺にあるなら他にどんな方法がある?
「愛しています、あなただけを。いつも私の事を一番に考えてくださる事を感謝しています。ですが…あなたの側以外に私の居るべき場所はありません」
その言葉と表情が夢と重なる。
「欲しい…夕麿が欲しい」
確かな熱と脈動を感じたい。まだ気持ちは半分、夢の中の俺とシンクロしている。夕麿と一つになりたい。俺の気持ちがわかったのか、たっぷりとジェルが塗られてすぐに夕麿が挿って来た。
「ああッ…ン…」
中を一杯に拡げて充たす熱と質量感…俺のものとは別の脈動…… 夢の中の俺は一体どれだけ待っていたのだろうか。
眼が熱い……涙が溢れて来た。
「夕麿…夕麿…夕麿…」
寝る前にも抱き合った筈なのに、胸が痛い程切なくて…歓びと愛しさで一杯になる。
夕麿が微笑んだ。
「愛しています、武」
大好きな声でもっと言って欲しい。
「動きますよ」
甘い囁きに頬が熱い。
「あッ!!…ああッ…」
心の歓びに与えられる身体の悦びが重なる。
「夕麿…イイ…もっと…ンぁ…」
甘くて…熱い。ドロドロに溶けてしまいそうだ。
「もっと感じてください…」
夕麿の声にエコーがかかって聞こえる。感覚だけが脳を一杯にする。
「あッああッ…ダメぇ…そこ…ンン…イイ…」
風船が膨らむ様に、快感が増大して膨らんでいく。
「ぅあッ…あン…イく…ああああぁぁぁ…!!!」
弾けた感覚に全身が震える。 次いで夕麿が中に熱を放つ。 深い満足が幸福感となって、俺は覆い被さって来た夕麿の背に腕を回した。
夕麿を愛してると言える幸せ。
こうして肌を重ねる幸福。
「ああ…そうか…」
想い至った事に胸が詰まる。鼻の奧がツンとして涙が溢れて来た。
「武?」
俺の様子に驚いた夕麿が身を起こした。
「どうしたのですか?」
「司さんたちの気持ちが今わかった」
「え?」
俺は今、二人で死を選んだ彼らの気持ちがわかった気がした。引き裂かれるという事が、逢う事も触れ合う事も出来なくなるが、 わかっているつもりだった。
でもそれは違う。わかったつもりになっていただけだ。誰かが死んでしまう事でいなくなるのを、ただ寂しく感じていたに過ぎなかった。
俺はそう夕麿に言った。
「でもあなたは私を待っていてくださいました。あの時も、夢の中でも」
「だって…約束しただろう?お前と生きる明日を信じるって」
そうだ。俺はロサンジェルスへ向かう飛行機の中で、夕麿にそう言って約束した。夢の中の俺もその約束を心の何処かで忘れていなかったんだ。
でも慈園院 司さんと星合 清治さんには、そんな約束は出来る筈がなかったんだ。そう思ったら清方先生と雫さんは凄いと思う。離れ離れになっても、逢えなくても…愛は消えない。
夕麿は俺の側にいて、愛してると言ってくれる。抱き締めてくれる。その愛を信じなくてどうする?
そして…自分自身の胸をしめるこの想いも信じている。
「夕麿」
「はい」
「ずっと俺の側にいてくれ。何処にも行くな」
「はい、我が君」
「ん…ありがとう…」
夕麿が幸せそうに笑った。
俺が見たかったもの。守りたかったもの。それが今目の前にある。
歩いて行こう。
「もう少し寝る」
「はい」
甘えたくて夕麿に抱き付いて、胸に頬を当てて眼を閉じた。
今度はきっと良い夢を見たい……
応援ありがとうございます!
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