蓬莱皇国物語SS集

翡翠

文字の大きさ
上 下
28 / 73
夢追い人

   1

しおりを挟む
 武が麗の為に用意した店は、ビバリーヒルズの外れにあるショッピングモールの一角だった。 

 それなりの広さがある店を一人では切り盛り出来ないと考えた麗は蓬莱皇国の実家に相談した。彼の実家はカミングアウトして旅立った息子を最初は懸念した。影暁に騙されているのではないか。帰国出来ない相手を追って行った息子を連れ戻そうとした事もあった。影暁の誠意を込めた努力と麗の必死の説得でようやく、二人を引き離す事は不可能だと悟った家族に認められたのだった。 

 武たちが帰国する為、麗は影暁とロサンゼルスへ。影暁はパリの御園生系企業から、ロサンゼルスの企業へ転勤し夕麿たちの後任を引き継いだ。 

 麗の実家から来たのは、彼の姉夫婦だった。彼女は和菓子職人と結婚しており、麗の店で洋菓子と和菓子の双方を売る事にしたのだ。最初、姉夫婦は武にすすめられて、ビバリーヒルズの屋敷に住んだ。武と夕麿、義勝と雅久、雫と清方。先に帰国した貴之を想う、画家デビューしたばかりの敦紀。同性愛であるという事と武がおかれた特殊な立場。彼らのありのままを真実を見つめて行くうちに姉夫婦は少しずつ変わって行った。 

 そして……帰国した武たちが麗の実家を説得したのだ。その最中に二人が一時帰国した事もあり、結城ゆうき家の人々の心は次第に解れて行った。 

 決して認められた訳ではない。だが黙認という形で麗と影暁のロサンゼルスの生活は進行していた。 

「ただいま…」

「おかえりなさいませ、麗さま」

 午前2時。夜8時に店を閉めて、片付けやら次の日の準備などをしているとどうしてもこんな時間になる。月末に新しいスイーツの製作に徹夜になってしまうのも普通だ。朝は5時に起きて6時には店にいる。パティシエの1日はハードだ。

 麗は小柄だが麗は体力はあるし、健康にも自信がある。第一、まだ20代前半で若さ真っ只中の身だ。

 麗と影暁は以前、武と夕麿が使っていた広いスペースを占有している。

 そっとプライベートリビングを抜けて寝室に入った。極力、物音を立てないように部屋の中を移動する。すると背後でベッドサイドの灯りが突然点された。

「おかえり、麗」

「あ、起こしちゃった?」

「何時だ?」

「2時過ぎ」

「そんな時間か」

 影暁がベッドから身を起こした。

「ごめんね、起こしちゃって」

「いや、明日は休みだから心配しなくて良い」

「休み?ウィークデーなのに?」

「有休だ」

「ああ、そう言えばここんとこ、取ってないね?」

 アメリカでは決まった祝日は多くはない。それで企業人は有休を活用して、まとまった休暇を手に入れる。

「お前も休みだよな?」

「うん、休み」

「じゃあ、ゆっくり出来るだろ?」

「ゆっくりしないと、幾ら僕が丈夫でも死ぬよ」

 麗が笑う顔を影暁は見つめた。ロサンゼルスに移って来て、武たちと数ヶ月一緒に生活した。その間に武は二度と熱を出して寝込んだ。

 武より小柄な麗。パティシエが力仕事であるのもよく知っている。連日、早朝から深夜まで店にいる彼が、身体を壊さないか心配なのだ。住居こそは今は他へ移ったが、麗の姉が店の経理を一手に引き受けてくれてはいる。それで幾分は軽減された時間を彼は製作と新しい商品開発に使ってしまう。休日にもスイーツのデザインのアイデアを求めて近くへ出掛けたりしてしまう。店は順調に経営を伸ばしていると影暁にはわかっている。経理等を彼が担当しているからだ。

 皇国屈指の老舗しにせの和菓子と和風の感覚を取り入れたスイーツ。昨今の東洋嗜好が人々の注目を集める。影暁も社に持ち込んで来客のもてなしに出したり、屋敷に住む学生たちが大学に持って行ったり、友人に紹介したりしている。恋人が営む店の徐々に知名度が上がりつつあるのは影暁にも嬉しい事だった。

 だがその分、麗は多忙になって行く。影暁が目覚めた時には既に彼の姿は屋敷にはなく、眠り就いてから帰宅しるから会話もままならない。その多忙さ故のすれ違いに麗の身体の心配をしながら同時に、影暁は自分と彼の関係を考えてしまう。 

 一時帰国した時に麗の両親や兄たちには挨拶した。拒否はされなかったが歓迎もされなかった。

 このままで良いのだろうかという想いと自分の仕事に誇りを持って奮闘する麗の姿……向き合っていると影暁は不安になってしまう。自分がいない方が麗は幸せになるのではないか。足手まといになっているだけではないのか。いや、夢を叶えた今、もう麗には自分は不要になっているのではないか。 

 父親とその一族から捨てられただけではなく、邪魔で名誉を穢す存在に扱われた影暁には、自分をどこか不要品の感覚で見ている部分があった。 

 だから……卒業と共に麗と別れたのだ。愛しい人とは夢の中で逢えれば良い。いつかきっと終わる関係だったのだという感覚が影暁にはあった。自分自身も他人も距離を置いて見つめてしまうのだ。

 麗との幸せな生活をも離れて見つめている自分がいる。彼がパリに姿を現した時には喜びで有頂天になった。パティシエの学校へ通う彼との生活は満ち足りて幸せだった。影暁も夕麿の推薦状を手に就職した、パリの御園生系企業で働く事に充実した日々を得た。今だって遣り甲斐のある仕事を任されている。夕麿が完璧なまでに勤めていた立場だ。責任も重い。だがそうやって充実すればする程、麗との距離感が増していくような気がするのだ。住んでいる世界が違うと。 

 微妙に食い違う生活と感覚が大きくならないうちに話をするべきなのだろう。だがそれ自体が今の影暁には怖いのだ。口にした途端に麗が手の届かない場所へ行ってしまうような気がして。全てが夢幻でパリのアパルトマンで、終わりのない夢を追い掛けていただけだと。 

 突然、目が覚めてしまうような…そんな不安に心が揺れて苦しい。愛しているから失いたくない。失いたくないから何も言えない。手を拱いて見ているしか、今の影暁には出来ない。 逃げ出す事も投げ出す事も出来ない。執着する事すら怖い。 

 麗を失えば自分は再び闇の中だ。無気力に過ごしたパリの日々と同じになる。それも怖い。自分がどんどん八方塞がりになって行く。苦しくて喘いでいるのに話す相手もいない。周に言っても多分、わかってはもらえまい。

 周は自分とはまた別の意味で、孤独で満たされない心を持っていた。 

 自分がはやく生まれなかったから両親は不仲になったと言ってた事がある。夕麿への想いや清方との関係を何かの時に赤裸々に語った周。夕麿への想いも清方との関係からも離れて、懸命に自分の人生を見つめて足掻いている彼にこんな相談は出来はしない。言えない。 

 周には幸せになって欲しいと思う。想い続けた夕麿の伴侶、自分から彼を奪った武に、あれ程までに献身的に尽くしていたのだから報われても良い筈だ。 

「周…俺は…俺の行き先はどこにあるんだろう?俺の終着点は人生の終わりでしかないのだろうか」 

 麗がまだ帰宅する前の闇に一人で呟いてみる。周は太平洋の彼方、遠く蓬莱皇国の空の下だ。答えは返っては来ない。もとより答えなど存在してはいないとも思っていた。この世に生きていてはいけないとは思わないが、生きていても良いとも誰も言わない。麗を失えばきっとパリで一人でいた時以上に抜け殻になる。仕事と住処を往復するだけの人生になる。 

 追い掛けて行く夢もない。幻すらない。でも…麗を失って生きて次の夢を見付ける自分がいたら、それこそ許す事が出来ない。 

 涙すら流せない哀しみ。深い深い闇の淵から下へ堕ちる時を待ち続けている自分。あとどれくらい、麗は自分といてくれるだろうか。自分に残された時間は、どれくらい残っているのだろうか。自分の幸せは十分にもらった。だからもう時がいつ訪れても良い。覚悟は出来ている。 

 麗が幸せでいれば良い。自分の夢を追い掛けて輝き続けてくれれば。 

 そろそろ身の回りの余計なものを、整理しておくべきかもしれない。ここは武の持ち物だ。麗のオマケであり自分には彼を失った時には居られる資格はない。もし自分の後任が手配してもらえるなら、またパリのシテ島のアパルトマンへ帰ろう。どこへ行っても異邦人だからどこへ行っても変わりはない。だがあそこには孤独でも安らぎがあった。きっとあそこでなら、抜け殻なりに生きていける術がある。 

 パリ…セーヌ川の中洲の島。あそこには孤独な人がたくさん住んでいた。まだ一人でも自分だけじゃない。パリの空の下ならば………

 

 麗は影暁の様子がおかしいのにかなり前から気が付いてはいた。最初に気付いたのは麗の姉だった。影暁は時折、日曜日の忙しい時に店を手伝ってくれる。麗と義理の兄で製作に手一杯な時は、姉だけが販売をする羽目になる。 

 和菓子も洋菓子も扱いを丁寧にしなければいけない。だからいろいろと手間なのだ。店には作り置き出来る干菓子やクッキーもある。皇国から取り寄せた、もち米だけを使用した飴もある。 

 忙しい時には手が回り切らないのだ。それで屋敷に住む学生や影暁が手伝いに来てくれる。 

 女性の観察眼は凄いと思う。影暁はいつも優しい。だから麗は姉に言われて初めて、影暁の瞳に揺れる色に気付いた。哀しげで寂しげな色。何かを諦めて待っているような色。けれど影暁は何も言わない。確かに忙しくて会話もままならない日々が続いている。影暁が眠っている間に起き出して、彼が眠ってしまってからベッドに入る。同じベッドに眠っていても、触れ合う事すら稀になっていた。それでも自分の夢を大切にしろと、言ってくれたのは彼だったから。 

 麗はロサンゼルスに来て、武が見付けてくれた店を大切にしている。常連客も増えている。やっと持ち出しもなくなって今日、パティシエの面接をした。手を増やして、影暁と過ごす時間を作りたかったのだ。 

 夕麿の後を引き継ぐのは、幾ら影暁が優秀でも大変だと思う。幾ら彼が武に忠節を誓ったからとて、全てを捧げる必要はないのだから。 

 明日は店は定休日。すると影暁も休みだと言う。麗は嬉しかった。久し振りに二人でゆっくり出来る。ウィークデーだから学生たちも大学へ行ってしまう。屋敷を切り盛りする執事の文月に言って二人で過ごそう。 

 麗はパジャマに着替えると、ベッドに入って影暁に抱き付いた。 

「いつもほったらかしでごめんネ」 

 甘えるように言うと影暁の瞳がまた揺らめいた。 

「もう少ししたら今より時間が取れるようになるから。そうしたら旅行にでも行かない?」 

「旅行?」 

「一泊くらいなら定休日を挟んで、行けると思うから」 

 影暁は微笑んだけれど、やはり瞳は笑ってはいない。この目は見た事があった。麗が紫霄の高等部へ上がって、やっと過ごせた短い時間。彼は卒業を数ヶ月後に控えていた。

 皇国を離れてフランスへ……二度と帰れぬ旅立ちが迫っていた。身の回りの整理をして、その時を諦めた顔と悲しみに揺らぐ瞳で過ごしていたのだ。

 何故に今、彼はあの頃と同じ目で自分を見詰めるのだろう……

 影暁の心が見えなくて麗の心も不安に揺らいだ。 

 その理由を考えるならば麗にはひとつしか見当たらない。ずっと忙しくて会話すらままならないすれ違い生活。きっと彼はそんな日々を過ごすうちに、麗への愛情が冷めて来たのかもしれない。もとよりバイセクシャルな彼が、会社で会う女性を見ているうちに、自分との関係を不自然に感じ始めたのかもしれない。 

 呼ばれても求められてもいないのに、パリのアパルトマンに勝手に押し掛けたのは麗だ。影暁には影暁の生活があっただろう。彼なりの生き方があったかもしれない。自分が押し掛けた事で武と出会ってしまった。そして夕麿に仕事を紹介され…今はここの管理人も兼ねている。影暁の望んだ生活ではないものを自分に合わせてくれているだけ。麗の夢の為に影暁が選んでくれただけ。もしかしたらずっと無理をしてくれているのかもしれない。 

 何度か皇国へ戻ったがフランス人として振る舞う事を求められ、御園生邸にしか滞在を許されない。 

 全ては麗の為で無理をさせている。自分のわがままばかりを利いてもらってる。影暁はわがままも泣き言も絶対に言わない。いつも穏やかに微笑んでいる。 

「麗がしたい事をすれば良い」 

 そう言ってくれる。だから甘えて来た。でも…影暁のしたい事は?問い掛けてもきっと彼は笑うだけだろう。 

 影暁の夢は何なのだろう?よくよく考えてみると、そんな話を彼から聞いた事がまるでない。いつも夢を口にするのは麗だけだった。 

 わからない。影暁と幸せになりたい。今でも幸せだと思うけれど、もっともっと幸せになれれば良い。 

 麗の夢。 

 影暁の夢。 

 
 両方が叶えられたらきっともっと幸せになる。だから影暁の夢が訊きたい。この休日にちゃんと話し合えるだろうか。彼の哀しげな瞳の理由を、話してくれるだろうか。まだ取り返せるだろうか、すれ違ってしまった日々を。彼の優しい心を。麗は不安でたまらなかった。

 旅行を口にする麗の瞳が、不安に揺れている。ああ…その旅行がきっと終わりになるのだと。それはそう遠くない日だと。ちゃんと準備をしておかなければ。休み明けに夕麿に連絡して、後任を探してもらおう。 

 パリに帰る準備をしなければ。夢の日々はもう終わるのだ。 




 麗に夕麿から電話が来たのは10日程経過した頃だった。 

「あれ…夕麿さま?何かありました?」 

 武からは時折、ノロケ混じりの電話をもらう。だが夕麿はどちらかと言うと、仕事の件もあって影暁にかける事が多い。 

〔麗、藤堂さんと喧嘩でもしたのですか?〕 

「喧嘩………?してないけど?」 

〔では一体、何があったのですか?〕 

「何って…話が見えないんだけど……」 

 まるで謎かけでもされているようで、夕麿の言う事がわからない。影暁が何かを思い詰めているらしいのはわかっているが、それが何であるのかを麗は怖くて訊く事が出来ずにいた。 

〔藤堂さんがパリに戻るのでロサンゼルスの社の方の後任を決めて欲しいと連絡が来ました。あなたの事を訊くとパリにはひとりで戻られると〕 

「………そんな…夕麿さま、僕は何も聞いてません!」 

〔聞いていないのですね?喧嘩もしたわけではない?……麗、何か心当たりは?〕 

 そう言われても麗の心当たりは一つしかない。 

「店が忙しくて、すれ違いばかりで…夕麿さま、影暁は僕を嫌いになっちゃったのかな?」 

 店の裏で麗は座り込んでしまう。影暁が自分を捨ててパリに帰ってしまう。 

〔それは………あなたの仕事がそういうものである事は、藤堂さんもよくご存知の筈でしょう?〕 

「でも…でも…会話をしない日とか…たくさんあって…だから…人を雇ったのに…」 

 麗は泣きそうになるのを必死で堪えた。今ここで夕麿に泣きついても意味がない。 

〔周さんを通じて事情を訊いてあげたいのですが………〕 

「久我先輩、どうかしたの?」 

〔……〕 

 蓬莱皇国で何かあったらしい。夕麿は皇国とロサンゼルスの双方で問題が起こって困惑をしているのだろう。御園生ホールディングスは半ば、武と夕麿に経営が委譲されていると聞く。武が丈夫でない事から考えても、そのほとんどの責任が夕麿にかかっているのは想像出来る。

「今夜、早く帰って直接訊いてみるよ」

〔そうしていただけますか?武も心配しています〕 

「話し合ってみる。影暁…何か勘違いをしてるのかもしれない。ごめんなさい、夕麿さま、ご心配をおかけして……」

〔いえ、すれ違いや掛け違いはどうしてもあるものです〕

 紆余曲折を乗り越えて武との平穏な日々を手に入れた夕麿だから、人間は些細な事で食い違う事を知っている。 

「武君にも謝っておいてね?」 

〔伝えます。結果は知らせてくださいね。出来る限りの助力は惜しみませんから〕 

「うん、ありがとう、夕麿さま。じゃあ、明日にでも連絡するね?」 

〔お願いします〕 

 通話を切って麗はスマホを握り締めたままで、しばらく放心していた。 

 やはり影暁に嫌われてしまったのだろうか。もしそうならこの先どうすれば良いのだろう?影暁がいてくれるから店を頑張っていられるのだ。 

 何がどうなっているのかわからないまま、麗はノロノロと進む時間に耐えた。 夫婦と雇ったばかりのパティシエに後を頼んで、麗はその日は夕方の5時に屋敷へ帰った。 論、影暁はまだ帰宅してはいない。 

 麗は部屋の中を見回した。部屋は奇妙なくらいに片付いていた。細々とした影暁の持ち物が姿を消している。いつもは早朝から深夜まで、店に出ている為に部屋の変化がわからなかったのだ。彼の部屋へ入ってみる。大量にあった本がなくなっていた。変わりに幾つもの箱が、床に並べられている。まだ開いたままの箱には、本や雑貨が几帳面に詰め込まれてあった。

「本当に…ここを出て行くつもりなんだ…」

 黙って荷造りをされる程に愛想を尽かされてしまったのか。そう思うと深い悲しみが、一気に押し寄せて来た。

 麗はそのままリビングの床に座り込んでしまう。全身から力が抜け出して立っている気力もない。

 ただ涙がとめどなく溢れた。

 どうすれば良い?

 どうすれば引き止められる?

 こんなに好きなのに……もうこの想いは届かないのだろうか?

 わからない……

 わかりたくない……

 床を涙で濡らしながら麗は泣き続けた。




 影暁が帰宅したのは8時過ぎだった。夕麿に後任の手配を依頼した以上、引き継ぎの準備をしなければならない。パリに戻ったらまた、ディトレーダに戻って暮らすつもりだった。

 荷物も粗方整理した。もういつでも旅立てる。

「麗!?」 

 部屋へ入った影暁が発見したのは、床に倒れて意識がない麗の姿だった。 

「麗!麗!おい、しっかりしろ!」 

 身体を揺すっても、麗の意識が回復する様子がない。抱き起こすと小柄な身体からだが異様な熱を持っていた。 

 慌てて文月を呼んだ。現在屋敷に住んでいる学生の中には、医学部のロースクールに在学中の者がいる。文月はすぐさま彼を呼んでくれた。 

「過労だと思われますがすぐに、メディカルセンターへ運んだ方が良いかと思います。手配いたしますのでご準備ください。 

 文月さん、車を!」 

 慌ただしくメディカルセンターへ運び込まれた麗は、学生の初見通り過労だった。そこへ連絡を受けた姉夫婦も駆け付けて来た。 

 極度の過労と心労。 

 医師はそう診断した。熱が下がるまでは入院。その後は療養をと言われて、影暁は麗を蓬莱皇国へ帰らせようと決心した。 

 本当の意味で終わらせる時が来たのだと。ベッドに横たわる麗を見つめて、影暁は夢の時間は終わったのだと思っていた。 




 目を開けて自分がどこにいるのかわからなかった。 

「麗、気が付いた?」 

 姉の声に振り向くと彼女が近付いて来た。 

「ここ…どこ?」 

「UCLAのメディカルセンターよ。昨夜、あなたが倒れているのを影暁さまが見付けられて…ここへ運び込んでくださったのよ?」 

 昨夜の記憶が途中からない。 

「物凄い熱で…過労で内臓が弱ってるって」 

「過労…?そういえばここの所、少し身体が怠かったかも…」 

「新しい人を入れたのだから養生しなさい。お医者さまも療養が必要だって仰ってたわ」 

「………うん。姉さん、お店頼むね…」 

「それは構わないけど……麗、皇国に帰って療養する?」 

 姉の言葉に麗は首を振った。そんな事をしたらきっと、影暁はパリへ戻ってしまって、二度と麗の側には帰って来てはくれない。 

「屋敷で大丈夫だよ」 

「そうね。あそこは至れり尽くせりだし、影暁さまもいらっしゃるものね」 

「うん」 

「熱が下がったら退院して良いそうだから、手続きをして来ようか?」 

「そうしてここは落ち着かない。それから文月さんに連絡入れて車を回してもらって」 

「わかったわ。着替えて待ってなさい。動き回ったらダメよ?」 

「子供じゃあるまいししないよ、そんな事は!」 

 笑いながら姉が出て言った。治療着を脱いで私服に着替えた。 

「帰ったら夕麿さまに連絡して謝らなきゃ……まだ話をしてないって」 

 屋敷に帰ると文月が、本当に至れり尽くせりだった。麗が過労で倒れた事などは、既に彼から夕麿に報告したと聞かされた。同時に麗は武ではなかった事を聞いて、彼がまた臥せっているらしい事を知った。

 昨日の電話でも何かあったらしい感じはあった。ベッドに横になって硝子越しに中庭を眺める。芝生と白石が並ぶ和風の庭には背の高い木はない。時折臥せる武がここから月を眺めるのが好きだったからだ。

 武がたくさんの哀しみを抱いて、ここから月を眺めた気持ちが今ならわかる。武のように乗り越えられるだろうか。夕麿のように愛しい人の手を握り続けていられるだろうか。どうか…そうあって欲しい。

 麗は携帯を手にして夕麿の番号をコールした。




 影暁はいつもよりかなり早い時間に帰って来た。

「麗、気分は?」

「最悪……」

「悪いのか?退院して来ない方が良かったんじゃないか?」

「具合が悪いんじゃない。気分が最悪なの!」

 話しあわないと…自分の病気は完全に回復しない気がしていた。

「夕麿さまから昨日、電話がかかって来た」

「……」

 麗の言葉に影暁は絶句して視線をそらした。

「僕の事が嫌いになったのなら…先にそう言うべきじゃないの? 順番、間違ってない、影暁? それとも僕と話をするのも、もう嫌なの?」

「……」

「黙ってるってのはYESって意味?」

 言葉を繋いでも影暁は何も答えない。麗はそれが悲しかった。結局、自分は影暁の孤独な心を満たす事は出来なかったのだ。そう思い知らされた。

「武君はね、自分は人を不幸にするって思い込んでいたんだって。夕麿さまを不幸にしたくないって、何度も生命を自分で絶とうとしたみたい……… でもその度に夕麿さまも傷付いたんだよ。どんなに愛してるって繰り返しても、武君は明日を信じなかったから。いつかは夕麿さまが武君に背を向けて、去って行く日が来るって」

 不安と哀しみの中で武はこのロサンゼルスに渡って来た。

「ここへやっと来れた時には、夕麿さまは記憶の一部を失われて…武君を憎んでいたんだよ。好きな人に憎まれるって…辛かっただろうね。それでも彼は好きな人を精一杯守ったんだ」

 自分が横たわっているこのベッドは、マットレスは替えたらしいが、武が過ごしたものだ。

「あなたにはわかんないんだろうね。僕がどんな気持ちで蓬莱皇国を出たのか。何故店をこんなになるまで頑張るのか。

 影暁…あなたは何をしたいの?パリに戻って何がしたいの?僕を捨ててここを出て行くなら、納得が行く説明をして!」

 何を言われても納得出来ないだろう。それでも言葉が欲しい。彼が何を見つめ、何を思っているのかが知りたい。

「俺は……」

 絞り出すような声だった。

「俺はもう……用なしだろう?」

「はあ?それ、何の冗談?いつ僕がそんな事を…」

 そこまで言って麗はハッとした。

「僕が忙しくて…話も出来なかったから?」

「お前は自分の夢を手に入れた。俺はもういなくても大丈夫だ」

「バカな事言わないでよ!僕は…僕は…影暁がいてくれるから…頑張れるのに…和菓子屋の息子なのに、パティシエになりたい。みんな、その夢を聞いて笑った。でも影暁は笑わなかったよね?だから僕は本気で夢を追い掛けたんだ!

 でも僕の一番の夢は影暁と一緒にいる事。武君と夕麿さまが正式に結婚した時、本当に羨ましいと思ったんだ。僕は…僕もそんな風にあなたの側に寄り添いたかったから!一番の夢はあのお二人のように正式な結婚は無理でも、指輪を交わして生涯かわらない愛を誓う事なのに!

 ねぇ…そう思っていたのは僕だけ?影暁はそう望んではくれないの?僕はあなたの何?

 答えて!」

 一緒にいられないならば、大切な友人たちと離れて異国にいない。肉親に反対されても、パリへ行ったりしなかった。

「全部…僕の独り相撲だったの?迷惑だったの?パリで僕を追い掛けて来てくれたのは…何故?」

 泣かないでおこうと思っていたのに、とめどなく涙が溢れて来る。愛されていると思っていた。

 それなのに………

「俺には…夢というものがわからない。ずっと…諦めの中で生きて来た。だから…わからない」

 存在そのものを否定され続けて来た人生。何かを望む度に無残なまでに打ち砕かれて来た絶望は凄まじかった。だから何も望まなくなった。生命を絶つ気力もないまま、ただ時の過ぎゆくままに生きた。

 いや…あれを生きたと言えるのかどうか……ただ存在していただけ。虚ろに日々が過ぎゆくのを傍観していただけの生活。

 親しくなったのは一人の娼婦だけ。ただ肌を重ねるだけの繋がり。

 麗がやって来て全てが鮮やかな色彩を帯びた。だが…望めばまた無残に打ち砕かれるかもしれない。

 恐怖が心を萎縮させた。理由を見付けて逃げようとする、打ち砕かれる痛みに至るその前に。絶望の苦さを舐める前に。

「怖い…怖いんだ。誰かがまた、俺の希望を幸せを砕きに来るのが」

 皇国を遠く離れ、しかも影暁は既に武の紫霞宮家の庇護下にある。彼の希望を打ち砕いて来た人々は、もう彼には手も足も出せはしない。そんな事をしたらきっと武と夕麿が御園生の力で報復する。影暁の小さな夢、ささやかな希望、やっと掴んだ幸せ。それを打ち砕きに来るような小さな事を実行して、藤堂家に害が及ぶような危険は犯さない筈だ。

「大丈夫だよ、影暁。誰ももうそんな事は出来ない。だって僕もあなたも紫霞宮家の臣なんだよ?武君も夕麿さまもそんな事は許さないよ!」

 どうして彼の不安を知ろうとしなかったのだろう。

「ごめんね、影暁。僕、何もわかっていなかったね」

「麗…麗…」

「幸せになろう?ね、旅行…ラスベガスにしようか?」

「ラスベガス?」

「あそこなら同性でも結婚式を挙げられるよ?」

「結婚…?」

「僕…影暁にプロポーズしてんだけど?」

「プロポーズ…?」

「嫌なの?僕と夫婦にはなりたくないの?やっぱり僕を捨ててパリへ戻ってしまうの?」

 たたみかけるように言葉を紡ぐ。

「…それは…指輪を買って俺がするべきだろう…?」

「じゃ、してよ。僕待ってるから」

「おとなしく療養するなら」

「何それ?」

 膨れっ面が涙に濡れた。

 孤独と絶望に慣れてしまって、幸せや希望がわからなくなっている影暁。きっとまだまだ彼には、わからない事がたくさんある。それでも二人ならば必ず乗り越えて未来へと歩いて行ける。影暁がいつか夢追い人になれるように。

 一緒に歩いて行こう。繋いだ手を離さないように。二人なら愛がある。だから幸せは二人で築いて行ける。

 麗は影暁の手を握り締めてそう思った。

しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

青き瞳に映るのは桃色の閃光

恋愛 / 完結 24h.ポイント:35pt お気に入り:39

魔王とインキュバスと天使の飲み会

BL / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:6

人生を諦めていましたが、今度こそ幸せになってみせます。

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:6,661pt お気に入り:427

美味いだろ?~クランをクビにされた料理人の俺が実は最強~

TB
ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:7pt お気に入り:1,753

指輪に導かれて

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:321

捨て子の幼女は闇の精霊王に愛でられる

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:28pt お気に入り:2,546

なんだか泣きたくなってきた

BL / 完結 24h.ポイント:134pt お気に入り:679

処理中です...