蓬莱皇国物語SS集

翡翠

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辛い記憶の町

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 御園生家の全員が動くとなると大変な人数になる。御園生家の人間だけでも7人。それに警護やら世話人やらで軽く20人くらいの人数になる。保安上の問題で防弾対ショックを施してある車でないと移動出来ない為に高級車でのものとなる。 

 今回は御園生系の企業が展開するモールの候補地を幾つか回る予定になっていた。武は今は制限はあるものの以前よりは動けるようになっていた。雫たち専属警護の特務室が結成されたのも関係していた。 

 近年、駅周辺に巨大化したモールの建設が出来るようになり、御園生も進出を積極的に行っている。 

「次はどんな所?」 

 武は夕麿が手にしていた資料を覗き込んだ。 

「どうやら一番小さい町のようです。人口も少ないですし、産業もさほど盛んではありません」 

 武に答えながら、夕麿には気になっている事があった。今回の候補地の視察は、全員が帰国した祝いの家族旅行も兼ねている。それで希も小夜子も同伴しているのだが、資料を眺めていた彼女がわずかに眉をひそめたのだ。さり気なく覗くとこの町の資料だったのだ。 

「あれ?」 

 夕麿の思考を武の声が遮った。 

「どうかしましたか?」 

「うん…おかしいなあ…」 

「何がですか?」 

「何か見た事がある風景なんだよ」 

 その言葉に息を呑むと向かい側に座っていた雫が無言で頷いた。雫は過去に小夜子と武が暮らした町を把握している。ここはその一つだという事だ。しかも雫はまだ何かを伝えたがっている様子だった。夕麿は外を眺めている武にわからないように、雫に向かってしっかりと頷いた。 

 海と山に挟まれた細長い小さな町で、小夜子と武がどの様に暮らしていたのか。夕麿も武に寄り添うようにして、車窓から夕焼けに染まる町並みを覗いた。町には宿屋は一つしかない。今は寂れた町だがかつては宿場町で、 名残りで本陣と呼ばれた古い宿が辛うじて現在も残っていた。前以て調べた御園生の社員と貴之が内部を整えさせている。当然ながら内々に地元警察には、武の身分がそれとなく伝えられていて、宿周辺にはそれとなく私服が配置されていた。 

 全員が車から降りてからまずは雫が再度周囲を確認する。それから夕麿が降り武に手を差し出す。武が降り立ってようやく、一行が宿へ足を踏み入れる。宿側には多少の事情が通っているのか、武と夕麿を囲んでの仰々しさに黙って頭を下げていた。 

 中へ上がると早々に部屋へ通された。武と夕麿の部屋はかつて、街道を行き交う貴族や勅使などが泊まった部屋である。調度品などに手は入れられてはいるが、年代物を思わせる趣ある部屋だった。 

「うわ~」 

 武が部屋の中を眺めて声を上げた。 

「武さま、お気に召されましたか?」 

 世話係として付き従って来た絹子が、笑顔になった武を見上げるようにして言葉をかけた。 

「うん。ちょっと、六条家に似てるね」 

 純粋な日本家屋と言えば武には、夕麿の生家である六条家の屋敷しか知らない。 

「まずはお座りくださいませ」 

 絹子に言われて武が座ると横に夕麿が座った。絹子は宿の女将が運んで来たお茶と菓子を、雫に許可を得てから二人の前に置いた。 

「六条はここより新しいですよ、武」 

「そうなの?」 

「そうでございますとも。六条のお屋敷は御維新後に旧都から移転する折に、建設されたものでございますから」 

 絹子と夕麿の言葉に武が頷いた。 

「ここは元本陣、江戸時代からある宿でございますから」 

 そう言って絹子がそれとなく、女将に説明を促した。 

「当本陣は享保2年、西暦で申し上げますと1717年創業でございます」 

「1717年…創業300年?凄いなあ…」 

 武が驚いてもう一度部屋を見回した。 

「現在の建物は天明の大飢饉の頃に焼失いたしましたものを、寛政になって再建いたしましたまのでございます」 

 天明の大飢饉の原因は1783年6月3日、浅間山に先立ちアイスランドのラキ火山が巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火)、同じくアイスランドのグリームスヴォトン火山もまた1783年から1785年にかけて噴火。大量の火山ガスが成層圏にまき散らされた事で、地球全体が大規模冷害に見舞われた。 

 ヨーロッパでは川が凍り付いて麦が採れなくなった。フランス革命の遠因となったとも言われている。影響は皇国でも同じであり、複数の活火山の噴火とともに北東地方から飢饉が始まった。だが日本と蓬莱の異常気象による不作は1782年(天明2年)から続いていた。1783年6月の活火山とラキの噴火だけが1783年の飢饉の原因とは考えられないのである。現代では大型のエルニーニョが1789年-1793年に発生し世界中の気象に影響を与えて長引かせ、江戸時代最大の大飢饉にまでしてしまったのではないかと言われている。 

「ふぇ~」 

 建物が建築された時代を聞いて、武が驚いて奇妙な声をあげた。それを聞いて夕麿が吹き出し、つられるように雫と絹子が吹き出した。 

「笑うな!」 

 武が真っ赤になった。 

 見覚えがあると言った後、武の表情は次第に曇って来ていた。今ので少し気分が切り替わった様子だが、それでもいつもとは違う雰囲気だった。絹子がそれとなく目配せすると女将が部屋を下がった。 

 すかさず雫が廊下を確認する。 

「宮さん、少し御鎮まりあらしゃいませ」 

 絹子が武に声をかけてから、隣室の|襖《ふすま』を開けた。ホテルならばベッドがあるがこういう和室の宿には前以て、身体の丈夫でない武の為に布団を敷いておくように要請してある。 

「雫さん、夜の歓迎会を1時間ずらしてもらってください」 

「承知いたしました」 

 武を隣室へ誘いながら夕麿が言い残す。襖が閉まったのを確認して、絹子と雫は部屋を出た。 

「夕麿も休むの?」 

「いけませんか?」 

 夕麿の言葉に笑顔で首を振る。武は初めての場所で一人になるのを嫌う。ましてや今日は様子がおかしい。 

「あなたが欲しくなったと言ったら怒りますか?」 

 耳元に囁くと腕の中の身体が、かすかに震えるのがわかった。そのまま布団の上に組み敷いた。 

「夕麿ぁ……」 

 甘えた声で名前を呼ばれて、夕麿は甘い微笑みで唇を重ねた。思う様に口腔内を|蹂躙《じゅうりん』しながら、武の衣類を剥ぎ取って行く。武も震える指先で夕麿の衣類を脱がせて行く。 

「ン…ゥふ…ン…」 

 角度を変えながら口付けは続いていた。ここは最も奥にある部屋だ。雫と貴之のどちらかの許可がない限り、誰もここへ入っては来れない。 


 旧本陣の宿には様々な仕掛けがあった。要人などが利用する事があった為に彼らがいざという時に、身を隠したり逃げ出したり出来るように隠部屋や隠通路があったのだ。 

 夕麿が武を落ち着かせ眠らせる為に抱いているそれに、じっと耳を傾けている人物がいた。そんな部屋や通路の存在は代々ここを営んで来た一族しか知らない。 

 潜む者は女将に命じてここへ案内させた。貴人が使う奥座敷を御園生夫妻ではなく、息子が使用すると聞いて確認に来たのだ。声だけ聞こえて中を覗き込む事はさすがに出来ない。それでもその人物は、絹子が発した『宮さま』という言葉を聞いた。 

 市警察の慌ただしい動き。そこここに配置され、この町の警戒が厳重になった。知り合いを通じてこの騒動を訊いてみると、御園生家には皇家の血筋が訳あって養子になっている。彼は再三再四、生命を脅かされているので、その為の警戒だと耳にしていた。 

 奥座敷に入った二人のどちらかが、『宮さま』と呼ばれる皇家の血筋。その人物は得心したと言うように笑みを浮かべた。 



 夕麿は武が眠ったのを確認して布団から身を起こし、脱ぎ散らかした衣類を集めて身繕いを済ませた。武の衣類をきちんとたたみパジャマを出して着させた。ぐっすりと眠っているのを確認してそっと部屋を出た。 

 控えていた絹子と共に、有人と小夜子、希のいる部屋へと入った。 

「遅くなりました」 

 夕麿が席に着いて雫が口を開いた。 

「ここは小夜子さまと武さまが、15年程前にお住まいになられていた町…そうですね?」 

 小夜子はその言葉に頷いた。雫はそれを受けて再び口を開いた。 

「しかもここはかつて武さまの御心を傷付けて、害を為した件の老人が住む町です。彼はこの町の大地主で、今回の候補地の半分を保有しています。また息子は現在も市議を務めており、市長すらも気を使うと言われる程です」 

 淡々と語られた内容で、夕麿は武の不安定さの原因がやっと理解出来た。 

「お義父さま、それではこの町にモールが出来た場合、その老人に利益が行く事になりませんか?」 

 雅久が思わず口を開いた。すかさず義勝が答えた。 

「雅久、それは私情を入れる事になるぞ?」 

「わかっています。けれど武さまを害した者に利益を与えるなどと…」 

「夕麿君はどう思うかな?ここはモールを建設するに相応しいと思うかね?」 

 有人が黙って聞いていた夕麿に徐に尋ねた。

「車から見ただけですので正しいかどうかはわかりかねますが、駅はさほど大きくはありません。大きな駅へのアクセスも不便です」

 夕麿は一旦言葉を止めて全員を見回した。

「駅前の商店街はほとんどシャッターが閉まっていました。モールを建設しても集客力があるのは最初の数年でしょう。もっと大きな駅の近くに別の商業施設が出来れば、ゴーストタウンのようになると思います」

 ただ車で通り過ぎただけの町の様子を、夕麿はしっかりと見て状態を把握していた。夕麿の言葉に有人は笑顔で頷いた。

「夕麿君の言う通りだ。地図を見てくれたまえ」

 広げられた地図を全員が覗き込んだ。

「モールはまず、その土地の住人の状態を調査しなければならない。残念ながらこの町は人口も少なく、高齢者がそのほとんどを占めている。合併した市もさほどの規模も産業も持たない。かと言って大都市圏へのアクセスも悪く、ベッドタウンにもなるのは難しい。モールを招致して発展の糸口にしようという訳だ」

 有人は意見を求めるように雅久に視線を向けた。応えるように頭を下げて雅久は口を開いた。

「土地を握る者が自らの利権で幅をきかせますならば、モールそのものの障害となるのではありませんでしょうか」

「うむ。それは私も考えた。慈善事業でモールを造るつもりはない」

「ではあなた、何故ここへ視察にいらしたんですの?」

 小夜子が軽く夫を睨み付けた。

「お前と武君に無礼を働いた愚かな者の顔を見に来たのさ。

 まあ、見ていなさい」

 有人は得意満面な笑みを浮かべた。



 大広間で歓迎会が始まった。上座に武や夕麿を座らせ両側に御園生夫妻と雅久と義勝が座った。市長も老人もその息子も下座に座らざるを得なくなった。老人も息子もすこぶる不機嫌だった。

 武は宴会の間ずっと左側に座る夕麿の上着を掴んでいた。夕麿が話し掛けると笑顔を向けるが、それ以外は俯き加減で食事も進まない。心配をした周が途中で武の状態を確認すると微熱があるとわかった。武は宴会後の話し合いに加わらずに、絹子と周が部屋へ戻らせた。夕麿の警護を貴之に任せ雫が彼らに付いて移動した。

 次の日に候補地を視察するという事で宴会は御開きになった。有人はまだ何かを話したがる彼らに、全ては明日にと言って引き上げた。

 時代遅れの泥臭い接待を受けるつもりはない。そういう姿勢を全員が貫いた。



 次の日、彼らは半ば物見遊山で候補地へ足を運んだ。かの老人のような私欲を貪る者さえいなければ、モールは無理でも他の発展の方法を思考しただろう。彼ら親子の旧態依然とした考え方が、過疎を促進しているようにも見えた。

「ここ?」

 武が思わず問い直す程、モールには相応しくない場所だった。古い工場の残骸が風に揺れていた。駅からはかなり離れているだけではなく、周囲には住宅すらなかった。

「問題外ですね、これでは」

 夕麿がはっきりと言った。その言葉に全員が同意する。

「モールどころか外にも利用価値がないように思う。市長、御園生を何だと思っているのか、是非聞かせてもらいたいものですね」

 有人が溜息混じりに言った。市長は地主親子と有人の間でオロオロしている。

「お義父さん、武を連れて先に宿に戻って良いでしょうか?」

 今は熱が下がっているが、朝食もほとんど喉を通っていない武を気にかける。

「構わないよ?私たちもすぐに戻るから、先に帰ってなさい」

「ありがとうございます。武、行きましょう」

「じゃあ、お先に」

 二人に雫と周が従って車に乗った。宿には小夜子と希、絹子が待っていた。夕麿は武を休ませる為にそのまま奥座敷へと行く。

 武が横になった所で雅久が夕麿を呼びに来た。件の市議と市長が有人たちについて来たらしい。モールの誘致で食い下がる様子だと言う。

「やれやれ、世話が焼ける人たちですね 武、あなたは休んでいてください」

「うん」

「絹、武をお願いします」

「承知いたしました」

 武を絹子に任せて、昨夜宴会に使用した広間へ入った。夕麿が席に着くと市長が口を開いた。

「何とかモールを誘致出来ないのでしょうか?」

 夕麿が軽く視線をやると有人が頷いた。ここは夕麿に任せると言う事だ。夕麿は頷き返して、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「町そのものの立地条件もですが、あなた方は本当にあの場所にモールを建設して、この先何十年も成り立って行くと考えているのですか」


 広間での話し合いが続いている間、武はほとんど音がしない奥座敷に横たわっていた。

「絹子さん…喉が渇いた」

 隣室に控えている彼女に声を掛けると、すぐ横にやって来て首筋に触れた。

「お熱が上がってこられましたね。お飲み物と冷やす物を手配して参ります」

「うん…ごめんなさい」

「何を仰せです。さ、すぐに戻って参りますからね」

「はい」

 絹子が出て行く物音を聞きながら、武は溜息を吐いた。

 その時、どころかから小さな音がした。続いて軋むような音がする。隣室のようだ。絹子は今、部屋を出て行ったばかりだ。第一、音がした場所が違うような気がする。嫌な感じがして身を起こしたのと、襖が開いたのが同時だった。

 あの老人がそこに立っていた。

 武は息を呑んだ。

「儂を覚えているようじゃな。お前も母親も上手い事をしたもんじゃな。御園生財閥とは大変な出世ではないか。しかも、身分の高い養子の御曹司を、身体を使って誑かしておるとは。 いやはや、どこの馬の骨ともわからぬ男の子供を産んだ女の息子じゃわい」

「母さんを侮辱するな」

「ほお…口答えするようになったか。男娼同然のお前が。良いか、お前はもう用済みじゃ。儂が良い花嫁をあてがってやる」

「夕麿は女は嫌いだ」

「それは出会って来た相手が悪いだけじゃ。良いな?お前は疫病神じゃ。そうやって人を悪い方へ引きずり込む」

「俺は…俺は疫病神なんかじゃない…」

 口では否定したが、自分を巡って起こった様々な事が、今でも武の心に深い影を落としていたのは事実だった。それでも夕麿と皆と共に生きて行くと決めたのだ。

「俺は…」

 もっと言葉を紡ごうとしたが、老人は何かに気付いて慌てて出て行った。再び軋んだ音の後、小さな音がして静かになった。

 次いで絹子が戻って来た。周も一緒だった。絹子は武が身を起こしているのを見て慌てて駆け寄った。武は曖昧に言い訳をして横になった。

「昨夜よりは高いですね。他に御不快な所は?」

「全身が怠いかな?上手く力が入らない」

 後々、この時が最初の発作だったのではないかと誰もが思うようになるが……この時点では誰もそれを知らないでいた。

 周が血圧をはかっている間、無言で天井を見ていると自然に涙が溢れて来た。

「武さま?」

「………ごめんなさい…ちょっと…一人になりたい…」

 周は一瞬戸惑ったが、すぐに絹子に目配せをして部屋を出て、夕麿を呼んで来るように命じた。かつての夕麿がそうであったように、武も不安定な状態の時は夕麿でなければダメなのだ。

 程なく夕麿が戻って来た。周に合図して武の寝ている部屋へ入った。襖越しに微かに声が聞こえる。だが周は敢えて言葉を聞き分けようとはしなかった。

「周さん!」

 襖越しに夕麿の声が響いた。怒りの籠もった低めの声だった。

「どうした?」

「雫さんを呼んで来てください!」

「承知」

 ただならぬ様子だった。雫を連れて急いで戻った。

「失礼致します」

 きちんと座って襖を開けると縋り付いて泣く武を、夕麿はしっかりと抱き締めていた。

「成瀬警視正、事前の調査は不備だったようです。隠し通路らしきものを使ってここに侵入し、武に暴言を吐いた者がいます!」

 夕麿は烈火の如く怒っていた。

「申し訳ございません」

 それは明らかに雫のミスだった。平伏して謝罪した。

「直ちに調べて、武さまに無礼を働いた者に謝罪させなさい」

「はっ」

 雫はもう一度頭を下げて部屋を出た。そこにはただならぬ様子に飛んで来た貴之がいた。

「聞いたな?」

「はい」

「ここを頼む。俺は女将を問い詰めて来る」

「お任せください」

 勤務中とはいえ武の立場上、余り物々しくは出来ない故に普段と変わらない態度を取っていた。だが非常事態に二人は瞬時に警護官としての顔になった。

 貴之は武と夕麿がいる部屋に一応顔を出し、隣室を調べ始めた。周も加わる。ハンティング経験のある彼の知識と経験がこのような時にも役立つ。しばらく室内を見て回っていた周は、ティッシュを手に取り風の流れを調べた。すると上座の後ろ辺りに、微妙に別方向からの風の流れを発見した。

 周は床板を拳で叩き始めた。その音に貴之が動きを止めた。夕麿も武を抱き締めたまま、こちらの様子を覗き込んだ。周が叩いているのは、畳敷きの端が壁添いに板敷きになっている部分だ。すると庭に面した辺りが半畳程音が違う。板の切れ目を利用しているらしいが、明らかに下は空洞だとわかる。しかし開け方がわからない。

 全員が周辺を見回した。貴之が柱に小さな切れ込みを発見した。指で押すとその部分がゆっくりと出た。次の瞬間、床で小さな音がした。それは間違いなく武が聞いた音だった。

 周が床板を押すと軋きしみながら開く。人間一人が通れる穴が開いた。覗くと梯子が下へ降りている。 

「調べて来ます」 

 貴之が降りて行ってしばらくして戻って来た。 

「梯子からそっちの部屋の下に隠し部屋があります。上に向かって筒のような物が伸びていましたから、恐らくここでの会話は全て聞こえる筈です。また、通路は方角からして庭の外れの四阿あずまや辺りが出口だと思います」 

 貴之の言葉に武はますます怯えた。自分が眠っている真下に件の老人が潜んでいたのだ。夕麿との睦言も皆、彼が聞いていたと思うだけで恐怖がわき上がって来る。 

 ほぼ治療は終わり。清方は帰国してすぐにそう告げてはいたが、人間の心はそんなに単純ではない。幼い時に刻み込まれたトラウマは、心から完全に払拭するのは難しい部分がある。どうしても相手に呑まれる癖のようなものが出来ているのだ。 

「大丈夫です、武。私がこれ以上あなたを傷付けさせません」 

 そこへ女将を連れた雫が戻って来た。隠し部屋への入口が開いているのを見て、もう何も隠し立てするのは不可能だと悟った。 

「申し訳ございません…沼田さまに…命令されました」 

 沼田というのは件の老人と市議の息子の姓である。女将が言うにはこの旧本陣の宿は廃業寸前なのだと言う。彼女は思い切って廃業する覚悟をしていた所へ、今回のモール誘致の話が持ち上がった。沼田はこの土地を時価の倍で買うと言って、この隠し部屋の使用を要請したのだ。 

 女将は下調べに来た警察官に、隠し部屋は既に潰したと答えるしかなかった。この町で沼田親子に逆らっては、生活出来ないのが実情だと言う。 

「何て奴だ」 

 周が不快さに吐き捨てるように言った。 

「どうやら鉄槌を落とさなくてはいけないようですね」 

 怒りに満ちた夕麿の声が低く冷たく響いた。 



 静かだった。

 夕麿と雫が女将を連れ行って30分以上が過ぎた。奥座敷には広間の様子はわからない。このままで良いのか。逃げ隠れて守ってもらうだけで本当に解決するのか。

 武の中でそんな感情が生まれていた。武の生命を脅かし夕麿を心身共に傷付け苦しめた男。夕麿はあの時に言ったではないか。

『怖かったですよ…やっぱり。でも私は、もう過去に負けたくはなかったのです。そうしないと前に進めないと思いました』

 そうだ。あの時の夕麿が言った通りだ。過去に負けていてはいけない。本当に乗り越える為に進まなければ。

「貴之先輩……」

 武が呼び掛けると貴之はすぐに側に来た。

「俺を…広間に連れて行って」

「しかし…」

「逃げても俺自身の問題は解決しない。俺も夕麿のように乗り越えたい」

「武さま…」

「わかりました。貴之、紫霞宮さまがお出ましになられる。

 さあ、お着替えを手伝います」

「はっ」

 周には武の気持ちがわかった。周は逃げ出してばかりだったから。二人を見習っていつかは母浅子に反撃したい。

 武を着替えさせて抱き上げた。貴之の先導で広間の出入り口の前で、周は武をそっと下ろした。

 武は貴之に頷いた。貴之は膝をついて襖を開けた。

「紫霞宮武王殿下のおなりである」

 周の声が広間に響いた。夕麿は自分が座っている上座の席から退き、御園生家の人間は平伏した。市長と沼田親子は茫然としていた。上座に着く武を夕麿が補助する。触れた手はかなり熱い。武は夕麿に問い掛けた。

「どうなった?」

「知らぬ存ぜぬの一点張りでございます」

 頭を下げて夕麿が答えた。女将は蒼白になって平伏したまま震えていた。

「続けて、夕麿」 

 言った武の声が微かに震えていた。ここに座っているのすら、精一杯な状態だろう。夕麿はそっと発熱で未だ熱い手を握り締めた。 

「埒があきません。成瀬警視正、このご老体を罪に問えないのですか?」 

 夕麿の声は益々低くく響いた。どうにも腹の虫がおさまらないのだ。 

「不法侵入を問うのは難しいかと」 

 ここは宿であり、女将が隠し部屋への立ち入りを許可した経緯がある。 

「暴言はどうなのです?」 

「名誉毀損…は民事訴訟になりますから、武さまのお立場では難しいかと」 

 武を法廷に立たせる訳にはいかないのだ。歯軋りをする夕麿を老人は嘲笑った。それを見た夕麿の中で怒りが頂点を超えた。 

 徐に立ち上がり老人に迫った。老人の前に立った夕麿の眼差しは、武が見た事がない程鋭い輝きを放っていた。 

「我が君に謝罪しなさい」 

 夕麿の静かな怒声をある程度聞き慣れている武たちですら、そう言った彼の声に背筋を冷たいものが走るのを感じた。武が自分を守ってくれたように守る……夕麿の決意だった。 

 自分たちの閨事を盗み聞きした上、皇家の貴種である武を男娼呼ばわりしたのだ。本来ならば半殺しにしても足らないくらいだ。だがここは紫霄学院ではない。治外法権でも、身分の高い者の意思がすべて通る場所でもない。法律で裁くには武の立場が問題になる。雫と貴之は多少の事には目を瞑ってはくれる。だからと言って老人に暴力を振るうわけにはいかない。 

 そんな夕麿の気持ちを見抜いたのか、彼らの3倍以上生きている老人は嘲笑いながら答えた。 

「何故儂が謝らねばならん。宮さまか何か知らんが、どうせカタリの詐欺師じゃ……うわっ、何をする!?」 

 老人に最後まで言葉を紡がせずに、夕麿は老人の襟首を掴んで広間の中央に引きずり出した。長身だがどちらかと言えば細身に見える夕麿。だから老人は何も出来ない優男やさおとこだと侮った。ピアニストが見た目よりも力が強いのを知っている人は少ない。普段は腕や指を守る為に彼らは重い物を持たない。夕麿も武を抱き上げる以外は一切、重い物を持ち上げたりしない。けれどもストレッチや筋トレは欠かさないし、忙しいスケジュールを調節して週に何回かジムに通っている。バランスのとれた筋肉は以外と細身に見えるだけだ。 

「女将、水を持って来てください」 

 老人の抗議には目もくれない。 

「み、水でございますか?」 

「この老人が暴言を吐いたり、周囲の迷惑を顧みずに傲慢無礼なのは、彼の精神が穢れているからです」 

 夕麿の言葉に武は首を傾げ、周と雫は吹き出しそうになって慌てて口を押さえた。 

「古来より穢れを祓うには水垢離みずごりが一番です」 

「承知いたしました!」 

 女将は弾かれたように広間を飛び出した。しばらくして宿の従業員が、次々とバケツに満々と井戸水を入れて広間に並べた。 

「さて、沼田市議。あなたの父親の穢れを、あなたが祓ってください」 

 夕麿はそう言って中央から武の側に戻った。 

「どうしました?出来ないのですか?それならば市長、あなたがやりなさい。市にも厄をもたらす穢れです」 

 武の横に座って夕麿は淡々と言う。それが恐ろしい。 

「お許しを…」 

 市長が這いつくばって懇願した。 

「だらしない…出来る者は居らぬのですか」 

 夕麿の声がやや鋭く響いた。 

「恐れながら申し上げます」 

 板前姿の男性が平伏して声を上げた。 

「あなたは?」 

「当宿の主でございます」 

 女将の息子らしい。武が夕麿に頷いた。 

「申してみなさい」 

「禊ぎ祓の儀、私にやらせてください」 

 老人の傲慢な命令が、宿を営む彼らを窮地に追い込んでいた。老人の脅迫があったとしても、武に害を与える手助けをしてしまったのだ。妃格の夕麿の凄まじい怒りを見て、彼らは次に自分たちに降りかかるものを想像して恐怖していた。償いにはならないかもしれないが、自分たちの気持ちを表したかったのだ。 

「良いでしょう。始めなさい」 

 井戸水どころか煮えたぎった油でもかけてやりたいくらいだった。老人の身勝手で傲慢な言葉が、どれだけ武を苦しめて来たのかは夕麿が一番知っていた。幾ら愛を囁いても武は自分を忌むべき存在のように思って、未来を信じてその愛を真っ直ぐに受け入れられなかった。 

 武の苦しみや悲しみは夕麿の悲しみであり苦悩だった。乗り越えてやっと前を見つめて歩き出した。なのに再び武を傷付け怯えさせた。老人が何の咎めも受けないのは、余りにも歯痒くて悔しい。夕麿の想いはここにいる武を大切に想う全員の気持ちだった。 

 宿の主はバケツを一つ手にして老人に近付いた。 

「何をする!?やめんか!」 

 だが彼は女将である母が、老人にどれだけ苦しめられて来たかを記憶していた。積年の恨みはあったとしても同情や哀れみはない。 

「ひぇぇええぇ!」 

 冷たい井戸水が音を立てて、老人の頭にぶちまけられた。 

「貴様!このような事をして、無事で済むと思うなよ!」 

 主はそれに怯みもしなかった。 

「次!」 

 夕麿に促されて、主はすぐ横のバケツを手にした。 

「やめんか!」 

 叫んだ口が開いたままの老人の頭に水がかけられた。水を吸い込んだらしく、老人が激しく咳き込んだ。 

 その様子を全員が冷ややかに見つめていた。 

 ずぶ濡れになった老人は顔を上げて夕麿を睨み付けた。夕麿はそれに対して冷ややかな眼差しを揺らがせもしない。 

 こんな若造に…… 老人はそう思った。 

 這って夕麿へと近付く。その手が届きかけたその時、横合いから叩き落とされた。武が夕麿を庇うように身を乗り出していた。 

「クソジジイ、汚い手で俺の夕麿に触るな」 

 その姿には先程の怯えは微塵もなかった。夕麿の為になら鬼にでも悪魔にでもなる。その決心は今でも変わらない。 

「いつまでもお前の傲慢が続くと思うな。俺はもう小学生じゃない」 

 こんな醜悪な老人に怯え、夕麿との幸せの遠回りをした。そう思うとはらわたが煮えくり返る気持ちがする。 

「ただのクソジジイじゃないか」 

 自分に言い聞かせるように呟いた。夕麿が吹き出し他の者も笑う。 

「武、何です、その言葉遣いは。相応しくないですよ?」 

「他に言いようがないから仕方ないだろうが」 

 武が言い返すと小夜子の横にいた希が答えた。 

「武兄さま、そういう時は『うんこおじいさん』って言えば?」 

 この言葉に広間は爆笑の渦に包まれた。一人老人だけが屈辱に、濡れそぼった全身を震わせていた。 

「さて、夕麿君。視察の結論を発表してくれたまえ」 

 場が静まったのを見計らって有人が言葉を発した 夕麿が頷き武がその横に座った。 

「結論を言います。立地条件、都市や地域の人口及び住人の平均的な年齢。交通網などの全てから判断した結果、ここにモールを建設しても一過性の繁栄にしかならないと判断しました」 

 夕麿の言葉に市長はがっくりと肩を落とした。 

「逆恨みしよって」 

 老人が憎々しげに呟いた。 

「あんたじゃあるまいし俺たちは、ビジネスと私情を分けるくらいの常識は持ってるよ」 

 武の言葉を夕麿が継いだ。 

「強いて言うなら、あなたのような者が私欲を貪るのは、繁栄の障害にしかなりません」 

「終わり!お義父さん、次の場所へ行こうよ。 

 次、どこ?」 

「次は温泉宿を借り切ってあります」 

 有人の言葉に武の瞳が輝いた。 

「本当?」 

「ええ。視察旅行は終了です」 

 有人の言葉に全員が笑顔になった。この都市側の人間以外は。 


 立ち去る時、有人は宿の代金として破格の金額が書かれた小切手を渡した。 

 その後、老人は息子に無理やり施設に閉じ込められたという。


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完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

男の娘と暮らす

守 秀斗
BL
ある日、会社から帰ると男の娘がアパートの前に寝てた。そして、そのまま、一緒に暮らすことになってしまう。でも、俺はその趣味はないし、あっても関係ないんだよなあ。

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

先輩、可愛がってください

ゆもたに
BL
棒アイスを頬張ってる先輩を見て、「あー……ち◯ぽぶち込みてぇ」とつい言ってしまった天然な後輩の話

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