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孤独な嫉妬
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「よ~し、散会!」
武の言葉を聞いて榊と通宗は歩き出した。10月の半ば旧都から天羽家の人々が御園生家に来た。通宗は一応、御園生家が親代わりをしている。故に彼の天羽家への養子縁組みについて話し合いに来たのだ。12月に改めて簡単な身内や仲間内への御披露目の会を行う事が決まった。そこで養子縁組みの書類が確認され提出される。言わば今の二人は結婚式を控えた、婚約中のカップルだった。
「通宗、どこ行こか?」
「そうですね…少し喉が渇きました」
「何ぞ飲む?」
「はい」
都市へ出なくても飲み物と軽食ならば出店にある。二人は肩を並べて中庭へ歩き出した。
通宗はさほど紫霄には来ない為、つい懐かしくて遅れてしまった。慌てて榊に駆け寄ろうとした。
「君、邪魔!」
自分と余り年齢が変わらない男が通宗を突き飛ばした。転びかけて何とか踏みとどまると、今の男が走って行った方角を見た。そこには数人のOBに囲まれた榊がいた。
近付こうにも彼を取り囲んだ男たちが通宗を近付かせない。榊も困った顔をしてはいるが通宗に気付いてはいない。仕方なく少し離れて事態がおさまるのを待っていた。しかし…彼らは榊を無理やりに連れて行ってしまった。一人取り残された通宗は為す術もなく立ち尽くした。
夕麿を中心とする81代生徒会のメンバーは全員、人気者であった事も伝説の一つだった。ただ雅久と義勝のカップルは早くから有名であったし夕麿も武と結婚した。そんな事も相俟って、他の者に人が集中してしまった経緯があった。
榊は夕麿とは違った意味で一般生徒たちに無関心だった為、在校中は『鉄壁の君』とい渾名を付けられていた。通宗の前では甘々で寂しがりなのだが、外ではそんな気配は微塵も見せないように見える。それでも親友の貴之に言わせるとデレデレだと言う筈であるが…通宗はそんな事は知らないままだった。
通宗はどうする事も出来ずにそのままそこを立ち去った。榊が振り向かないのが虚しかったし、何だかムカムカとした黒くて熱い感覚が込み上げて来る。彼が自分を探さないなら、ここにいても仕方がないと思ってしまう。あの中に入って行けない自分も嫌だった。苛々がチクチクと胸を刺す。彼らに囲まれている榊に声もかけられない自分にも腹が立った。
どこへ行こう?本部テントに戻る訳にもいかない。図書館に続く道で立ち止まってしまった。
「あれ?相良さん?」
「本当だ、相良さんだ!」
見覚えのある顔が幾つか、笑顔で駆け寄って来た。
「お久しぶりです!」
中等部時代、武を拉致監禁事件する事件を起こした、当時の生徒会長戸沢 美弥の後を急遽受けて生徒会長になった。他に良い人材がいないと判断した御厨 敦紀によって高等部生徒会長にもなった。だが彼はさほど身分が高くはない。どうこう言う者はいなかったが、努めて生徒たちとの交流に力を入れた一年だった。その為か非常に人気があり、皆に信頼された生徒会長だった。
「今日はお一人ですか?」
「いや…紫霞宮さまのお供で…」
「え?紫霞宮さまにお仕えされてるんですか?」
素朴な質問が帰って来る。
「御園生本社で紫霞宮さまの専属秘書をさせてもらってるから」
「凄~い!」
御園生への就職は紫霄の生徒ならば誰もが希望する。どうしても特待生経験者からの就職率が高く、一般生徒たちには国家公務員試験より難関だった。武の専属秘書というのは彼らにはまさに雲の上の人だった。
通宗は別段自分が優秀だったから専属秘書になれたとは思っていなかった。ただ武の側に配置されるのは彼を守って行く人間である。
御園生 小夜子が病床の祖父に代わり、大学での身元保証人になってくれた。それすらも御厨 敦紀の頼みを受けての事だった。皆に笑顔で応えながらも、気持ちはどんどんとマイナスになって行く。悪い方へ悪い方へと行ってしまう。
ふと顔を上げて視線を巡らせると榊が険しい表情で立っていた。息を呑んで立ち上がった瞬間、彼は踵を返して立ち去ってしまったのだ。何かで頭を殴られたようなショックだった。互いの視線が合ったのに、彼はそれを自らそらせて行ってしまったのだ。
側にいた者たちに適当に言って通宗は榊が行った方向へ駈けた。しかし行けども行けども彼の姿はどこにもなかった。通宗は捨てられた子供のように肩を落として一人、宿泊施設の自分の部屋へと戻った。
何もする気にはなれなかった。そのまま軽くシャワーを浴びて、部屋に備え付けのソファに座り込んだ。
何故、自分が睨まれなくてはならない? 先に他の人に囲まれて気付かないまま行ってしまったのは…そっちだろう。その前に自分を置いてさっさと行ってしまったのは誰だ?
ここには居たくない。何となくそう思ってしまう。天羽家に迎え入れてもらうのが決まっているのに、榊の気持ちを疑ってしまう。
好きで好きで……だから不安になる。自分でなくても本当は良いんじゃないのかと。彼の瞳が自分からそらされたら何を映すのだろう。それすらもわからない。確かめるのも恐ろしい。
逃げ出したいでもどこへ行けば良い? 住んでいるマンションも職場も同じなのだ。もとより従兄の実彦以外は身寄りがいない身。所詮は一人なんだと思うと本当にここにはいたくなくなった。武には申し訳ないが感情が止まらない。
通宗は荷物を鞄詰めた。帰ったらマンションの荷物もまとめてどこかへ行こう。あれもこれもと欲張るからこんな悲しい想いをするのだ。どこかの田舎町でひっそりと独りで生きて行こう。辞表はどこか適当な場所でポストに投函すれば良い。
幸せ過ぎて有頂天になっていた。あんな幸せが…転がり込んで来る筈はなかったんだ。通宗はずっと独りだった。家族に捨てられた孤独さとは違う感覚だった。
家族を失った孤独さ。特に高等部からは学費をほとんど自分で稼いでいた。休みに外に出ても祖父も高齢で入退院を繰り返す状態だった。
いずれ独りになる。祖父は何とか大学までは持ちこたえてくれた。紫霄を卒業して大学へ進んで、本当に独りきりになった。荷物をまとめた鞄の鍵をかけながら、通宗は過ぎ去った日々に想いを馳せた。
一生分の思い出をもらった。榊がこの先、幸せであるように。そう思った瞬間、またもやもやチクチクと胸の内がざわめいた。彼が誰かを、自分以外の人間を抱き締める。想像しただけで、怒りと悲しみが一緒に湧き上がる。
誰も見て欲しくない。抱き締めて欲しくない。そんなのは嫌だ。そう思うと涙が溢れて来た。
『ここにいたくない』
『ここにいたい』
相反する気持ちに心が引き裂かれる。通宗はずっと独りきりでひっそりと生きていくつもりだった。早くに両親を亡くし中等部時代に祖母を亡くした。身元引受の祖父もいつ死んでもおかしくない身体だった。
何かを望んではいけない。
紫霄にはどこかそんな空気が漂う。いつかは独りきりになる。通宗の心をその空気が染め上げ頑なにした。
通宗にとって榊への恋は、たったひとつの夢だった。ただ見つめるだけ。まさに枝越しの恋だったのだ。告げるつもりもない、ただ胸に抱くだけの。
多くを望んではいけない。わかっていた筈なのに…… それでも思う相手に抱き締めてもらえるのは嬉しかった。家族にと望まれてどれだけ嬉しかった事か。
全ては夢だったのだ。
だからこんなに簡単にすれ違ってしまう。榊が皆に囲まれて側に寄る事も出来なかった。彼も通宗を忘れたように彼らの中にいた。自分の手が届かなかった。
これが現実。
榊の側に駆け寄ろうとする者に邪魔だと押し退けられた。
これが本当の居場所。
胸が痛んだ。鋭利な刃物で切り裂かれるように。
そして……自分を睨んでどこかへ行ってしまった。
ここを出て行かなければ。そう思うのに強い胸の痛みと深い悲しみに身動きが出来ない。未練たらしく彼の未来を想像して、黒くドロドロとした想いが更に追い立てる。
こんな感情は知らない。これは本当に自分の心なのだろうか?
それでも力を振り絞って、鞄を手にして立ち上がった。覚束ない足でドアノブを掴んで開く。そこに榊が立っていた。彼は通宗が鞄を手にしているのを見て目をつり上げてた。
「なにしてはる?」
腕を掴まれて奥まで引き戻される。通宗はどうして良いのかわからなかった。鞄を抱き締めて震えるしか出来ない。彼の口から拒否の言葉が発せられるのを聞きたくない。今すぐここから出て行きたい。
「そないなもん持って、どこ行くんや?」
明らかに怒気を帯びた声が通宗の耳に響く。
「校内でどこぞ行ってもた思たら、何やぎょうさんに囲まれて嬉しそうにしとるし…私の後すら追い掛けてけぇへん」
「みんなに囲まれてたのは…あなたでしょう?」
声が震えている。それなのに言葉が口から出る。
「僕が…ちょっと遅れたらもう忘れて…気が付かなかったくせに…」
涙が零れ落ちる。みっともないと思うのに止まらない。
「私の側へ来たんやったら、声掛けたらええやないか!」
「近付こうとしたら…邪魔だって…突き飛ばされました。
僕は何ですか!? 都合の良い抱き枕ですか!?」
止めないといけない。こんな事を言ってはいけない。
「そない言うけど自分かて皆に囲まれてごっつう楽しそうやったやないか? 私の後を追い掛けてけぇへんくらいに!」
悲しかった。これで終わりでも誤解をされたままは。
「追い掛けました! ………だけど、あなたはいなかった。どこにもいなかった………」
いて欲しかった。待っていて欲しかった。鞄を抱いたままで泣き崩れる通宗を見て、榊はようやく自分の勘違いを理解した。
「堪忍…堪忍や…」
通宗は多くを望まない。それを失念して一方的に責めてしまった。拒否したら黙って姿を消すような、そんな脆さを持っていると知っていた筈なのに。並んで歩いていた筈なのに、気付いたら姿がなかった。その場に立って待っていると同級生や後輩が集まって来た。無碍にも出来ず適当に相手をしていたのだ。
確かに通宗に気付かなかったのは自分だ。それなのに追い掛けて来ないと腹を立て、彼が自分と同じように囲まれているのを見て激しい悋気に襲われた。だから目が合った時に睨にらみ付けてしまったのだ。
怒りに任せて歩き去りどこをどう歩いたか記憶が定かではない。そんな状態の榊を追って来るのは難しかったのかもしれない。
どんな想いでここに戻り荷物をまとめたのだろう。そう考えて榊はある事に思い至って全身の血が低く想いがした。このままマンションへ帰って姿を消すつもりではなかったのか。二度と手の届かないどこかへ行ってしまおうとしていたのではないか。
「どこにも行ったらあかん。通宗は私の妻になるんやさかい。絶対に放さへん!」
鞄を取り上げて抱き締めた。
「榊さん…榊さん…」
腕の中で身を震わせて泣きじゃくる彼の姿に、今自分が感じた事が間違っていないのを悟った。余りにもたくさんを失い過ぎて、失うのが当たり前になっている通宗。脆さと悲しみを自分がきちんと理解していないのを悟ったのだ。
行き場も帰る場所も失って、絶望して行く生徒たちを見て来たのではなかったのか。全てを諦めて何も望まなくなって、無気力になって行く生徒を眺めて来たではないか。失い過ぎる事が人間の心をどのように蝕むのかを知っていたのではなかったのか。
ああ、そうだった。自分は決して家族には捨てられない。彼らより優位な位置から見下ろして哀れんでいたのだ。わかっているつもりでいて、本当は何もわかっていなかったのだ。
なんと自分は傲慢で愚かなのだろうか。周りにはたくさん学院に閉じ込められた人間がいた。それなのにまるでわかってはいなかったのだ。
好きな人の不安も諦める心もわかっていなかった。彼がどれだけ懸命に自分に寄り添う努力をしていたのかも。
愛を囁いて抱き締めて、家族を与えて………そんな傲慢な気持ちがなかっただろうか。ダメになった恋の古傷の痛みから来る喪失感を、二度と味わいたくなくて彼を雁字搦がんじがらめにしていなかったか。
胸を満たすのは強い後悔だった。彼を自分の所有物にしていなかったか。だから勝手な怒りで一方的に傷付けてしまった。
「堪忍や…通宗…私が短慮やった…」
胸の中で啜り泣く通宗の顔を上げてそっと唇を重ねた。
「榊さん……」
まだ不安に瞳が揺れているのがわかった。
「そやけどおおきに」
「え?」
「あんなにあない怒ってぶっちゃけられたら、逆さまに胸がすうっとするもんやねんなあ。なんやすっきりした。私の悪かったんもよう見えたわ」
髪を撫でられ、通宗はようやく泣き止んだ。
「初めてやな?通宗が私を怒鳴ったん。ほんに、なんや嬉しいわ」
榊の言葉に通宗は不思議そうな顔をした。
「わかってへん?あんな、私ら初めて喧嘩したんやで?」
「あ…」
「仲直りでけへんようなんやったら困るけど、違うやろ、これは?それともこないな分からず屋はいらへん?」
そう問われて慌てて首を振った。
「やっと…本音でぶつかってくれはったな」
「怒って…ない?」
「全然いっこも。
好きや…通宗」
もう一度唇を重ねたら、通宗の方から舌先を差し出して来た。臆病で不器用で一途で可愛い恋人。もうすぐ本当の家族になる。
「一生放さへん。覚悟はええな?」
通宗は何度も何度も頷いた。また一人になってしまうのだと思っていた。武たちとも別れて、知る人のいない場所で生きて行く。
本当は怖かった。怖くてもそうしなければならないなら、通宗には 選択肢はなかったのだ。
「いっつも寂しい想いさせて堪忍な。多分、もうすぐおしまいやと思うさかい、もうちっと辛抱してや」
薫と葵は結ばれる。榊は確信していた。そうなれば武を夕麿が導いたように、葵が薫を導いて行くだろう。
自分の役目は終わる。
「新婚旅行はどこ行こ?どこぞ行きたいとこある?」
「………イギリスに言ってみたい」
榊が学んだイギリスの地へ行って見たかった。
「わかった。いこ、二人で」
「はい」
返事しながらも通宗は榊のシャツを握り締めた。
「まだ不安?」
問い掛けると頷いて瞳を潤ませた。
「ええよ、なんぼでも言いたい事言うて。もっと通宗の気持ち聞きたい」
「怖いんです…夢から覚めたら、また一人になってしまいそうで…」
「そやな。まして今、ひとりやから余計にそやな。どないしたらええ?私はどないしたら、通宗は楽になるん?」
「わから…ない。不安で…好きだから…怖い」
「それは私にもわからへんわ。そやけど、ずっと側におって好きや言うたら、ちょっとは和らぐ? もっともっと抱き締めたら、安心でける?」
こっくりと頷く姿が儚くて愛しい。
榊は薫と葵が早く互いの想いを認め欲しいと思う。
人の心配している場合じゃない。通宗は寂しがりなのだから。自分で自覚がないままに。だから側にいていつも囁こう。この胸の熱い想いを。
武の言葉を聞いて榊と通宗は歩き出した。10月の半ば旧都から天羽家の人々が御園生家に来た。通宗は一応、御園生家が親代わりをしている。故に彼の天羽家への養子縁組みについて話し合いに来たのだ。12月に改めて簡単な身内や仲間内への御披露目の会を行う事が決まった。そこで養子縁組みの書類が確認され提出される。言わば今の二人は結婚式を控えた、婚約中のカップルだった。
「通宗、どこ行こか?」
「そうですね…少し喉が渇きました」
「何ぞ飲む?」
「はい」
都市へ出なくても飲み物と軽食ならば出店にある。二人は肩を並べて中庭へ歩き出した。
通宗はさほど紫霄には来ない為、つい懐かしくて遅れてしまった。慌てて榊に駆け寄ろうとした。
「君、邪魔!」
自分と余り年齢が変わらない男が通宗を突き飛ばした。転びかけて何とか踏みとどまると、今の男が走って行った方角を見た。そこには数人のOBに囲まれた榊がいた。
近付こうにも彼を取り囲んだ男たちが通宗を近付かせない。榊も困った顔をしてはいるが通宗に気付いてはいない。仕方なく少し離れて事態がおさまるのを待っていた。しかし…彼らは榊を無理やりに連れて行ってしまった。一人取り残された通宗は為す術もなく立ち尽くした。
夕麿を中心とする81代生徒会のメンバーは全員、人気者であった事も伝説の一つだった。ただ雅久と義勝のカップルは早くから有名であったし夕麿も武と結婚した。そんな事も相俟って、他の者に人が集中してしまった経緯があった。
榊は夕麿とは違った意味で一般生徒たちに無関心だった為、在校中は『鉄壁の君』とい渾名を付けられていた。通宗の前では甘々で寂しがりなのだが、外ではそんな気配は微塵も見せないように見える。それでも親友の貴之に言わせるとデレデレだと言う筈であるが…通宗はそんな事は知らないままだった。
通宗はどうする事も出来ずにそのままそこを立ち去った。榊が振り向かないのが虚しかったし、何だかムカムカとした黒くて熱い感覚が込み上げて来る。彼が自分を探さないなら、ここにいても仕方がないと思ってしまう。あの中に入って行けない自分も嫌だった。苛々がチクチクと胸を刺す。彼らに囲まれている榊に声もかけられない自分にも腹が立った。
どこへ行こう?本部テントに戻る訳にもいかない。図書館に続く道で立ち止まってしまった。
「あれ?相良さん?」
「本当だ、相良さんだ!」
見覚えのある顔が幾つか、笑顔で駆け寄って来た。
「お久しぶりです!」
中等部時代、武を拉致監禁事件する事件を起こした、当時の生徒会長戸沢 美弥の後を急遽受けて生徒会長になった。他に良い人材がいないと判断した御厨 敦紀によって高等部生徒会長にもなった。だが彼はさほど身分が高くはない。どうこう言う者はいなかったが、努めて生徒たちとの交流に力を入れた一年だった。その為か非常に人気があり、皆に信頼された生徒会長だった。
「今日はお一人ですか?」
「いや…紫霞宮さまのお供で…」
「え?紫霞宮さまにお仕えされてるんですか?」
素朴な質問が帰って来る。
「御園生本社で紫霞宮さまの専属秘書をさせてもらってるから」
「凄~い!」
御園生への就職は紫霄の生徒ならば誰もが希望する。どうしても特待生経験者からの就職率が高く、一般生徒たちには国家公務員試験より難関だった。武の専属秘書というのは彼らにはまさに雲の上の人だった。
通宗は別段自分が優秀だったから専属秘書になれたとは思っていなかった。ただ武の側に配置されるのは彼を守って行く人間である。
御園生 小夜子が病床の祖父に代わり、大学での身元保証人になってくれた。それすらも御厨 敦紀の頼みを受けての事だった。皆に笑顔で応えながらも、気持ちはどんどんとマイナスになって行く。悪い方へ悪い方へと行ってしまう。
ふと顔を上げて視線を巡らせると榊が険しい表情で立っていた。息を呑んで立ち上がった瞬間、彼は踵を返して立ち去ってしまったのだ。何かで頭を殴られたようなショックだった。互いの視線が合ったのに、彼はそれを自らそらせて行ってしまったのだ。
側にいた者たちに適当に言って通宗は榊が行った方向へ駈けた。しかし行けども行けども彼の姿はどこにもなかった。通宗は捨てられた子供のように肩を落として一人、宿泊施設の自分の部屋へと戻った。
何もする気にはなれなかった。そのまま軽くシャワーを浴びて、部屋に備え付けのソファに座り込んだ。
何故、自分が睨まれなくてはならない? 先に他の人に囲まれて気付かないまま行ってしまったのは…そっちだろう。その前に自分を置いてさっさと行ってしまったのは誰だ?
ここには居たくない。何となくそう思ってしまう。天羽家に迎え入れてもらうのが決まっているのに、榊の気持ちを疑ってしまう。
好きで好きで……だから不安になる。自分でなくても本当は良いんじゃないのかと。彼の瞳が自分からそらされたら何を映すのだろう。それすらもわからない。確かめるのも恐ろしい。
逃げ出したいでもどこへ行けば良い? 住んでいるマンションも職場も同じなのだ。もとより従兄の実彦以外は身寄りがいない身。所詮は一人なんだと思うと本当にここにはいたくなくなった。武には申し訳ないが感情が止まらない。
通宗は荷物を鞄詰めた。帰ったらマンションの荷物もまとめてどこかへ行こう。あれもこれもと欲張るからこんな悲しい想いをするのだ。どこかの田舎町でひっそりと独りで生きて行こう。辞表はどこか適当な場所でポストに投函すれば良い。
幸せ過ぎて有頂天になっていた。あんな幸せが…転がり込んで来る筈はなかったんだ。通宗はずっと独りだった。家族に捨てられた孤独さとは違う感覚だった。
家族を失った孤独さ。特に高等部からは学費をほとんど自分で稼いでいた。休みに外に出ても祖父も高齢で入退院を繰り返す状態だった。
いずれ独りになる。祖父は何とか大学までは持ちこたえてくれた。紫霄を卒業して大学へ進んで、本当に独りきりになった。荷物をまとめた鞄の鍵をかけながら、通宗は過ぎ去った日々に想いを馳せた。
一生分の思い出をもらった。榊がこの先、幸せであるように。そう思った瞬間、またもやもやチクチクと胸の内がざわめいた。彼が誰かを、自分以外の人間を抱き締める。想像しただけで、怒りと悲しみが一緒に湧き上がる。
誰も見て欲しくない。抱き締めて欲しくない。そんなのは嫌だ。そう思うと涙が溢れて来た。
『ここにいたくない』
『ここにいたい』
相反する気持ちに心が引き裂かれる。通宗はずっと独りきりでひっそりと生きていくつもりだった。早くに両親を亡くし中等部時代に祖母を亡くした。身元引受の祖父もいつ死んでもおかしくない身体だった。
何かを望んではいけない。
紫霄にはどこかそんな空気が漂う。いつかは独りきりになる。通宗の心をその空気が染め上げ頑なにした。
通宗にとって榊への恋は、たったひとつの夢だった。ただ見つめるだけ。まさに枝越しの恋だったのだ。告げるつもりもない、ただ胸に抱くだけの。
多くを望んではいけない。わかっていた筈なのに…… それでも思う相手に抱き締めてもらえるのは嬉しかった。家族にと望まれてどれだけ嬉しかった事か。
全ては夢だったのだ。
だからこんなに簡単にすれ違ってしまう。榊が皆に囲まれて側に寄る事も出来なかった。彼も通宗を忘れたように彼らの中にいた。自分の手が届かなかった。
これが現実。
榊の側に駆け寄ろうとする者に邪魔だと押し退けられた。
これが本当の居場所。
胸が痛んだ。鋭利な刃物で切り裂かれるように。
そして……自分を睨んでどこかへ行ってしまった。
ここを出て行かなければ。そう思うのに強い胸の痛みと深い悲しみに身動きが出来ない。未練たらしく彼の未来を想像して、黒くドロドロとした想いが更に追い立てる。
こんな感情は知らない。これは本当に自分の心なのだろうか?
それでも力を振り絞って、鞄を手にして立ち上がった。覚束ない足でドアノブを掴んで開く。そこに榊が立っていた。彼は通宗が鞄を手にしているのを見て目をつり上げてた。
「なにしてはる?」
腕を掴まれて奥まで引き戻される。通宗はどうして良いのかわからなかった。鞄を抱き締めて震えるしか出来ない。彼の口から拒否の言葉が発せられるのを聞きたくない。今すぐここから出て行きたい。
「そないなもん持って、どこ行くんや?」
明らかに怒気を帯びた声が通宗の耳に響く。
「校内でどこぞ行ってもた思たら、何やぎょうさんに囲まれて嬉しそうにしとるし…私の後すら追い掛けてけぇへん」
「みんなに囲まれてたのは…あなたでしょう?」
声が震えている。それなのに言葉が口から出る。
「僕が…ちょっと遅れたらもう忘れて…気が付かなかったくせに…」
涙が零れ落ちる。みっともないと思うのに止まらない。
「私の側へ来たんやったら、声掛けたらええやないか!」
「近付こうとしたら…邪魔だって…突き飛ばされました。
僕は何ですか!? 都合の良い抱き枕ですか!?」
止めないといけない。こんな事を言ってはいけない。
「そない言うけど自分かて皆に囲まれてごっつう楽しそうやったやないか? 私の後を追い掛けてけぇへんくらいに!」
悲しかった。これで終わりでも誤解をされたままは。
「追い掛けました! ………だけど、あなたはいなかった。どこにもいなかった………」
いて欲しかった。待っていて欲しかった。鞄を抱いたままで泣き崩れる通宗を見て、榊はようやく自分の勘違いを理解した。
「堪忍…堪忍や…」
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確かに通宗に気付かなかったのは自分だ。それなのに追い掛けて来ないと腹を立て、彼が自分と同じように囲まれているのを見て激しい悋気に襲われた。だから目が合った時に睨にらみ付けてしまったのだ。
怒りに任せて歩き去りどこをどう歩いたか記憶が定かではない。そんな状態の榊を追って来るのは難しかったのかもしれない。
どんな想いでここに戻り荷物をまとめたのだろう。そう考えて榊はある事に思い至って全身の血が低く想いがした。このままマンションへ帰って姿を消すつもりではなかったのか。二度と手の届かないどこかへ行ってしまおうとしていたのではないか。
「どこにも行ったらあかん。通宗は私の妻になるんやさかい。絶対に放さへん!」
鞄を取り上げて抱き締めた。
「榊さん…榊さん…」
腕の中で身を震わせて泣きじゃくる彼の姿に、今自分が感じた事が間違っていないのを悟った。余りにもたくさんを失い過ぎて、失うのが当たり前になっている通宗。脆さと悲しみを自分がきちんと理解していないのを悟ったのだ。
行き場も帰る場所も失って、絶望して行く生徒たちを見て来たのではなかったのか。全てを諦めて何も望まなくなって、無気力になって行く生徒を眺めて来たではないか。失い過ぎる事が人間の心をどのように蝕むのかを知っていたのではなかったのか。
ああ、そうだった。自分は決して家族には捨てられない。彼らより優位な位置から見下ろして哀れんでいたのだ。わかっているつもりでいて、本当は何もわかっていなかったのだ。
なんと自分は傲慢で愚かなのだろうか。周りにはたくさん学院に閉じ込められた人間がいた。それなのにまるでわかってはいなかったのだ。
好きな人の不安も諦める心もわかっていなかった。彼がどれだけ懸命に自分に寄り添う努力をしていたのかも。
愛を囁いて抱き締めて、家族を与えて………そんな傲慢な気持ちがなかっただろうか。ダメになった恋の古傷の痛みから来る喪失感を、二度と味わいたくなくて彼を雁字搦がんじがらめにしていなかったか。
胸を満たすのは強い後悔だった。彼を自分の所有物にしていなかったか。だから勝手な怒りで一方的に傷付けてしまった。
「堪忍や…通宗…私が短慮やった…」
胸の中で啜り泣く通宗の顔を上げてそっと唇を重ねた。
「榊さん……」
まだ不安に瞳が揺れているのがわかった。
「そやけどおおきに」
「え?」
「あんなにあない怒ってぶっちゃけられたら、逆さまに胸がすうっとするもんやねんなあ。なんやすっきりした。私の悪かったんもよう見えたわ」
髪を撫でられ、通宗はようやく泣き止んだ。
「初めてやな?通宗が私を怒鳴ったん。ほんに、なんや嬉しいわ」
榊の言葉に通宗は不思議そうな顔をした。
「わかってへん?あんな、私ら初めて喧嘩したんやで?」
「あ…」
「仲直りでけへんようなんやったら困るけど、違うやろ、これは?それともこないな分からず屋はいらへん?」
そう問われて慌てて首を振った。
「やっと…本音でぶつかってくれはったな」
「怒って…ない?」
「全然いっこも。
好きや…通宗」
もう一度唇を重ねたら、通宗の方から舌先を差し出して来た。臆病で不器用で一途で可愛い恋人。もうすぐ本当の家族になる。
「一生放さへん。覚悟はええな?」
通宗は何度も何度も頷いた。また一人になってしまうのだと思っていた。武たちとも別れて、知る人のいない場所で生きて行く。
本当は怖かった。怖くてもそうしなければならないなら、通宗には 選択肢はなかったのだ。
「いっつも寂しい想いさせて堪忍な。多分、もうすぐおしまいやと思うさかい、もうちっと辛抱してや」
薫と葵は結ばれる。榊は確信していた。そうなれば武を夕麿が導いたように、葵が薫を導いて行くだろう。
自分の役目は終わる。
「新婚旅行はどこ行こ?どこぞ行きたいとこある?」
「………イギリスに言ってみたい」
榊が学んだイギリスの地へ行って見たかった。
「わかった。いこ、二人で」
「はい」
返事しながらも通宗は榊のシャツを握り締めた。
「まだ不安?」
問い掛けると頷いて瞳を潤ませた。
「ええよ、なんぼでも言いたい事言うて。もっと通宗の気持ち聞きたい」
「怖いんです…夢から覚めたら、また一人になってしまいそうで…」
「そやな。まして今、ひとりやから余計にそやな。どないしたらええ?私はどないしたら、通宗は楽になるん?」
「わから…ない。不安で…好きだから…怖い」
「それは私にもわからへんわ。そやけど、ずっと側におって好きや言うたら、ちょっとは和らぐ? もっともっと抱き締めたら、安心でける?」
こっくりと頷く姿が儚くて愛しい。
榊は薫と葵が早く互いの想いを認め欲しいと思う。
人の心配している場合じゃない。通宗は寂しがりなのだから。自分で自覚がないままに。だから側にいていつも囁こう。この胸の熱い想いを。
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数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
BL 男達の性事情
蔵屋
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漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。
漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。
漁師の仕事は多岐にわたる。
例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。
陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、
多彩だ。
漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。
漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。
養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。
陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。
漁業の種類と言われる仕事がある。
漁師の仕事だ。
仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。
沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。
日本の漁師の多くがこの形態なのだ。
沖合(近海)漁業という仕事もある。
沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。
遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。
内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。
漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
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