60 / 73
嫁ぐ日~通宗と榊
1
しおりを挟む
天羽夫妻が御園生家を訪問したのは、11月も半ばを過ぎた頃だった。
相良 通宗を養子に迎える。貴族の同性間婚姻を認めない皇国に於いて唯一、結婚に代わる方法であった。血縁がたった一人しかいない通宗にとって、天羽家に迎えられる事は家族を得る事であった。
ただ…早くに両親を亡くし育ててくれた祖父母をも相次いで亡くした彼は、何かを強く求める気持ちを失っていた。気持ちが強くなればなるほど失う事が怖かった。だからずっと誰かを想っても片恋で終わらせていた事実があった。
榊と両想いになっても通宗にはどこか完全に、踏み込めない自分がいるのを感じていたのだ。けれども普段の顔からは想像もつかない、榊の甘え方や幾つものすれ違いから逆に想いが深まっていった。
そしてやっとこの日を迎えたのである。
「そないしたら、お披露目は12月入ってすぐでよろしゅうごさいますやろか?」
榊の父 楸が有人に笑顔で尋ねた。
「その辺りの皆のスケジュールはどうだろう?」
彼にそう問い掛けられて、雅久は手帳を開いた。
「紫霞宮ご夫妻と影暁さまは、5日の大安でしたらまだご予定があらしゃりません」
「まだ日にちも在る事だし、その日という事で皆に調節をしてもらおう。
成瀬室長にもそれで御願いを」
「承知いたしました」
薫が葵と結ばれた事で榊は夕麿の専属秘書に復帰、影暁も他の企業に就職していた紫霄時代の同級生を専属秘書に引き抜いた為、雅久は元の統括秘書に戻っていた。
順調に話が進んで行く。天羽家はこの日、通宗の為にきちんと結納の品々を揃えて、御園生家に足を運んだのだ。男とはいえ通宗を末の息子の伴侶として迎える想いを形にしたものであった。
通宗はずっと俯いていた。顔を上げたら泣き出してしまいそうだった。榊の母の栞はよく通宗に電話を掛けて来てくれた。彼女が京都の様々な品物を送ってくれる際の宛名はいつも通宗だった。いつも彼女の温かい手紙が添えられていた。通宗が自分の幸せにどこかまだ不安でいるという事を、彼女は息子から聞かされていたのだ。
何も望まない。
何にも執着しない。
ただ与えられた運命に抗う事無く生きる。
失うだけ失った者が行き着く想い。それが本当はどれくらいのものであるのか。榊は紫霄の学祭の後に影暁や清方に尋ねまわった。少しでも愛する人が安心出来るように。夢ではなく現実であるのだとわかって欲しかった。
そして聞かされたのは影暁がごく最近まで、通宗と似たような状態であった事だった。
絶望から出た諦めは心に深く根を下ろす。
清方からはそんな言葉が発せられた。全てを『想い出』という宝物にして最後には、全てを失うものだと諦める。心は渇望しているのに何もかもを抑圧して生きようとする。
「そうですね…あなたにわかりやすく説明するとしたら、私たちはショーウインドウの中のマネキンと同じなんです。マネキンが服やアクセサリーを取り替えられるように、私たちにはただ与えられたものを享受するしかないのです。季節の移り変わりも人々の笑顔も、全ては硝子越しに眺めているようなもの。如何に目の前にあっても決して手には入れる事は許されない事だったです」
全てが硝子越し……榊が考えた事もない光景だった。ただ通宗は高等部を卒業して外の大学に進学した。祖父が入院中でマンションに一人で生活していたと聞いていた。違いはないのかと聞いてみた。
「そうですね、多少は私とは違うと思いますよ。私は10年以上紫霄の中に閉じ込められていましたが、通宗君や影暁君よりは早くそこから脱却出来ました。むしろ閉じ込められるよりも、外に出ても孤独だった二人の方が絶望と諦めの根は深いのかもしれません」
「何故…でしょうか?」
「店先のマネキンに立場が変わっただけなのかもしれませんね」
「店先の…マネキン?」
「外の空気やざわめきの中には出る事が出来ても触れる事は出来なかった」
清方のその言葉に榊は息を呑んだ。
「彼がどのような状態であったのか、わかりましたが?」
「はい…私は…間違まちごうてたんやな…与えるだけではあかんかったんや」
抱き締めて与えればきっといつかは通宗を満たす事が出来る。ずっとそう思って来た。けれどそれが大きな間違いだったのだ。
何をどうすれば良いのか。答えを清方は与えてはくれなかった。自分で考えてこそ意味がある。榊はその言葉を噛み締めて全てを模索した。
だが母親というものは強くて凄い存在だと今更ながらに思っていた。栞は通宗にこまめに連絡を取り、榊の世話をいろいろと頼み込んだ。榊本人が聞いて赤面するような事にまで。
「通宗さんが頼りや」
栞のそんな言葉に少しずつ通宗が変化を見せ始めた。榊の為に。榊が好むように。ただそれだけの生活に、色合いのようなものが現れ始めた。
朝食は英国色で……が榊のスタイルだった。だが最近は和食の朝食が並ぶ事がある。旧都の白味噌の味噌汁が添えられているのだ。旧都風の出汁巻。旧都の漬物。どれもが懐かしい味であった。母親の味を再現するのに通宗はどんな努力をしたのだろう。
栞が通宗に頼み込んだ事は何にでもルールを与えて、杓子定規に自分の行動を決めてしまう榊の生活パターンを壊す事。たとえそれが榊自身のストレスになっていても、本人が自覚しないのだと栞は言う。規則正しい生活は必要だが、自分を縛る生活は良くない。それを変えて欲しいと。
通宗に何某かの頼み事をする……愛する人の為になるならば懸命になって努力する。ただこれまでは榊の好みに合わせて、ひたすらに通宗は努力をして来た。だが今度は榊がやらない事、決めていない事をやる。榊が嫌がらない形で、むしろ喜ぶ方向で。
通宗は栞に教えられながら懸命に、何が出来るかを考え始めたのだ。その一つが朝食のメニューを変える事だった。基本的には榊が望む、英国スタイルの朝食にする。だが週の何回かを和食、それも旧都風の物にする。
基本的な味は紫霄の寮で食べていたから、通宗はさほど戸惑いはなかった。栞が送ってくれる白味噌、旧都の漬け物、野菜などを使う。通宗は毎朝、夕食の下こしらえまで済ませてから出社する。
武が週4日出勤の為、夕麿の専属秘書である榊よりも幾分、時間的余裕があるのだ。
白飯、えび芋と聖護院かぶらと金時人参の白味噌の味噌汁。しば漬けに西京味噌漬けの焼き鱈。京菜(京水菜)と堀川牛蒡のサラダ。旧都風だし巻き。
並べられた朝食に榊は声を上げた。
「いや、今朝はえらいご馳走やな…」
戸惑ったように呟く。
「旧都の栞おたあさんから、たくさん送っていただいたのでたまには…」
答える通宗の声に不安が見え隠れする。
「おおきに。おたあさんも喜ぶやろ。そやけど朝からこないに気張ってしんどないか?」
「いいえ。昨日は早く帰って来たので、夜に下準備してたので」
「さよか。いただこ…何や旧都に帰ったみたいやなあ…」
箸を手に喜ぶ榊を見て、通宗もホッとした顔になる。
「朝は手間かけるとしんどなるさかい、英国スタイルやったら楽やからな。そやけどやっぱりこないな朝餉はええなあ」
そう言われると通宗は嬉しくて俯いて照れてしまう。
「ほんまに私は果報もんやなあ」
嘘偽りのない本音をきちんと言葉にして言う。そうしなければ伝わらない。気付いたのはあの学祭での喧嘩の後だった。事の顛末を兄の柊に話して叱られたのだ。何でもわかってもらえると思うのが間違いだと。お互いに違う家に生まれ、環境も年齢も違うのだ。それは榊が考えた事がない事実だった。
些細な事。
取るに足らない事。
そう思うのは独り善がり。不安を持っている人間には些細事も大きな事になると言われて思い当たる事がたくさんあった。
二人で生活しているのに家事は通宗に任せっきり。確かに夕麿が多忙で当然ながら専属秘書として榊も忙しい。出社や退社の時間が別になる事もかなりある。武は無理が出来ない為、当然、専属秘書の通宗もそれに合わせる形の勤務になる。武が不在の日もスケジュールの調節などで出社するが、定時帰宅するのが常だ。そんな日には通宗は買い物や掃除などの家事を細々としている。
彼らのマンションは4LDKにウォークインクローゼットという間取りで、通常は2部屋の面積を使用している為にかなり広い。それを全部、通宗が引き受けていたのだ。幾ら彼が帰宅が早い日があるとしても、余りにも無頓着だったのではないか。榊はそう反省して、少しずつ手を出し始めた。
もとより料理は軽いものなら出来る。掃除も嫌いではない。最近は食後の紅茶すら、通宗が淹れているのだ。ハウスキーパーじゃないく通宗は大事な婚約者なのだ。
甘える場所を間違っている。何でもやってくれるから、任せっぱなしにしていた。自分は甘えて通宗に甘えさせてはいない。榊はその事実にさえ愕然とした。
「新婚旅行やけど、正月明けに休みもらえたさかい」
「あ、はい」
通宗の瞳が輝いた。そういえば武も旅行に行った経験が少なく、どこへ行っても喜ぶ話を義勝が言っていた。通宗も似たり寄ったりの筈だ。
「2週間ほどもろたさかい、半分はヨーロッパを回ろか?」
「はい」
「行きたいとこある?」
どこへでも連れて行きたい。
「あの…ルーブルへ行ってみたいです」
影暁がいつだったか、武にルーブル美術館の話をしていたのだ。ルーブルで一番美しく、一番素晴らしいものはニケの像だと彼は言った。モナリザの絵よりも、ミロのヴィーナスよりも、最奥に展示されているニケを。見てみたいと通宗はその時に思ったのだ。
「ああ、影暁さまか。そない言うたら、ルーブルの話、してはったな」
「はい」
「そやったらいろんな事、うかごうてみんとあかへんな」
食後のお茶を飲みながら言うと、通宗は嬉しそうに笑った。
身体の弱い武は人見知りをする部分があって、気を許さない相手には絶対に弱さを見せない。彼の補助をするには全面的に信頼される必要があった。通宗を専属秘書に望んだのは夕麿だった。
だがもし御厨 敦紀か下河辺 行長が御園生ホールディングスへ入社していたら彼らを望んだ筈だった。
信頼はしている。通宗を中等部生徒会長に引き上げたのは武の希望だったからだ。もっと踏み込んだ信頼を、が結局は武の為になる。通宗の為にもなる。榊は夕麿にそう説明していた。
のちに榊が薫の教育係として派遣された理由に、過去のそのような経緯があったのだ。通宗はこれを聞いて、何とか榊の期待に応えようとした。そして気が付いたのだ。厳しさの中に彼の優しさが、ちゃんと秘められている事に。気付いた時、通宗の心に恋が芽生えた。
誰にも告げない秘めたる恋。
すぐ側で仕事をする。
住んでいるマンションの部屋が同じ階。
些細な事が通宗の喜びだった。ただ物影から彼をそっと見詰めるだけの恋。まさに枝越しの片想い。5年近くもそうやってただ見詰めるだけの恋だった。
昨夜、ふと気付いて改めて榊に訊いた。彼はいつから通宗を好きだったのかと。
彼は半ば照れながら答えた。ほとんど一目惚れだったのだと。恋人と別れて傷心だった榊は最初、その想いを自ら否定した。前の恋を失ってすぐに、誰かに心を奪われた自分を恥じたのだ。
だが健気で懸命な通宗の姿を見て、想いは強く深くなって行った。けれども通宗の方は想うだけで、満足しているように感じたのだ。榊本人の想いを拒否しているようにも感じた。だからずっと互いに想いながらも、枝越しに見詰める恋のままだったのだ。
通宗は榊が見込んだ通り武にも夕麿にも雅久にも信頼されるようになった。武に寄り添い、懸命に補助をする姿は一層健気で愛らしかった。
想いがさらに深くなった頃に、あの枝越しの歌を通宗が詠んだのだ。
やはり想ってくれていた。だから自分も枝越しに見ていると答えた。榊はそう言って通宗を抱き締めた。
義勝や貴之は5年もかかった事に苦笑してはいたが二人の幸せを喜んでくれた。
今、披露宴に列席した者全員が笑顔で祝福してくれている。
………通宗は今日、相良 通宗から天羽 通宗になる。 愛する人の妻となった。
相良 通宗を養子に迎える。貴族の同性間婚姻を認めない皇国に於いて唯一、結婚に代わる方法であった。血縁がたった一人しかいない通宗にとって、天羽家に迎えられる事は家族を得る事であった。
ただ…早くに両親を亡くし育ててくれた祖父母をも相次いで亡くした彼は、何かを強く求める気持ちを失っていた。気持ちが強くなればなるほど失う事が怖かった。だからずっと誰かを想っても片恋で終わらせていた事実があった。
榊と両想いになっても通宗にはどこか完全に、踏み込めない自分がいるのを感じていたのだ。けれども普段の顔からは想像もつかない、榊の甘え方や幾つものすれ違いから逆に想いが深まっていった。
そしてやっとこの日を迎えたのである。
「そないしたら、お披露目は12月入ってすぐでよろしゅうごさいますやろか?」
榊の父 楸が有人に笑顔で尋ねた。
「その辺りの皆のスケジュールはどうだろう?」
彼にそう問い掛けられて、雅久は手帳を開いた。
「紫霞宮ご夫妻と影暁さまは、5日の大安でしたらまだご予定があらしゃりません」
「まだ日にちも在る事だし、その日という事で皆に調節をしてもらおう。
成瀬室長にもそれで御願いを」
「承知いたしました」
薫が葵と結ばれた事で榊は夕麿の専属秘書に復帰、影暁も他の企業に就職していた紫霄時代の同級生を専属秘書に引き抜いた為、雅久は元の統括秘書に戻っていた。
順調に話が進んで行く。天羽家はこの日、通宗の為にきちんと結納の品々を揃えて、御園生家に足を運んだのだ。男とはいえ通宗を末の息子の伴侶として迎える想いを形にしたものであった。
通宗はずっと俯いていた。顔を上げたら泣き出してしまいそうだった。榊の母の栞はよく通宗に電話を掛けて来てくれた。彼女が京都の様々な品物を送ってくれる際の宛名はいつも通宗だった。いつも彼女の温かい手紙が添えられていた。通宗が自分の幸せにどこかまだ不安でいるという事を、彼女は息子から聞かされていたのだ。
何も望まない。
何にも執着しない。
ただ与えられた運命に抗う事無く生きる。
失うだけ失った者が行き着く想い。それが本当はどれくらいのものであるのか。榊は紫霄の学祭の後に影暁や清方に尋ねまわった。少しでも愛する人が安心出来るように。夢ではなく現実であるのだとわかって欲しかった。
そして聞かされたのは影暁がごく最近まで、通宗と似たような状態であった事だった。
絶望から出た諦めは心に深く根を下ろす。
清方からはそんな言葉が発せられた。全てを『想い出』という宝物にして最後には、全てを失うものだと諦める。心は渇望しているのに何もかもを抑圧して生きようとする。
「そうですね…あなたにわかりやすく説明するとしたら、私たちはショーウインドウの中のマネキンと同じなんです。マネキンが服やアクセサリーを取り替えられるように、私たちにはただ与えられたものを享受するしかないのです。季節の移り変わりも人々の笑顔も、全ては硝子越しに眺めているようなもの。如何に目の前にあっても決して手には入れる事は許されない事だったです」
全てが硝子越し……榊が考えた事もない光景だった。ただ通宗は高等部を卒業して外の大学に進学した。祖父が入院中でマンションに一人で生活していたと聞いていた。違いはないのかと聞いてみた。
「そうですね、多少は私とは違うと思いますよ。私は10年以上紫霄の中に閉じ込められていましたが、通宗君や影暁君よりは早くそこから脱却出来ました。むしろ閉じ込められるよりも、外に出ても孤独だった二人の方が絶望と諦めの根は深いのかもしれません」
「何故…でしょうか?」
「店先のマネキンに立場が変わっただけなのかもしれませんね」
「店先の…マネキン?」
「外の空気やざわめきの中には出る事が出来ても触れる事は出来なかった」
清方のその言葉に榊は息を呑んだ。
「彼がどのような状態であったのか、わかりましたが?」
「はい…私は…間違まちごうてたんやな…与えるだけではあかんかったんや」
抱き締めて与えればきっといつかは通宗を満たす事が出来る。ずっとそう思って来た。けれどそれが大きな間違いだったのだ。
何をどうすれば良いのか。答えを清方は与えてはくれなかった。自分で考えてこそ意味がある。榊はその言葉を噛み締めて全てを模索した。
だが母親というものは強くて凄い存在だと今更ながらに思っていた。栞は通宗にこまめに連絡を取り、榊の世話をいろいろと頼み込んだ。榊本人が聞いて赤面するような事にまで。
「通宗さんが頼りや」
栞のそんな言葉に少しずつ通宗が変化を見せ始めた。榊の為に。榊が好むように。ただそれだけの生活に、色合いのようなものが現れ始めた。
朝食は英国色で……が榊のスタイルだった。だが最近は和食の朝食が並ぶ事がある。旧都の白味噌の味噌汁が添えられているのだ。旧都風の出汁巻。旧都の漬物。どれもが懐かしい味であった。母親の味を再現するのに通宗はどんな努力をしたのだろう。
栞が通宗に頼み込んだ事は何にでもルールを与えて、杓子定規に自分の行動を決めてしまう榊の生活パターンを壊す事。たとえそれが榊自身のストレスになっていても、本人が自覚しないのだと栞は言う。規則正しい生活は必要だが、自分を縛る生活は良くない。それを変えて欲しいと。
通宗に何某かの頼み事をする……愛する人の為になるならば懸命になって努力する。ただこれまでは榊の好みに合わせて、ひたすらに通宗は努力をして来た。だが今度は榊がやらない事、決めていない事をやる。榊が嫌がらない形で、むしろ喜ぶ方向で。
通宗は栞に教えられながら懸命に、何が出来るかを考え始めたのだ。その一つが朝食のメニューを変える事だった。基本的には榊が望む、英国スタイルの朝食にする。だが週の何回かを和食、それも旧都風の物にする。
基本的な味は紫霄の寮で食べていたから、通宗はさほど戸惑いはなかった。栞が送ってくれる白味噌、旧都の漬け物、野菜などを使う。通宗は毎朝、夕食の下こしらえまで済ませてから出社する。
武が週4日出勤の為、夕麿の専属秘書である榊よりも幾分、時間的余裕があるのだ。
白飯、えび芋と聖護院かぶらと金時人参の白味噌の味噌汁。しば漬けに西京味噌漬けの焼き鱈。京菜(京水菜)と堀川牛蒡のサラダ。旧都風だし巻き。
並べられた朝食に榊は声を上げた。
「いや、今朝はえらいご馳走やな…」
戸惑ったように呟く。
「旧都の栞おたあさんから、たくさん送っていただいたのでたまには…」
答える通宗の声に不安が見え隠れする。
「おおきに。おたあさんも喜ぶやろ。そやけど朝からこないに気張ってしんどないか?」
「いいえ。昨日は早く帰って来たので、夜に下準備してたので」
「さよか。いただこ…何や旧都に帰ったみたいやなあ…」
箸を手に喜ぶ榊を見て、通宗もホッとした顔になる。
「朝は手間かけるとしんどなるさかい、英国スタイルやったら楽やからな。そやけどやっぱりこないな朝餉はええなあ」
そう言われると通宗は嬉しくて俯いて照れてしまう。
「ほんまに私は果報もんやなあ」
嘘偽りのない本音をきちんと言葉にして言う。そうしなければ伝わらない。気付いたのはあの学祭での喧嘩の後だった。事の顛末を兄の柊に話して叱られたのだ。何でもわかってもらえると思うのが間違いだと。お互いに違う家に生まれ、環境も年齢も違うのだ。それは榊が考えた事がない事実だった。
些細な事。
取るに足らない事。
そう思うのは独り善がり。不安を持っている人間には些細事も大きな事になると言われて思い当たる事がたくさんあった。
二人で生活しているのに家事は通宗に任せっきり。確かに夕麿が多忙で当然ながら専属秘書として榊も忙しい。出社や退社の時間が別になる事もかなりある。武は無理が出来ない為、当然、専属秘書の通宗もそれに合わせる形の勤務になる。武が不在の日もスケジュールの調節などで出社するが、定時帰宅するのが常だ。そんな日には通宗は買い物や掃除などの家事を細々としている。
彼らのマンションは4LDKにウォークインクローゼットという間取りで、通常は2部屋の面積を使用している為にかなり広い。それを全部、通宗が引き受けていたのだ。幾ら彼が帰宅が早い日があるとしても、余りにも無頓着だったのではないか。榊はそう反省して、少しずつ手を出し始めた。
もとより料理は軽いものなら出来る。掃除も嫌いではない。最近は食後の紅茶すら、通宗が淹れているのだ。ハウスキーパーじゃないく通宗は大事な婚約者なのだ。
甘える場所を間違っている。何でもやってくれるから、任せっぱなしにしていた。自分は甘えて通宗に甘えさせてはいない。榊はその事実にさえ愕然とした。
「新婚旅行やけど、正月明けに休みもらえたさかい」
「あ、はい」
通宗の瞳が輝いた。そういえば武も旅行に行った経験が少なく、どこへ行っても喜ぶ話を義勝が言っていた。通宗も似たり寄ったりの筈だ。
「2週間ほどもろたさかい、半分はヨーロッパを回ろか?」
「はい」
「行きたいとこある?」
どこへでも連れて行きたい。
「あの…ルーブルへ行ってみたいです」
影暁がいつだったか、武にルーブル美術館の話をしていたのだ。ルーブルで一番美しく、一番素晴らしいものはニケの像だと彼は言った。モナリザの絵よりも、ミロのヴィーナスよりも、最奥に展示されているニケを。見てみたいと通宗はその時に思ったのだ。
「ああ、影暁さまか。そない言うたら、ルーブルの話、してはったな」
「はい」
「そやったらいろんな事、うかごうてみんとあかへんな」
食後のお茶を飲みながら言うと、通宗は嬉しそうに笑った。
身体の弱い武は人見知りをする部分があって、気を許さない相手には絶対に弱さを見せない。彼の補助をするには全面的に信頼される必要があった。通宗を専属秘書に望んだのは夕麿だった。
だがもし御厨 敦紀か下河辺 行長が御園生ホールディングスへ入社していたら彼らを望んだ筈だった。
信頼はしている。通宗を中等部生徒会長に引き上げたのは武の希望だったからだ。もっと踏み込んだ信頼を、が結局は武の為になる。通宗の為にもなる。榊は夕麿にそう説明していた。
のちに榊が薫の教育係として派遣された理由に、過去のそのような経緯があったのだ。通宗はこれを聞いて、何とか榊の期待に応えようとした。そして気が付いたのだ。厳しさの中に彼の優しさが、ちゃんと秘められている事に。気付いた時、通宗の心に恋が芽生えた。
誰にも告げない秘めたる恋。
すぐ側で仕事をする。
住んでいるマンションの部屋が同じ階。
些細な事が通宗の喜びだった。ただ物影から彼をそっと見詰めるだけの恋。まさに枝越しの片想い。5年近くもそうやってただ見詰めるだけの恋だった。
昨夜、ふと気付いて改めて榊に訊いた。彼はいつから通宗を好きだったのかと。
彼は半ば照れながら答えた。ほとんど一目惚れだったのだと。恋人と別れて傷心だった榊は最初、その想いを自ら否定した。前の恋を失ってすぐに、誰かに心を奪われた自分を恥じたのだ。
だが健気で懸命な通宗の姿を見て、想いは強く深くなって行った。けれども通宗の方は想うだけで、満足しているように感じたのだ。榊本人の想いを拒否しているようにも感じた。だからずっと互いに想いながらも、枝越しに見詰める恋のままだったのだ。
通宗は榊が見込んだ通り武にも夕麿にも雅久にも信頼されるようになった。武に寄り添い、懸命に補助をする姿は一層健気で愛らしかった。
想いがさらに深くなった頃に、あの枝越しの歌を通宗が詠んだのだ。
やはり想ってくれていた。だから自分も枝越しに見ていると答えた。榊はそう言って通宗を抱き締めた。
義勝や貴之は5年もかかった事に苦笑してはいたが二人の幸せを喜んでくれた。
今、披露宴に列席した者全員が笑顔で祝福してくれている。
………通宗は今日、相良 通宗から天羽 通宗になる。 愛する人の妻となった。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】 男達の性宴
蔵屋
BL
僕が通う高校の学校医望月先生に
今夜8時に来るよう、青山のホテルに
誘われた。
ホテルに来れば会場に案内すると
言われ、会場案内図を渡された。
高三最後の夏休み。家業を継ぐ僕を
早くも社会人扱いする両親。
僕は嬉しくて夕食後、バイクに乗り、
東京へ飛ばして行った。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる