蓬莱皇国物語SS集

翡翠

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母親

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 彼の勤務は結構忙しい。院内を歩き回る為に、ドクターシューズをすぐに履き潰してしまう。自分用の部屋にはいつダメになっても換えられるように、新しい物が幾つも置いてある程だ。

 医師免許は取得しても、まだまだ右も左もわからない雛だと思っている。それでも入院患者とその家族の心のケアを任され、次から次へと病棟から病棟へ、病室から病室へと渡り歩く。お蔭で何処の病棟にどんな患者が入院しているのかを、完全ではないにしても把握している状態だ。

 院内に張り巡らされたWi-Fi回線によるタブレット端末で、電子カルテが瞬時に呼び出せるシステムが導入されていなかったら、こんなにスムーズに患者から患者へと飛び回ってカウンセリングを行う事は出来なかっただろう。このシステムは帰国して病院に就職した周の発案を、武が承認して有人が院長に導入に踏み切らせた者だ。年配の医師や看護師の中には渋った者もいたらしいが、UCLAからの帰国組と紫霄から引き抜いた者の強い押しで実現した。

 タブレット端末は重いには重いが長期的に治療を受けている患者の分厚いカルテを、持ち運ぶよりは軽いし必要な部分を早く選択出来て便利だ。外部で患者を診察する時には書いた内容を、病院のPCに送れば全員でカルテを共有出来る利点もあった。

 これを一番活用しているのが周だった。彼は紫霞宮家の侍医として、往診に出る事が多いからだ。とは言っても義勝もフル活用しているのは同じだと言えた。

「…ま…義勝兄さま!」

「え?」

 ギョッとして振り返ると小夜子と一緒に希が立っていた。

「希?珍しいな、どうした?腹でも痛いのか?」

 小学生の義弟に長身の義勝はわざわざしゃがんで声をかけた。

「ううん。僕は何ともないよ?クラスのお友だちが事故に遭って怪我したから、お見舞いに来たの」

「ああ、希はクラス委員長だったな」

「うん」

 希は紙に包まれた物を手にしていた。大きさと形からしてクラスのメッセージを書いた色紙らしい。昨今の病院では見舞いに花を持参するのを断る所が増えている。花が雑菌や微生物を持ち込む原因になったり、アレルギーを引き起こしたりする可能性があるからだ。この御園生系列の病院でも、生花の持ち込みは禁止してある。

「事故で入院…希と同じ年齢…ええっと、それは女の子だよな?確か名前は大空 奈緒美ちゃんだったかな…」

「凄~い!義勝兄さま、何で知ってるの?」

「昨日の夜、少し話をした」

 少女は面会時間が終了して家族が帰った後、病室に取り残されたようで帰りたいと泣いて、看護師たちをかなり困らせたのだ。この病院は待遇が良い為、医療関係者の人数は他の病院よりは充実してはいる。それでも夜間の病棟詰め所は少人数で、しかも今は重症患者を抱えていた。そこで義勝が呼ばれたのだ。

 お蔭で昨夜は当直でもないのに病院に泊まる羽目になった。武や夕麿の入院時以外では、初めての事態だった。

「義勝さんはもう家に戻るのよね?」

「はい」

「お食事は?」

「いえ、朝もまだ食べていません」

「まあ…じゃ、少し待っていてくださる?この後、希とランチをいただく予定なの。PTAのお仲間から教えていただいた、近頃評判のお店なのよ?」

「へえ、それは是非に」

「決まりね」

「ではお義母さん、俺の部屋はご存知ですよね?」

「ええ、もちろん」

「これからシャワーを浴びて着替えますので、どうぞゆっくりとお戻りください」

「わかったわ。希、行きましょう」

「はい」

 一般病棟に向かう二人をエレベーターまで送り、義勝は院内の自分用の部屋へと足早に待合室を横切る。いつもながらそこは周が勤務する総合科の順番を待つ人、診察料の支払いの順番待ち、薬の順番待ちといった人々でベンチが埋め尽くされていた。見知った顔を幾つか見掛けて軽く会釈をすると、それぞれの反応が返ってくるのが面白い。

 ふと義勝はどこからか見られている気がして周囲を見回した。もちろんこの病院の医師である限りは、患者やその家族から視線を浴びるのは日常茶飯事ではある。だが視線はそんなものとは違う感じがしたのだ。ぐるりと見回して彼は窓際に並べられた一人掛けの椅子に、座っている年配の女性としっかりと視線が合ってしまった。恐らくは視線は彼女から送られたものに違いない…と判断した。

 誰だろう…?

 見覚えがあるようでないような気もする。だが患者や家族ではないようにも感じた。そういった人々が向けて来る眼差しとは、なぜか違うような気がしたのだ。何とも表現が出来ないざわめきのようなものが、心の中で重く暗く響く感じがして、義勝は小夜子たちを待たさない為にもと言い訳をしてその場を離れた。


 
 少し温度が高めの湯で頭をすっきりさせる。昨夜は徹夜をした訳ではないが、病院の仮眠室というのは寝心地が良いとは言えない。特別病棟の仮眠室を利用する手もあったのだが、あそこは半ば周の為のものになっているので利用し難いのだ。

 湯を止めてパウダールームに踏み出した瞬間、さっきの女性の顔が朧気おぼろげな記憶の中のある顔と重なった。

「まさか…今頃?」

 否定したい気持ちの方が強かった。義勝を産むだけ産んで乳母に預けて、見向きもせず帰っても来なかった母親。彼女とは数える程しか顔を合わせた事がなく、今の義勝に『母親』と言われて思い浮かぶのは義母である小夜子ただ一人だ。

 彼女は何故この病院にいたのだろう?よくよく考えてみると義勝は自分の実の両親が、それぞれ再婚した相手とどこに住んでいるのかも知らないままだ。確か…御園生に養子に入る際に未だ未成年だった為に、有人が承諾の為の書類を整えるというので連絡していた筈だ。だが、あれから10年が経過している。

 彼女が待合室にいたのは単なる治療の為の来院なのだろうか。それとも……いやそんな筈はないと浮かんで来た事を義勝は瞬時に否定した。

 次に彼女が病院に姿を現したのは、舞楽の教室を終えた雅久が来た時だった。武が午後から高熱を出して周が出した処方箋を外来で受け取って、院内の薬局で薬の順番待ちをしているところにたまたま義勝が通りかかった。

「義勝」

「雅久?ああ、武の薬か。ちょっと待ってろ」

 雅久が待合室にいるのは余りにも目立ち過ぎる。大体、御園生の子息の一人が普通に、待合室で順番待ちをする事自体がおかしいのだ。まさか受付が彼を使用人の一人だと思った訳でもあるまい。義勝は自分の部屋に武の薬を届けるように受付に命じた上で、雅久を患者たちと同じ場所で待たさないように言った。

 受付に入っていたのはまだ新人で不満そうに話を聞く彼を、怒鳴りつけたくなったが我慢して名札の名前を確認するだけに留めた。

 待合室にはいろんな人間が来る。雅久は紫霞宮家の大夫であり、お抱えの舞楽師でもある。御園生の子息の一人として、また新進気鋭の画家 御厨 敦紀のモデルであり、天性の美貌の持ち主としても異様に目立ってしまう。武を狙う謀略が完全に終結したとは言えない今は、誰がターゲットにされて利用されるかもわからないのだ。第一、武程ではないにしても雅久は余り丈夫とは言えない。ここで長時間待っていて、どの様な病に感染するかわかったものではない。

「行くぞ」

 雅久の元に戻って声をかけ、彼が立ち上がった時だった。また視線を感じたのだ。以前のものよりも強いものに感じた。思わず相手を見た。やはり彼女は生みの母に違いない。彼女はこの長身の医師が、自分が見向きもしないで捨てた息子だと気付いている様子だ。

「義勝?」

 黙って立ち竦んでいる義勝に声をかけて、雅久は彼の視線を追った。その先にいた女性は雅久が視線を向けた瞬間、決まりが悪そうに視線を伏せたのだ。

「ッ…雅久、行くぞ」

 戸惑っている雅久の腕を掴んで、自分の部屋へと義勝は足早に歩き出した。不機嫌極まりない顔をしている相手に、雅久は困った顔のままで引っ張られて部屋に入った。

「義勝、あの方がどうかしたのですか」

 常にない伴侶の態度に心配気に雅久が問いかけて来た。

「あれは…多分、俺の実の母親だ」

「え…義勝のお母さま?」

「今頃なんで俺の前に姿を現したんだか…父と離婚した後、再婚している筈だが、誰に嫁いでどこに住んでいるのかすら知らない」

 戸惑いと怒りが混ざった感情しか湧いて来ない。

「あの女に愛情の欠片すら感じないんだ、俺は」

「義勝…お義母さまには?」

「言えない…」

「わかりました、まずは成瀬さんに相談してみましょう。彼女がもしここだけではなく、あなたが動く場所全てに現れるようになれば、防犯上の問題になりかねませんから」

「ああ…頼む」

 こんな時、貴之が不在であるのは本当の不便だと感じる。義勝からは特務室に直接相談をするのは、自分の身内の事だけに気がひける。

 次の日、雅久の相談を受けた雫が、義勝の勤務終了に合わせて病院に顔を出した。

「わざわざ申し訳ありません、雫さん」

「いや、これも仕事の一環だから、君は気にしなくて良い」

 20年近く顔を合わせていない実母が突然職場に現れた。義勝には青天の霹靂へきれきでも、あくまでも身内の話ではある。武の身辺に危険が及ぶとは考えられはしないが、彼の周囲の者に不審者が近付くのは放置出来ない。

 雫にしても何某かの問題を起こされれば、武たちの生命を狙う隙が出来かねない。人のプライバシーにまで踏み込み、隠された部分を暴く。それが警察官だと雫は思っている。まして紫霞宮夫妻を守る為ならば、どんな事も厭わずに実行すると決めていた。

「一応、君の本当のご両親の現在を調べた。まず父親の方だが君が小等部の高学年くらいで再婚している。相手の女性との間に二男一女を儲けている。現在は西の島で起業して順調だという事だ」

 異母兄弟と異母姉妹。それも初めて耳にする事だった。

「で、母親の方だが…」

 義勝が実の両親を毛嫌いしているのは雫も理解している。だから敢えて敬称などでは呼ばなかった。

「君が中等部に入学する頃に一度は再婚しているのだが…結局、子供が出来なかったという事で、数年後に離婚して実家に戻っている。現在は旧姓の下柳しもやなぎを名乗っている…もしここに通院しているとしたら、カルテを検索してみたらどうだ?

 下柳 寿子ひさこという名前はそうたくさんいるとは思えないが?」

 敢えてフルネームを口にしたのは雅久から義勝が、実の両親の名前をはっきりと記憶してはいないらしいと聞いたからだった。

「やってみましょう」

 デスクに投げ出すように置いていたタブレットを手にして、義勝は『下柳 寿子』の名前でカルテを検索した。一応院内では所属している診療科が何であっても、全ての患者のカルテにアクセス出来る様にはなっている。まして義勝は入院患者やその家族のカウンセリングが仕事だ。アクセスの履歴は残されるが、別段気にするつもりはなかった。

「ありました」

 彼女のカルテは消化器科のものだった。

「やっぱり本人に間違いないか」

 出来れば他人の空似であれば良いと雫は思っていた。

「病名は?」

「…すみません、自分の専門以外はドイツ語がわかっても、よくわかりません」

「周は?」

「多分、まだ院内にいると思います」

 院内通話用の携帯を取り出して、周をコールすると彼はすぐさま応答した。来てくれるように要請すると、すぐに行くと返事が戻ってきた。

「これは…」

 駆け付けた周は差し出されたカルテを見て絶句した。

「先に聞いておく。この人はどういう人物だ?雫さんが来ているという事は、武さまか夕麿に関わりがあるのか?」

 義勝と雫がここで知り得た事を悪用したり、外部に決して漏らしたりはしないとわかってはいる。それでも何故この患者のカルテの内容が知りたいのかを、医師として知っておく必要があると思っていた。

 周の言葉に雫が義勝に視線を向けた。義勝は苦虫を噛み潰したような顔で、唸るように答えた。

「彼女は俺の…俺の実母だ」

 物心付いた頃にはもう殆ど顔を見せる事がなかった母親だ。実際に義勝は彼女を母と呼んだ記憶がない。だが周は義勝の言葉に息を呑んで絶句した。

「悪いのか?」

 見兼ねた雫が問い掛けた。

「ああ、ステージ4……末期の癌患者だ。胃癌が十二指腸に広がり、既に肝臓に移転している。このカルテによると彼女は入院を拒んで、通院と投薬による延命治療を受けている」

「末期…癌…」

 義勝は酷く驚いた顔で呟いた。

「どこかの街医者から紹介状をもらって来院してる。だから僕は彼女を視ていない。保さんが一応主治医から手術の相談を受けたようだが、彼もまだ医局に残っていたから呼ぼうか?」

 紹介状がこの病院に所属している内科医宛だった為、周がいる総合外来を越えて内科に回された患者だった。

 雫は黙ってしまった義勝の代わりに、周に保を呼んでくれと答えた。すぐに駆け付けてきた保は見せられたカルテを見て深々と溜息を吐いた。

「100%手遅れだとは言い切れません。CT画像を見る限りでは一つだけ、可能性のある手術オペがあるにはあるんです」

 保は義勝を真っ直ぐに見据えた。

「胃と十二指腸を切除した上で肝臓の全摘出、その後、生体肝移植を行えれば可能性はあります」

 そう彼女には今まで肝臓を提供してくれるような肉親はいなかった。彼女の身内は老齢の母親一人だと聞いていたからだ。

「生体肝移植…しかし保さん、幾らなんでもそれは…」

 周も義勝に視線を向けながら絶句する。

「義勝君の気持ちは理解出来ます。ただ私は医師として患者を救える可能性が、一つでも存在するならば全力を傾けて努力を惜しまないというだけです」

 少しの躊躇いも気負いも見せずに、保は冷静に言葉を紡ぐ。不思議なものだと義勝はどこか冷めた心で思った。彼の弟 司は多少天邪鬼な部分があったが、それでも自分自身の感情には素直であったと義勝は記憶している。言動は辛辣でも彼の優しさや弱さが、表面に見え隠れしていると感じた時があった。大抵は星合 清治が上手く隠してしまったが、憎んだり嫌ったり出来ない部分があった。潔癖な夕麿は彼から距離を取ってはいたが、二人が死を選んだ後の言動から自分と似たような想いを持っていたのではないかと思う。

「義勝、僕から一つだけ言っておく。もしも君が肝臓を彼女に提供するとなると、筋肉にメスを入れる事になる。現状の筋肉を破壊する行為だ。通常の生活に支障がでるわけではない。医師としての君にも影響はない、

 ただ、弓引きとしては問題が出る可能性がある。捨てる覚悟が必要だと考えた方が良い」

 同じ弓引きとしての周の言葉だった。雅久が武たちと帰宅すると義勝の姿は居間にはなかった。

 実母の件がどうなっているのか。今日、雫が調べてくれた事を話に、病院へ行ってくれた事は知らされている。一応、本人が口外されるのを嫌がっているので、武たちには今回の件は未だに秘したままだ。

 結果を訊きたくて雅久は着替えを理由に部屋へ急いだ。義勝はソファに身を投げ出すようにして座っていた。酷く憔悴した様子で、雅久はどう声を掛けて良いのか戸惑った。立ち竦む彼に義勝がゆっくりと振り向いた。

「おかえり」

「あ…ただいまもどりました」

 うっかりと狼狽してしまう。

「…どうなったのか、訊きたいのだろ?」

「出来れば…」

 彼女を直接見て誰であるかを、知ってしまった以上は何も聞かずにいる事は難しい。ましてや生涯を共にと誓った伴侶が、苦悩するものはきちんと知っておきたい。自分に何かが出来るとは、もちろん雅久も思ってはいない。共有する事で少しは義勝の憂いを軽減出来ればと思う。

「先に着替えろ…それからだ」

「わかりました」

 義勝と雅久の部屋は舞楽の練習場や神屋に近い二階の一区画を改築したものだ。元々は数室あった場所だが、寝室・リビング・各々の書斎・ウォークインクローゼット・バスルームが造られている。特にクローゼットは雅久の和装の収納用の棚が造ってある。舞楽の衣装は別に室温管理がされた部屋にあるが、かなりの広さの部屋をクローゼットに改築してもらった。お蔭で十分な広さがあるので、必要な物を取り出しながら着替える事が可能だった。

 普段着用の着物を選んで、色を合わせた帯を締めると気持ちまでが切り替わる。決算を間近に控えて、社は忙しさが普段の倍になっている。最近は武も発作と上手く向き合う方法を見付けた様子で、以前よりも頻繁に休みを取るようにはなったが、お陰で起こる回数はかなり少なくなっていた。

 ただ紫霄時代のようなストレス性の発熱が戻って来て、発作の代わりのように伏せる事はある。周囲、特に夕麿への負担が軽減されているのが、目に見えて明らかなのも確かだった。

「お待たせしました」

 足早にリビングを横切って義勝に近付くと彼は、少しネクタイを緩めただけの姿だった。着替えもしないでソファに座っていたのは、余程の事があったのだと推察されて、雅久は胸が塞がりそうな気持ちになる。

 記憶を失っている雅久にとって両親は、御園生 有人と小夜子しか考えられない。二人の愛情に包まれて生きて来た十数年間は、雅久にはとても幸せだった。血の繋がりがあるかないかは、この御園生邸に住む者にはさほど重要ではなくなっている。ここに住む者全員が家族なのだと感じる。だからこそ今更現れた義勝の実母は、御園生家全体を揺るがす事態にならないか心配なのだ。そしてそれ以上に義勝が心配だった。

 『紫霄に閉じ込める』という形で、義勝は両親にも他の身内にも捨てられたのだから。雅久の心配をわかっているのか、開かれた義勝の口は重かった。病院で何が語られどの様な事実が判明したのかを聞かされて、雅久は絶句するしかなかった。

「まあ、実の親子でも血液の型が適合しない事もあるらしい。俺の希望は別にして一応は確認をしておくと言って、保さんに採血された」

 天井を見上げて苦笑する姿に、雅久は胸が痛んで思わず襟元を握り締めた。慰めれば良いのか、はたまた励ませば良いのか…いやそのどちらでもないのではないかと紡ぐ言葉にも困ってしまう。雅久の実母は中等部の時に病気で亡くなっていると聞かされていたが、今一つ実感がわかないのだ。彼女は旧都の花街で並外れた美貌と天才的な歌舞の才能で有名だった。

 こんな話を聞かされてもやはり、心にすっきりと治まらない。単なる情報として自分の中に存在しているだけだった。また、施設にいる父方の祖母からは、雅久の容貌は今は亡き彼女の兄に生き写しであると聞かされた。彼が紫霄内にあった旧特別室の最後の住人で、今はその御霊を紫霞宮家が祀っている、螢王の妃だった人物である。そういった人物たちの話を聞いても、やはり雅久には実感が持てなかった。

 ただこの御園生邸で暮らす人々が家族であると、純粋に真っ直ぐに感じて生きているだけ。だから忘れた筈の自分を捨てた母親が突然、自分の前に現れるという事が、どのような感情を巻き起こすのかは正直言ってわからない。ただただ、義勝が苦しまないように。彼女がこの御園生邸に乗り込んで来て、家族の団欒を乱さないでくれるようにと願うだけだ。

「私は…残酷なようですが、あなたが身を削る事には反対です」

「俺も今の所はそんな気はない」

 顔を背けて答えた姿を見て、義勝の心はまだきちんと拒絶を決め兼ねていると感じた。ただ彼女は義勝に気付いて見詰めてまでいながら、未だに動く様子がないのはきっと彼が、どの様な態度に出るかを見定めようとしているのではないかと思う。義勝と実の両親の間は感情と事実の糸が、余りにも絡み過ぎて解いて結び直すのは難しいだろう。

「雅久」

「え?」

 徐に腕を掴んで引き寄せられ、考え込んでしまっていた事に気付いた。雅久の気持ちをわかっているのかいないのか…義勝は乱暴に着物の胸元を掴んで開いた。

「あッ!」

 驚いて小さく悲鳴を上げて抗うと、強い力でソファに押さえ付けられ帯を解かれる。

「イヤ…ダメっ!」

 逃げ出そうともがいて逆に、着ている物を全て剥ぎ取られる手助けをしてしまう。一糸まとわぬ姿にされて、いつもとは違う荒らしさに戸惑いと恐怖を感じた。俯せにされて両腕を絡めとられ、細い手首を強い力で一まとめにされると、雅久の恐怖はピークになった。

「イヤぁ…義勝、やめて…許して…」

 首を振って拒んでも、義勝は唸り声一つ上げない。それどころか背後でシュルリという、衣擦れの音が響いた。恐る恐る振り向くと、今し方の音はネクタイを引き抜いた音だった。

 シルクのネクタイが、雅久の手首に巻き付けられる。

「ぅあ…義…勝…」

 いつもは拘束されてもあくまでも腕の自由を奪う物で、痛い想いをさせられた事はない。しかしネクタイは手首が完全に動かない状態にまで、固く強く戒められていた。

「義勝…御願い…待って…」

 縛られるのも乱暴にされるのも嫌いじゃない。苦悩する彼の心が少しでも軽くなるならば、普段よりも荒らしく扱われて跡が残ってもイヤじゃない。けれどこれではやっている義勝自身が後で傷付く。それだけは防がなければと思うが、最早、彼の耳には雅久の言葉は届いてはいなかった。

「ひッ」

 いきなり冷たい物を蕾に塗り付けられて、悲鳴と共に全身が粟立った。何を塗られたのか?そう思った瞬間、微かな香りが漂って来た。テーブルの上にあったハンドクリームだ。

「ぁああ…!」

 いつもより早急に指が体内に挿入されて腰が跳ねる。

「ヤ…」

 溢れる涙で視界が歪む。それでも雅久の身体は与えられる愛撫に反応を始めた。

「ンぁ…ああ…義勝…」

 体内で義勝の長い指がうごめく。肉壁は更なる刺激を求めるように激しく収縮する。

「ああ…もっと…もっと…」

 足らない…指では欲しい場所に触れてはもらえない。もっと奥深くまで開いて、突いて抉って欲しい。自分でも浅ましいとは思うのだが、頭の中を満たすのは淫らな欲望だけだ。

「ダメ!」

 不意に指が抜かれた。喪失感と同時に次に与えられるだろう刺激への期待感に、全身が震えるのがわかった。

「浅ましいな」

「!?」

 冷たい声で背後から告げられた言葉に、凍えるように心は震えるのに…身体の奥深くは熱くなる。

「お仕置きがいるな」

 続いた言葉に息を呑んで振り返ると、義勝が手を振り上げる処だった。次いで鋭い音と共に強い痛みが襲う。

「ぁああああ!!」

 尻を打たれた衝撃に悲鳴を上げながら、雅久は激しく吐精した。ガクガクと震える身体を止められずにいると、義勝が腰を掴んだ。

 灼熱の欲望が蕾に触れたと思った刹那、一気に奥まで貫かれた衝撃に、開いた口からは声も出ず、ただ空気を求めるかのようにパクパクと開閉するばかりだ。

 雅久の瞳は涙ですっかり歪み霞んで、何も見えない状態になっていた。

 けれども頭の片隅で微かに竜笛の音が響いて来た。

 ――――ああ…これは、『想夫恋そうぶれん』…

 『想夫恋』とは本来は『相府蓮』と書く。意味は丞相の蓮、普の大臣(丞相)王 倹の官邸に咲く蓮を歌った歌曲が原型だった。「相府」と「想夫」の音に通じる事から、男性を慕う女性の歌う曲とされた。美しくもどこか悲しい平調は、竜笛の高い音で更に哀愁を帯びる。

「ああッあ…ぅああッ…イイ…」

 貫かれ突かれ深い場所を抉られ、身体は激しく揺さぶられる。義勝は縛った腕を片手で掴み、もう片方は捻り潰すかの如くに乳首に触れていた。

 ソファの縁に頬を押し当てる不安定な姿勢は掴まれた腕と、義勝の両脚で挟み込まれた腰だけが支えになっている。固く戒められたネクタイに手首の皮膚が擦れて痛む。中を激しく抉る様も時々、強い痛みを与える。

「はッ…痛ッ…ダメ…ひァ…」

 雅久にとって痛みは感じた瞬間に強い快楽へと変化する。苦痛の悲鳴と快楽を告げる嬌声が、紅に濡れて光る淫猥な唇から漏れ続けた。

「義勝…ああッ…」

 苦痛と快楽の混在する感覚の中で、雅久には義勝の悲鳴が聞こえるような気がした。

 自分を捨てた母親。彼の言葉をそのまま信じるとしたら、母と呼んだ記憶すら存在しない相手。でも心は母を恋い慕い求め続けていた筈なのだ。『母親』というものがどの様な存在であるのかを、教えてくれたのは義母 小夜子だ。だからこそ余計に『母親』という存在に苦悩する。ましてやその母親は末期癌で、余命幾許もないというのだから。

「ッああ…イイ…もっと…!」

 自分はきっとどんな苦痛をも快楽に変換出来る。義勝の悲しみも苦しみも憤りも全て、この身体で受け止められるならばどんな目に遭わされても構わない。

 記憶を全て失った自分を溢れんばかりの愛情で包んで、守って来てくれた彼に返すものはこの身体しかないのだから。

「ひィッ!」

 腕を引かれて顔がソファから浮き上がる。不安定な姿勢に縛られた手首と、不自然に負担がかかる肩が悲鳴を上げる。

「ああ…痛い…義勝…」

 解いて欲しいと口に出かけた言葉を、快楽に霧散してしまいそうな意識を振り絞って噛み締めた。すると背後で低くわらう声がいつになく残酷に響いた。

「ぅああッ」

 更に腕を引き寄せられて、背中が海老反りにされた。舞踊家である雅久は身体が柔軟で、少々の不自然な姿勢にも耐えられはする。それでも恋人のモノを受け入れたままで、しかも後ろ手に戒められている状態では悲鳴をあげてしまう。

「痛いか」

 冷たく問われて息も絶え絶えに頷くと、また低く嗤う声がした。

「義…勝」

 酸素を求める魚のように天を仰いで口を開閉して、ようやく呟くと彼の熱を帯びた唇が肩に押し当てられた。

「きゃぁああ」

 次の瞬間、肩に鋭い痛みが走った。噛み付かれたのだ。強い痛みと肌を傷付けられた衝撃に、雅久の意識が朦朧もうろうとする。しかし彼の中は与えられた苦痛を悦ぶように、激しくうねり収縮する。

「ぁああ…イヤ…あッ…あッんんッ…ひ…イヤ…ああッ…」

 快楽に溺れて完全に自我を放棄した状態で、雅久は悦楽の嬌声を放ち続けた。

「イく…も…ダメ…お願い…早よう…イかせて…」

 反り返らされた姿勢のままで雅久は、絶頂へ向かう感覚に全身を激しく戦慄かせている。

「…ああッ…もう、堪忍して…イかせて…」

 イきそうになると義勝の動きが緩慢になる。雅久は長い髪を振り乱して身悶えた。腕の痛みすら快感へと変化してしまう混沌の中で、雅久は狂ったように頭を振って叫んだ。

「イけ!」

 耳元で掠れた声が告げる。雅久には愛する人の悲鳴に聴こえた。

 愛されなかったからと言って、愛される事を望まなかったわけじゃない。子として母を愛していないわけではない。義理の母親である小夜子に対する彼が、常日頃に見せる細やかな心遣いを見ていればわかる。彼女に向ける息子としての義勝の眼差しには、幼き日より求め続けた母への愛がどれ程であったかが伺える。

 全ての記憶を失った雅久だからこそ、『母』は小夜子しか知らない自分との違いがわかってしまう。

「ひぁ…」

 荒々しく打ち付けられる腰を支える為に、縛られた腕が掴まれてより一層の痛みが増す。

 けれど……この痛みは義勝の心の痛み。許容も拒否も選択出来ずに苦しむ悲鳴。

 雅久にはどうする事も出来ない。最終的には義勝自身が決めなければならないのだから。でも今は少しでも、その気持ちが晴れたならば…

 苦痛を快楽に換えてしまうこの身体が、雅久はずっと恨めしく思って生きて来た。でも今は義勝の怒りを快楽として受け止める事で、彼を必要以上に苦しめなくて良いのではないかと思う。

「ああああ…義勝…イく…イくぅ…ぁあああああああ!!」

 身を大きく仰け反らせて昇り詰めた雅久は目の前が暗くなり、意識が深い闇の中へ堕ちて行くのを感じながら意識を失った。




 病院に出勤しても義勝の心は晴れないままだった。

 残るような傷だけは付けないと決めていたのに、ネクタイで縛った雅久の細い手首は青黒く痣になってしまっていた。頬には幾筋もの涙の跡があり、義勝を受け入れた場所には血が滲んでいた。

 酷い事をしてしまった。慌てて手当てをしたが、今朝は起き上がれる状態ではなかった。夕麿に事情を話して謝罪し今日は社を休ませた。

「私は大丈夫です、義勝」

 包帯を巻いた手を差し出して、優しく微笑む姿に胸が痛んだ。如何に彼が苦痛を快楽に変換してしまうとは言っても、あざや傷が消えてなくなるわけではない。苦痛は苦痛なのであるから。制御出来ない心を彼にぶつけても、何も解決する筈はないと言うのに。

 義勝は今一度、実母のカルテを開いた。一人の医師としてこれを見るのだと自分自身に言い聞かせながら。二日後、彼女が検査の為に入院した。義勝の苦悩は嫌でも強くなった。

 それでも医師としての勤務は続く。彼女は検査入院すら嫌って終始不機嫌で、看護師たち医療関係者に当り散らしているというのが耳に入った。患者と対面してカウンセリングを行うのも義勝の仕事である。今のところは内々に事情を耳にした主治医が、義勝に依頼するのを躊躇っている状態らしい。

 恐らくは夏に現場復帰した清方にでも振られるだろう。検査の結果は周が知らせてくれると言っていたが、本当はそんなものはどうでも良いとさえ思う。

 今更彼女に対して何かをするつもりはない。義勝も雅久と同じく御園生夫妻を両親だと思っている。それなのに突然現れた彼女に自分でも制御出来ない心の揺らぎを感じてしまう。

 何故なのかがわからない。医師と患者の関係を貫けば何でもない筈だと頭では理解しているに、心の中に澱でも溜まったかのような重い不快感があった。重い心に引き摺られるように頭を抱えていた義勝を、ドアのノックの音が現実へと引き戻した。

「あ…はい、どうぞ」

 慌ててタブレットを終了させて返事をするとドアが開かれた。

「もう午後の回診の時間ですよ?」

 白衣を着た清方が立っていた。慌てて時計を見ると午後2時近くだった。義勝と清方は病棟担当の精神科医の為、外来で診察を行う事はない。また嘱託医の清方は紫霞宮家と関わりのある者が入院などをしない限り、大体は週3で午後からの勤務になっている。

 清方が嘱託医を引き受けているのは武たちの為でもあるが、産科医、小児科医に次いで病院勤務の精神科医も不足している現状があるからだ。

 これらの医師が不足する一番の理由は患者の訴訟問題であると言える。医療過誤を見過ごして来た医師や病院側にも無論責任はある。しかし医療現場に『絶対』は存在しない。

 例えば出産は古代ギリシャでは男が3度戦場に赴くよりも、女が一度出産する方が生命の危機になると言われた程だった。医学が進歩した現在では確かに古代に比べれば危険は減った。だが安全に普通分娩出来るのは、とても幸運な事だと考えた方が良いのだ。

 また生命に関係のない筈の手術で死亡する者がいる一方で、成功率の低い症例が成功するという事実もある。精神科医に至っては身体の症状以上に、急変する精神状態を完璧にトレースするのは不可能で、快方に向かっている患者に外出許可を与えた途端に死亡する例が多々ある。精神疾患の恐ろしいところは、引き金が何であるのかを完全に掌握出来ないからだ。

 病院と言う限られた空間内での症状の軽減が、外の何かで一気に悪化する時がある。急変の仕方が余りにも急過ぎて誰も対応出来ないのだ。だが患者の家族はそうは思わない。外出許可を出した医師に責任を求める。結果として訴訟の為に優秀な医師が病院を去り、二度と復帰しない例が続いているのだ。そうなると医師免許を取得しても、安全で楽な科目へと集中する。結局は患者の無知から来る行動が医師不足を招き、過重労働の医師が増えて過誤を呼びやすくするのだ。

 蓬莱皇国では医学知識が極端に低い者が多く、医師の説明に耳を傾けたがらない患者やその家族も多い。間違った風評に踊らされて、逆に取り返しのつかない事態を招いたりする。医療を正しく受ける為にももっと基本的な医学知識を持つべきである。

「すみません」

 午後の院長回診に同行して、カウンセリングの必要な患者や家族がいないかを調べる。

 その後に個別に対面する事になっていた。

「気持ちはわかりますけどね」

 穏やかな口調で言う清方に義勝はハッとして頷いた。彼は今でこそ実の両親に迎えられて同じマンションの上と下に暮らしているが、実の祖父によって偽りの姓を与えられて捨てられた人だった。

「私の場合は祖父でしたが…複雑でした」

 彼の存在をなかった事にして捨てた祖父は、清方がUCLAに在学中に癌で死去した。休みに休暇した折に母高子たかいこに頼んで対面したが、簡単な挨拶を交わすのがやっとだったと語ってくれる。

「それなりに後悔はしていた様子でしたが、何しろ筋金入りの頑固者だったそうですから、孫の私に謝罪とか頭を下げるとかは出来なかったようです。

 まあ……『そんな奴は知らない』とか、『そんな孫はいない』と言われなかっただけマシだったと思います」

 紫霄という特殊な環境の中でも、清方が置かれた状態は特異と言えば特異だった。射殺された柏木元教授も同じではあったが、彼は双子の片割れであった事を考えると、余りにも身勝手な理由の犠牲になったと言える。

「兎に角、腹を据えてくださいね。彼女は一患者クランケだと考えて、医師として向き合ってください」

「そう…ですね」

「それと、ナースたちにそれとなく様子を訊いてみたのですが、正午の面会時間開始から彼女の母親が来ているそうです」

「え…」

 母だけでも頭が痛いのに、祖母にまで会わなければならないのか。義勝は逃げ出したくなってしまった。

「あなたは立ち会うだけで構いません。むしろ何も言わない方が良いでしょう」

「はい…お願いします」

 タブレットを手に重い気持ちのまま、義勝は前を歩く清方の背中を見詰めて進んだ。院長と副院長に頭を下げると、二人は「わかっている」とでも言いたげに頷いた。院長と副院長、看護師長を先頭に午後の回診が始まった。

 カルテを開いて担当の医師と今後の治療の方針を話し合う。その過程でカウンセリングの有無や患者と家族の希望を訊く。基本的には義勝が受け、清方が補助と指導にあたる事になっている。とは言っても患者の様子や病状によっては、新米である義勝には難しい場合などは、清方が担当になって義勝が助手として付く。ただ本来は清方は自分の診療所を持ち、特務室の顧問でもある。病院に常駐しているわけにはいかないのだ。

 元々彼がこの病院に嘱託という不安定な立場で籍を置いているのは、ひとえに紫霞宮家の侍医であり武の為の配置だ。この病院の一般病棟は3階から7階まである。

 ちなみに武たち専用の特別病棟は、表の病院建物の裏にある10階建ての最上階で、この建物には武たち専用ではないVIP用の病棟も存在する。だがそことは通路等が繋がってはおらず、一般には武たち用の病棟は存在していない事になっているのだ。また建物だけで全ての検査機器が揃えられており、手術室も専用のものが用意されていた。

 周は総合医として午前中の外来を行っているが、基本的に医師として詰める病棟は武たち用の特別病棟になっている。清方も義勝の補助等が終わった後は特別病棟に詰める。

 義勝は一応、御園生の子息として院長・副院長たちの次に位置してはいるが、あくまでも新米で研修中の医師である姿勢を崩してはいなかった。


 そうこうするうちに母親の病室が近付いて来た。出来るだけ目立ちたくはないが、義勝は他の医師たちよりも頭一つ背が高い。嫌でも目立つ身長が恨めしい。一番後方に立って出来るだけ、ベッドから遠い位置に立つのがやっとだ。

「下柳さん、思い切って最先端技術の治療を受けられるおつもりはありませんか」

 院長がカルテを眺めながらそう告げた。末期癌には最先端技術を用いた治療法が幾つか存在する。中にはかなりの実績を上げている方法もあった。この病院ではありとあらゆる病気を想定して、武の為にそういった治療が出来る施設と幾つか契約が結ばれていた。

「でもあれは大変高価だと聞いています」

「そうですね。ただ実験段階の治療法もあり、さほどの費用は必要ではありません」

 下柳 寿子は院長の言葉に不快を顕に眉をひそめた。そういった様子に現れる気位の高さは、断片しか残っていない記憶の通りで内心でげっそりする。20年以上の時間が流れて経験を重ねても、彼女は自分の事しか考えない人間のままだと思った。

「新薬や放射線治療も日々進歩しています。全てを不必要とされるお気持ちはわからない訳ではありませんが、ご家族の為に今一度チャレンジしてみようとは思われませんか」

「家族といってもここにいる母だけです。確かに親よりも先に逝く逆縁は不幸であると思いはしますが、それでも母も私も既に若くはありません。私が無駄な延命にお金をかけるよりも母の老後の資産を残したいのです」

 ほとんど感情が入っていないような単調な切り口上で寿子は淡々と院長に答えた。その間彼女の母親、つまり義勝の祖母は無言でベッドの傍らに置かれた椅子に座っている。彼女が何を考えているのかはわからない。だが本当に娘と院長が交わす会話を聞いているのだろうか。

 茶番に付き合っていられないとそっと病室を出た。親など最初からいない。紫霄の中でずっとそう思って生きた。親の愛情など夢や幻にしか思えなかった。紫霄の小等部には何人かの親に捨てられ、閉じ込められた子供が存在していた。

 たとえ外に出られても夕麿のように、家族に酷い目に遭わされている者もいた。もちろん夕麿は家での扱いを口にしたりはしない。だが休みを終えて帰って来た彼はいつも体重を落として、酷く追い詰められた顔をしていた。周囲に隠れて一人で泣いている彼を見た事もあった。

 武が高等部に編入して来てから自分たちの道が変化した。今では家族の温かさに包まれて幸せに生きている。時には無私の愛情を惜しまない小夜子の想いに、義勝は本当の母親の姿を教えられた。

 御園生の養子に入って10年……武を巡る様々な出来事があったにしても、義勝は本当に幸せだった。

 想いを噛み締めながら寿子の病室から出て来た回診の集団に再び加わった。回診が終わってナースステーションに戻った義勝は、ぐったりとした風情で椅子の背もたれに身を預けていた。

「先生、お疲れさま」

 ナースの一人がお茶を淹れて来た。

「ああ、ありがとう」

 礼を言って身を起こして飲んでいると、清方が苦笑しながら戻って来た。

「先生、昼食は?」

 ナースの一人が問い掛けた。昼食時は担当している患者の食事介護に当たっていた為、午後3時を過ぎた今でもまだ食事をしていなかった。

「おや…それは」

 清方も時計を見て気の毒そうに呟いた。職員食堂の昼食時間は2時まで。つまり義勝は食べたくても4時半の夕食の時間までは食べられないという事だ。

「外に行って来ますか?」

 ここは自分が引き受けるからと清方が言った。

「あ、いえ…本日は弁当を持参しているので」

「ほう、愛妻弁当ですか。相変わらず仲がよろしい事で」

「わ~ご馳走様!」

 清方のからかいにナースたちが乗る。義勝は真っ赤になって机に突っ伏した。もちろん皆は義勝の『愛妻』が男で、雅久という絶世の美形である事は知っている。

「勘弁してくださいよ、清方先生」

「どうしてです?私などつくってあげる事も、つくってもらう事も出来ませんよ?私は料理はおろか刃物はダメですし、雫は簡単なものはつくれますがさすがに弁当までは…ね?」

 そりゃそうだろう…と言いかけて慌てて言葉を引っ込めた。

「俺は退散しますから、しばらくはお願いしますね」

「どうぞごゆっくり~♪」

 楽しげに返事をするナースたちにげっそりした。病院では義勝と清方はとっくにカムアウトしているが、昨年まで相手がいなかった周は未だに自らの性癖については黙ったままだ。保は元々ストレートなので何も言わない。最初は二人がゲイである事に当惑気味だったナースたちも、雅久を見て大いに納得してしまったのだ。

「あれは義勝先生でなくても惚れる」

 という女性ナースたちの言葉に、職員たち全員が納得してしまったのだ。その後に清方が自分もだと話した為、すんなりと受け入れられたという経緯があった。

 ナースステーションを出て歩き出した時だった。

「義勝先生~」

 元気な女の子の声が響いた。振り返ると車椅子に座った少女が近付いて来た。先日、希が学級委員長として見舞いに来た、大空 奈緒美だった。

「随分元気になったな」

 長身の義勝は立っているだけで相手に威圧感を与える。特に子供には気を付けなければならず、とっさに床に片膝を着いて彼女よりも目線を下にした。

「うん。ねえ、義勝先生は希君のお兄さんって本当?」

「ああ、そうだよ」

「いいなあ、私もお兄さんが欲しいのに。希君はお兄さんがたくさんいて、羨ましいなあ」

 本当に羨ましいという顔で言う奈緒美に微笑みかけた時だった。背後で息を呑む誰かの気配がして思わず振り返った。

 しゃがみ込んでいる義勝を少し離れて、ジッと見詰めている者が立っていた。祖母だった。恐らくは寿子に話を聞いて半信半疑なところを、奈緒美が呼んだので確認したという事だろう。

 こうなるのがわかっていたから、皆は敢えて義勝の名を呼ばないようにしていたのだ。よりによって内科病棟のこの西棟に、外科の東病棟から奈緒美が来るとは考えてはいなかった。

 いや、恐らくは彼女はその前から、ナースステーションでのやり取りに耳を傾けていたに違いない。今更、身内面で近付かれるのは御免被るが、かといってコソコソと探られるのも深い極まりない。義勝は不快を露にするとそのまま彼女に背を向けた。

「それにしても奈緒美ちゃん。こっち側は内科病棟だから来てはダメだよ?病室に帰りなさい」

「は~い」

 車椅子でも動けるようになったのが嬉しいのだろう。あちこちに動きたがる気持ちはわからないでもない。義勝は東病棟へ戻って行く奈緒美を見送ってから、自分の部屋で食事を摂るべくエレベーターホールへと足を向けた。背中には祖母の視線が張り付いたままで不快で仕方がなかった。

「ナースステーションに御用ですか?」

 義勝と入れ違いに上がって来た周が問い掛けると、義勝の祖母はギョッとした顔を向けて気まずそうにそそくさと去って行った。唖然としている彼に中から様子を、窺っていたらしい清方が声を掛けた。

「やれやれ行きましたか」

「何です、あれは?」

「例の女性の母君ですよ。まったく…母娘揃って同じ行動をするんですから」

「義勝も可哀想にな」

「そうですね。いないものにした本人たちが自分の都合で動く。正直言って虫唾むしずが走るというものです」

 『いないものにされた人間』という意味では、かつての清方も同じであった。

「私の場合は両親の預かり知らぬ処ででしたから、幸運だったと思っていますが…義勝君の場合は怒りや嫌悪の方が強いでしょうね」

「向こうにすればわらにでも縋りたい気持ちなんだろう?」

「生体肝移植ですか。実のところはどうなのです?本当に助かるのですか」

「今のままじゃあまり効果はない。ステージ4は既に癌細胞が血管を伝って身体中を巡っている。まずそれを抗癌剤で叩かないと意味がない。折角移植した臓器も瞬く間にやられてしまう。

 第一、義勝は弓引きで、御園生邸近くの神社の流鏑馬に必要な人員です。腹部にメスを入れたりしたら、脚だけで馬に跨ったまま弓を引くなんて事が出来なくなります」

 身勝手な親に子供がどれだけ傷付くかは、周が一番経験している事だった。

「どちらにしても私たちは、残念で口惜しくはありますが、彼に助言するくらいしか出来ません。最終的に決めるのは義勝君本人の意思ですから」

 ただ胸を痛めて見守るしか出来ない。わかっているからこそ、二人とも義勝を庇うように気を遣うしかなかった。



 だが事態は待ってはくれなかった。

 その日の夕方…義勝は雅久を教室に迎えに行く為に、与えられた院内の自室へと急いだ。途中で白衣を脱いで院内クリーニングの篭へ投げ入れる。そのまま足早に部屋に入ると、これから迎えに行く筈の雅久がいた。しかも和装ではなく社にいる時のスーツのままだ。

「どうしたんだ?」

「マンションのエレベーターの調子が悪いとかで修理が入って、今日は教室は休みにするしかありませんでした」

「そうか、それは災難だったな」

「ええ。でも武君が早めに退社して良いと言ってくれたので、直接ここに来ました」

「武が?」

 彼にも夕麿にも今回の件は未だに話してはいない。どう話して良いものかわからないし、聞けば何とかしようとするのが武だ。

「義勝、二人とも何かあったと感じているようですが」

「ああ、このまま黙っているわけにはいかないのは理解している。だがどう話せば良い?」

「それは…」

 義勝の言葉に雅久が答えようとした時だった。

 不意にドアがノックされた。義勝の今日の勤務は終わっているし、何か用が出来たのであればまずは、院内用のPHSに連絡が来る。これは雅久も知っているルールだった。二人は訝しげに顔を見合わせた。

 雅久は義勝をまずデスクに座らせてからドアへ歩み寄った。この辺りは秘書としての経験がものを言う。

 室内を覗かせないようにして開いた。

「何事でしょうか?こちらは関係者以外は立ち入り禁止になっております。医師に御用がおありでしたら、ナースセンターか受付にお願いいたします」

 言葉こそ丁寧ではあるが、美しい面差しには笑顔はない。ここは1階の奥にある医局との仕切りのドアを越えて、さらに奥へと入った場所にある。受付や待合室がある場所からは離れており、間違っても患者やその家族が迷い込むような事はありえない。誰かの後をついて来たとしか考えられないのだ。

 ナースステーションもそうだが、医局には守秘義務を課せられたものが数多存在する。また医療関係者の会話を盗み聞きされても困るし、高価な機具も多数置かれている。ましてやこの部屋は義勝個人の為の執務室であり、休息や調べものを行う私室でもある。

「他所では困るのです。内密の話をしに来たのですから」

 そう告げたのは老齢の気性の激しそうな女性だった。

 義勝には誰が来たのかがそれだけでわかってしまった。恐らくは病棟で少女が彼を名前で呼ぶのを聞いて、孫の義勝本人だと確認したのであろう。

「こちらにお入れする事はできません。また先生は本日の診察を終えられました。日と場所を改めてお申し出ください」

 何を言われても雅久は一歩も退くつもりはなかった。

「あなたこそ何なのです?この病院の方ではありませんよね?」

「確かにここで働いてはおりませんが私は御園生家の関係者で、ここを含めた系列全てを統括するグループに所属しております」

 部外者ではないと意味を含ませて答えた。

「だから何だと言うのです?私を制止する権利があなたにあるのですか?」

「あるからこそ申し上げております」

 雅久はもの凄く不快だった。こちらの事情も病院でのルールも無視して、ただ義勝に話があると彼女は言って無理を通そうとしているのだ。

「権利はある」

 雅久の背後からそう答えたのは義勝だった。

「雅久は俺の妻だ」

 その言葉と同時にその華奢でしなやかな身体を引き寄せた。

「で?俺に何の御用ですか、下柳さん。たった今彼が言ったように、ここは関係者以外は立ち入り禁止です。用件によっては警備の者を呼ぶ事になります。当病院はセキュリティには大変気を配っております。よってこの様な行動をなさいますとこちらとしても、それなりの手を打たなければならなくなります」

 雅久が聞いた事がない程の冷たさと棘を含んでいた。ゆえに彼女が義勝の身内であると悟った。だが彼女はその言い様が気に障ったらしく、怒りに目を吊り上げて叫んだ。

「それが血の繋がった実の祖母に言う言葉ですか!?」

 彼女のヒステリックな声に雅久の腰を抱いている手にわずかに力が入った。

「どなたかとお間違えではありませんか」

「だからあなたは何なの!?」

 今にも掴みかかりそうな彼女を見て、義勝は慌てて彼を庇った。

「先ほど妻だと言った筈ですが?何でしたらナースにでも医師仲間にでも、スタッフにでも訊いてみてください」

 自分と雅久の関係は誰にも非難されるものではない。義勝よりも遥かに多忙な彼はそれでも、身を粉にするようにして尽くしてくれる。その姿は昨今の女性たちにはもう、失われて久しいものだ。今更に出て来た血が繋がっているというだけの彼女たちに、無闇に踏み込まれて傷付けられたくはない大切な存在なのだから。
あず
 義勝に庇われながらも雅久は猛烈に、自分の中で怒りが膨れ上がるを感じていた。

 何という理不尽!自己中心的になった身内というのは、どうしてこうも同じ言動に出るのであろうか。周の母親しかり、敦紀の祖父しかり。子供は自分たちの意志のままに出来る、所有物とでも思っているのであろうか。

 実の両親に顧みられる事無く紫霄学院に捨てられた義勝が、御園生家の養子となって変わっていったのを他ならない雅久自身が見て来ていた。記憶を失った後の雅久のあずかな記憶の中でさえ、わかってしまう程の変化なのだ。

 それをこの目の前の老女は、全て破壊しようとでも言うのか。

「義勝、警備員を呼びましょう」

 いつになく冷酷な響きを以って雅久が言った。

「その必要はない」

 不意に響いた声に息を呑んだ次の瞬間、雫が清方、周、保を伴って姿を現した。

「雫さん、どうしてここに?」

 清方たちならばまだしも、雫が何故ここにいるのだろうか。

「申し訳ありません、義勝先生。実は今回の次第を私から、夕麿さまにだけ報告させていただきました」

 あの時の部外者だった清方は、武と夕麿に今回の件を話さない約束はしていない。それでも武が極端な行動に出る可能性を考えて、夕麿にだけ話して秘してくれるように頼んでいた。

 今日の回診以後の彼女の行動を、周や保に協力してもらって見張っていたのだ。雅久の教室がある日はいつも、義勝は彼を迎えに行くか待ち合わせをして、二人だけの時間を楽しむ事にしている。だからその日は夜勤はしないで、定時に勤務を終えて病院を離れる。無論、彼女はそこまでは知らないはずだが、義勝の後をつけて行くのがわかった為、急いで夕麿に連絡を入れたのだ。

 その結果、雫に病院への出動要請が行われた。早急に掛けつけた為、こんな状態のタイミングで割り込んだのだ。

「場合によっては不法侵入及び、業務妨害であなたを逮捕する事もあります」

 雫が警察手帳を示しながらそう告げると、彼女は蒼白になって義勝を睨み付けた。

「どうする、義勝君?」

「俺は…部屋から出て行ってもらえれば…」

「何て薄情なの!」

 面倒は御免だと思い穏便に済ませようと言葉を繋いだ義勝を遮った叫びは、彼らにすれば余りにも理不尽なものだった。

「薄情も何も…元々、俺には血の繋がった相手だからと言って、何某かの感情を持ち合わせてはいない。俺の母親は御園生 小夜子という人以外には存在していない。血の繋がりがあると言うだけで何かを要求されるならば、それは先に俺の方に突き付ける権利があると思うが?」

 何かの支えが必要なのか、心の揺らぎを示すかのように、義勝は雅久を抱き締めたままで言った。低く唸るような声だった。

「何て恩知らずな子なの。産んでもらった恩を忘れるなんて」

 彼女は尚も食い下がる。

「あなたが無事に成長出来たのだって、寿子が懸命に働いて学費を払い続けたからでしょう?」

「お金を…払えば、育てた事になるのですか」

 腹に据えかねたのだろうか。雅久がその美しい顔に明らかな怒りを浮かべて問い返した。

「お金だと仰るならば、幾らでもお返ししましょう。幾ら欲しいのですか。10億くらいならばいつでもご指定の講座に、振り込んで差し上げますが」

 雅久と義勝の個人資産ならばそれ位の金額は造作もない。

「な、何て事を!」

「お金の事を先に口にされたのはあなたです」

 子供が親に恩を感じて尽くすのは当たり前ではある。だが親や祖父母がそれを要求するというのは、余りにも理不尽で醜い行為だと雅久は思った。

「そうだな。誰も産んでくれとは頼んではいないし、産むだけ産んで捨てたのはそっちだ。第一俺にとっては長い間、親や身内などというものは、面倒の原因にしかならないものだと思っていた」

 実の両親からもこの祖母からも、愛情を与えられた記憶は一切ない。珍しく姿を現した母親がゴミか何かを見るような目付きで、幼かった自分を見下ろす記憶だけが義勝の心に残っていた。捨てられたからこそ、棄てた存在。今更現れて理不尽な言い分を押し付けられるのは不快だった。

「待ってください。ここでで斯様かような事を言い合っても不毛なだけでしょう」

 見兼ねた保が口を開いた。

「どこの誰がどの様な思惑を持とうとも結論は既に出ているのです」

 彼はそう言うと義勝に一枚の紙を差し出した。義勝の血液の型が実母 寿子に適合するかどうかという、先日、念の為と採血したものを検査に出した結果だった。

 不適合…という文字に義勝がホッとした顔をする。同時に覗き込んだ雅久も同じ顔で愛する人の手を握り締めた。今度はコピーされた同じ紙を、周が義勝の祖母に差し出した。

 渋々受け取った彼女は『不適合』の文字を見て目を吊り上げた。

「どういう事ですの?実の親子ですよ?あなた方は嘘の検査結果を出して、私を謀ろうとしているのではないの!?」

「その様な事をして何になるのです。第一、生体肝移植は双方の同意無くして行えないものです。義勝君は同意するか、拒否するかの意思表示をまだ行わない状態でこの検査に応じました。その結果がこれだというだけです。

 お疑いならば今一度、彼から採血しましょう。それを持ってどこへでも検査に出して確認されればよろしい」

 毅然とした態度で言葉を紡ぐ保は、あくまでも一人の医師としての立場を貫いていた。冷静に、冷酷に、ありのままを答えた。

「もう一つ申し上げれば、寿子さんは抗癌剤による治療を拒否されています。従って義勝君の血液型が適合しても、今の状態では移植をしても意味がありません」

「そうだな。既に癌細胞が血管の中を移動して、全身に転移する可能性が強い。これを叩かない限り、どんなに健康な肝臓を移植しても、すぐに癌細胞が入り込んで増殖する」

 次いで答えた周の言葉は残酷なものだったが、誰も彼を咎める声は上げなかった。

「そんな…娘は…寿子は…もう助からないと言うの…?」

「お気の毒ですが、余命1ヶ月という状態です」

「寿子さんもご存知です」

 今度は清方が言葉を次いだ。彼女は蒼褪めた顔で言葉を無くして項垂うなだれた。

 だが義勝の心は動かなかった。彼女を気の毒だとは思うが、やはりそれ以上の感情は起こらなかった。これが小夜子だったならば血の繋がりがなくても、適合さえすれば躊躇わずに肝臓でも腎臓でも差し出しただろう。

 実子である武からは身分上からも、身体の弱さから考えても不可能だ。もう一人の実子である希はまだ小学生。どうしてもと血縁を探すならば、御厨 敦紀の父が一番近い血縁ではある。だが血縁だからと言っても、今の義勝のように必ずしも適合するとは限らないのだ。

 ここが『臓器移植』の難しいところでもあった。またたとえ寿子が抗癌剤による治療を受けていて、義勝の血液型が適合したとしても、必ず助かるという保障はない。親子といえども細胞の遺伝子配列が同じではない為、拒絶反応は大小があっても必ず起こる。患者側に耐え得る体力がなかったり、合併症を併発すれば死亡も考えられるのだ。

 移植さえすれば助かる。寿子の実子である義勝がこのタイミングで目の前に現れた。藁にでも縋るつもりだったのは義勝や雅久にもわかる。それでも捨てた子供に謝罪の一つもなしに決して無害であるとは言えない、肝臓の一部を差し出す事を当たり前の行為だと言って迫ったのだ。

 雅久は許せなかった。義勝が傷付いたであろう事は、彼のさりげない仕種に滲みでている。

「お気が済まれましたでしょうか。ここは関係者以外は立ち入り禁止です。速やかに立ち去っていただきたいのですが」

 彼女たちに憎まれても、愛する人を守りたいと雅久は思った。

「…わかりました」

 彼女は小さく頷いて背を向けたがふと肩越しに言った。

「義勝、せめて寿子とちゃんと会ってはくれないかしら」

 親として娘への心遣いだとは感じたが、義勝には応える言葉を持ってはいなかった。何故なら彼女たちは義勝にとっては、血の繋がった他人だったからだった。

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