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春の面影
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執務室から出る時に既に、武はかなり眠そうにしていた。無理も無い。サマルカンドから帰国してからというものの、武は体調が優れずに伏せる事が続いていた。数日前にやっと復帰したが、武の体力は低下したまま。発作こそ軽いものですんでいるがやはりサマルカンドでの事は、武の心に重い負担になっているように夕麿には感じられた。
「武、着いたら起こしますから眠って大丈夫ですよ」
「家まで30分もないのに?起きないかもしれないぞ、俺?」
「ちゃんと部屋まで運びますから」
「ん…わかった…」
眠って良いと言われて気が抜けたのか、武の返事はそのまま眠りの中に落ちていった。
「眠られましたか…?」
助手席に座っている雫が言うと夕麿は、優しい笑みを眠る武に向けながら小さく頷いた。
「では予定通り向かいますね」
「お願いします」
「逸見、予定通りだ」
「了解」
車は夕闇が迫る街を静かに走りぬけていく。
明日からは連休で社は休み。武の体調を考えて定時の少し前に退社して今、車中の人となっていた。走り出した車は御園生邸とは逆の方向へと進んでいる。いつも武と夕麿が過ごすホテルとも違う方向だった。
「雫さん、無理をお願いしてすみません」
「私も常々、武さまの移動可能な範囲が狭過ぎると考えておりましたので、良い機会だと思いまして根回しをさせていただきました」
「お手数をおかけしました」
いつものホテルではない場所でゆっくりと休ませたい。そう思った夕麿が白羽の矢を立てたのは、雅久と義勝が時折利用している温泉宿だった。離れ屋形式の宿で誰かの紹介のない一見客は断る。経営はかつてのオーナー一族に任せているが、御園生ホテル部門に所属している宿だ。
宿泊するのは雅久たちが利用しているいつもの奥の離れ屋ではあるが、更にセキュリティを強化した上で雫たち警護が宿泊する建物を移築した。
連休中を全て此処で過ごしたいとは思っているが、そこまでのわがままが許されるかは不明。それでも夕麿は武を休ませ、自分もゆったりとした時間を過ごしたかった。武は佐田川 和喜に負わされた怪我による不自由さに、雫率いる特務室の人員不足を気遣って休日も外出を控えている状態から、ストレスというよりも気鬱きうつが蓄積しているように感じられた。
だからこそ見慣れた場所から連れ出して気晴らしと休養をさせたかったのだ。発作にこそ至ってはいないが、どこか言動が幼くなっているのも気になった。幾つかある御園生家の別荘も考えたのだが、それだと二人になるのは寝室だけになってしまう。義勝に相談して勧められたのが、御園生が出資している個建ての旅館だった。そこであれば出された条件にも此方の条件にも、ほぼ当てはまるものだった。
条件は幾つかあったが一番の難点は、余り人目に付かない場所という事だった。これは武を休ませたい夕麿の想いとも合致していた為、さほど困りはしなかった。次に夕麿たちを困らせたのは武の身分と事情を了承できる場所だった。いつものホテルは条件にあてはまったが、それでは意味がない。
有人が勧めたのがこの宿だった。定期的に利用している義勝と雅久も知らなかったのだが、この宿の敷地は元々は勲功貴族のものだったのだというのだ。世界恐慌で資産の殆どを失い跡継ぎだが戦地で戦死した後、残された当主夫婦と娘は戦後の変動期に完全に路頭に迷い、見兼ねた有人の父が出資して温泉が湧いたここを温泉宿にした。大きく宣伝はしてはいないが風光明媚な隠れ宿として、一定のリピーターがいるので静かで落ち着いた経営が出来ている。
しかも紹介がなければ予約も出来ないシステムゆえ、客の身元はしっかりしているらしい。とは言っても様々な客が来るのが温泉宿だ。一切を取り仕切る女将が全てを心得てくれなければ、武と夕麿は滞在する許可が出ない。ここの離れ屋形式は武と夕麿が二人っきりになれる条件が整っている。
一番奥は一方向からしか出入り出来ず、反対側は切り立った崖でしかもその上も、この宿の私有地でありそこへ上がる道はフロントと女将たちの住居の裏のみ。本来は山菜取りなどに利用しているのだと言う。
武たちが宿泊する離れ屋の手前の二つは既に雫が特務室で押さえた。雫が前以って状態を確認した上で根回しと申請に動いた。同時に護院夫妻も伝を使っての根回しをした結果、連休にようやく休暇療養の許可が出た。
ただ、医師の随行も求められたので清方が今回は学会の開催場所から直接先行している。また最寄り駅から遠い為と警備の一環として、清方を迎える為と奥に他の客が近付かないようにする為に千種 康孝が先行していた。特務室が割けるギリギリの人員配置でもあった。
宿の駐車場に車を止めて、まず拓真がフロントに入ってチェックインを終わらせた。それから雫が眠っている武をそっと抱き上げた。
女将が先頭に立って案内する後を雫と夕麿が続き、最後尾を拓真が周囲を警戒しながら歩く。
「こちらでございます」
内部が見えないように工夫された竹垣を抜けて、この宿で一番料金が高く広い離れ屋に踏み込んだ。すぐに先行していた清方と康孝が顔を出した。
「女将、食事の用意を。雫、奥の間に寝具を延べてあります」
「わかった」
食事の用意が整うまで今少し、武を眠らせておこうという配慮だった。少し蒼褪めた顔で眠る武を起こすのは忍びなかった。だが夕食をきちんと摂らせないと、明日はもっと状態が悪くなる。
夕麿はそっと愛する人の華奢な身体を抱き起こした。
「武、武…起きてください。夕餉の用意が整いましたよ」
「ん…夕麿?」
武は寝付きは良いのだが、寝起きが恐ろしく悪い。起こすにはかなりの時間と刺激が必要だ。それに引き換え夕麿は寝付きが悪く、寝起きは良いと言えば良いのではあるが、元来、眠りそのものが浅くてわずかな刺激で目を覚ましてしまう。それでも武と供寝するようになってからは、以前よりはずっと深く眠っていると思う。
「武、夕餉ですよ?あなたの大好きなオレンジのジュースもジュレもありますよ」
「ん…食べる」
この可愛いやりとりに夕食を同席する雫たちが、噴出しそうになるのを懸命に我慢していた。ついでに言えば二人の同級生は、夕麿たちが卒業した後の紫霄での武をよく記憶している。周と行長が時として彼を起こすのに苦労していたからだ。朝食に寮の食堂に連れて下りても半ば夢の中の武は、意味不明な返事をする時が多々あった。
今、夕麿が起こす姿を見てあの二人が、苦労をする筈だと思って苦笑しながら顔を見合わせた。
「さあ、起きてくださいね」
ネクタイや上着は脱がせたが、未だシャツ姿の武が夕麿によって席に移動させられた。座椅子がなかったら寝転んでしまったのではないか。未だ覚めぬ顔でぼんやりと座っていたが、しばらくしていつもと違う感覚に気付いたのか、不思議そうに周囲を見回した。
「武、どうしました?」
夕麿が笑いながら問い掛けると武の瞳が真っ直ぐにこちらを見た。
「夕麿、ここどこ?」
御園生邸自体が戦前に建築された洋館で、武たちの住居である離れも洋風である。だが宿は純和風の建物だった。
「家…じゃないよね?」
「雅久と義勝が時々足を運んでいる温泉宿ですよ」
「温泉…?でもここってうちから遠くないか?」
「そうですね」
「どうして俺、ここにいるの?」
次第に目が覚めて来たのか、夕麿と二人の時の口調が普段のものに変化し始めた。
「雫さんと高子伯母さまが許可をいただいてくださったのですよ?温泉に入りたいと言っていたでしょう?」
「言ったけど…」
叶うわけがない望みだと武は諦めていたらしい。
「あなたの腕の怪我は再三の要求にも係わらず、特務室の人員を増やす事をしなかった役所側にあります。従って養生の為の湯治に反対できるわけがないでしょう」
雫や久方と相談して、そういう申し入れ方をしたのは事実だった。
「どれくらいいられるの?」
「何か緊急の事態でもない限りは、連休中は滞在する予定です」
「やったー!」
寝起きの色の無さから一転、武の頬に赤みが差した。
「さあ、お食事を、武さま。折角のお料理が冷めてしまいます」
穏やかな声で清方が告げると、武は満面の笑みのままで頷いた。促されるままに箸を手にしようとした武は、黙って控えている和装の女性に気付いて夕麿を見た。
「そうでした」
短く答えて後は清方に任せる。彼は万事心得た顔で女将を振り返った。
「女将、殿下にご挨拶を」
「はい、ありがとうございます」
彼女は挨拶をする為に心持前に進み出た。
「当旅館の女将でございます。ご不自由な事などあられましたらどうぞ、私に申しつけくださいませ」
いらぬ長い挨拶は武が好まないと、先行していた清方が言い含めたのだろうか。彼女は深々と伏してははいたが、言葉は短めだった。
「うん、こちらこそお願いする」
武が清方に向かって言う。
「殿下はよろしく頼むと仰せです。お言葉通りにお仕えをしてください」
「はっ、有り難き幸せにございます」
「では、は我々だけに」
「承知いたしました。ごめんくださいませ、ごきげんよう」
今一度平伏してから、女将は部屋を去った。
「なあ、夕麿」
「何です?」
「みんな、よく『ごきげんよう』って言うけど、何で?」
「ああ、それは貴族言葉を知らない奉公人が、間違った言葉で挨拶をすると差し障りがあるから、時間の関係なく『ごきげんよう』で統一したんです」
「へえ~そうなのか」
「そうですね。貴族言葉は余りにも特殊すぎて、貴族以外の人には通じないのだとわからない者もいました。現在は殆ど使われる事が減り、むしろ絶滅するかもしれません」
清方の言い様に武が笑い転げる。
「紫霄の中でもめっきり使用しなくなりましたね」
康孝が誰に言うとでもなく呟く。
「そうして私たちは一般人となって消えていく運命なのかもしれません。けれども先帝陛下が貴族を残したいと仰せになられた事を、私たちは忘れてはならないのではないでしょうか」
皇家の血筋を継承する方が減る一方の現在、彼らを懸命にサポートする者が必要になって来ているのだと思うからこそ、現状を夕麿たちは憂うのだとも言えた。先帝に求められたという貴族の誇り。彼らが未だに貴族だけの社交界を持っているのは、2千年の皇家の歴史を終わらせまいとする純粋な願いゆえかもしれない。
「さあ、お召し上がりくださいませ」
「うん…いただきます」
箸を手にして目の前の料理を楽しげに見詰めるが、すぐに困った顔になる。
「これって何から食べれば良い?」
「そうですね、本来はこの八寸というのが先に来ますから、これからではありますが…私たちしかいませんし、全部並べさせましたからあなたの食べたいものからで良いのですよ」
「わかった、ありがとう」
どれからでも良いと言われて、武は喜々として料理を摘み出した。
「この魚は?鮭…じゃないよね?」
「鱒ですね。鮭と同じ魚なんですが、一部に海に行かないのがいまして、それが鱒と呼ばれるのになります」
拓真が説明する。彼は渓流釣りが趣味で、この手の魚には詳しいらしい。
「海に行かない?なるほど、鮭のヒッキー版か」
「ヒッキーって武さま…」
康孝と拓真が同時に絶句した。
「武、ヒッキーって何ですか?」
夕麿は不思議そうに武に問いかけたのが、どうやらツボにはまったらしい。笑い出した武に夕麿は不機嫌そうに横を向いて拗ねた。
「世間知らずで申し訳在りません」
「拗ねるなって。ヒッキーなんて俗語みたいなものだから。そうだな、いくらお前でも引き篭もりくらいは知ってるだろ?」
「ああ、あれをそう呼ぶのですか?」
「一部でな」
武の言葉に頷きながら夕麿自身は引き篭もりの人間の気持ちが、わからないわけではないと思っていた。するとそっと武の手が膝に置かれた。
「誰でも逃げ出したい時はあるよな。逃げ出せないから引き篭もる人間もいるのだろうな」
「武さまはお見事に逃げ出してくださいましたが」
雫が笑って言った。
「それは……言わないでよ」
「雫さん、次は私もご一緒いたしますので」
「ええ!?勘弁してくださいよ、お二人とも」
大袈裟に困った声を上げる雫に全員が大笑いをする。二人で逃げる事など出来はしないとわかっているけれど、夕麿は憧れるように愛する人との逃避行を夢想した事があった。こうして大いに笑い、武の食も常よりは進んで、夕食の時間は瞬く間に過ぎた。
「ではお休みなさいませ」
それぞれの部屋へ戻る彼らを見送って、武と夕麿は二人きりになった。
露天風呂の仄かな灯は疲れた心身を癒してくれるように感じた。
「星が綺麗だなあ」
屋根はあるが少し首を動かせば空が見える。この灯はそういう部分も計算されているのかもしれない。
「夕麿」
大きな一枚岩をくり抜いて造ったらしい浴槽は、肌触りは良いのだが武が足を滑らしそうで怖く、夕麿は先に入って愛する人を支えた。今も膝の上に座らせてしっかりと腰を抱いた状態で湯に浸かっている。
「どうかしましたか?」
「いや…過保護だよ」
「過保護?何を言ってるんです。もし転びでもしたら大変な事になるとわかっているでしょう?」
「それはそうだけど……」
「それとも私がこうして抱き締めているのがイヤだとでも?」
「まさか!」
「では何が不満なんです?」
「不満なんじゃない」
武はそう言ってもぞもぞと腕の中で動いた。
「だって…これじゃ、夕麿の顔が見れない」
俯いて呟かれた言葉に夕麿の心臓が大きく跳ねた。あまりの喜びに震える指先で、武を横抱きの状態にした。怪我をしている左腕は肩までビニールで覆われている。怪我の湯治に来たのだから悪い部分を、直接湯にいられる事は出来なくても少しは湯に、入れた方が良いだろうと思っての状態だった。
「腕に痛みはありませんか?」
「うん、大丈夫。やっぱり温泉っていいね」
柔らかな笑みを浮かべて言う姿は、紫霄にいた頃と変わりなく愛らしく思う。歳月は色を増しこそすれ少しも褪せる気配は無かった。
「ありがとう、夕麿」
右腕が差し出されて首に絡む。片手しか使えない状態は武のストレスを溜め込む原因になっているのは、社でも邸でも見ていればわかる事だ。組み紐は片手でも何とかできるようだが、機織りはまず固定した腕が妨げになるらしく、織りかけの物もそのままになっていた。
「食事は口に合いましたか?」
「美味しかった。木の芽とかって家で食べるのと味が違った気がする」
「違うと思いますよ?普段私たちが口にしているのは、畑で栽培されたものだと思いますから。でも先程のものはこの辺りの山で採れるらしいですから、山のエネルギーを吸収しているので味に違いが出るのではないかと思います」
「ああ、なるほど。たくさんのエネルギーを俺たちはもらったわけだ。そっか…元気になれそうな気がするな」
愛しさに胸が一杯になった。自分たちには倦怠期はきっと訪れたりはしないと思う。
「武」
「ん?」
灯を映して輝く瞳を見詰めながら、そっと啄むように唇を重ねた。
「ぁふぅ…」
甘い溜息が形の好い唇から漏れる。
「そろそろ上がりますか?」
「…うん」
含羞むように長い睫を伏せるのが、たまらなく可愛くて愛しい。明日の朝食は遅めにそれぞれがそれぞれの部屋でという取り決めになっていた。
武がストレスを溜めているという事は、あの襲撃事件から武の警護に選任で就いている雫も、当然ながら神経をすり減らしていると考えられた。だから周ではなく清方を呼んだのだ。
それに……出来れば周は朔耶と二人にしてやりたかった。サマルカンド行きはどれほど、朔耶の神経をすり減らしてしまっただろうと思う。武が周を同行させないように奔走したにも係わらず、本人が自分で望んでしまったのだからどうする事も出来なかったのだ。無事に帰れたからよかったものの、一つ間違えば全員の生命が危険だったのだ。
「布団に寝るのは久し振りだよな」
覆い被さる夕麿を見上げながら武がそう言ったのは、今更ながらの照れを誤魔化す為らしい。
「そうですね」
わかっていながら知らない顔をしてみる。
「ふふ」
でも笑い声が漏れてしまうから仕方がない。ムッとした顔で睨んで来るのも愛しいと想う自分は、10年以上の結婚生活が経た今でも、どうしようもなく武に惚れているのだと感じる。愛しい人を愛しいと想う事自体が幸せであると思う。
「愛しています、武」
何万回、何億回繰り返しても、心の中を満たす『愛しい』という熱情は表しきれない。
「俺も…愛している」
右手を持上げて頬に触れながら呟く武の頬は、仄かな明かりの中でも紅潮しているのがわかった。熱く潤んだ瞳が誘っている。そっと唇を重ねると首に右腕が絡められた。すぐに離れて近い距離で互いに見詰め合い、すぐまた唇を重ねて今度は深く甘く貪り合う。
重なり合った胸元で互いの心臓が高鳴るのを体感しながら、浅く深く口付けを繰り返す。どこにどう触れれば良いのか、どういう反応をするのかなんて、とっくに知り尽くしてはいる。それでも滑らかな肌に触れて、歓喜の声を上げさせるのにゾクゾクとした感覚を味わう。
「ん…ぁ…ぅふう…」
赤く色付いた乳首を口に含んで舌先で転がすと、大きく仰け反って甘い声を上げる。
「夕麿…夕麿ァ…そこ、ダメぇ」
わき腹を指先で撫でると快感とくすぐったさが混じっているらしく、身悶えして逃げようとする様に思わずニヤけてしまう。
愛しくて、可愛くて、意地悪も楽しくて仕方がない。多忙さに普段は互いの温もりを感じながら眠るだけの時も多い。だがこうして触れていると、どうしてあれだけで平気でいられたのか、と自分でも不思議になってしまう。
別段普段の状態を不満に思っているわけではない。あれはあれで満たされている自分がいるのだ。武の怪我の事はあるにしても、こうして穏やかな時間を過ごせるのは嬉しい。
二人きりになってお互いだけで見詰め合って、互いの声だけに耳を傾ける。夕麿は何事にも替える事など出来ない幸せだと思う。どうかこの瞬間、武も幸せでいてくれればと願い、祈る。武と幸せでいる為に必要であるならば、何を捨てても後悔はしない。
「夕麿…も、欲しい…」
腰に絡む脚すらも愛しい。
「もうですか?」
「欲しい」
すべてを夕麿に委ねたような表情に優しく微笑みかけて、唇を重ねてから両脚を抱え上げてゆっくりと挿入していく。
「あああ…はあああ!」
受け入れる快感に武の口から、一際大きな嬌声が上がった。この前、触れ合ったのは何時だっただろう。春の決算で一番忙しい時期を公務で不在だった為に、4月の忙しさは殺人的だった。
「夕麿ぁ……」
怪我をしているのを忘れてしまったのか、両腕で縋り付いて来るのが愛らしいと感じる。
「武、左手」
軽く叩いてから外すと頷いて布団の上に下ろす。余り体重をかけないように注意しながら、左上腕を抑えてゆっくりと動き始めた。
「ぁ……ああッ…」
武の潤んだ瞳が官能の熱に染まる。
「そこ……夕麿……そこ、イイ……」
もちろんお互いの身体の事は知り尽くしてはいる。それでも零れる言葉に熱情を煽られる。
「武、もっと……もっと感じてください」
「ヤダ……俺ばっかり……」
「私もイイですよ?あなたが感じれば……感じる程、私もイイんです」
人間の身体と言うのは本当に良く出来ていると思う。相手を感じさせれば感じさせる程、自分の快楽へと変わるように出来ている。自分勝手な行為を繰り返す者は、本当の意味での快楽を知らないのかもしれない。
「だから、もっと感じて」
耳朶を甘噛みして囁くと、武の体内が夕麿を締め付けた。
「ああ…武…もっと、もっと感じて」
感極まった呟きを耳にして、武が目を細めて本当に嬉しそうに笑った。その笑顔が愛しくてたまらない。
自分たちには倦怠期など存在しないと思う。同性同士の結び付きは、愛の結晶を生み出す事は不可能だ。特に武は彼の体内に流れる皇家の血の子孫を残す事は許されてはいない。長年連れ合う夫婦には子供は鎹かすがいと呼ばれる絆である。だが自分たちはそれがなくても、こうしてしっかりと結ばれていると思う。
「愛しています、我が君…あなただけを」
夕麿にとって武は主であり、妻であり夫であり、互いの想いを分け合った存在であった。だからこそ倦怠期は絶対にあり得ないと思っている。
「俺も…愛してる」
言葉と共に彼の美しい瞳から溢れた涙は、喜び……悦びか。愛する人の表情の変化、あげる嬌声に更に胸が熱くなる。耐え切れずに激しく強く腰が動く。
「ひッ…ヤぁ…激し…ンああッ…あッあッ…」
与えられる官能に身悶えして体内は、もっと激しく収縮して夕麿を包み込む。
「あッ……ンンッ…イイ……ああ…も…も、イっていい?」
少し舌足らずに限界だと告げる。
「イってください……私も…もう……」
体内の熱が今にも堰を切りそうになって渦巻いている。
「一緒に……夕麿…」
「ええ」
「ぁはッ……イイ…も…イク…ああああああああ……!!」
「ああ、武…!」
武の絶頂の激しい収縮に引き摺られるように、体内の熱が堰を切って溢れ出して、愛しい人の体内に一気に長く放出される。しばらくぶりの快楽に目の前がチカチカした。
「ぁ…ンはぁ……」
武の身体はまだ余韻に戦慄わなないている。夕麿は欲望を吐き出して脱力した身体を投げ出しながらも、愛しさを込めてその身体をかき抱いた。汗に濡れた髪を指で払い、顔中に口付けをした。
ようやく我に返った武が微笑んだ。
「大丈夫ですか?左腕は痛みませんか?」
「うん、痛くない」
半ば忘れて夢中になってしまった為に、快楽の熱が少し引いて思い出した。
「夕麿、愛してる」
夕麿の気遣いを察して、柔らかな微笑と共に囁かれる。
「私も……私も愛しています、武」
言葉を照明するように口付けをしようと唇を近づけると、触れるか触れないかの状態で武の唇が求めるようにかすかに開いた
更にもう一度求め合った後、再び湯を使って布団に入った。温泉の匂いが武の匂いに重なってるのは、夕麿には少し不思議な気分だった。こうして触れ合えば愛する人の心が近く感じられる。けれども触れ合えない時間が続いても、心が渇望するような事はない。
彼の傍らにいられる幸福が常に夕麿の心に充ち満ちていた。
「ふふ」
「何だ、急に?」
「すみません…その、紫霄の寮にいた頃の事を思い出してしまって。あの頃は抱き合っても抱き合ってもまだ足りない気がして……」
特に休みの日の前日は武の身体を考えないで、日付が変わっても止まらずに外が白々とする時間まで求め続けた。
「あれはあれで俺は、嬉しかったけど?」
「え?」
「だってさ、求められるって事はそれだけ愛されてる事だろう?特に夕麿の場合は気持ち=欲求だろう?」
薄明かりでも腕の中の武の笑顔がわかる。
「本当にあなたには敵いません」
どんなに深く強く彼を想っても、常にそれ以上のスケールで愛情が返って来る。自分は本当に果報者だと感じる時だった。
「今はなかなかこういう時間が持てないけどな。でも触れ合う時は全力で求めてくれるから、俺はやっぱり嬉しい」
「武……ありがとうございます……」
「おい…何で泣くんだ?」
そう問われても夕麿自身がわからない。胸が一杯で熱い。
「嬉しいのです…私はとても幸せです、武」
「それは俺の台詞だ」
「我が君、あなたもそう思ってくださるのですね」
二人で同じ時間を共有し同じ想いを抱く幸せは、何と温かで優しいのだろうと夕麿は思った。
「俺はお前に気持ちしか返してはやれないから」
「何を仰るやら」
確かに武と結ばれた事で失ったものがないとは言えない。だが今の夕麿にすれば些細ささいなものでしかない。何故なら有り余る程のものが与えられたからだ。何よりも何にも代えがたい最愛の存在をこうして、この腕に抱いていられるのだから……何を惜しむ必要があるだろうか!
「愛しています、武。だからどうか、身体を大切にしてください」
武は脳の治療法が見付からない限りは、今の雫くらいの年齢までしか生きられないだろうと言われている。繰り返される発作は彼の身体にも脳にも、大きな負荷が掛かってダメージを与え続けているのだ。そしてこの事は武にも知らされている。小夜子が必死になって治療法を探し求め続けているのも、少しでも息子に長く生きて欲しいと願うからだ。
武の状態については小学生である希以外は知らされている。ただ皆、武の体調は心配し気遣うが、必要以上に神経質にならないようにはしていた。慰めも涙も武は必要とはしてはいない。側に寄り添う事こそが必要だと夕麿は思っていた。できるだけ彼の心身への負担を軽減する努力をする。
こうして触れ合っている時間が幸せを運んで来るのだから。できればすべての憂いを払って武には笑顔でいて欲しいと夕麿は、ひたすらに八百万の神々に祈り続けている。その為に自分の寿命が縮んだとしても、何を後悔する理由があるだろうか。できるならば自分の寿命と武の寿命を足し合わせて、1分1秒に至るまで半分にしたい。そうすれば愛する人と共に黄泉路へ旅立てるのに。
「なあ、夕麿」
「なんですか」
「ありがとう……そして、ごめんな」
何にたいして彼が謝罪を口にするのかはわかっている。夕麿はたまらなく悲しくなって、武の華奢な身体を抱き締めた。
「謝らないでください。必ず何とかなります。信じて待ちましょう」
「うん」
人生が思う通りになる人間など存在しないとわかってはいるが、それでも夕麿は歯痒くも悔しくも思っていた。武を愛しているからこそ。
翌朝、夕麿が目を覚ましたのは午前9時を少し過ぎた頃だった。日頃が5~6時起床であるから、ゆっくりと眠ったと言える。ゆっくりと身を起こして枕元に用意しておいた服に着替え、隣の部屋の電話で朝食を依頼する。通常の旅館やホテルでこんなわがままは通用しないが、少数組の客しか取らないところだからこそ、そして武と夕麿だからも含めて通る事だった。
「武、朝食が来ますから起きてください」
武を起こして朝食を二人で食べる……他愛無い会話で笑い、怒り、また笑う。在り来たりの時間がとても幸せに感じられて思わず笑みを漏らすと、武もまた柔らかな笑みで応えてくれる。同じ気持ちだと感じてまた、幸せを噛み締める夕麿だった。
「今日はどうするんだ?」
「それなのですが……1~2時間、ピアノを弾きに行きたいのですが」
「ああ、本館のラウンジにあったな。1~2時間と言わずに好きなだけ弾いて来いよ」
日頃は忙しい為に思うように練習が出来てはいない事実を、武が一番知っているのはわかってはいた。
「あなたはどうするのですか?」
「俺?そうだな…ゆっくりしたいからここにいるよ」
ゆっくりしたいは本当だろうがそれ以上に夕麿が、快くピアノが弾けるようにと思ってくれているのだと感じた。自分がいたら夕麿が気を遣うと考えてくれたのだと。
「ありがとうございます、お言葉に甘えさせていただきます」
「ああ、思う存分どうぞ」
向けられる笑顔が眩しいほど綺麗で、彼の気持ちに嘘も曇りもないのだろう。
「ん?俺の顔に何か付いてる?」
「いいえ、何も。ただ、愛しいなぁと思って」
「!?」
夕麿の言葉に武は音がしそうな勢いで一気に真っ赤になった。誰かがいたらうんざりした顔をするだろうが、今は二人きりだ。思う存分、甘い言葉を口に出来る。
「お布団の中で寮にいた頃を思い出したのは、あなたがそのままで嬉しかったというのもあります」
「成長していなくて悪かったな」
「まさか。そういう意味ではありませんよ、武。何も知らない状態で今の立場になってしまったあなたは、今日まで本当に頑張って来たと、私は感心していますし感動すら覚えます。
でも腕の中で私だけのあなたでいてくださる時の姿は、今も少しも変わっていないと思って喜ばしかったのです。
出来得るならばこの先も、あなたはあなたでいてくださいね、武」
敢えて『我が君』とは呼ばなかった。武を一人の人間として、最愛の伴侶であると心から想っているから。
万感の想いを込めて微笑みかけると、武は赤くなったままの顔でしっかりと頷いた。
ちょうど旅館側はチェックアウトの時間帯だったが、夕麿のピアノの使用は前以って連絡してあった為、ラウンジを快く解放してくれた。持って来た楽譜のコピーを広げて弾き始めると、警護に就いていた康孝が楽譜を捲ってくれたので、本当に心行くまで演奏する時間を楽しめた。
ホッと息を吐いて立ち上がり身体を伸ばしていると、女将がお茶を近くのテーブルに置いて下がった。
「千種君、お茶にしましょう」
「はい、夕麿さま」
穏やかな気性の彼が警察官という職業を選択したと知った時には、夕麿は心底驚いてしまった記憶がある。武の代の風紀委員長であった久留島 成美がそうなったのは、当然と言えば当然だったとは思う。彼は貴之に憧れていたし、本質的な部分で似た性格だと思えるからだ。
ただ武の為に……という彼らの想いの強さには、本気で頭を下げたく思ってしまう。彼らにどう報えば良いのだろうかと思う。
「千種君たちには心から感謝しています。もしも警護にあたる人が見知らぬ顔ぶればかりだった場合、武さまは今ほど皆さんを信用して振る舞われる事はなかったのではないかと思えるのです」
「僕たちはただ自分が一番ヤりたい事を選んだだけです。ただ武さまのお力を少しでもお支えする事が叶うならばと。ですが夕麿さまにそのように言っていただけるのは、とても嬉しく思います。
僕も感謝しています。僕のセクシャリティは理解してくださる方がほとんどおりません。人嫌いに勘違いされたり、そもそもがあり得ないと思われてしまうのです。でも武さまは僕の話を聞いてくださり私生活は、一人でも理解がある皆さまに囲まれて過ごせる場所をくださいました」
アンチである事の苦労までは夕麿にも武にもわからない。だがセクシャリティで区別されたり、差別されてよい人間などいないのだ。
「武さまは今はさほど目立たれなくなられましたが、人見知りなされるお方でいらっしゃいますのは、同級生としてよく存じ上げております。僕たちがお側にお付きする事で少しでも、ご緊張が緩和なされますならば有り難い事です」
自分たちが一番結束が固かったと今日まで信じていたが、もしかしたら武たちのほうが……次代の会長であった御厨 敦紀も含めた形で、結束が非常に強かったのではないかと夕麿は今更ながら感じた。
武は多くの人々によって支えられている。しかし同時に夕麿もそうだという事なのだ。問題はまだまだ山積してはいる。それでもなお自分たちはなんと果報者であろうかと思う。様々な事態を乗り越えて此処にいる事は幸せなのだと。
「私たちは本当に果報者ですね。八百万の神々に感謝しなければなりませんね」
夕麿の好みを理解した上で淹れられた香り高い紅茶を口にして、今まで当たり前にして生きて来た事の真実が、多くの人々に支えられて成り立っているのだと実感していた。
多分……武は、このような事を実感して過ごして来たのだろう。だからこそ自分たちが当たり前に思って来た事に、細やかな気遣いを配る事を忘れたりしないのだ。何かをされる事、配慮される事が当たり前の生活しかして来なかった。疑問に思った事はなかった。ゆえに武が時折、嫌がったり気にしたりする気持ちが、実は夕麿にはよくわかってはいなかったのだ。
だが当たり前は当たり前ではなく、身分という立場に与えられた特権でしかない。紫霄の中での長い生活で身に付いた習慣は、一般社会では通用しないもの。武はそれを知っているからこそ他の誰よりも、支えられている事の重さと大切さを実感して来たのだろう。
何と自分は未熟で思慮も経験も足らないのだろうか……と、認識を新たにした。
「そろそろ武さまのお側に戻らないと」
紅茶を飲み干してカップをソーサーに静かに置いて立ち上がると、既に飲み終えていた康孝も立ち上がった。
自分たちの離れ家に向かう道に咲く花々が、甘く薫っていた。
離れ家に帰り着くと武は、逸見 拓真と濡れ縁でお茶をして話をしていた。
「ただいま戻りました」
夕麿の声に振り返った顔は満面の笑みだ。
「お帰り。早いな、もう良いのか?」
朝食を摂ってすぐに出たので、既に昼食の時間が近い。
「もう……って、お昼ですよ、武」
「え?あれ?」
どうやらおしゃべりに夢中だったらしく、時間の経過を忘れていたらしい。
「ところで女将からこれを預かって来たのですが」
夕麿はそういうと康孝から藤の籠を受け取って渡した。
「ああ、ありがとう。良いもの見付けたんだ。お前が絶対に喜ぶと思ってさ」
得意げに言われても何が何だかわからない。
「良いからこれ履いて」
武が差し出したのは宿が用意した、庭へ出る為の下駄だ。当然ながら武専用の物と夕麿専用の物が用意されていた。
「庭にでるのですか?」
「うん。出たらわかるから」
上機嫌で先に庭に降りた武を見て、わからないまま自分も庭に出た。夕麿の手を取って引っ張って奥へと誘う。
「ほら、ここ」
「ここ?」
「よく見てみろよ」
言われて辺りを見回すが、夕麿には室内から眺めた景色と何が違うのかわからない。
「違う、違う、下だよ、地面!」
「地面?」
そう言われて視線を移してじっと見詰めると、そこには夕麿が初めて見る光景があった。
「土筆!」
断崖から流れ落ちて出来た小さな流れの周囲に、土筆つくしがそこここに愛らしい姿を並べていた。
「こっちから向こうまでずっと生えてるんだ。宿側に採っても良いかと聞いたら、全部採っちゃって良いって言うから」
お前が喜ぶと思って、と武が言葉を続けた。
「ありがとうございます……嬉しいです」
武の為にと企画した旅行だが、楽しい事を発見するのはいつも彼だ。夕麿では思い付かない事、見付けられないものを難なく示してくれる。
「大袈裟だな、ただの土筆だぞ?」
明後日の方向を見て答えた武が、照れているらしいのはわかる。胸が熱くて思わず背後から抱き締め、首や頬に口付けた。
「おっ、お前なあ……」
康孝と拓真は顔を見合わせてから、振り返った夕麿に頭を下げて立ち去った。庭と外の道を隔てる竹垣の向こう側で、警護に就く為だろうと思われた。
「もう私たちだけですよ」
真っ赤になった耳に囁くと小さな声をあげて身悶えする。昨夜の久し振りの濃厚な時間を過ごした余韻が、未だ彼の身体の奥底で燻くすぶっているらしい。
「ダメ……土筆を……」
昼食は本館のレストランに連絡が来次第、集まって摂る約束になっている。採った土筆をその時に持って行って、調理して夕食にだしてもらうつもりでいるらしい。
篭の中に入っていた軍手を着けて、武に誘われるままに土筆へと手を伸ばした。本当は素手でも良かったのだが、指先に怪我でも負ったらと武が気にするので。
「根元からこう……」
すぐ横で武が摘むのを見て笑顔で頷き、そっと力を入れて摘み取った。
「絹はあの時、こうして一つ一つ私の為に摘んでくれたのですね。母子共に貴族に乳母として仕えて、土に触れた事もなかった筈なのに」
「そうだな。何かの本で乳母の愛情は母親が我が子に掛ける愛情よりも、強くて深いものだと読んだ事がある。絹子さんはそれこそ結婚もしていないから、生まれたばかりのお前を大切にしたいって感じたんだろう。
それって凄く有り難い事だよな」
「そう…なのですね」
考えた事がなかった。そう思って見上げた空は青く美しくて、何だか目に染み入るようだ。何気ない会話に胸が温かくなる。
「昔の人は凄いですね、食用になるかどうかを一つ一つ調べて行ったのでしょうか」
「だと思う。茸でも魚でも貝でも、毒があるものはたくさんあるからな」
「そうですね。薬草にしても試して記して、分類系統化して記録して……気の遠くなるような歳月と人の数が必要だったのでしょう。お蔭で私たちはこうして野から摘んで、食べる事が出来るのですから」
「うん、俺たちは感謝しなきゃならないだろう。
で、毒で思い出したんだが」
「何をですか?」
「土筆にも一応、毒があるらしい。だけどもの凄く少量で食べても、害が出るのはまずないんだってさ」
武は時々、夕麿が考えもしない方面の知識がある。小夜子と二人だけの生活をそれとなく窺わせるが、敢えて指摘する事も詳しく知ろうとも思った事はなかった。
「武、それ、絹に言わないでくださいね」
「ん?ああ、大事な夕麿さまに毒食べさせたって、卒倒しそうだな」
そう言って武はクスクスと笑う。
「冗談ではなく、本当にお詫びだと言って出家でもしかねませんから」
「それは困るなあ」
天を仰いでそう言って、武はまた楽しげに笑った。今日の武はずっと笑顔を見せている。夕麿はそれが嬉しかった。
「「あ」」
同時に同じ土筆に手を伸ばして指先が触れ合った。声をあげてから顔を見合わせ噴出す。クスクスと笑った後に、どちらからともなく唇が重なった。唇が離れると武が抱き付いて来た。
胸にもたれかかって甘えるように頬を寄せる。
愛しくて……可愛い。
「夕麿、俺、今、もの凄く幸せ」
その言葉に胸の奥が暑く切なくなった。
「私もです……武」
土が付着した軍手で触れないように気を付けながら、愛しい人を抱き締められる喜びに幸せを噛み締めた。
楽しい時間は瞬く間に過ぎ去ってしまう。
武も夕麿も良く笑い、よく食べた。二人で過ごす時間も、皆と過ごす時間も楽しかった。
部屋に特別に用意された昼食を終わり、後は荷物を片付けて帰宅の徒に着くだけだった。
「……ちょうど良い機会だ。夕麿、話がある」
武の真剣な口調に夕麿も、居合わせた他の者も姿勢を正した。
「これから先には……今まで以上の困難が来る可能性があるだろう」
「武……それは……」
夕麿の瞳が揺れる。
「何もなければそれで良い。だがな、懸念すべき事がないわけではない。
だからこれから俺が言う事を覚えていて欲しい」
「はい」
全員が息を呑んだ。武の言う懸念にそれぞれが気が付いた様子だった。だが不吉な言葉を紡ぐ事は敢えて避けた。
「俺は何があっても、どこへ行っても、必ずお前のところへ戻る。そう約束する。だからその時に俺が何を言って何をしても、それがお前の望みから遠く離れていても、どうか信じて待っていて欲しい」
その時が本当に訪れた時にはもしかしたら今日のここでの話を、夕麿は忘れてしまっているかもしれないと思っていた。懸念が何かはわかってはいるだろう。だが今は懸念は懸念でしかない。それはわかっている。
「お誓いいたします、我が君。ですからどうかご無理だけはおやめください」
夕麿の嘆願にあえて返事をしない。武は既に雫にプロファイルを依頼して答えを得ている。ゆえに夕麿の望みを叶える事は難しい可能性があった。
「我が君……お願いです」
「善処を心掛ける。
時間を取らせた。荷物を片付けてくれ」
これ以上話す気はないと話題を帰ると夕麿は、深く溜息を吐いて黙った。
後々にこの約束が二人を苦しめる事になる。
「武、着いたら起こしますから眠って大丈夫ですよ」
「家まで30分もないのに?起きないかもしれないぞ、俺?」
「ちゃんと部屋まで運びますから」
「ん…わかった…」
眠って良いと言われて気が抜けたのか、武の返事はそのまま眠りの中に落ちていった。
「眠られましたか…?」
助手席に座っている雫が言うと夕麿は、優しい笑みを眠る武に向けながら小さく頷いた。
「では予定通り向かいますね」
「お願いします」
「逸見、予定通りだ」
「了解」
車は夕闇が迫る街を静かに走りぬけていく。
明日からは連休で社は休み。武の体調を考えて定時の少し前に退社して今、車中の人となっていた。走り出した車は御園生邸とは逆の方向へと進んでいる。いつも武と夕麿が過ごすホテルとも違う方向だった。
「雫さん、無理をお願いしてすみません」
「私も常々、武さまの移動可能な範囲が狭過ぎると考えておりましたので、良い機会だと思いまして根回しをさせていただきました」
「お手数をおかけしました」
いつものホテルではない場所でゆっくりと休ませたい。そう思った夕麿が白羽の矢を立てたのは、雅久と義勝が時折利用している温泉宿だった。離れ屋形式の宿で誰かの紹介のない一見客は断る。経営はかつてのオーナー一族に任せているが、御園生ホテル部門に所属している宿だ。
宿泊するのは雅久たちが利用しているいつもの奥の離れ屋ではあるが、更にセキュリティを強化した上で雫たち警護が宿泊する建物を移築した。
連休中を全て此処で過ごしたいとは思っているが、そこまでのわがままが許されるかは不明。それでも夕麿は武を休ませ、自分もゆったりとした時間を過ごしたかった。武は佐田川 和喜に負わされた怪我による不自由さに、雫率いる特務室の人員不足を気遣って休日も外出を控えている状態から、ストレスというよりも気鬱きうつが蓄積しているように感じられた。
だからこそ見慣れた場所から連れ出して気晴らしと休養をさせたかったのだ。発作にこそ至ってはいないが、どこか言動が幼くなっているのも気になった。幾つかある御園生家の別荘も考えたのだが、それだと二人になるのは寝室だけになってしまう。義勝に相談して勧められたのが、御園生が出資している個建ての旅館だった。そこであれば出された条件にも此方の条件にも、ほぼ当てはまるものだった。
条件は幾つかあったが一番の難点は、余り人目に付かない場所という事だった。これは武を休ませたい夕麿の想いとも合致していた為、さほど困りはしなかった。次に夕麿たちを困らせたのは武の身分と事情を了承できる場所だった。いつものホテルは条件にあてはまったが、それでは意味がない。
有人が勧めたのがこの宿だった。定期的に利用している義勝と雅久も知らなかったのだが、この宿の敷地は元々は勲功貴族のものだったのだというのだ。世界恐慌で資産の殆どを失い跡継ぎだが戦地で戦死した後、残された当主夫婦と娘は戦後の変動期に完全に路頭に迷い、見兼ねた有人の父が出資して温泉が湧いたここを温泉宿にした。大きく宣伝はしてはいないが風光明媚な隠れ宿として、一定のリピーターがいるので静かで落ち着いた経営が出来ている。
しかも紹介がなければ予約も出来ないシステムゆえ、客の身元はしっかりしているらしい。とは言っても様々な客が来るのが温泉宿だ。一切を取り仕切る女将が全てを心得てくれなければ、武と夕麿は滞在する許可が出ない。ここの離れ屋形式は武と夕麿が二人っきりになれる条件が整っている。
一番奥は一方向からしか出入り出来ず、反対側は切り立った崖でしかもその上も、この宿の私有地でありそこへ上がる道はフロントと女将たちの住居の裏のみ。本来は山菜取りなどに利用しているのだと言う。
武たちが宿泊する離れ屋の手前の二つは既に雫が特務室で押さえた。雫が前以って状態を確認した上で根回しと申請に動いた。同時に護院夫妻も伝を使っての根回しをした結果、連休にようやく休暇療養の許可が出た。
ただ、医師の随行も求められたので清方が今回は学会の開催場所から直接先行している。また最寄り駅から遠い為と警備の一環として、清方を迎える為と奥に他の客が近付かないようにする為に千種 康孝が先行していた。特務室が割けるギリギリの人員配置でもあった。
宿の駐車場に車を止めて、まず拓真がフロントに入ってチェックインを終わらせた。それから雫が眠っている武をそっと抱き上げた。
女将が先頭に立って案内する後を雫と夕麿が続き、最後尾を拓真が周囲を警戒しながら歩く。
「こちらでございます」
内部が見えないように工夫された竹垣を抜けて、この宿で一番料金が高く広い離れ屋に踏み込んだ。すぐに先行していた清方と康孝が顔を出した。
「女将、食事の用意を。雫、奥の間に寝具を延べてあります」
「わかった」
食事の用意が整うまで今少し、武を眠らせておこうという配慮だった。少し蒼褪めた顔で眠る武を起こすのは忍びなかった。だが夕食をきちんと摂らせないと、明日はもっと状態が悪くなる。
夕麿はそっと愛する人の華奢な身体を抱き起こした。
「武、武…起きてください。夕餉の用意が整いましたよ」
「ん…夕麿?」
武は寝付きは良いのだが、寝起きが恐ろしく悪い。起こすにはかなりの時間と刺激が必要だ。それに引き換え夕麿は寝付きが悪く、寝起きは良いと言えば良いのではあるが、元来、眠りそのものが浅くてわずかな刺激で目を覚ましてしまう。それでも武と供寝するようになってからは、以前よりはずっと深く眠っていると思う。
「武、夕餉ですよ?あなたの大好きなオレンジのジュースもジュレもありますよ」
「ん…食べる」
この可愛いやりとりに夕食を同席する雫たちが、噴出しそうになるのを懸命に我慢していた。ついでに言えば二人の同級生は、夕麿たちが卒業した後の紫霄での武をよく記憶している。周と行長が時として彼を起こすのに苦労していたからだ。朝食に寮の食堂に連れて下りても半ば夢の中の武は、意味不明な返事をする時が多々あった。
今、夕麿が起こす姿を見てあの二人が、苦労をする筈だと思って苦笑しながら顔を見合わせた。
「さあ、起きてくださいね」
ネクタイや上着は脱がせたが、未だシャツ姿の武が夕麿によって席に移動させられた。座椅子がなかったら寝転んでしまったのではないか。未だ覚めぬ顔でぼんやりと座っていたが、しばらくしていつもと違う感覚に気付いたのか、不思議そうに周囲を見回した。
「武、どうしました?」
夕麿が笑いながら問い掛けると武の瞳が真っ直ぐにこちらを見た。
「夕麿、ここどこ?」
御園生邸自体が戦前に建築された洋館で、武たちの住居である離れも洋風である。だが宿は純和風の建物だった。
「家…じゃないよね?」
「雅久と義勝が時々足を運んでいる温泉宿ですよ」
「温泉…?でもここってうちから遠くないか?」
「そうですね」
「どうして俺、ここにいるの?」
次第に目が覚めて来たのか、夕麿と二人の時の口調が普段のものに変化し始めた。
「雫さんと高子伯母さまが許可をいただいてくださったのですよ?温泉に入りたいと言っていたでしょう?」
「言ったけど…」
叶うわけがない望みだと武は諦めていたらしい。
「あなたの腕の怪我は再三の要求にも係わらず、特務室の人員を増やす事をしなかった役所側にあります。従って養生の為の湯治に反対できるわけがないでしょう」
雫や久方と相談して、そういう申し入れ方をしたのは事実だった。
「どれくらいいられるの?」
「何か緊急の事態でもない限りは、連休中は滞在する予定です」
「やったー!」
寝起きの色の無さから一転、武の頬に赤みが差した。
「さあ、お食事を、武さま。折角のお料理が冷めてしまいます」
穏やかな声で清方が告げると、武は満面の笑みのままで頷いた。促されるままに箸を手にしようとした武は、黙って控えている和装の女性に気付いて夕麿を見た。
「そうでした」
短く答えて後は清方に任せる。彼は万事心得た顔で女将を振り返った。
「女将、殿下にご挨拶を」
「はい、ありがとうございます」
彼女は挨拶をする為に心持前に進み出た。
「当旅館の女将でございます。ご不自由な事などあられましたらどうぞ、私に申しつけくださいませ」
いらぬ長い挨拶は武が好まないと、先行していた清方が言い含めたのだろうか。彼女は深々と伏してははいたが、言葉は短めだった。
「うん、こちらこそお願いする」
武が清方に向かって言う。
「殿下はよろしく頼むと仰せです。お言葉通りにお仕えをしてください」
「はっ、有り難き幸せにございます」
「では、は我々だけに」
「承知いたしました。ごめんくださいませ、ごきげんよう」
今一度平伏してから、女将は部屋を去った。
「なあ、夕麿」
「何です?」
「みんな、よく『ごきげんよう』って言うけど、何で?」
「ああ、それは貴族言葉を知らない奉公人が、間違った言葉で挨拶をすると差し障りがあるから、時間の関係なく『ごきげんよう』で統一したんです」
「へえ~そうなのか」
「そうですね。貴族言葉は余りにも特殊すぎて、貴族以外の人には通じないのだとわからない者もいました。現在は殆ど使われる事が減り、むしろ絶滅するかもしれません」
清方の言い様に武が笑い転げる。
「紫霄の中でもめっきり使用しなくなりましたね」
康孝が誰に言うとでもなく呟く。
「そうして私たちは一般人となって消えていく運命なのかもしれません。けれども先帝陛下が貴族を残したいと仰せになられた事を、私たちは忘れてはならないのではないでしょうか」
皇家の血筋を継承する方が減る一方の現在、彼らを懸命にサポートする者が必要になって来ているのだと思うからこそ、現状を夕麿たちは憂うのだとも言えた。先帝に求められたという貴族の誇り。彼らが未だに貴族だけの社交界を持っているのは、2千年の皇家の歴史を終わらせまいとする純粋な願いゆえかもしれない。
「さあ、お召し上がりくださいませ」
「うん…いただきます」
箸を手にして目の前の料理を楽しげに見詰めるが、すぐに困った顔になる。
「これって何から食べれば良い?」
「そうですね、本来はこの八寸というのが先に来ますから、これからではありますが…私たちしかいませんし、全部並べさせましたからあなたの食べたいものからで良いのですよ」
「わかった、ありがとう」
どれからでも良いと言われて、武は喜々として料理を摘み出した。
「この魚は?鮭…じゃないよね?」
「鱒ですね。鮭と同じ魚なんですが、一部に海に行かないのがいまして、それが鱒と呼ばれるのになります」
拓真が説明する。彼は渓流釣りが趣味で、この手の魚には詳しいらしい。
「海に行かない?なるほど、鮭のヒッキー版か」
「ヒッキーって武さま…」
康孝と拓真が同時に絶句した。
「武、ヒッキーって何ですか?」
夕麿は不思議そうに武に問いかけたのが、どうやらツボにはまったらしい。笑い出した武に夕麿は不機嫌そうに横を向いて拗ねた。
「世間知らずで申し訳在りません」
「拗ねるなって。ヒッキーなんて俗語みたいなものだから。そうだな、いくらお前でも引き篭もりくらいは知ってるだろ?」
「ああ、あれをそう呼ぶのですか?」
「一部でな」
武の言葉に頷きながら夕麿自身は引き篭もりの人間の気持ちが、わからないわけではないと思っていた。するとそっと武の手が膝に置かれた。
「誰でも逃げ出したい時はあるよな。逃げ出せないから引き篭もる人間もいるのだろうな」
「武さまはお見事に逃げ出してくださいましたが」
雫が笑って言った。
「それは……言わないでよ」
「雫さん、次は私もご一緒いたしますので」
「ええ!?勘弁してくださいよ、お二人とも」
大袈裟に困った声を上げる雫に全員が大笑いをする。二人で逃げる事など出来はしないとわかっているけれど、夕麿は憧れるように愛する人との逃避行を夢想した事があった。こうして大いに笑い、武の食も常よりは進んで、夕食の時間は瞬く間に過ぎた。
「ではお休みなさいませ」
それぞれの部屋へ戻る彼らを見送って、武と夕麿は二人きりになった。
露天風呂の仄かな灯は疲れた心身を癒してくれるように感じた。
「星が綺麗だなあ」
屋根はあるが少し首を動かせば空が見える。この灯はそういう部分も計算されているのかもしれない。
「夕麿」
大きな一枚岩をくり抜いて造ったらしい浴槽は、肌触りは良いのだが武が足を滑らしそうで怖く、夕麿は先に入って愛する人を支えた。今も膝の上に座らせてしっかりと腰を抱いた状態で湯に浸かっている。
「どうかしましたか?」
「いや…過保護だよ」
「過保護?何を言ってるんです。もし転びでもしたら大変な事になるとわかっているでしょう?」
「それはそうだけど……」
「それとも私がこうして抱き締めているのがイヤだとでも?」
「まさか!」
「では何が不満なんです?」
「不満なんじゃない」
武はそう言ってもぞもぞと腕の中で動いた。
「だって…これじゃ、夕麿の顔が見れない」
俯いて呟かれた言葉に夕麿の心臓が大きく跳ねた。あまりの喜びに震える指先で、武を横抱きの状態にした。怪我をしている左腕は肩までビニールで覆われている。怪我の湯治に来たのだから悪い部分を、直接湯にいられる事は出来なくても少しは湯に、入れた方が良いだろうと思っての状態だった。
「腕に痛みはありませんか?」
「うん、大丈夫。やっぱり温泉っていいね」
柔らかな笑みを浮かべて言う姿は、紫霄にいた頃と変わりなく愛らしく思う。歳月は色を増しこそすれ少しも褪せる気配は無かった。
「ありがとう、夕麿」
右腕が差し出されて首に絡む。片手しか使えない状態は武のストレスを溜め込む原因になっているのは、社でも邸でも見ていればわかる事だ。組み紐は片手でも何とかできるようだが、機織りはまず固定した腕が妨げになるらしく、織りかけの物もそのままになっていた。
「食事は口に合いましたか?」
「美味しかった。木の芽とかって家で食べるのと味が違った気がする」
「違うと思いますよ?普段私たちが口にしているのは、畑で栽培されたものだと思いますから。でも先程のものはこの辺りの山で採れるらしいですから、山のエネルギーを吸収しているので味に違いが出るのではないかと思います」
「ああ、なるほど。たくさんのエネルギーを俺たちはもらったわけだ。そっか…元気になれそうな気がするな」
愛しさに胸が一杯になった。自分たちには倦怠期はきっと訪れたりはしないと思う。
「武」
「ん?」
灯を映して輝く瞳を見詰めながら、そっと啄むように唇を重ねた。
「ぁふぅ…」
甘い溜息が形の好い唇から漏れる。
「そろそろ上がりますか?」
「…うん」
含羞むように長い睫を伏せるのが、たまらなく可愛くて愛しい。明日の朝食は遅めにそれぞれがそれぞれの部屋でという取り決めになっていた。
武がストレスを溜めているという事は、あの襲撃事件から武の警護に選任で就いている雫も、当然ながら神経をすり減らしていると考えられた。だから周ではなく清方を呼んだのだ。
それに……出来れば周は朔耶と二人にしてやりたかった。サマルカンド行きはどれほど、朔耶の神経をすり減らしてしまっただろうと思う。武が周を同行させないように奔走したにも係わらず、本人が自分で望んでしまったのだからどうする事も出来なかったのだ。無事に帰れたからよかったものの、一つ間違えば全員の生命が危険だったのだ。
「布団に寝るのは久し振りだよな」
覆い被さる夕麿を見上げながら武がそう言ったのは、今更ながらの照れを誤魔化す為らしい。
「そうですね」
わかっていながら知らない顔をしてみる。
「ふふ」
でも笑い声が漏れてしまうから仕方がない。ムッとした顔で睨んで来るのも愛しいと想う自分は、10年以上の結婚生活が経た今でも、どうしようもなく武に惚れているのだと感じる。愛しい人を愛しいと想う事自体が幸せであると思う。
「愛しています、武」
何万回、何億回繰り返しても、心の中を満たす『愛しい』という熱情は表しきれない。
「俺も…愛している」
右手を持上げて頬に触れながら呟く武の頬は、仄かな明かりの中でも紅潮しているのがわかった。熱く潤んだ瞳が誘っている。そっと唇を重ねると首に右腕が絡められた。すぐに離れて近い距離で互いに見詰め合い、すぐまた唇を重ねて今度は深く甘く貪り合う。
重なり合った胸元で互いの心臓が高鳴るのを体感しながら、浅く深く口付けを繰り返す。どこにどう触れれば良いのか、どういう反応をするのかなんて、とっくに知り尽くしてはいる。それでも滑らかな肌に触れて、歓喜の声を上げさせるのにゾクゾクとした感覚を味わう。
「ん…ぁ…ぅふう…」
赤く色付いた乳首を口に含んで舌先で転がすと、大きく仰け反って甘い声を上げる。
「夕麿…夕麿ァ…そこ、ダメぇ」
わき腹を指先で撫でると快感とくすぐったさが混じっているらしく、身悶えして逃げようとする様に思わずニヤけてしまう。
愛しくて、可愛くて、意地悪も楽しくて仕方がない。多忙さに普段は互いの温もりを感じながら眠るだけの時も多い。だがこうして触れていると、どうしてあれだけで平気でいられたのか、と自分でも不思議になってしまう。
別段普段の状態を不満に思っているわけではない。あれはあれで満たされている自分がいるのだ。武の怪我の事はあるにしても、こうして穏やかな時間を過ごせるのは嬉しい。
二人きりになってお互いだけで見詰め合って、互いの声だけに耳を傾ける。夕麿は何事にも替える事など出来ない幸せだと思う。どうかこの瞬間、武も幸せでいてくれればと願い、祈る。武と幸せでいる為に必要であるならば、何を捨てても後悔はしない。
「夕麿…も、欲しい…」
腰に絡む脚すらも愛しい。
「もうですか?」
「欲しい」
すべてを夕麿に委ねたような表情に優しく微笑みかけて、唇を重ねてから両脚を抱え上げてゆっくりと挿入していく。
「あああ…はあああ!」
受け入れる快感に武の口から、一際大きな嬌声が上がった。この前、触れ合ったのは何時だっただろう。春の決算で一番忙しい時期を公務で不在だった為に、4月の忙しさは殺人的だった。
「夕麿ぁ……」
怪我をしているのを忘れてしまったのか、両腕で縋り付いて来るのが愛らしいと感じる。
「武、左手」
軽く叩いてから外すと頷いて布団の上に下ろす。余り体重をかけないように注意しながら、左上腕を抑えてゆっくりと動き始めた。
「ぁ……ああッ…」
武の潤んだ瞳が官能の熱に染まる。
「そこ……夕麿……そこ、イイ……」
もちろんお互いの身体の事は知り尽くしてはいる。それでも零れる言葉に熱情を煽られる。
「武、もっと……もっと感じてください」
「ヤダ……俺ばっかり……」
「私もイイですよ?あなたが感じれば……感じる程、私もイイんです」
人間の身体と言うのは本当に良く出来ていると思う。相手を感じさせれば感じさせる程、自分の快楽へと変わるように出来ている。自分勝手な行為を繰り返す者は、本当の意味での快楽を知らないのかもしれない。
「だから、もっと感じて」
耳朶を甘噛みして囁くと、武の体内が夕麿を締め付けた。
「ああ…武…もっと、もっと感じて」
感極まった呟きを耳にして、武が目を細めて本当に嬉しそうに笑った。その笑顔が愛しくてたまらない。
自分たちには倦怠期など存在しないと思う。同性同士の結び付きは、愛の結晶を生み出す事は不可能だ。特に武は彼の体内に流れる皇家の血の子孫を残す事は許されてはいない。長年連れ合う夫婦には子供は鎹かすがいと呼ばれる絆である。だが自分たちはそれがなくても、こうしてしっかりと結ばれていると思う。
「愛しています、我が君…あなただけを」
夕麿にとって武は主であり、妻であり夫であり、互いの想いを分け合った存在であった。だからこそ倦怠期は絶対にあり得ないと思っている。
「俺も…愛してる」
言葉と共に彼の美しい瞳から溢れた涙は、喜び……悦びか。愛する人の表情の変化、あげる嬌声に更に胸が熱くなる。耐え切れずに激しく強く腰が動く。
「ひッ…ヤぁ…激し…ンああッ…あッあッ…」
与えられる官能に身悶えして体内は、もっと激しく収縮して夕麿を包み込む。
「あッ……ンンッ…イイ……ああ…も…も、イっていい?」
少し舌足らずに限界だと告げる。
「イってください……私も…もう……」
体内の熱が今にも堰を切りそうになって渦巻いている。
「一緒に……夕麿…」
「ええ」
「ぁはッ……イイ…も…イク…ああああああああ……!!」
「ああ、武…!」
武の絶頂の激しい収縮に引き摺られるように、体内の熱が堰を切って溢れ出して、愛しい人の体内に一気に長く放出される。しばらくぶりの快楽に目の前がチカチカした。
「ぁ…ンはぁ……」
武の身体はまだ余韻に戦慄わなないている。夕麿は欲望を吐き出して脱力した身体を投げ出しながらも、愛しさを込めてその身体をかき抱いた。汗に濡れた髪を指で払い、顔中に口付けをした。
ようやく我に返った武が微笑んだ。
「大丈夫ですか?左腕は痛みませんか?」
「うん、痛くない」
半ば忘れて夢中になってしまった為に、快楽の熱が少し引いて思い出した。
「夕麿、愛してる」
夕麿の気遣いを察して、柔らかな微笑と共に囁かれる。
「私も……私も愛しています、武」
言葉を照明するように口付けをしようと唇を近づけると、触れるか触れないかの状態で武の唇が求めるようにかすかに開いた
更にもう一度求め合った後、再び湯を使って布団に入った。温泉の匂いが武の匂いに重なってるのは、夕麿には少し不思議な気分だった。こうして触れ合えば愛する人の心が近く感じられる。けれども触れ合えない時間が続いても、心が渇望するような事はない。
彼の傍らにいられる幸福が常に夕麿の心に充ち満ちていた。
「ふふ」
「何だ、急に?」
「すみません…その、紫霄の寮にいた頃の事を思い出してしまって。あの頃は抱き合っても抱き合ってもまだ足りない気がして……」
特に休みの日の前日は武の身体を考えないで、日付が変わっても止まらずに外が白々とする時間まで求め続けた。
「あれはあれで俺は、嬉しかったけど?」
「え?」
「だってさ、求められるって事はそれだけ愛されてる事だろう?特に夕麿の場合は気持ち=欲求だろう?」
薄明かりでも腕の中の武の笑顔がわかる。
「本当にあなたには敵いません」
どんなに深く強く彼を想っても、常にそれ以上のスケールで愛情が返って来る。自分は本当に果報者だと感じる時だった。
「今はなかなかこういう時間が持てないけどな。でも触れ合う時は全力で求めてくれるから、俺はやっぱり嬉しい」
「武……ありがとうございます……」
「おい…何で泣くんだ?」
そう問われても夕麿自身がわからない。胸が一杯で熱い。
「嬉しいのです…私はとても幸せです、武」
「それは俺の台詞だ」
「我が君、あなたもそう思ってくださるのですね」
二人で同じ時間を共有し同じ想いを抱く幸せは、何と温かで優しいのだろうと夕麿は思った。
「俺はお前に気持ちしか返してはやれないから」
「何を仰るやら」
確かに武と結ばれた事で失ったものがないとは言えない。だが今の夕麿にすれば些細ささいなものでしかない。何故なら有り余る程のものが与えられたからだ。何よりも何にも代えがたい最愛の存在をこうして、この腕に抱いていられるのだから……何を惜しむ必要があるだろうか!
「愛しています、武。だからどうか、身体を大切にしてください」
武は脳の治療法が見付からない限りは、今の雫くらいの年齢までしか生きられないだろうと言われている。繰り返される発作は彼の身体にも脳にも、大きな負荷が掛かってダメージを与え続けているのだ。そしてこの事は武にも知らされている。小夜子が必死になって治療法を探し求め続けているのも、少しでも息子に長く生きて欲しいと願うからだ。
武の状態については小学生である希以外は知らされている。ただ皆、武の体調は心配し気遣うが、必要以上に神経質にならないようにはしていた。慰めも涙も武は必要とはしてはいない。側に寄り添う事こそが必要だと夕麿は思っていた。できるだけ彼の心身への負担を軽減する努力をする。
こうして触れ合っている時間が幸せを運んで来るのだから。できればすべての憂いを払って武には笑顔でいて欲しいと夕麿は、ひたすらに八百万の神々に祈り続けている。その為に自分の寿命が縮んだとしても、何を後悔する理由があるだろうか。できるならば自分の寿命と武の寿命を足し合わせて、1分1秒に至るまで半分にしたい。そうすれば愛する人と共に黄泉路へ旅立てるのに。
「なあ、夕麿」
「なんですか」
「ありがとう……そして、ごめんな」
何にたいして彼が謝罪を口にするのかはわかっている。夕麿はたまらなく悲しくなって、武の華奢な身体を抱き締めた。
「謝らないでください。必ず何とかなります。信じて待ちましょう」
「うん」
人生が思う通りになる人間など存在しないとわかってはいるが、それでも夕麿は歯痒くも悔しくも思っていた。武を愛しているからこそ。
翌朝、夕麿が目を覚ましたのは午前9時を少し過ぎた頃だった。日頃が5~6時起床であるから、ゆっくりと眠ったと言える。ゆっくりと身を起こして枕元に用意しておいた服に着替え、隣の部屋の電話で朝食を依頼する。通常の旅館やホテルでこんなわがままは通用しないが、少数組の客しか取らないところだからこそ、そして武と夕麿だからも含めて通る事だった。
「武、朝食が来ますから起きてください」
武を起こして朝食を二人で食べる……他愛無い会話で笑い、怒り、また笑う。在り来たりの時間がとても幸せに感じられて思わず笑みを漏らすと、武もまた柔らかな笑みで応えてくれる。同じ気持ちだと感じてまた、幸せを噛み締める夕麿だった。
「今日はどうするんだ?」
「それなのですが……1~2時間、ピアノを弾きに行きたいのですが」
「ああ、本館のラウンジにあったな。1~2時間と言わずに好きなだけ弾いて来いよ」
日頃は忙しい為に思うように練習が出来てはいない事実を、武が一番知っているのはわかってはいた。
「あなたはどうするのですか?」
「俺?そうだな…ゆっくりしたいからここにいるよ」
ゆっくりしたいは本当だろうがそれ以上に夕麿が、快くピアノが弾けるようにと思ってくれているのだと感じた。自分がいたら夕麿が気を遣うと考えてくれたのだと。
「ありがとうございます、お言葉に甘えさせていただきます」
「ああ、思う存分どうぞ」
向けられる笑顔が眩しいほど綺麗で、彼の気持ちに嘘も曇りもないのだろう。
「ん?俺の顔に何か付いてる?」
「いいえ、何も。ただ、愛しいなぁと思って」
「!?」
夕麿の言葉に武は音がしそうな勢いで一気に真っ赤になった。誰かがいたらうんざりした顔をするだろうが、今は二人きりだ。思う存分、甘い言葉を口に出来る。
「お布団の中で寮にいた頃を思い出したのは、あなたがそのままで嬉しかったというのもあります」
「成長していなくて悪かったな」
「まさか。そういう意味ではありませんよ、武。何も知らない状態で今の立場になってしまったあなたは、今日まで本当に頑張って来たと、私は感心していますし感動すら覚えます。
でも腕の中で私だけのあなたでいてくださる時の姿は、今も少しも変わっていないと思って喜ばしかったのです。
出来得るならばこの先も、あなたはあなたでいてくださいね、武」
敢えて『我が君』とは呼ばなかった。武を一人の人間として、最愛の伴侶であると心から想っているから。
万感の想いを込めて微笑みかけると、武は赤くなったままの顔でしっかりと頷いた。
ちょうど旅館側はチェックアウトの時間帯だったが、夕麿のピアノの使用は前以って連絡してあった為、ラウンジを快く解放してくれた。持って来た楽譜のコピーを広げて弾き始めると、警護に就いていた康孝が楽譜を捲ってくれたので、本当に心行くまで演奏する時間を楽しめた。
ホッと息を吐いて立ち上がり身体を伸ばしていると、女将がお茶を近くのテーブルに置いて下がった。
「千種君、お茶にしましょう」
「はい、夕麿さま」
穏やかな気性の彼が警察官という職業を選択したと知った時には、夕麿は心底驚いてしまった記憶がある。武の代の風紀委員長であった久留島 成美がそうなったのは、当然と言えば当然だったとは思う。彼は貴之に憧れていたし、本質的な部分で似た性格だと思えるからだ。
ただ武の為に……という彼らの想いの強さには、本気で頭を下げたく思ってしまう。彼らにどう報えば良いのだろうかと思う。
「千種君たちには心から感謝しています。もしも警護にあたる人が見知らぬ顔ぶればかりだった場合、武さまは今ほど皆さんを信用して振る舞われる事はなかったのではないかと思えるのです」
「僕たちはただ自分が一番ヤりたい事を選んだだけです。ただ武さまのお力を少しでもお支えする事が叶うならばと。ですが夕麿さまにそのように言っていただけるのは、とても嬉しく思います。
僕も感謝しています。僕のセクシャリティは理解してくださる方がほとんどおりません。人嫌いに勘違いされたり、そもそもがあり得ないと思われてしまうのです。でも武さまは僕の話を聞いてくださり私生活は、一人でも理解がある皆さまに囲まれて過ごせる場所をくださいました」
アンチである事の苦労までは夕麿にも武にもわからない。だがセクシャリティで区別されたり、差別されてよい人間などいないのだ。
「武さまは今はさほど目立たれなくなられましたが、人見知りなされるお方でいらっしゃいますのは、同級生としてよく存じ上げております。僕たちがお側にお付きする事で少しでも、ご緊張が緩和なされますならば有り難い事です」
自分たちが一番結束が固かったと今日まで信じていたが、もしかしたら武たちのほうが……次代の会長であった御厨 敦紀も含めた形で、結束が非常に強かったのではないかと夕麿は今更ながら感じた。
武は多くの人々によって支えられている。しかし同時に夕麿もそうだという事なのだ。問題はまだまだ山積してはいる。それでもなお自分たちはなんと果報者であろうかと思う。様々な事態を乗り越えて此処にいる事は幸せなのだと。
「私たちは本当に果報者ですね。八百万の神々に感謝しなければなりませんね」
夕麿の好みを理解した上で淹れられた香り高い紅茶を口にして、今まで当たり前にして生きて来た事の真実が、多くの人々に支えられて成り立っているのだと実感していた。
多分……武は、このような事を実感して過ごして来たのだろう。だからこそ自分たちが当たり前に思って来た事に、細やかな気遣いを配る事を忘れたりしないのだ。何かをされる事、配慮される事が当たり前の生活しかして来なかった。疑問に思った事はなかった。ゆえに武が時折、嫌がったり気にしたりする気持ちが、実は夕麿にはよくわかってはいなかったのだ。
だが当たり前は当たり前ではなく、身分という立場に与えられた特権でしかない。紫霄の中での長い生活で身に付いた習慣は、一般社会では通用しないもの。武はそれを知っているからこそ他の誰よりも、支えられている事の重さと大切さを実感して来たのだろう。
何と自分は未熟で思慮も経験も足らないのだろうか……と、認識を新たにした。
「そろそろ武さまのお側に戻らないと」
紅茶を飲み干してカップをソーサーに静かに置いて立ち上がると、既に飲み終えていた康孝も立ち上がった。
自分たちの離れ家に向かう道に咲く花々が、甘く薫っていた。
離れ家に帰り着くと武は、逸見 拓真と濡れ縁でお茶をして話をしていた。
「ただいま戻りました」
夕麿の声に振り返った顔は満面の笑みだ。
「お帰り。早いな、もう良いのか?」
朝食を摂ってすぐに出たので、既に昼食の時間が近い。
「もう……って、お昼ですよ、武」
「え?あれ?」
どうやらおしゃべりに夢中だったらしく、時間の経過を忘れていたらしい。
「ところで女将からこれを預かって来たのですが」
夕麿はそういうと康孝から藤の籠を受け取って渡した。
「ああ、ありがとう。良いもの見付けたんだ。お前が絶対に喜ぶと思ってさ」
得意げに言われても何が何だかわからない。
「良いからこれ履いて」
武が差し出したのは宿が用意した、庭へ出る為の下駄だ。当然ながら武専用の物と夕麿専用の物が用意されていた。
「庭にでるのですか?」
「うん。出たらわかるから」
上機嫌で先に庭に降りた武を見て、わからないまま自分も庭に出た。夕麿の手を取って引っ張って奥へと誘う。
「ほら、ここ」
「ここ?」
「よく見てみろよ」
言われて辺りを見回すが、夕麿には室内から眺めた景色と何が違うのかわからない。
「違う、違う、下だよ、地面!」
「地面?」
そう言われて視線を移してじっと見詰めると、そこには夕麿が初めて見る光景があった。
「土筆!」
断崖から流れ落ちて出来た小さな流れの周囲に、土筆つくしがそこここに愛らしい姿を並べていた。
「こっちから向こうまでずっと生えてるんだ。宿側に採っても良いかと聞いたら、全部採っちゃって良いって言うから」
お前が喜ぶと思って、と武が言葉を続けた。
「ありがとうございます……嬉しいです」
武の為にと企画した旅行だが、楽しい事を発見するのはいつも彼だ。夕麿では思い付かない事、見付けられないものを難なく示してくれる。
「大袈裟だな、ただの土筆だぞ?」
明後日の方向を見て答えた武が、照れているらしいのはわかる。胸が熱くて思わず背後から抱き締め、首や頬に口付けた。
「おっ、お前なあ……」
康孝と拓真は顔を見合わせてから、振り返った夕麿に頭を下げて立ち去った。庭と外の道を隔てる竹垣の向こう側で、警護に就く為だろうと思われた。
「もう私たちだけですよ」
真っ赤になった耳に囁くと小さな声をあげて身悶えする。昨夜の久し振りの濃厚な時間を過ごした余韻が、未だ彼の身体の奥底で燻くすぶっているらしい。
「ダメ……土筆を……」
昼食は本館のレストランに連絡が来次第、集まって摂る約束になっている。採った土筆をその時に持って行って、調理して夕食にだしてもらうつもりでいるらしい。
篭の中に入っていた軍手を着けて、武に誘われるままに土筆へと手を伸ばした。本当は素手でも良かったのだが、指先に怪我でも負ったらと武が気にするので。
「根元からこう……」
すぐ横で武が摘むのを見て笑顔で頷き、そっと力を入れて摘み取った。
「絹はあの時、こうして一つ一つ私の為に摘んでくれたのですね。母子共に貴族に乳母として仕えて、土に触れた事もなかった筈なのに」
「そうだな。何かの本で乳母の愛情は母親が我が子に掛ける愛情よりも、強くて深いものだと読んだ事がある。絹子さんはそれこそ結婚もしていないから、生まれたばかりのお前を大切にしたいって感じたんだろう。
それって凄く有り難い事だよな」
「そう…なのですね」
考えた事がなかった。そう思って見上げた空は青く美しくて、何だか目に染み入るようだ。何気ない会話に胸が温かくなる。
「昔の人は凄いですね、食用になるかどうかを一つ一つ調べて行ったのでしょうか」
「だと思う。茸でも魚でも貝でも、毒があるものはたくさんあるからな」
「そうですね。薬草にしても試して記して、分類系統化して記録して……気の遠くなるような歳月と人の数が必要だったのでしょう。お蔭で私たちはこうして野から摘んで、食べる事が出来るのですから」
「うん、俺たちは感謝しなきゃならないだろう。
で、毒で思い出したんだが」
「何をですか?」
「土筆にも一応、毒があるらしい。だけどもの凄く少量で食べても、害が出るのはまずないんだってさ」
武は時々、夕麿が考えもしない方面の知識がある。小夜子と二人だけの生活をそれとなく窺わせるが、敢えて指摘する事も詳しく知ろうとも思った事はなかった。
「武、それ、絹に言わないでくださいね」
「ん?ああ、大事な夕麿さまに毒食べさせたって、卒倒しそうだな」
そう言って武はクスクスと笑う。
「冗談ではなく、本当にお詫びだと言って出家でもしかねませんから」
「それは困るなあ」
天を仰いでそう言って、武はまた楽しげに笑った。今日の武はずっと笑顔を見せている。夕麿はそれが嬉しかった。
「「あ」」
同時に同じ土筆に手を伸ばして指先が触れ合った。声をあげてから顔を見合わせ噴出す。クスクスと笑った後に、どちらからともなく唇が重なった。唇が離れると武が抱き付いて来た。
胸にもたれかかって甘えるように頬を寄せる。
愛しくて……可愛い。
「夕麿、俺、今、もの凄く幸せ」
その言葉に胸の奥が暑く切なくなった。
「私もです……武」
土が付着した軍手で触れないように気を付けながら、愛しい人を抱き締められる喜びに幸せを噛み締めた。
楽しい時間は瞬く間に過ぎ去ってしまう。
武も夕麿も良く笑い、よく食べた。二人で過ごす時間も、皆と過ごす時間も楽しかった。
部屋に特別に用意された昼食を終わり、後は荷物を片付けて帰宅の徒に着くだけだった。
「……ちょうど良い機会だ。夕麿、話がある」
武の真剣な口調に夕麿も、居合わせた他の者も姿勢を正した。
「これから先には……今まで以上の困難が来る可能性があるだろう」
「武……それは……」
夕麿の瞳が揺れる。
「何もなければそれで良い。だがな、懸念すべき事がないわけではない。
だからこれから俺が言う事を覚えていて欲しい」
「はい」
全員が息を呑んだ。武の言う懸念にそれぞれが気が付いた様子だった。だが不吉な言葉を紡ぐ事は敢えて避けた。
「俺は何があっても、どこへ行っても、必ずお前のところへ戻る。そう約束する。だからその時に俺が何を言って何をしても、それがお前の望みから遠く離れていても、どうか信じて待っていて欲しい」
その時が本当に訪れた時にはもしかしたら今日のここでの話を、夕麿は忘れてしまっているかもしれないと思っていた。懸念が何かはわかってはいるだろう。だが今は懸念は懸念でしかない。それはわかっている。
「お誓いいたします、我が君。ですからどうかご無理だけはおやめください」
夕麿の嘆願にあえて返事をしない。武は既に雫にプロファイルを依頼して答えを得ている。ゆえに夕麿の望みを叶える事は難しい可能性があった。
「我が君……お願いです」
「善処を心掛ける。
時間を取らせた。荷物を片付けてくれ」
これ以上話す気はないと話題を帰ると夕麿は、深く溜息を吐いて黙った。
後々にこの約束が二人を苦しめる事になる。
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