蓬莱皇国物語 最終章〜REMEMBER ME

翡翠

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真心と思惑

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 ゆっくりとだが武たちの引っ越しは進んでいた。家具や絨毯じゅうたん、カーテン、パーテーション等各部屋の物を選ばなくてはならない。

 また武が使用する物、夕麿が使用する物、それぞれに御印を刻印する必要がある。薫と葵の物は後回しにしても、生半可な分量でもない。既に発注済みのものもあるが、細々したものはまだまだそこにまで至っていない。

 本来ならばこれは妃の立場にある夕麿の役目だった。だが彼は最近は不在がちで、代わりに雅久や周が行っている。時折、雫や久方も加わってもいる。

 武はこの状況について何も言わなかった。夕麿に身内の繋がりは必要であると思えるからだ。響たちの目論見も見当はついてはいるが、祖父帝が崩御した今、先がどうなるのかは正直わからない。最悪の場合を考えて、彼らがいざという時には夕麿を守ってくれるはずだ。それならば任せておくのが一番だとも考えていた。

「でもな~あの人、俺のこと嫌いだよな」

 皇家の一人であるからそれなりの礼儀は取る。だが、挨拶は礼に反しない程度のおざなり。会話はなし。夕麿に対する態度と真逆である、わかりやす過ぎるほどに。

 最近は側にずっと付いている雫が苛立っているのがわかる。周や朔耶も不快そうにしている。

 だが夕麿はこの状況が把握できてはいないように見える。彼らしくはない……とは思うが、その方が良いのかもしれないととも考えていた。

 現在、武は警備面から考慮して、早々に整えられた宮御在所の自室で生活をしている。キングサイズのベッドに一人寝だ。

 夕麿はというとピアノの移動がまだなのもあって、未だに護院家のホテルの最上階で過ごしている。昼間に時折顔を見せるが、その時は大抵、響たちが付き従うように一緒に来る。そして清方や高子たちと合流して、どこかへと姿を消す。

 確かにここはまだ、プライベートな空間のみが設えられただけで、あとはほぼ空っぽだ。周たちは隣接する建物に半ば引っ越し済である。また、警護のこともあって雫は完全に移って来ており、護院家の何人かもここの住人になっている。

 今、雅久たちが取り掛かっているのは、一階の謁見のための部屋をどう設えるかで、久方や雫も加わって連日頭を突き合わせている。

 その隣室である談話室はシンプルにほぼ整ったらしい。



 外の気温に合わせて上着を着込む。ブーツを履いてリビングから外に出るドアノブに手をかけた時だった、背後の廊下側のドアが開く音がした。振り返ると夕麿が響たちを連れて入って来るところだった。

 しばし視線が絡んで沈黙が場の時を止める。

「おかえり」

 ドアノブを握ったまま伏し目がちに言った。今のところ夕麿はここで生活をしていない。彼の荷物も未だ御園生邸に残されたままだ。当分必要な着替えなどは新たに買い入れたと聞いていた。現在は完全に別居状態だ。ゆえに『おかえり』はおかしいのかもしれない。だが武は他に言葉が思いつかなかったのだ。

「ただいま戻りました」

 そう返した夕麿の顔は幾分ホッとしたように見えた。

 彼の背後、開いたドアの前に立つ響たちは武に挨拶もしない。それでも武も夕麿も彼らを部屋に招き入れる言葉をかけないので、廊下に所在なく立っていることしかできないのが、さらに彼らを不機嫌にさせているようだった。

 だがここは武と夕麿の完全なプライベートスペースである。側近たちでさえもここに入るには許可を求める。皇家の人間には貴族でさえ有している『人権』がない。自らの進退ですら然るべき機関に許可を求めなければならない。公人としての立場の厳しさは政治家等の比ではない。

 だからこそプライベートな空間は側近といえども不可侵にするのだ。これは何かに決まりとして記載されたものではないが、暗黙の了解として長年にわたり守られて来たものである。

 さすがに武をほぼ無視している状態の響であっても、貴族の一員としてこのルールだけは破ることはできずにいる様子である。

「裏に出るのですか?」

 背後の響たちの存在を忘れたかのように、夕麿は防寒着姿の武に微笑みを浮かべて言った。

「周さんがさ、体力を回復するために毎日欠かさず歩けって指示くれたから、裏を散歩がてら毎日歩き回ることにしているんだ。出る前に警護には連絡を入れるから、要所要所の安全の確認はされてるよ」

 響がこちらを冷めた目で見つめている。彼の興味は夕麿にしかないのだろう。これまで武の存在を『よくないもの』、『本来はいてならないもの』として見ている貴族には数多く会った。それこそ身分や立場の上下関係なく。

 万民に好かれる存在はいない。万民に嫌われる存在もいない。多数決の結果でそのように形容されることはあってもだ。

 ゆえに武はそれを至極当たり前のことだと受け入れて来た。誰よりも自分という存在が、皇家にも貴族たちにもイレギュラーなのは理解していたからだ。そういう人たちとはでき得る限り、接触をしない方向でいればいい。これまではそうして来た。

「私も行って良いですか?」

 にこやかに夕麿が言う。その背後で響が首を振って睨んでくる。

 そんなに武と夕麿が一緒にいるのが気に入らないのか?

「あっちはいいのか?」

 軽く顎で夕麿の背後を示して問う。すると夕麿は少しいたずらっ子のようね笑みを浮かべて、見上げていた武の顔にスッと顔を近付けてついばむように唇を重ねた。そして離れた次の瞬間、

「あなた以外に優先しなければならない相手など存在しませんよ」

 とそっと囁いた。次いでチラリと清方に視線を送る。すると彼は響の背後で軽く頷いた。

 清方が響に何事か話しかけ、彼は渋々頷いている。それからもう一度、夕麿を振り返ったが、ちょうど貴之が差し出したコートに袖を通すところで、響の視線には気が付かない様だった。

 そこで武へ視線を向けて不満と不快を込めた視線を向けてから、清方の方へと向き直った。

 夕麿は武に再び笑顔を向けながら、雅久が整えた靴に足を入れた。

「さあ、行きましょう」

 先に出た貴之の後ろを寄り添って歩いて行く。ここ数ヶ月はなかったことだった。

 リビングのテラスから地面に足を下ろすと、昨夜から今朝方の冷え込みで道にかかるように植えられた芝生が、サクサクザクザクと音を立てる。どうやら霜柱が立っている様子だ。

「霜柱踏むの何だか久しぶりだな」

 少し俯き加減に笑いながら武が言った。

「そうですね、私たちの子供の頃にはあった気がします」

 それは武にしても夕麿にしても、稚すぎる頃の遠い記憶だった。

 

 何かがおかしい……と気が付いたから、響のグダグダとした引き止めを無視して戻ったのだ、武の元に。

 夕麿が自分を巡る周囲の違和感に気付いたのは些細ささいなことがきっかけだった。

 彼は最近、清方や高子と共に出かけることが増えた。ここのところ警護官として貴之が付く。行き先は大体が響の招待によるものだった。それについて誰かが何か意見を言うことは一切ない。

 この『一切ない』が夕麿の首を傾げさせた。何故ならば治療が取り敢えず終了して、現在は様子見状態である武を放置しているからだ。いつもならば周か義勝が何かを言って来る。だが今回は何もない。

 ……否、むしろ彼らから避けられている気がする。顔を合わせれば立ち話くらいはする。だがその内容は当たり障りのないものばかりだ。彼らは武の名前すらほぼ口にしない。

 そして今ひとつ気になるのは雫だった。清方とわずかながら間を取っているように見えるのだ。それ自体を清方も高子も気が付いてはいない様子だ。

 雫と清方は紫霄時代の別れでできてしまった『傷』と『溝』が、完治することはないように夕麿はずっと感じていた。数年前、自分の治療ゆえに二人の間を拗らせてしまったのは、夕麿にすれは申し訳なく思う事実だ。

 それでも二人が互いを想い合う気持ちは強く純粋で、だからこそ傷も溝も包み込んでこの十年余を過ごして来ていたのではなかったのだろうか。強く惹かれ合うからこそ、『傷』と『溝』は克明にむき出しになり過敏になる。

 ならば派手に喧嘩でもすればもう少し何かなりそうにも見えるが、過去のことが自分が原因であると思う雫は一歩引いてしまう部分がある。清方は言うと時折は拗ねたり嫉妬するたいどがあるらしいことは、彼をよく知る周から聞いた覚えがあった。

 響の目的は何か……と考えてみれば、自分を彼らの有利な立場に置くことだろうと気付く。それにはおそらくは武が邪魔なのだろう。彼らからすれば武は夕麿を縛る『枷』でしかないのだろう。

 愚かなことだと夕麿は思う。今の夕麿の立場は武がいてこそで、彼がいなかったたら女系の皇家の血を引く、摂関貴族の一員に過ぎない。そんな人間は他にも存在している。彼らが今の夕麿に見出している価値が消えてなくなってしまうのに気付かないのは愚かすぎる。

 何故、誰も何も言わないのか。考えるまでもなく理由は一つしかない。武の判断だろう。先帝崩御から間もなく一ヶ月になる。年末ではあるが慌ただしさはなく皇国中が喪に服す状態である。年が明けてもこの状態は続く。であるからこそ武の今の気持ちが気になる。

 離れて生活している間に、仲間内の雰囲気が変化しているのを今日、肌でハッキリと感じた。

 自分がここにいない間に様々なことが進んでいる。その中には当然ながら自分がしなければならないことが、多数含まれているのも理解はしている。

 御園生邸からの移転も、武のものは大きなものが含まれているが、夕麿のものはほとんどが書籍である。

 衣類は……希がクローゼットに潜んでいたのを知ってから、身に着けるどころか触れるのも見るのも嫌になった。だから武にもこの際に古いものは処分して、一新するように勧めた。

「デザインに流行もありますし、こちらにお移りになられたのを機会に、お会いになられたいと申し出られる方も増えるでしょう。華美にする必要はございませんが、御園生の子息としての装いは相応しいとは思われないかもしれません」

 と久方が助言してくれたので納得した様子だった。

 また、貴之が不要になった衣類は廃棄されるのではなく、一度縫製を解かれて再利用されるのだと言ったのもあるだろう。

 なので小物はクローゼットとは別の場所に入れてあったので、それは義勝や雅久たちが自分たちの荷物と一緒に運び入れた。

 家具等の調度品はこちらで揃える予定であるので、特に思い入れ深いとの以外はそのまま置いていくことになっている。

 和装や舞楽の衣装や小物が多い雅久が、一番大変である。もっと大変なはずの敦紀と貴之は早々に移転していて、今は敦紀が創作中なため、夕麿の警護以外は皆の荷運びを手伝っている。

 ただ一つだけ気になっていることがある。武がここに移って来てから何度も足を運んでいるが、先日運ばれて来た機織り機や組紐の道具は作業用の部屋で梱包を解かれることもなく埃をかぶっている。制作にに取り掛かる様子がない。

 それだけではなかった。折角移した身の回りの物を整理して減らしている感がある。衣類は必要不可欠であるから新たに買い入れてはいるものの、それ以外のものを何か購入した形跡はない。彼の身の回りのものが明らかに減っている。

 ただ垣間見た武の今の生活は穏やかでゆったりと時間が過ぎている気がする。こうして周の指示通りに毎日決まったコースを散歩して、周囲が促すままに規則正しい暮らしをおくっているらしい。

「寒くないですか?」

 抱き寄せて問いかけると少し見を預けて来る。

「うん、大丈夫。そこは周さんと義勝兄さんがうるさいからさ」

 軽く片目を瞑っておかしそうに笑う。

 そろそろ義勝たちを『兄』と呼ぶのをやめさせなければならないが、まだまだ不安定だろうと予測できる彼に無理強いはしたくない。

「心配してくれてるのはわかってるんだけど、最近は皆が口煩い」

 ちゃんと言うことは聞いてるのに……と呟いた。

「私が不在がちでしたので、皆が代わってくれていたのでしょう」

「お前は口煩くはないだろうが」

「それはあなたの贔屓目ひいきめですよ」

 夕麿自身が武に対して口煩い自覚があった。多分、最初の頃にいろいろなことを教えたが、時折、反発されたことが関係しているのかもしれない。武にとっては夕麿はそういうものだと思っているのかもしれない。

 同時にこれから武の立場がどのようになっていくのかが、今のところは新帝の近習の一人になった久方でさえわからないままだ。新帝は武の存在をどのように見て、これからを考えているのだろうか。彼の生母とその実家である九條家は武の敵であることがわかっている。わかっていてもこちら側には打つ手はない。ただ静かに現状を見守って凶事を手にした神がこちらを振り彼らないように祈ることしかできない。危機に備える事すら相手の手段も、誰が敵で味方なのかがわからなくなる状態では、隙間だらけで不安定であるのもわかってはいる。

 だからこそ夕麿は響とその背後にいる一条家を味方に引き入れたかった。近衛家が高子たちを通じてこちらに味方してくれるのを望んだ。護院家ほどではなくてもいざという時の力になってくれればよかったのだ。

 だが……彼らにそのつもりはない様子だ。最初から彼らは武がどのような立場に追い込まれようとも、夕麿と引き剝がして見捨てるつもりなのだろう。だから武に礼を尽くして近付く気は欠片もないのだ。

 夕麿は自分の胸に強く言い聞かせた。『選択を間違えるな。大切なものは何かを見失ってはいけない』と。

「夕麿さま」

 背後で気配を絶ってついて来ていた貴之が不意に声をかけて来た。

「どうしました?」

 彼はこういう時は二人の邪魔をしない。そのために気配さえ消して警護に就き従う。

「ベヒシュタインのメンテナンスが終了したそうです、本日夕刻にこちらへ搬入可能だそうです。先方が夕麿さまの許可を求めて来ております」

 先に蛍の宮から相続したのをメンテに出し終了したのを、その時に滞在していたホテルのペントハウスに搬入していた。続いて自分の物をメンテに出したのはもちろん必要があったからだが、同時に御園生邸から無事に何の揉め事もなく移動したかったのもあった。何しろ予定よりも数ヶ月早く出て来たのだ。

「もちろん、許可します。それと……誰かに私の荷物をペントハウスからこちらへ移す手配を」

「承知いたしました」

 ピアノがここにないからペントハウスにとどまっていた。でもそれも終わりだ。

「荷物?」

「ここにピアノがあればあちらに滞在する理由はありませんから」

 笑顔をで答えると武は小さく頷いて微笑んだ。

 この前の不調を板倉 正巳のせいにした分、少し距離をとる必要もあった。もちろん、彼との再会にダメージがなかったわけではない。だがそれは武がいれば解消できるほどの小さなものではあった。

 けれどもあの不調の本当の原因を今は武には話せない。話したくはないし、まだ時期ではないような気がするのだ。

 これには清方や雫、義勝たちも賛成だった。周に至っては希にギターを教えていたこともあって、酷くショックを受けている様子だった。

 結局は武がまだ幼かった希をずっと警戒し、牽制し続けてきたのが正解だったということだ。

 頭の中で素早く思考を巡らせながらも、武との他愛ない話を楽しむ。今はこの笑顔を壊したくはない。この先の状況が見えないからこそ、穏やかな時間を与えなければならない。

 サクサクと霜柱を踏む音が響く。そろそろ日が高くなるから、溶けてしまうのも時間の問題だろう。

 上がって下って再び上がるとそこは、『花散里』と呼ばれる一本桜、巨大な枝垂桜の老木の側に出る。桜は根を踏まれることを嫌うため、根を中心に広く柵が造られてはいるが、枝は大きく張り出して幾本もの細い枝が垂れている。

「咲いているのを見るのは楽しみだけど、今回は花宴はできないから少しだけ残念。お祖父さまも桜は好きだっておっしゃってたのにな」

 細い枝を手のひらに乗せて呟く。

「きっとどこかでご覧ですよ」

 先帝の武への情を見れば、彼の父宮や皇太后への愛情がわかる。二人が早逝しなければ、武の人生ももっと違ったものであっただろう。その場合は自分はこうして彼の傍らに立つことはできなかったかもしれない。

 人生に『もしも』はない。

 そう言ったのは誰だっただろう?時の流れは万人に平等で、遡ってやり直すことは誰もできない。それはわかりきったことだ。

「宴は無理ですが、追悼の会をしましょう。先帝陛下は真に賢帝であらしゃいました。その御代に感謝を捧げましょう」

 新帝の即位といや榮を祈る場にも……と言葉を紡いだ。

 そろそろ宮内省からの人員が配置され始めている。その中にここの動向を探る者もいるはずだ。何を排除の理由に使われるかわかったものではない。

 今、貴之が警戒をしていない様子なので、誰かがいる心配はないとは思う。それでも念には念を入れて……は無駄な行動ではないはずだ。

「そうだな」

 まだまだ先帝を失った痛みと悲しみからは解放されてはいない様子だが、ひと頃よりは随分落ち着いたのではないだろうか。ペントハウスにまだいた頃の武はずっと沈み込んだままだった。慰めの言葉も空しく響くのがわかった。むしろ武は夕麿に気を遣ってしまう。慰められることに甘えてしまえないのだ。

「ごめん」

 腕の中でそう呟く姿がいたたまれなくなって、周たち医師が御在所の医療設備が整ったから移るように要請して来た時、自分はピアノのあるここへ残ることを告げたのだ。ペントハウスと御在所は車で片道40~50分かかる。突発的に弾きたくなる夕麿の性格をわかっている武は、このわがままを笑顔で許してくれた。

 今の会話から鑑みるに以前よりは落ち着いた様に感じられた。タイミングよくベヒシュタインのメンテナンスが終わったのも、きっと天の神々に並んだ先帝の思し召しであろうと夕麿は思った。

 桜の側に設えられた四阿あずまやで休憩した後、再び来た道を取って返して歩いて行く。年末の凍れる空気は空をどこまでも蒼く澄ませていた。


 リビングに戻ると雅久と周が待っていた。

「温かいミルクです」

 雅久が差し出したのはホットミルクにイタリアのシチリア島産のオレンジ蜂蜜を垂らしたものだ。この蜂蜜は濃厚で半固形のようになっている。純粋なシチリア産は蜂蜜としては高価な部類に入るが、その芳醇な香りや優しい甘みを武は好んでいた。

「お飲みになられましたら、いつものように横になられてください」

 ゆっくり歩いたといっても周と雫が決めたコースはかなりのアップダウンが含まれている。今日のように霜柱ができる低温では如何に着重ねようとも、じわじわと身体は冷えているのがわかっているし、呼吸で気管や肺も冷えている。身体を休めるのと温める両方の意味で、戻った後はしばらくベッドで横になる指示を出していた。

 もちろん周は血圧や体温、心拍などに異常が見られないかを細かくきちんとチェックして来た。確かに治療は終わったが、まだまだ未知数の薬剤が投与されている。副作用等がいつ出るかもわからない。

 治療を実験体として受けた正巳にはそのような症状はなかったというし、今もその兆しは見えてはいない。何か不調があったならば知らせる様にとは言ってある。もう一人の患者である本庄ほんじょう 直也なおやの方も症状の改善が見られ、副作用のようなものは見受けられない。彼の治療が武よりも長くかかっているのは、それだけ例の薬物が長期間に亘って投与されていて症状が重いことが関係している。

 夕麿も雅久がいれた紅茶を口にする。優しげな眼差しが武を見つめていた。

「今日は少しだけ寒かった。昨日より気温低い?」

 暖かな室内で冷たい飲み物を飲みながら武が問いかけた。

「そうですねえ……二三度低いかと」

 周の返事に「そっか」と答えた。

「もう少し上着を考えた方がよかったでしょうか」

 雅久が心配そうな声を上げる。

「ん?いや、ちょっと冷えるな~程度だから大丈夫。それにあれ以上着込んだら転んだ時に転げちゃうよ」

 その言葉に夕麿が吹き出した。どうやら着ぶくれした武が、転がる姿を想像したらしい。

「お前……想像しただろ⁉」

 ムキになった武の言葉にさらに夕麿が笑う。

「今夜、覚えてろよ」

 ボソッと呟いた言葉は全員の耳に聞こえていた。

「……」

 紅潮した頬を隠すように夕麿が俯く。

 ここにいる中で響だけが武の言葉が、何を指しているのかがわからない。

 武はそれを捨て台詞にして隣の寝室へ姿を消した。

 響以外が苦笑したり、忍び笑いをする。夕麿は首まで真っ赤になって困っている。

 見慣れた光景に一同がホッと胸を撫で下ろした瞬間でもあった。

 もちろん夕麿は彼らのその表情を見逃さなかった。自分が周囲にどれだけ迷惑をかけたか、今更ながら申し訳なく思った。

 

 そして……一人仲間はずれにされた響の怒りは、他の誰でもなく武へ向かっていた。

 やっと夕麿をこちらへ引き寄せたと思っていたのに、武と顔を合わせた途端に取り戻されてしまった……と感じていたからだ。

 その結果、夕食前のすれ違い様に武にだけに聞こえるように言った。

「抱かれるだけしかできないくせに」

 と。

 この言葉に一瞬驚いた顔をした武は、次の瞬間に不敵な笑みを響に返して離れて行った。

 それはこれまで響が見たことのない、武の『男の顔』だった。
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