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26 嫌がらせ
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その朝、商会は妙な静けさに包まれていた。
普段なら笑い声が飛び交うはずの事務室には、言葉にしにくい緊張が漂っている。アリシアが出勤すると、数人の同僚が彼女の顔を見てから、目を逸らすようにして去っていった。
(……何か、おかしい)
そう思ったのも束の間だった。
「アリシアさん。会長が呼んでいます」
声をかけてきたのは、会長秘書のスザンヌだった。
その表情に、いつもの柔らかさはなかった。
アリシアは胸の奥が冷たくなるのを感じながら、静かに頷いた。
イーサン会長の部屋に入った瞬間、重い空気が肌を刺すように感じられた。
会長は椅子に深く腰かけたまま、手元の書類を見ていたが、アリシアが入ってきたのを確認すると、それを机の上に伏せた。
「アリシア。まずは落ち着いて聞いてほしい」
その言葉が、心のどこかをざわつかせた。イーサンは伏せていた紙を差し出した。そこには、タイプされた文字と、乱れた筆跡の追記。
【ふしだらな事務員を解雇しろ。でなければ、貴商会の信用は地に落ちる。取引先が一つ、また一つと失われるだろう】
【売女アリシア。男に媚びて商会に居座っている。あの女のせいで、まともな商談も台無しだ】
瞬間、手のひらから血の気が引いた。
(どうして、こんな……)
「これは今朝届いた。君個人を狙ったものだ。だが、どうにも質が悪い」
イーサンの声は穏やかだが、奥底に怒りを含んでいた。
だが、アリシアはその怒りよりも先に、自分の胸に芽生えた不安に苛まれた。
「わたし、何か……不適切なことを……」
「ない。君が真面目に働いていることは、皆が知っている。もちろん、私もだ」
イーサンは即座に言った。だが、その優しさがかえって胸を締めつける。
「ただ、これは取引先にも送られている可能性がある。念のため、事前に先方には説明しておくつもりだ」
取引先に――。
その言葉に、胃のあたりが重く沈んだ。
(もし、本当に取引が打ち切られたら? わたしのせいで?)
「……申し訳ありません。私のことで商会にご迷惑を……」
かすれた声で口を開くと、イーサンは静かに首を振った。
「謝る必要はない。だが、犯人に心当たりはあるか?」
イーサンの声はあくまで穏やかだったが、アリシアにはそれがかえって苦しく感じられた。
「いえ……私、誰かに恨まれるようなことは……何も……」
声が震えた。
頭の中で記憶を総ざらいする――だが、何も思い当たらない。あえて言うなら、最近ルーカスと過ごす時間が増えたこと。でも、それを咎められるような覚えはない。むしろ、こんな陰湿で冷たい言葉をぶつけられるほど、誰かに何かをした覚えなど、微塵もなかった。
(どうして……誰が、なんのために……?)
わからない。わからないからこそ、怖かった。
背中に冷たい汗が流れる。
「……すみません、ご心配をおかけして……」
アリシアは絞り出すように頭を下げた。
「謝ることじゃない。だが、無理はしないでほしい。何か変わったことがあったら、すぐに知らせてくれ」
イーサンの言葉は優しかった。でも、アリシアの胸を締めつける不安は拭えなかった。
(もし、本当に取引先が減ったら……私のせいで、この商会が……?)
誰もいない廊下に戻ったとき、アリシアはようやく、涙をこぼした。
静かな空間に、ぽたぽたと落ちる雫の音が寂しく響く。
(どうして……)
脳裏に、寮の扉につけられた引っかき傷、壊されていた私物の数々がよみがえる。最初は偶然だと思っていた。思いたかった。でも、今は違う。すべてが、一本の線で繋がっていく――
何もしていないのに。誰も傷つけていないのに。
それでも確かに、“狙われている”。
その冷たく確かな事実だけが、心に鋭く突き刺さる。
自分ではどうにもできない力が、じわじわと生活を侵食していた。見えない誰かの悪意が、背後にぴたりと張りついている気がする。振り返っても、何もいない。それが、いっそう怖かった。
心細さと不安で、足元がふらつく。
このまま誰にも信じてもらえなかったら――
このまま、ひとりで壊れてしまったら――
そんな思いが、胸の奥で、静かに、深く、膨らんでいくのだった。
普段なら笑い声が飛び交うはずの事務室には、言葉にしにくい緊張が漂っている。アリシアが出勤すると、数人の同僚が彼女の顔を見てから、目を逸らすようにして去っていった。
(……何か、おかしい)
そう思ったのも束の間だった。
「アリシアさん。会長が呼んでいます」
声をかけてきたのは、会長秘書のスザンヌだった。
その表情に、いつもの柔らかさはなかった。
アリシアは胸の奥が冷たくなるのを感じながら、静かに頷いた。
イーサン会長の部屋に入った瞬間、重い空気が肌を刺すように感じられた。
会長は椅子に深く腰かけたまま、手元の書類を見ていたが、アリシアが入ってきたのを確認すると、それを机の上に伏せた。
「アリシア。まずは落ち着いて聞いてほしい」
その言葉が、心のどこかをざわつかせた。イーサンは伏せていた紙を差し出した。そこには、タイプされた文字と、乱れた筆跡の追記。
【ふしだらな事務員を解雇しろ。でなければ、貴商会の信用は地に落ちる。取引先が一つ、また一つと失われるだろう】
【売女アリシア。男に媚びて商会に居座っている。あの女のせいで、まともな商談も台無しだ】
瞬間、手のひらから血の気が引いた。
(どうして、こんな……)
「これは今朝届いた。君個人を狙ったものだ。だが、どうにも質が悪い」
イーサンの声は穏やかだが、奥底に怒りを含んでいた。
だが、アリシアはその怒りよりも先に、自分の胸に芽生えた不安に苛まれた。
「わたし、何か……不適切なことを……」
「ない。君が真面目に働いていることは、皆が知っている。もちろん、私もだ」
イーサンは即座に言った。だが、その優しさがかえって胸を締めつける。
「ただ、これは取引先にも送られている可能性がある。念のため、事前に先方には説明しておくつもりだ」
取引先に――。
その言葉に、胃のあたりが重く沈んだ。
(もし、本当に取引が打ち切られたら? わたしのせいで?)
「……申し訳ありません。私のことで商会にご迷惑を……」
かすれた声で口を開くと、イーサンは静かに首を振った。
「謝る必要はない。だが、犯人に心当たりはあるか?」
イーサンの声はあくまで穏やかだったが、アリシアにはそれがかえって苦しく感じられた。
「いえ……私、誰かに恨まれるようなことは……何も……」
声が震えた。
頭の中で記憶を総ざらいする――だが、何も思い当たらない。あえて言うなら、最近ルーカスと過ごす時間が増えたこと。でも、それを咎められるような覚えはない。むしろ、こんな陰湿で冷たい言葉をぶつけられるほど、誰かに何かをした覚えなど、微塵もなかった。
(どうして……誰が、なんのために……?)
わからない。わからないからこそ、怖かった。
背中に冷たい汗が流れる。
「……すみません、ご心配をおかけして……」
アリシアは絞り出すように頭を下げた。
「謝ることじゃない。だが、無理はしないでほしい。何か変わったことがあったら、すぐに知らせてくれ」
イーサンの言葉は優しかった。でも、アリシアの胸を締めつける不安は拭えなかった。
(もし、本当に取引先が減ったら……私のせいで、この商会が……?)
誰もいない廊下に戻ったとき、アリシアはようやく、涙をこぼした。
静かな空間に、ぽたぽたと落ちる雫の音が寂しく響く。
(どうして……)
脳裏に、寮の扉につけられた引っかき傷、壊されていた私物の数々がよみがえる。最初は偶然だと思っていた。思いたかった。でも、今は違う。すべてが、一本の線で繋がっていく――
何もしていないのに。誰も傷つけていないのに。
それでも確かに、“狙われている”。
その冷たく確かな事実だけが、心に鋭く突き刺さる。
自分ではどうにもできない力が、じわじわと生活を侵食していた。見えない誰かの悪意が、背後にぴたりと張りついている気がする。振り返っても、何もいない。それが、いっそう怖かった。
心細さと不安で、足元がふらつく。
このまま誰にも信じてもらえなかったら――
このまま、ひとりで壊れてしまったら――
そんな思いが、胸の奥で、静かに、深く、膨らんでいくのだった。
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