【完結】時計台の約束

とっくり

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38 覚悟

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 馬車がヘイウッド侯爵家の領地に滑り込んだのは、午後も深まった頃だった。
馬の蹄音を聞きつけた使用人たちが顔を上げ、車窓から姿を見せたのは、思いがけない来訪者――サミュエルだった。

屋敷の奥、応接室に現れた彼の姿を認めた瞬間、マーガレットは目を見開いた。

「お兄様……どうして、こちらに?」

サミュエルはすぐに答えず、わずかに呼吸を整えてから、重い声で告げた。

「話がある。……大事な話だ」

その言葉だけで、部屋の空気が張り詰めた。
マーガレットは静かに頷き、扉を閉めるよう指示する。

「……何か、起きたのですね?」

サミュエルは懐から一枚の紙片を取り出したが、それを彼女に渡すことはなかった。

「ルーカスのことだ」

その名が出た瞬間、マーガレットの体が小さく震えた。

「……見つかったのですか?」

希望がにじんだ声だった。ずっと信じて待っていた、その答えを。

サミュエルは目を伏せ、静かに首を横に振る。

「……“事故”に巻き込まれて亡くなった男がいる。容姿、体格、古傷……すべてが一致していた。恐らく、ルーカスに間違いない」

「……!」

一気に部屋の温度が下がったようだった。肺に入った空気すら、重く冷たい。

「けれど……遺体はすぐに何者かによって回収されていた。診療所にも、役所にも届け出はない。“存在を消す”ようにして運び去られていた」

「消す……そんな、こと……」

マーガレットは震える手で口元を覆い、必死に崩れかける自分を堪えていた。

「密偵は後を追ったが、途中で撒かれた。向かったのは港の方角だったそうだ」

「・・・もしかして、生きている可能性は……?」

かすかな希望が、声に混じる。だが――

「可能性は限りなく低い。“事故”とは思えない状況だ。……狙われた、と見るのが自然だ」

言葉の刃が、胸の奥に深く突き刺さる。

その瞬間、マーガレットの脳裏に、ある光景が鮮明に甦る。


 ――春先、ヘイウッド侯爵家の庭園。東屋の白い柱に囲まれた、穏やかな午後。

 ルーカスがスケッチブックを広げ、自分を見つめていた。

 「もう少し、そのまま……はい、そうです。とても美しい」

 そう言って微笑んだ彼の声が、まるで今ここに響いたかのようだった。

 本当は、心臓が飛び出しそうだった。あの深い碧色の瞳に、じっと見つめられながら、貴族令嬢としての気品を保たねばと、必死で表情を繕っていた。

 ――その時間は、確かに幸せだった。

 風に揺れる花の香り、陽だまりのぬくもり、そして何より、ルーカスの視線の優しさ。自分だけを見てくれていた。見つめ合っていた。言葉にこそできなかったけれど、あのとき彼と心が通じた気がした。

「……うそ……」

 首を振る。信じたくない。信じられない。あの人が、死んだなんて。

「うそよ、そんな……っ!」

 とうとう膝が崩れ、椅子にしがみつくようにして座り込む。こらえていた涙が、頬を伝ってこぼれた。

 「違う……ルーカスは、そんな……」

 唇を震わせながら、言葉を絞り出す。その声は、どこか子どものように頼りなかった。
 けれど、次の瞬間、彼女は自らの頬をぴしゃりと叩いた。貴族としての矜持が、哀しみに溺れることを許さなかった。

「……ミハエル様、ですね」

涙に濡れた瞳に、怒りが灯る。

「お前もそう思うか」

「ええ。ルーカスは……私の傍にいたから、ミハエル様にとって邪魔だったんです。私を“所有物”のように求めて、だから……あの人は……!」

その声はかすかに震えていたが、言葉のひとつひとつが鋭利だった。

「……ヤツに動機はある。だが、証拠がなければ動けない。こちらが潰される可能性すらある」

サミュエルの言葉に、マーガレットは唇を噛みしめる。

「……私が、もっと早く拒絶していれば……もっと早く、助けを求めていれば……」

かすれた声。罪悪感と後悔に押し潰されそうな言葉。

「ごめんなさい……私のせいで、ルーカスは……」

サミュエルはそっと肩に手を置いた。

「違う。お前のせいじゃない。悪いのは、ミハエルだ。ヤツは普通じゃない。お前が拒んだところで、あいつの執着は止まらなかっただろう」

マーガレットは兄の胸に顔を預けるようにしながら、こらえきれずに泣いた。
だが、やがて顔を上げる。

「でも、泣いてばかりでは……ルーカスは報われない。彼は巻き込まれて殺された。なら、私が――彼の代わりに、立ち向かわなければ」

その瞳には、確かな意志が宿っていた。

「ミハエル様がどれほど異常で、冷酷で、狂っていたのか――世界に知らしめます。
私の手で、必ず終わらせます。ルーカスの無念を、絶対に無駄にはしません」

サミュエルは、その決意のこもった瞳をじっと見つめ、静かに頷いた。

「……わかった。俺も同じだ。いずれ、奴を追い詰めるときが来る。そのときは、お前も覚悟しておけ」

「……覚悟なら、とっくにできています」

雲の切れ間から、わずかな光が差し込む。
その一条の光が、静かにふたりの誓いを照らしていた。
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