【完結】綺麗なだけじゃ、生きていけない

とっくり

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 ウェルズ劇場の裏手、ひっそりとした非常階段の一角。

 午後の陽射しがレンガの壁に長く影を落とす中、アナベルは金属の段差にそっと腰を下ろした。

 厨房仕事を終えたばかりの指先には、うっすらとスープの香りが染みついている。
 玉ねぎの甘み、鶏のだし、焦げそうになった鍋の縁──ひとつひとつの匂いが、今日一日の慌ただしさを物語っていた。

 腕まくりをした袖を下ろしながら、アナベルはふと目を上げる。視線の先、中庭を挟んだ向こうのテラス。

 そこに、エリオットとビアンカの姿があった。

 まるで、光に縁取られた舞台のワンシーンのようだった。

 ビアンカの金髪が風に揺れ、陽を反射してふわりと煌めく。
 その隣で、エリオットがわずかに笑った。低く、静かに。それだけで空気が柔らかくなったように見えた。

 アナベルの心臓が、ひとつ跳ねた。

 けれどその鼓動が生まれるのと同時に、彼女は慌てるように目を逸らした。

 自分でも、なぜ見てはいけないような気がしたのか分からなかった。ただ、見ていたくなかった。

(……とても、お似合いだ)

 華やかさと落ち着きが同居したふたり。
 劇場の顔として、日々人前に立ち続ける存在。誰もが認める役者同士。

 それに比べて、自分はどうだろう。

 厨房で野菜を刻み、スープを焦がしそうになり、雑用係として走り回る毎日。
 通訳としての仕事にさえ、まだまともに手をつけられていない。

(比べること自体、間違ってるわ)

 そう思いながらも、心の奥底ではどこかで期待していた。
 もしかしたら。
 少しだけでも。
 名前を覚えてくれているかも、なんて──

 その淡い願いを、自分で打ち消すように、アナベルはぎゅっと指を握りしめた。

(私とは、住む世界が違う人)

 静かに心の中で呟く。
 エリオットに憧れを抱いてしまった自分が、どこか滑稽に思えた。
 まるで、舞台を見ていた観客がそのまま演者になろうとしているような──
 そんな夢のような、許されない錯覚。

 重く、けれど確かにあるその想いを、胸の奥へとそっと沈めるように、アナベルは静かに目を閉じた。

 閉じた瞼の裏に焼きついているのは、笑い合うふたりの姿だった。

 遠く、手の届かない光景。
 そこに自分の居場所は、どこにもなかった。


***


「……なあに、そんなに難しい顔して」

 ビアンカが肩肘をテーブルにつき、半分からかうようにエリオットを覗き込んだ。

「別に。陽射しがまぶしいだけだよ」

 エリオットは、テラスの縁に視線をやったまま、淡々と答えた。

 春めいた午後の日差しが芝に落ち、風が梢を揺らす。演目の打ち合わせまでの短い休憩時間。何気ない雑談に過ぎないひととき。

「あの子、厨房の新人だわ。さっき、スープ鍋を焦がしそうになって、料理長に怒られてた」

 ビアンカが視線を向けたのは、中庭の向こう、非常階段の陰。そこに小さな背中が見え隠れしている。

 エリオットも、ちらりとそちらを見た。

「……ああ。厨房の新人の子か」

「覚えてるの?」

「何となくね」

 それは本当にただの“認識”に過ぎなかった。

 名前も知らない、厨房のひとり。
 舞台とは無関係の、裏方の人間──エリオットにとって、その程度の印象でしかなかった。

「舞台監督も言ってたけど、最近バタバタ人が増えてるわよね。通訳とか書類係とか」

「そうだね」

 あいまいに頷きながら、エリオットは手元のカップを持ち上げた。紅茶の香りと共に、何かが視界をかすめた。

 非常階段にいた少女──その肩が、そっと丸まったように見えたのは、気のせいだろうか。

 だが、それ以上考える前に、視線はすぐテーブルへ戻された。

 彼の思考の軸はいつも舞台にあり、視線は台本に戻っていく。それが彼の「日常」であり、他の誰かの心の動きに、敏感でいられる余白はない。

 
 ──そんなふうに、すれ違っていた。

 片想いとも気づかれていない、ほんの一方通行の想い。

 エリオットにとっては、ただの休憩時間。
 アナベルにとっては、胸が少し痛む午後。

 静かに、ふたりの距離は今日も保たれたまま。それが今の、変わらぬ現実だった。

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