【完結】綺麗なだけじゃ、生きていけない

とっくり

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 数日後──

 ウェルズ劇場・第2会議室。
 午後の稽古を前に、次回公演の翻訳台本をめぐる監修会議が静かに始まっていた。

 集まっているのは演出チーム、舞台美術、主演役者たち──そして、その隅にひっそりと座るアナベルの姿。

 髪をきちんとまとめ、真面目そうなブラウスに膝丈のスカート。
 三角巾もエプロンも身につけていないアナベルは、まるで別人のように「翻訳担当者」らしく見えた。

(落ち着いて、落ち着いて……これが本職)

 小声で深呼吸しながら、原語台本と仮訳に赤ペンを走らせる。
 スープの匂いは……今日は、していない。はず。たぶん。

「この台詞セリフ──“◯*※≡⊆∞@ゝ◆” は、『私は闇を恐れない』より、『闇は、もう怖くない』のほうが自然です」

 自分でも思いのほかスムーズに出てきたその言葉に、会議室が一瞬静まり返る。

「……理由は、主人公が恐怖を乗り越えた後の台詞だからです。直訳より、心情の変化を示す言い回しのほうが、役者さんも感情を乗せやすいかと」

 誰かが小さく「なるほど」とつぶやいた。

 そのとき、エリオットがふと顔を上げた。

「……」

 その声に、聞き覚えがあった。
 ほんの数日前、厨房の奥で「スープ焦がしました!」と叫んでいた、あの子の声。

(……いや、待て)

 視線が、ゆっくりとアナベルへ向かう。

 目の前にいるのは、湯気まみれでも汗まみれでもなく、火傷して叫んでもいない彼女。
 冷静に台詞の意味を語る姿に、エリオットは思わずまばたきをした。

 しかも──思っていたより、ずっとちゃんとしている。
 知的な雰囲気で、場にも自然に馴染んでいる。

「……」

 しばし沈黙したのち、エリオットはぽつりと訊ねた。

「君……名前は?」

 完全に素で出た質問だった。
 エリオットの声が、会議室の空気にふわりと落ちる。

 アナベルは、ペンを持った手を止めて、ぴくりと顔を上げた。

「……アナベル・モンタヴィルと申します。翻訳監修を担当することになりました」

 一瞬、ふたりの間だけ、時が止まったようだった。

 会議室の空気はすぐに元に戻り、演出助手が台詞構成について再び語り始めたが──
 エリオットの視線だけが、ちらちらとアナベルのほうを追っていた。

(……あれ? あの子、厨房の新人じゃなかったのか?)

 表情に、思いっきり出ていた。

 アナベルはというと、内心ひそかに赤面していた。

(今のって……ちょっとだけ、“目が合った”ってことになるのかな?)

(いやいや、違う違う、仕事中。これはあくまで翻訳者としてのやり取りで……)

 ……なのに、背中が、じんわり熱い。
 スープの鍋よりも、ずっと熱かった。

 ──まさか、エリオットが名前を聞いてくれるなんて。

 

***

 
 エリオットは当初、アナベルの存在に気づいていなかった。
 ふとしたタイミングで、彼女の声が耳に届くまでは──

「““◯*※≡⊆∞@ゝ◆” は、たぶん『私は闇を恐れない』より……『闇は、もう怖くない』の方が自然です」

 静かに、けれど確信をもって告げる声。
 その響きに、彼ははっと目を上げた。

(……この声、どこかで?)

 曖昧だった記憶が、妙に具体的な映像として蘇る。
 蒸気に包まれた厨房で、焦げた鍋と格闘していた新人の姿。

(まさか──)

 視線が、そっと彼女へと向かう。

 そこにいたのは、まるで別人だった。
 台詞の背景にある感情を静かに読み取り、それを伝えるために言葉を選ぶ姿。

 会議が進むにつれ、エリオットは彼女の翻訳が載ったページを、無意識に何度も目で追っていた。

 注釈というほど整理されてはいないが、試行錯誤のあとが残る書き込み──

【“闇”という単語は、国によって持つ感情が違う】
【感情の変化が曖昧にならないように】
(※この台詞、好き♡)

 なぜか、ハート付き。

(……あのスープ焦がし係、真面目なんだな…)

 翻訳は、まだ粗削りだった。
 でも、言葉の奥にあるものを、なんとか掴もうとする手探りと、誠実さが伝わってきた。

 エリオットは無意識に、口元をゆるめる。

 “厨房の新人”という認識が、静かに──けれど確かに、塗り替わっていった。

 それは、ほんの小さな違和感。

 けれど──役者である彼にとって、「台詞が気になる」というのは、思っている以上に重大なことだった。

 まさかこの揺れが、自分の舞台人生を揺るがすほどの変化になるとは。

 ──このとき、まだ彼自身すら気づいていなかった。
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