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「お待たせ」
澄んだ声とともに店のドアが開き、視線が一斉にそちらへ向いた。
店の入口に立っていたのは、艶やかな金髪をひとつに束ね、シンプルながらも仕立ての良さが際立つネイビーのワンピースをまとった女性――劇場の看板女優、ビアンカだった。
光沢のあるヒールが床を鳴らし、姿勢の良さと余裕のある佇まいが、場の空気をすっと引き締める。美しいというより、「完成された存在」。そんな印象を与える彼女は、エリオットの隣に立つと、アナベルたちのテーブルに目をやった。
そのまま一瞬、視線を止める。けれど、笑顔の奥にあるその目はどこか冷ややかで、感情の温度が読み取れない。
「まあ……珍しい組み合わせね」
声に刺はない。けれどその言葉がテーブルの上に、目に見えない境界線を引いたように感じられた。
「たまたま偶然、会ったんだ」
エリオットはいつも通りの穏やかな笑みで応じたが、アナベルにはどこか、空気がわずかに張りつめたように感じられた。
ビアンカはエリオットの腕時計をちらりと見て、小さく息を吐いた。
「時間がないわ。行きましょう、エリオット」
「ああ。じゃあ、またね」
エリオットはアナベルたちに手を軽く振った。そして、ビアンカと並んでカフェを出ていく。ドアの鈴がチリンと鳴り、ふたりの姿が通りへと消えていった。
その後ろ姿を、アナベルはぼんやりと見送っていた。
息をひとつ、吸い込む。
胸の奥に、小さく鈍い痛みが生まれる。鋭いわけではない。ただ、じわりと滲むように――その場に立ち尽くす彼女の中に、静かに広がっていく。
(……やっぱり、お似合い)
並んで歩く二人の姿が、あまりに自然だったから。そこには、自分が入り込めない世界があるように思えた。
「なによ看板女優なんて。うちのアナベルの方が、よっぽど魅力的よ!」
カロリーヌの明るい声が、気を取り直すように響いた。彼女なりの励ましなのだろう。だがアナベルは、うまく笑うことができなかった。
そんな中、悪気なく、空気を読まずに放たれた声が響く。
「いやあ、お似合いだよね、あの二人。恋人同士って噂、本当だったのか~」
――バキッ。
「ぐっ……骨がやられたかもっ……!」
鈍い音とともに、セルジュの顔が苦痛に歪む。カロリーヌに思いきり足を踏みつけられたのだ。しかも、正確に急所を狙った一撃。
「デリカシーのない人間ね! よくもまあ、文筆業がやれているわ!」
「カロリーヌさん、やりすぎです! セルジュさん、大丈夫ですか!?」
アナベルは慌てて席を立ち、セルジュの様子をのぞき込む。目尻にはまだ淡く痛みが残っていたけれど、それでも――その喧騒に、少しだけ心がほぐれていくのを感じた。
たとえ今は届かない場所があったとしても。
こうして笑ったり、言い合ったり、誰かと時間を分かち合っているかぎり。
この胸の痛みも、いつか少しずつ、静かに癒えていくのかもしれない。
そんな気がした。
*
カフェを出た三人は、夕暮れの町を歩いていた。
街灯がひとつ、またひとつと灯り始め、夏の終わりを告げる風が、通りの木々を揺らしている。
「ほら、アナベル。これ持って」
カロリーヌが、果物の詰まった紙袋を手渡した。アナベルは反射的に受け取り、遅れて反応する。
「あっ……すみません。ぼーっとしてて……」
「アナベル?気が抜けてるわよ。あんなのたまたまよ!気にしないの」
「……はい」
わかってる。わかってるけど――と、アナベルは心の中で繰り返した。
それでも、ビアンカとエリオットの並んだ姿が、どうしても頭から離れない。
そのとき、隣でセルジュがぽつりと口を開いた。
「……それにしても、ビアンカってやっぱりすごいよな。あの場の空気、一瞬で持っていった。根っからの女優って感じだったよ。演技じゃなくて、あれが“素”だからこそ、ちょっと怖いけど」
「そうかしら? ふん、私は鼻持ちならないタイプの女優だと思うけど?」
カロリーヌがそう言いながら、セルジュの腕を軽くどつく。
「でもまあ、いい刺激にはなったかもしれないわね」
「刺激……?」
「そう。“恋”のライバルが現れるってのは、物語としても現実としても、盛り上がるサインよ」
カロリーヌがいたずらっぽくウィンクを送る。
「カ、カロリーヌさん! こ、恋なんて、そんな……違いますから!!」
アナベルは顔を真っ赤にして慌てて反論した。カロリーヌはニヤニヤと笑いながら言葉を継ぐ。
「ふふ、そうね。恋じゃないのよね? そういうことにしておきましょうか」
「ほら、カロリーヌさん。アナベルが否定してるんだから。アナベル、違いますよね?」
セルジュも慌ててフォローを入れる。
「は、はいっ! 違いますっ。ただの……憧れです!!」
しどろもどろになりながら答える自分を、アナベルは心の中で恥ずかしく思った。
――そう。これは憧れ。きっと、それ以上じゃない。
……そう言い聞かせるように、アナベルは小さくうつむいた。
澄んだ声とともに店のドアが開き、視線が一斉にそちらへ向いた。
店の入口に立っていたのは、艶やかな金髪をひとつに束ね、シンプルながらも仕立ての良さが際立つネイビーのワンピースをまとった女性――劇場の看板女優、ビアンカだった。
光沢のあるヒールが床を鳴らし、姿勢の良さと余裕のある佇まいが、場の空気をすっと引き締める。美しいというより、「完成された存在」。そんな印象を与える彼女は、エリオットの隣に立つと、アナベルたちのテーブルに目をやった。
そのまま一瞬、視線を止める。けれど、笑顔の奥にあるその目はどこか冷ややかで、感情の温度が読み取れない。
「まあ……珍しい組み合わせね」
声に刺はない。けれどその言葉がテーブルの上に、目に見えない境界線を引いたように感じられた。
「たまたま偶然、会ったんだ」
エリオットはいつも通りの穏やかな笑みで応じたが、アナベルにはどこか、空気がわずかに張りつめたように感じられた。
ビアンカはエリオットの腕時計をちらりと見て、小さく息を吐いた。
「時間がないわ。行きましょう、エリオット」
「ああ。じゃあ、またね」
エリオットはアナベルたちに手を軽く振った。そして、ビアンカと並んでカフェを出ていく。ドアの鈴がチリンと鳴り、ふたりの姿が通りへと消えていった。
その後ろ姿を、アナベルはぼんやりと見送っていた。
息をひとつ、吸い込む。
胸の奥に、小さく鈍い痛みが生まれる。鋭いわけではない。ただ、じわりと滲むように――その場に立ち尽くす彼女の中に、静かに広がっていく。
(……やっぱり、お似合い)
並んで歩く二人の姿が、あまりに自然だったから。そこには、自分が入り込めない世界があるように思えた。
「なによ看板女優なんて。うちのアナベルの方が、よっぽど魅力的よ!」
カロリーヌの明るい声が、気を取り直すように響いた。彼女なりの励ましなのだろう。だがアナベルは、うまく笑うことができなかった。
そんな中、悪気なく、空気を読まずに放たれた声が響く。
「いやあ、お似合いだよね、あの二人。恋人同士って噂、本当だったのか~」
――バキッ。
「ぐっ……骨がやられたかもっ……!」
鈍い音とともに、セルジュの顔が苦痛に歪む。カロリーヌに思いきり足を踏みつけられたのだ。しかも、正確に急所を狙った一撃。
「デリカシーのない人間ね! よくもまあ、文筆業がやれているわ!」
「カロリーヌさん、やりすぎです! セルジュさん、大丈夫ですか!?」
アナベルは慌てて席を立ち、セルジュの様子をのぞき込む。目尻にはまだ淡く痛みが残っていたけれど、それでも――その喧騒に、少しだけ心がほぐれていくのを感じた。
たとえ今は届かない場所があったとしても。
こうして笑ったり、言い合ったり、誰かと時間を分かち合っているかぎり。
この胸の痛みも、いつか少しずつ、静かに癒えていくのかもしれない。
そんな気がした。
*
カフェを出た三人は、夕暮れの町を歩いていた。
街灯がひとつ、またひとつと灯り始め、夏の終わりを告げる風が、通りの木々を揺らしている。
「ほら、アナベル。これ持って」
カロリーヌが、果物の詰まった紙袋を手渡した。アナベルは反射的に受け取り、遅れて反応する。
「あっ……すみません。ぼーっとしてて……」
「アナベル?気が抜けてるわよ。あんなのたまたまよ!気にしないの」
「……はい」
わかってる。わかってるけど――と、アナベルは心の中で繰り返した。
それでも、ビアンカとエリオットの並んだ姿が、どうしても頭から離れない。
そのとき、隣でセルジュがぽつりと口を開いた。
「……それにしても、ビアンカってやっぱりすごいよな。あの場の空気、一瞬で持っていった。根っからの女優って感じだったよ。演技じゃなくて、あれが“素”だからこそ、ちょっと怖いけど」
「そうかしら? ふん、私は鼻持ちならないタイプの女優だと思うけど?」
カロリーヌがそう言いながら、セルジュの腕を軽くどつく。
「でもまあ、いい刺激にはなったかもしれないわね」
「刺激……?」
「そう。“恋”のライバルが現れるってのは、物語としても現実としても、盛り上がるサインよ」
カロリーヌがいたずらっぽくウィンクを送る。
「カ、カロリーヌさん! こ、恋なんて、そんな……違いますから!!」
アナベルは顔を真っ赤にして慌てて反論した。カロリーヌはニヤニヤと笑いながら言葉を継ぐ。
「ふふ、そうね。恋じゃないのよね? そういうことにしておきましょうか」
「ほら、カロリーヌさん。アナベルが否定してるんだから。アナベル、違いますよね?」
セルジュも慌ててフォローを入れる。
「は、はいっ! 違いますっ。ただの……憧れです!!」
しどろもどろになりながら答える自分を、アナベルは心の中で恥ずかしく思った。
――そう。これは憧れ。きっと、それ以上じゃない。
……そう言い聞かせるように、アナベルは小さくうつむいた。
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